人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

一枚の写真が霊界の真相を語る。体主霊従と霊主体従の二人の自分。

 下記の写真は、某テレビ局で放映された一枚の写真の映像の場面です。その写真に写った光景とは、一人の男性からその男性の霊体(幽体)が離脱して行く様が偶然に撮られたもので非常に希有な写真と言えます。そもそも霊を写真に写すのは非常に困難で、不可能に近いことからです。条件がそろわないとこうした霊写真は無理なのです。

 一瞬見ると、黒っぽい服装をした二人は一卵性双生児が写っているのではないかとなりますが、この黒っ-ぽい服の二人は双生児ではないのです。実は一人なのに写真には二人も居る様に写ったとされるものです。霊能力者からすると肉体から出た生霊(いきりょう)がたまたま写ったもので、そこにまるで実在している人の様に見える一瞬が偶然に写真に撮られたなのです。

 神社に祭られている御神霊を光だ!。光だと言っておられる霊能者の方も世にはありますが、その光も人の姿で視認することも出来るのです。不動明王と呼ばれる仏が現出すると、その火が熱くて熱くて体中から汗が噴き出します。そうしたことは体験した者のみが知るなのです。しかしそうした事柄は写真には撮れていない為に、人に信じて貰えることが少ないと言えます。霊と呼ばれる存在はその人に見えるか見えないかであって、霊の存在否定することが正しいのではないのです。

 

 世に霊界の真相はほとんど知られていない為に、

 

宗教団体の中には信徒を地獄界に導く教団も数知れず

 

されど閻魔庁は、この世で騙されるも学びの範囲と見る

 

 私は生霊(いきりょう)と呼ばれるこの世に肉体を持った人の生霊と幾度も遭遇し、自分の元にその霊体が訪ねて来て会話をしたこともあります。それほど長い時間そこに居るでは無く短い時間で瞬時に消えてしまったりするので、今のは生霊(いきりょう)だったのかと解るなのです。生霊は幽霊の様な見え方ではなくて、そこにその人が居ると錯覚するほどクリアーに見えます。

 誰かに想念を飛ばされるとその想念を飛ばしている人の顔が見えることは霊的世界に関わる者には知られていますが、想念の場合はその足元までは見えません。よく言われる【幽霊】の多くは想念で【思い(想い)】を持っていることから【思念】の表れで、その想いを遂げると満足して消えて行くなのです。想念で見える霊とは違い、霊能者や霊感者に貴方をどこどこで見たと言われる生霊は、死後の世界で生きて行く自分の本当の姿と言えます。

 

 人は死後の霊界に渡った最初の頃はこの世で生きていた当時の姿をしていますが、霊界での次元が上がるに連れてその姿は変わります。死後数百年経ってもこの世を去った時の姿をしている霊は霊界での進歩が無いと言えます。死ねば誰でも行く四次元界では無く、神界に上がれば神たる自分の姿が出て来ます。

 そこに新日本神道系の宗教からは【神人合一】が説かれ、大本教からはこの世は天人の苗床。【人は神の子・神の宮】論が出されました。神人の段階に進めない霊の霊界での通常の姿は、再度この世に生まれ出るまでは生きていた当時の姿となるのです。

 

 

 サングラスを掛けて靴を脱いでいるのが肉体で、立っているのが霊体(幽体)。生霊はそこに本人が居るとしか見えないのです。

 

 昔の人はこうした写真で【生霊(いきりょう)】の存在を見ることはありませんでした。その意味ではお釈迦様もイエスも真実を解き明かし、他の人に霊を説明することは困難を極めたと言えます。

 私は魂たる自分が肉体から離脱して霊界を見るとか指導守護霊に従って雲の上に載る等の体験をして来ましたが、魂と霊体(幽体)と肉体の三位一体を説明するには自分で創った作図で説明するより方法は無かったなのです。  

 

 

 

 死後に肉体から霊魂が抜けて霊界に渡るのも、肉体はこの世で動いていても霊魂は別の世界に渡っているも、基本原則はこの図の様なことになるのです。

 

 人の肉体は魂と霊体(幽体)と肉体の【三位一体】で成り立っています。私は霊能者と呼ばれる様な霊能力は保持していませんが、普通の人の目には見えない神仏の存在を見て来ました。一番見て来たのは私の霊界修業は伏見稲荷大社講でお世話になった関係上、伏見稲荷山神界の主宰神たる豊受姫に稲荷神界の神々達。それに付随した白狐達や龍神。それに仏界の如来とか菩薩とか明王と呼ばれている仏達の霊です。さらに仙人や天狗と呼ばれる神仙界の存在です。

 人が死後は霊として生きていることは信じるとか信じ無いの問題ではなく事実なのです。ただその証明は非常に困難なのです。困難だからと言って、死後の世界など無いと言い張る人の軍門に降るわけにはいかないのです。そうした人達はどれほどこの世で功績を積んだことで天国界に入れても最上天国界には進めません。

 

創造神の存在を否定して最上天国界は無理なのです

 

低次元界の霊に従って真実に蓋をして何になる?

 

 宗教界で説かれる神仏霊は、この世の肉体を持たないので【死霊(しりょう)】に分類されます。私達が信じる神や仏と呼ばれている存在はお釈迦様やイエスを仏や神として拝んでいるのと同様に、過去にこの世に出た存在がほとんどなのです。それに対して、この世で肉体を持っている霊は【生霊(いきりょう)】と呼ばれています。その肉体が神的存在になると【生き神】様と呼ばれたりするわけです。

 この世に住む私達は誰しも肉体に【内なる人】を持ちます。この世に住む肉体の肉の漢字が【内なる人】となることで解る様に、肉体を持つことが内なる人を肉体に持つのです。特に牛肉には人の想念が入り込んでいて牛肉を食べると霊的浄化で下痢を引き起こすがあります。私は龍神と呼ばれる存在の浄霊を自分の肉体がすることで死ぬほどの苦しみを幾度か味わいましたが、人の肉体にはそうした霊魂の穢れを浄化する働きがあるのです。

 

霊が肉体を必要とした背景は、肉体には浄化力がある

 

 霊が肉体を保有したのは、そこに穢れた霊魂の浄化浄霊をする働きの意味があったからです。魂が自分が授かった肉体に浄化浄霊をする能力が無い時には、浄化浄霊に優れた能力を持つ肉体に【憑依】して、自己の魂の穢れを取ろうとするがあります。それが霊媒者と呼ばれる能力者が出る要素と言えます。

 霊媒者は成長するまで、穢れた霊の憑依を受け続けて苦しむがあるのです。

 

生霊と死霊の違いは、この世の肉体を保持しているか

 

肉体はこの世を終えると死すが、霊魂は霊界にと帰る

 

 大本教から【霊主体従】と【体主霊従】が出されました。この写真で解る様に肉体の自分と霊体で現れた自分。この二人の自分が解っていないと理解が難しいのです。霊主体従とは、自分の肉体内に存在する霊界で生きる霊魂の指図に肉体たる自分が従っている場合です。一方体主霊従とは肉体に入っている自分の霊魂の命令に肉体が従わない場合です。肉体の【我】に霊魂たる自分が従属されることなのです。

 私と生霊とが会話した内容は、その肉体が必ずしも知るではないのです。それは肉体と肉体に宿る霊とではその心の持ち方が違っているがあるからです。肉体には肉体固有の【自我】が有り。肉体の自我が強いと自分の霊魂の指示に従わないが起きるのです。肉体には【欲】が強く働き、魂にはその【欲】を阻止しようとする働きがあるのです。すなわち自己の中に【唯物論】的思考と【精神論】的思考が在ると言うことなのです。

 西洋の精神学において【自我】の概念が誤っているのは、イエス一人を絶対的な主の一人御子とする概念で神を理解しようした為に【生霊(いきりょう)】の存在が解らずに誤った学問を創り出したと言えます。その点、未だ仏教の方が【真我】という存在に目が向けられたと言えます。ただ学問的に【真我】を追っても、肉体の自分と霊体の自分の存在が解らないと【真の我】は理解出来ないでしょう。

 

キリスト教の欠陥は、霊主体従。体主霊従を知らない事

 

 私が子供の頃は旧約聖書の神と称する霊の声が臨んでいましたが、その声は私に対して【神界の御用をするのは肉体のそなたには非ず。そなたの魂が神界の御用をするのである。肉体のそなたはバカを演じていればよい。】と告げられました。別にバカを演じているのではなくて先天的な【おっちょこちょい】で、豊受姫と会話が出来る豊受姫の分魂の方に私のことを聞いて貰うと【あれは希に見るおっちょこちょい。】と言われた程ひどいのです。おっちょこちょいの先走りで失敗するです。

 この世では高い魂の者を降ろすと、その魂が活動する前に抹殺する邪神勢力が存在します。私に臨んだ旧約聖書の神と称する霊曰く。イエスは旧約聖書の神と称する神の御子ではないが、別の高い御神霊の子で千年級の神の子と呼ばれる千年に一人程度の素材でこの世に出て来る高い魂の持ち主だったと言われました。そうした高い魂の持ち主はこの世で活動する前に邪神達に抹殺されるがあるのです。

 イエスは人類の罪を背負ってローマ帝国により処刑されたのではなくて、イエスが所属した霊界では無い別の霊世界の存在の力によって処刑されてしまったなのです。日蓮聖人は処刑される直前、神霊の力によって処刑されるから逃れることが出来ました。自分が出た出身霊界の守りが弱いと、敵対する勢力によって命を取られるがあるのです。また神霊界には【お試し】と呼ばれるものもあり、神人として成長する前にそのお試し(この世での誘惑)で潰されるもあるのです。

 

 が、その魂の肉体が愚鈍とか馬鹿で有れば命までは狙われることはないのです。その最たる存在と見なされるのが大本教から告げられた【みのか尾張の国から現れる誠の女子】と予告された魂で、邪神達に見つかるとその肉体は邪神達の攻撃に晒されると言われて来たのです。為にこの女子の存在は【秘中の秘】に属しているとされます。邪神達は見つけしだい、その存在の抹殺を図るからです。為にその存在に関してはよく解らないが起きているのです。

 霊能力者と呼ばれている人達の中ではこの女子が白山菊理姫の魂の持ち主とも噂され、その白山菊理姫とはどのような神なのかが追い求められているがあるのです。

 

 キリスト教社会に生まれるとキリスト教によりイエス絶対主義を植え付けられますので霊界の真相が解らず、イエス一人を主の御子と信じていれば天国界では、霊主体従・体主霊従の論理すら出て来ないとなります。また西洋でミカエルとかガブリエルと称して出て来る霊もそうです。霊界の子細をほとんど語ろうとしていないなのです。

 大本教の出口王仁三郎聖師は、霊界にミカエルと言う名の天使長は最初から存在していない。省みるの言葉の意味だと残しておられますが、そこには人類が知らない歴史が存在するのです。

 

 人は誰もが肉体の命が終われば【死】にます。肉体はそれで終わりなのです。しかし写真を見れば肉体と同じ姿をしている自分が写っています。それが霊体(幽体)と呼ばれるもので、魂と合わせて【霊魂】と呼ばれているわけです。この霊体と魂が死後の世界たる霊界にと渡るのです。

 

みろくの世(神の御国)は高次元界(五六七)で

 

この世の肉体のままでは高次元界には住めません

 

肉体の死を恐れず、魂の死は恐れる必要がある

 

 その時、その魂と霊体は自分がこの世で生きる為の肉体を使って、この世でどれだけ【学んだか?】が問われるのです。その為に魂はこの世と呼ばれる【三次元世界】に体験・経験をする為に降りたのであって、スピリチュアルに見られる【この世は遊ぶところです。】で遊んでいた様な魂は、その罰として地獄界と呼ばれる様な世界に墜ちるのです。その判定にスピリチュアルで出て来る天使と称する程度の霊の次元格では閻魔大王の判定に口を挟むことなど出来ないのです。

 何故ならば、

 

天人とは穢れを知らない天使で無く、海千山千の体験者

 

泥をすすり、艱難辛苦に耐えて人の痛みを知るのが天人

 

 スピリチュアル標榜だと、泥をすすり。艱難辛苦に耐えるなどは間違った精神論だと言って、そうした神を否定するでしょう。大本教から出された国常立尊様は悪神として神界の主宰神の座から邪(蛇)霊に憑依(囁き)された神々の多数決によって追放されたとする経緯には、【苦(9)に堪えないと身に禄(6)が育たない】が解らない神達による間違った大義によるのです。

 どこにも創造神たる神の存在が見当たらないでは無く、天帝と呼ばれる神が存在しておられるとする世界まで誰も昇ろうとしなかったなのです。

 

 

 

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