私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から【人は、どうあるべきか!。】の教えを受けていました。為に、私が述べている論理は世界の宗教書が書いているものとはかなり違います。イエスやムハンマドが見た霊的世界とは違う側面から霊界を書いていると言えます。
その内容は、その旧約聖書の神と称していた声の主が本当に万物の創造神と呼ばれる様な神であったかは証明出来ませんが、この私を讃えよとか、この私を拝みなさいと言う内容ではありませんでした。その教えの内容のほとんどが【魂】に関する事柄だったのです。
私に臨んだ旧約聖書の神と称する声は、魂論を説いた
日本語で魂は【鬼が云う】と書き、鬼は牛頭虎パンツの【牛虎】で知られます。大本教から出された艮金神のウシトラに【牛虎】もあるぞよと出されていたことから、これらの一連の仕組みは日本の言葉でなされていると解ったのです。
それは旧約聖書の神と称する声は、【旧約聖書は我が書なれども暗号書の様な物で、暗号を解く鍵を持たないで読むと意味を間違える。新約聖書は人の子達が為した書で、私の書では無い。この国(日本)は私の教えが満ち溢れた世界で唯一つの国で有り。私の教えはこの日本で無いと解らない。私の教えは日本の諺や昔話や童歌に秘めた。一番重要な童歌はカゴメ歌である。そなたはその謎を紐解くがよい。】と告げられたなのです。
カゴメ(籠目)歌の鳥とは、籠目、籠目、籠の中の鳥はいついつである。夜明け(新しい時代)の晩に、鶴と亀がすべった(滑ったか統べるかで論議されている)です。しかしそこに出て来るのは【ダビデの紋章】なのです。ただ私は伊勢神宮の天照皇大神と呼ばれる存在に出会った時、それは女神ではなく男神で、その着物の胸には金鶴の刺繍。裾には同じく金糸で亀甲紋が刺繍されていたことから【鶴と亀】の謎を追ったと言えます。
日本神話では天照皇大御神は女神とされていますが、世界の神話だと太陽神は男性となっています。そこに日本神道を持ち出しても世界では通用しないがあります。
トリとは必ずしも【鳥】では無い。寄席等に見られる舞台の終わりを締めくくるのが【トリ】。籠の中の終焉のトリが籠から飛び立った時、この世は終わり。新しい時代にと入る。
日本では籠目紋(ダビデ紋)は伊勢外宮の豊受姫の紋とも言われ、豊受姫の出身神社は宮津(与謝)の【籠】神社ですが、大本教は大本教の聖地とする本宮山に宇宙から降り立たれたするなのです。
人はこの世で【喜怒哀楽】を体験して、自分の魂を磨く
各自の魂磨きの為に【輪廻転生】の制度が必要だった
私はその旧約聖書の神と称する声から【輪廻転生】の重要性を幾度となく告げられました。【人は生まれて死んで、また生まれて死ぬのを繰り返して来た。】です。しかし、世界の宗教を調べてもキリスト教やイスラム教は天国と地獄の二元論で、【輪廻転生】などは説かれていません。輪廻転生という教えは仏教やヒンズー教にあるのみです。その中で仏教で説かれているのが【六道輪廻】と言われています。
だが日本神話には、伊弉諾尊が亡くなった伊弉冉尊を追いかけて【黄泉国(よみのくに)】に渡り、黄泉国から逃げ帰る途中の【黄泉比良坂】にて伊弉諾尊を追う醜女達に【桃の実】を投げて、何とか逃げ帰る話があります。しかしどうして醜女達は桃の実を拾うのに夢中になったのか?。意味が書いてはありません。
世の大立替を宣伝した大本教から3月3日の桃の花。5月5日の桃の実が出されましたが、【桃】の漢字には新しく【誂える】の【兆】が入っているのです。私は鍾馗神の案内で中国で創造神とされる盤古大神に拝謁する過程で、三千年の命を与える桃の実を授けるとされている中国の西王母と呼ばれる存在にも拝謁して、【桃】は何を意味しているのかと考えました。この世の桃の実を食べても別に三千年の命など貰えないが?。
人の魂は黄泉国に渡っても、またこの世に出て来る時は新しい姿の人に誂えられて生まれて来ているなのです。人は死後は天国界では無く、黄泉国(中有界)に渡り。黄泉国からこの世に戻ってくる事柄が【黄泉帰り(よみがえり)】の言葉なのです。霊能力を保持している方の中には子供時代に、一度仮死の状態を体験した方が多く、その【黄泉帰り】を体験している方達が見られます。
人の魂は黄泉国から帰る【黄泉帰り】で、更正する甦り
私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、【そなたの前世は、他人の魂胆が読めぬお人好しで、結果的にそうした魂胆の持ち主達に利用されて悲劇の武将でこの世での命を終えた。今生のそなたは、その他人の魂胆を見抜く力の養いぞ。】と告げられました。他に【前世のそなたは今生のそなたには非ず。その時の顔や姿や背丈とはまるで違う。周囲の環境も違う。だがそなたの心は前世も今世も同じぞ。】と告げられたのです。
さらに次の様にも告げられたのです。【神界の御用で働くのは肉体のそなたには非ず。そなたの魂が、神界の御用で働くのである。肉体のそなたはバカを演じていればよい。】と、そこに人の肉体とは【魂の服たる人形】ではあるが、肉体には肉体の心が有り。魂たる自分と肉体の中に在る心にはギャップが起きて、魂本体の思いと肉体の思いは必ずしも一致していないと告げられたのです。
そこに大本教から説かれた【霊主体従と体主霊従】があるのですが、必ずしも体主霊従が悪では無いのです。それは魂は汚れている悪魂でも、肉体が【気づき等】で善行に進むと、元は悪魂であっても肉体が善行の喜びに目覚めれば魂も善行に引っ張られて魂が浄化されるがあるのです。その為の肉体でもあるからです。
魂の改心より、肉体の改心の方が魂の汚れの浄化が早い
人の肉体に肉体の遺伝子があるが、魂には心の遺伝子
大切なのは神の愛の云々では無く、自分が悔い改める
死後の世界を否定する方は別として、一般的に魂は【丸い玉】ということは世界共通に知られてはいます。しかしキリスト教やイスラム教は魂が【円球】の意味そのものに気づいていないがあるのです。円球で何も浮かばなかったのか?。
日本語の【魂】は【玉思惟か玉恣意】で現すことが出来ます。そして丸い玉ならば人の目には見えずとも必ずや【心棒】が存在して来る理論に関して、世界の宗教は説けていなかったなのです。
英語だと輪の心棒は【axle】で、特段に意味を出しません。シャフトにしても同じ事です。しかし日本語だと【心の棒】で、何故に心?の字が有るとなります。
何故に円球や輪の中心は【心の棒(杭)なのか?】
私はこの答えを見つけるまで苦労しました。何故ならば、どの神々もその答えを教えてくれなかったからです。それは世界の宗教書には書かれていないことを探ることだったからです。
日本神道は【神を柱】と呼ぶが、【柱】の意味は?
魂に心棒が出来る迄は、長い【辛抱】が必要だった
悪魔やサタンと呼ばれる魂は、真ん中が空洞の空く間
悔い改めた魂の心棒(円真)を取り替えるは閻魔大王
下記は魂の写真とされる物(丸い玉ならば、必ず心棒が有る)
されど宗教は、魂の心棒【柱(杭)】を説かなかった
私は蛇霊が改心すると、その蛇霊に使われていた現実界の蛇が【棒の様に直立する。】不思議な現象に出会って来ました。何故に蛇が【棒】状に成る?。
改心した蛇霊は【棒】の様に成り、棒は奉(たてまつ)る
改心の【悔い】は【杭】に繋がり、悔い改める事が魂の【杭(心棒)】を浄化させた。その心棒を【良心神】と呼ぶのです。丸い魂だけを見ていても、【心棒(辛抱)】は簡単に浮かんで来ないのです。そこにあったのは魂の【心棒】が見えていたかどうかなのです。
日本で【黄泉国】とされた世界は通常【冥府(めいふ)】と呼ばれており、その冥府の長官を仏教の閻魔(閻羅)大王とするのですが、キリスト教の場合は冥府の長官をサタン(悪魔)と定義しているがあります。イエス一人を創造神の御子と信じている信徒は天国のはずなのに、それを地獄界に連れて行く存在をサタン(悪魔)扱いにしても、キリスト教の誤った教義の立場からすると別に不思議でも何でもないのです。ただキリスト教は自己の教えの間違いに気づかなかったなのです。
日本においても牛頭虎パンツの【鬼】達は閻魔庁(来世を授ける羅城)の門番とされているにも関わらず、節分の夜には【鬼は外】と炒り豆を打ちつけられています。どうして悪をした者を地獄に連れて行く閻魔庁の役人が悪者呼ばわりされているのか?。誰も不思議に思わなかったかなのです。
大本教の出口王仁三郎聖師は、【人は邪教が説く真理の教えに狂う者と覚るべし】と述べておられますが、道理で考えればおかしなことが、宗教界ではまかり通っているがあるのです。
考えが及ばぬ無知なる者は、正しき存在を鞭で打つ
では、何故にそうした誤った思考が世に蔓延ったのか?。もし、人は誰もが自分の前世を思い出すのであれば、キリスト教のイエス一人を主の御子と信じればその罪が赦されるとか、イスラム教のアラーの神の名を讃えていればよいという宗教の概念には走らなかったでしょう。
私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、【もし自分の失敗の前世を思い出すと、その過ちをまたもや起こすとに成りかねない。為に自分の前世を思い出さずに、新しい人生を送る。その前世の記憶を消しているのはこの神の『恩寵』からである。】と告げられたなのです。
当時の私は子供で有り、人が自分の過去世を思い出さないのは単に神の『恩寵(神からの恵み)』だと単純に考えていました。しかし【龍】と呼ばれる存在に関わって来て、恩寵の言葉の【寵】はウ冠の龍だと気づいたなのです。
ウ冠が意味することは、【宇宙】の存在なのです
一般的に言われる龍は、聖書には霊界で年老いた大蛇霊とある様に、日本の行者筋も龍とは蛇霊が海・山・川(Or火・海・山)等で各千年、合計三千年間も霊界で修業を積んだ存在と言われます。それ自体はほとんどの行者ならば言われる事柄なので正しいのでしょう。
しかし如何に巨大な蛇霊であっても、蛇霊の存在では宇宙の星々は創れない。創造には関わっていない。
私に自分が【救世主】ですと自称された方達が何人もありました。それらの方達は自分には何百万体とか億体から龍神が従っていると言って来られました。ただその龍とは、どの方もその長さが20メートル程度の大きさと言われます。それらの龍とは行者筋が言われる霊界で三千年の修行を積んだ大蛇霊のことで、【宇宙を創造して来た龍】ではなかったのです。
最後の審判の夜明け前、籠の中の鳥が謎とされる
漢字の仕組みの寵はウ冠の龍、籠の中の鳥は龍か?
万物の創造神は、魂の修行場としてこの地球を創られた。西洋の一部の霊能者はエホバの神は本来は何をしても自由の魂に肉体と云う束縛の服を着せて、魂の自由を剥奪し奴隷化させている悪神だという人達が存在しましたが、この地球という星に置かれている者達は宇宙の刑務所、天人に成る為の修業の苗床等、その言い方は違っていても、この世が天国と呼ばれる世界ではないことぐらいの理解はされているわけです。
この世の命と霊界の魂の命は生きる時間に違いがある
この世の命は短く、霊界の命は長い。どちらが大切!
私の記憶の欠片の中には、自分が俗に言われる【龍】で有った時代の記憶が存在します。その龍と呼ばれる姿を離脱して、現在の様な人型の姿の存在と成った。その当時の私の記憶の風景を描写した物は、大本教の霊界物語の中ぐらいしかありませんでした。
一般的にスピリチュアル標榜している方達は、今の時(この世)での幸せを主体に考えているわけです。自分が死後に渡る霊界で地位に関しては、ほとんど関心を持っておられないのです。この世に出る前の自分が居た霊界に帰るはイーブンの話です。それではこの世に降りて来た意味を見失ったなのです。
大本教からはこの世は【天人の苗床】と出されました。大本教神諭には【人には神とも成れる魂を授けてあるにも関わらず。】とありますが、スピリチュアルの世界では自分が天人とか神の位に上がる目的でこの世に降りた概念が無いのかとなります。
天人に成る為にこの世に降り、神の愛で赦されるは無い
地球を管理して来た龍達は、宇宙に帰還を始めている
人は別に神の存在を認めなくても生きていけます。しかし人類が生きて行く為の【神の恵み】を授けている存在達がこの世から去って行った時、肉体人は果たして生き続けることが出来るのでしょうか?。
創造神はこの地球で人類が生きる為のエネルギー【火水(かみ)】を授けた。その火水(かみ)たる存在を【龍神(流神)】と呼んで来たわけです。人類が生きる為のエネルギーを司っていた存在が宇宙に帰還始めると、それは何を意味して来るかなのです。いくら人工知能AIが発達しょうが、そうした物を産み出せるかです。
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