人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

馬子にも衣装。魂はこの世で体験や経験を積む為に降りた。その馬に乗ったか?

 私は子供の頃は旧約聖書の神と称する霊声の教えを聞いていました。神霊界修業に入って世に出ておられる神々から告げられた内容には、時には煮え湯を飲まされたもありましたが、その旧約聖書の神と称した霊声に教えられた内容で間違っていたことはこれまで一つもありませんでした。神々や諸霊の方達が私に言われた内容と旧約聖書の神と称する霊声が私に告げられた内容とが違っていた場合、神々や諸霊の方達が言われた内容が間違っていたなのです。

 諸神諸霊が私に何かを言って来られて、それを聞いていて【それは間違っている】と感じた時は諸神諸霊が言われた内容が間違っているなのです。それはある意味、子供であった時の私が聞かされていた内容と神々が言われた内容を並べて、どこがどう違っているのかを吟味している様な事柄と言えます。イエスの教えにしても、どこをどう間違えたかと解って来るわけです。

 

 イエスの有名な教えに【自分の頬を打つ者があれば、反対の頬をも差し出せ!。】があります。一見すると素晴らしい教えの様に思えますが、それと同じ様な他人を叩く意味の諺として【他人の靴を踏む者は、足を踏まれた者の痛みが解らない。】があります。自分の足を他人の靴に踏まれたら、自分の反対の足を差し出して、どうかこの足も【踏んで下さい。】と言いますか?。なのです。

 靴で足を踏まれた者の痛みが解れば、イエスの教えはどこかおかしいぞと気づけるのです。私は自分の頬を叩かれたならば【痛い】と言います。その痛いは【神経】が通っているからです。どうしてその痛いの経路を【神経と呼ぶ?】。痛いという体験が神の経に繋がっているのか?。

 

人は体験経験で人の【痛み】を知って、神の径に通じる

 

人の痛みが解らない無神経者は、神の世界とは遠くなる

 

 イエスの様に自分の頬を叩く者に反対の頬も叩けと差し出していれば、その者がそこから【気づき】を得る可能性は低いと言えます。その者は叩かれたら【痛い】という気づきを得られないからです。その者はその世の生において、一生【悔い改める】を学べないかも知れないのです。

 

 スピリチュアル標榜者の多くは【愛】の言葉を連発されますが、日本の神智学では愛ばかりを言っている霊感者は【蛇霊の容器】に成っている者とも言われています。実際に霊査を行えばその人の意識が蛇霊に乗っ取られているなのです。スピリチュアルの世界で○○星人と呼ばれる様な存在は、爬虫類系宇宙人等と呼ばれる様な蛇霊系と言えます。

 スピリチュアルで○○宇宙司令官等の話は日常的に出て来ますが、こうした○○宇宙司令官の言った予言など今日まで当たった試しが無いなのです。この手のスピリチュアルの方は宇宙龍神の存在を言われるのですが、確かに龍神と呼ばれる姿をした霊的な存在が見られるのですがそれらは蛇霊系なのです。

 そうした爬虫類宇宙人でも宇宙の存在と言えば宇宙の存在ですが、これから起きるとされている事柄はそうした爬虫類宇宙人ではどうにも対処出来る様な事柄では無いのです。日本では大予言者と言われた大本教の出口王仁三郎聖師が【宇宙開闢以来】と宇宙規模の立替と予言されたような【大宇宙規模】で起きる事象と言われています。神社や仏閣に鎮まる諸神諸霊が、その立替をされるでは無いなのです。

 

七(質)の世から八(公)の精神世界に世の大転換

 

 日本では神霊の世界を語る時、龍神、巳(蛇)さん、狐さん等が言われます。しかしそうした存在を【浄化浄霊】すれば、全て人の姿に戻って行くがあります。蛇の意味は悔い改めた蛇は棒の様に【直立】することから、真ん中を無視(虫)した舵の意味を持ちます。ある霊能者の方は蛇とは【辺美】の意味で、魂の真ん中の大切さを学ばないで遠く離れた辺地に美を求める者達としておられましたが、思考的には間違った意識に支配された存在を指します。

 日本における神霊界では龍神や蛇や狐以外に狸とか猫が言われますが、狸とは日本語における言葉の【タ抜き】の意味と言われ、神の宝(タカラ)からタを抜いた者と言われたりします。その神の宝とは【田で実る米】で、狸(タ抜き)は中味が無い【殻】だけの者。猫は描く獣の意味で、何の【苗】を描いた?。

 実際に神霊世界を見聞して来ると、その苗は【米】の苗の意味と解って来ます。日本神道では私達の様な人民のこと【青人草】と言いますが、何の【草】かが示されていなかったのです。この日本には【稲成信仰】がありますが、米の【苗】の意味だったのです。龍神、蛇、狐、狸、猫神で知られる事柄は日本の言葉の働きのみで解ることで、西洋の宗教では解らないなのです。

 

人が持つ本当の愛とは、自分が体験した苦しみから学ぶ

 

自分が苦しんだ体験から、人に対して優しく親切に成れる

 

 スピリチュアルで【愛だ!。愛だ!】と叫んでいる人達の魂は、本当の愛(幸魂)が育っていないが見られるのです。私が神霊界修業に入ったのは西暦1980年当時でしたが、その当時の行者さんは金銭の額は問わずに人助けの為に神仏からの【霊力】を使用されていました。そして多くの行者さんが神の力を得る為に辛い山の荒行を積んでおられたのです。辛い行を積むと言うのは、自分の精神を鍛える側面があったのです。

 

自分が苦しみを体験せず、他人の苦しみは理解出来ない

 

 世にスピリチュアルと呼ばれる事象が出て来ると、スピリチュアルは【金儲け】になるでラーメン屋の親父がラーメン屋を辞めてスピリチュアル教室を造る等で、神仏の世界から遊離しだしたのです。そこに相談者に蛇霊を憑けることで霊的世界が見える様にすることは可能になりましたが、この世の本来の目的【この世は魂を磨く修行場】の意味が薄れて来たと言えます。

 

 キリスト教ではイエスが馬小屋で生まれたことから、そこに【馬小屋の救世主】と呼ばれる様になって来ました。

 キリスト教の創始者であるイエスの魂に関してよく知らない人達は、イエスの教えにはお釈迦様の教えとは違い。魂論とか輪廻転生が説かれていないことを不思議に思うことも無く、ただキリスト教でイエス一人を主の御子と信じれば天国に案内されると説いていることを頭から信じて、それ以上には行っていません。為に如来と呼ばれる【叡智】の世界を学ぶが無いのです。

 モーゼはエジプトを脱出して【40】年間荒野をさ迷うことで、大本教が出した国常立尊様は【三十五万年前に御隠退】の型を演じていますが、イエスの【40】日間の荒野のさ迷いでは、本来の救世主の型が演じ切れていません。また【馬小屋の救世主】に秘められた型にしても、演じ切れていなかったなのです。

 ノストラダムスの予言として【西洋の人がいくら待ち望んでいても西洋からは現れない東洋の叡智の飼葉桶】がありますが、救世主は馬小屋で生まれるではなく、その馬を世話をする【飼葉桶】に意味があったと言えます。

 

 旧約聖書の神と称する霊声は私に【馬子(まご)にも衣装ぞよ。馬を引く馬子の衣装は例え見すぼらしくても、その衣装を改めて馬に乗せれば立派な殿様とも見える。人は馬に乗ってみないと解らぬ者ぞよ。】と告げられたなのです。

 馬子にも衣装とは一般的に馬子は粗末な服装をして馬を引いている者のことですが、その服装で馬に乗っても誰もそれを身分が高い人とは見ません。その馬子に殿様の様な服装をさせて馬に乗れば人は殿様とも間違える。そこに【誰でも外見さえ飾れば立派に見える。】と言う意味です。

 人はその人の魂と呼ばれる中味を見るのでは無くて、肉体と云う魂が着る衣装で人を判断している意味です。大事なことは馬に乗って見るなのです。馬を引いて見る景色と、馬に乗って上から見る景色では違うのです。その人が乗る馬とは【体験や経験】と呼ばれる事柄が馬の意味として告げられたなのです。そこに本来の【馬小屋の救世主】の意味が秘められていたなのです。

 

人は体験や経験の馬に乗ってみないと解らない

 

苦労は買ってでもせよは、体験や経験が魂磨きだから

 

輪廻転生の数が多いほど、体験や経験の馬も走った

 

 閻魔庁の門番たる鬼(魂)は牛頭と馬頭の存在が説かれますが、それらは言葉の仕組みの一環で牛には【宇志の意味】が、馬には【宇真の意味】が秘めてあるのです。

 

何故許すの言葉、午(馬)の言葉となっている?

 

 大本教霊界物語を読んでいると、【牛公、虎公、馬公、鹿公】等の名を持つ宣伝使が出て来ます。並べると牛虎馬鹿ですが、そこには宇宙の成り立ちに日本の言葉(音波)が深く関わっているがあったのです。

 その馬(宇真)は単に馬小屋の馬を引いているでなく、自分が体験とか経験と呼ばれる【馬】に乗って見ることで、初めて解って来るなのです。馬小屋の【救世主】とは、別にイエス一人を指した仕組みでは無いのです。自分が体験や経験という馬に乗って得られた物のことです。

 

賢馬に乗って見たのか?、駄馬に乗って見たのか?

 

 お釈迦様の悟りの教えとして【この世は苦界】がありますが、ほとんどの人はこの世は【苦界】と知ることはありません。スピリチュアルに至っては【この世は遊ぶところです。】と説く人達も多いのです。そのスピリチュアルの言葉に従った人達の魂とは当然に磨かれていません。スピリチュアル標榜で【魂磨きは辛いから止めましょう。】と発信している人達も見られますが、そこに如何なる【魂胆】が秘められているのか?。

 その人に霊が見えたから、神霊が見えたからと言ってその世界は【正神界】とは限らないのです。大多数の人が見る世界は【中有界】と呼ばれている世界で天国界では無いのです。大本教からこの世は天人の苗床と出されましたが、この世の人の魂を導いている存在は必ずしも正守護神では無いのです。一人一人についているのは【副守護神格】と呼ばれる霊で、未だ天国界住人の世界まで到達していない霊が担当しているなのです。

 

この世の生き方で天人界に進むも、魔界の餌もある

 

イエス一人が救世主でなく、各自が乗った馬が救世主

 

 私の元には、【何をゴチャゴチャ人の魂の中には天帝の分魂である良心の働きが内在している等と説いている。人がこの世で犯した悪業はイエスの様な救世主が出て来て、その罪を一人で被れば済むことじゃないか!。】と言って来られた方があります。それではキリスト教の間違いを永遠に理解することは出来ないなのです。カルマの基本原則が解らないのです。

 

人の【罪】は【四(死)は非ず】で、死で消えない

 

 お釈迦様は魂の【輪廻転生】を説かれ、その【輪廻転生】の因として過去世からの業(カルマ)を説かれたなのです。その輪廻転生を離れる為には、それなりの【覚悟】を説かれました。覚悟とは【悟り覚える】です。

 

人は体験や経験を経て、自己の魂に【悟り】を得る

 

 

 

 

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