私達はどうしょうもない人達を【ろくでなし】と言います。この【ろく】で無しの【ロク】はどこから来た言葉なのでしょうか?。
人の顔をしていても、その魂は毛物(獣)達が【ろくでなし】
獣には存在せず。人間のみがその【ろく】を獲得出来る
ろくでなしの【ろく】の漢字には、碌や禄や陸が当てられていますがどれも当て字です。が、仏教徒である私達日本人ならば【弥勒菩薩】の【勒】もあると知ります。ただこの【勒】は仏教的感覚では意味は掴めないのです。そこには【革命の力】が秘められているからです。
そこに【56億7千万】の桁外れの数字で教える仕組みが創られていたのです。私はこの仕組みを知った時、キリスト教で言う神では何も解らないと知ったと言えます。
弥勒菩薩の弥勒に、神界革命の力の始まりが秘めてある
明治25年、丹波の片田舎の綾部で発祥した大本と呼ばれる宗教から、世に宇宙開闢以来の大立替と呼ばれる空前の出来事が起きることの事前予告、その時にそなえて俗に【自己中、自己本位、自分勝手】と呼ばれる生き方をする人達を叱責する教えがなされました。現代のスピリチュアルで語られるこの世は遊ぶところです。何をしても神の愛で赦されます。それらとは真逆の教えです。
その内容を信じて貰う為に、大本教出口なお開祖の養子として出口王仁三郎聖師を迎え、その出口王仁三郎聖師が説かれた予言は大変な的中率を誇ったなのです。一番よく知られているのが広島や長崎に新型爆弾(原子爆弾)が落とされて広島や長崎は火の海になり、その後に黒い雨が降るで、実際に広島では原爆投下後に黒い雨が降ったなのです。またロシアの悪神が不可侵条約を破って参戦して来るなどです。当時の戦争等の様や結果を事前に予告、そして関東大震災を予言して当てたです。
出口王仁三郎聖師は戦後、最後の審判と呼ばれる火の審判に関して広島や長崎に落とされた原子爆弾の火の海とは比較にならない規模になると残しておられます。
大本教から出された世の大立替とは、単なる立替ではなくて【宇宙開闢以来】とされる事柄から、そこに万物の創造神と呼ばれる神の存在を説くことになります。大本教はその神は引退状態なので【艮(牛虎)】金神として出したがありますが、仏教では祇園精舎の【牛頭天王】であり。牛頭のモーゼの神で知られる旧約聖書の神たる存在とも言えます。
大本教の出口王仁三郎聖師は、【自分と出口なお開祖は、旧約聖書に予告されたキリスト登場前に現れる男女二人の預言者でもある。】と述べておられます。大本教から世に出された艮(牛虎)金神国常立尊とは、仏教の祇園精舎の守護神として知られる牛頭天王であり。地獄界においては閻魔(閻羅)大王として【輪廻転生】を司って来た神でもあるなのです。
何故、未だ起きてもいない世の大立替が起きると予告されたのか?
そこには魂が持つ永遠性があります。人の魂が【輪廻転生】をしている。私が旧約聖書の神と称する声から聞かされていたことはこの世は魂の修業場で、大本教はこの世は【天人の苗床】と説きました。魂が天人に成るまでは各種の体験を積む必要があり。そこに魂の【輪廻転生】があったのです。魂が天人に成るまでの道とは、イエス一人を主の御子と信じれば自分の罪が全て赦される等の道ではなく、自分が犯した罪の償いは自分がするです。
もういい加減に自分の罪を他人に押しつけることを美徳とするような考え方は捨てないといけないのです。そんな事では天国天人界には進めないのです。
魂を磨くとは、社会の荒波や悪の囁きから自立出来る魂
人に魂の輪廻転生の痕跡、人に良心神の点数が出る
私は魂に点数が出ることを知って、この点数は何を意味するのか探って来ました。それは必ずしもその人の今生の生き方の点数とは言えないのです。前世からの【徳】を受け継いでいるがあるからです。
その結果、魂に出て来る点数は最後の審判と呼ばれる事柄が起きた時、その魂に存在する良心神の点数で最後の審判以後の【霊界における永遠の地位】を定める点数だと解りました。西洋では最後の審判が説かれていますが、その最後の審判とは【火の審判】と呼ばれてはいます。それはイエスとは何の関係もないと解って来ました。
最後の審判【火の審判】を経て新しい世の霊界に渡った時、その点数がその後の自分の霊界での地位を永久不変にするです。その火の審判は日本では【天の岩戸開け】と呼ばれる事象になるのです。
私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から【日本神話の天の岩戸開けなどの事実はどこにも存在していない。天の岩戸開けとは、この私がする最後の審判のことで、その為の予告であり。そなたはそれが何を意味した事柄なのか?。掴むがよい。】と告げられたなのです。
しかしそれが【良心神】の点数のことだと言われても、誰もピントは来ないでしょう。通常、良心とは誰しも持っている【悪と対峙する】働きで、悪を赦しますと言うような愛ではありません。それには何の御利益も特典もありません。それどころかスピリチュアル標榜者が言う【神は愛だから何をしても赦して下さる。良心の呵責は重いから捨てましょう。】の呵責を伴っている重いものなのです。スピリチュアルではそれが何かが解っていないなのです。
愛のスピリチュアル標榜でも、良心の呵責の重さは知る
人はこの世に出る以前から、点数を引き継いでいる
低級霊界を見ても、良心の呵責の働きが理解出来ない
神が絶対的公平者ならば、人はこの世に生まれ出た時、スタートラインは同じでないとおかしいと感じます。ところがこの世はオギャーと生まれ出た時点で、いわれ無き差別の中に置かれてしまいます。この世は非常に不平等な世界で、この世には【神の平等・公平・公正】等はどこにも無いと気づきます。もしこの世に創造神と呼ばれる神が存在するならば、その神は実に不公平で不平等の神だともなります。
それは仏教で【前世の因業】として説いており、通常は前世から持ち越している【カルマ(業)】として説いて来られたことです。それが何時しか誰かを拝めば消える式の教えが蔓延ったなのです。
公平平等の神が存在するならば、今は引退状態が正しい
そこにこの世は魂の修行場、天人の苗床だと理解出来る
スピリチュアルに走ってしまいますと、神は愛だ!の一点張りで、地獄界の存在を認めません。確かに【神は愛の権化で何をしても赦して下さる。】存在であれば、地獄界はそもそも存在しえないなのです。それが道理と言えます。しかし霊界を見聞して来れば、地獄界は存在していると解ります。
学者筋から言えば人は死ねば終わりで、死後の世界などは無い。宗教は在りもしない地獄界をでっち上げて、人類を脅迫しているのだとなります。その脅迫を信じて悪業をしない者が多数の世になれば、この世は平安で安泰である。宗教の価値は在りもしない地獄界を説くことで、世の安泰を保っていると説く大学教授がおられました。この世で悪いことをしたならば閻魔大王様に叱られるのが怖いから悪事をしないと言う方は、少数も少数でしょう。
閻魔大王様が怖いから悪事をしない。確かにそれだと地獄行きではありません。しかしそれだけでは【天国界】に進めません。それでは貴方は何の為にこの世に出たのですか?。この世に出た目的が仏教以外はあまり示されていないのです。天国界に入る為の条件が、宗教によってバラついているのです。
天国界に入るには、天国に入る為の切符が必要
天国界にも地獄界に行かない人は中有界に入る
キリスト教ではイエス一人を主の御子と信じた者は天国界で、異教徒は地獄に落ちるが教義です。しかしイエス一人を主の御子と信じたら天国界に入れるかとなると、現実にはその条件では誰一人天国界には行けないなのです。アラーの神と讃えていればとか、南無妙法蓮華経と唱えていればだけでも天国界に行けないなのです。
地獄界が存在しているからサタン(悪魔)呼ばわりは?
キリスト教では反イエスの存在として【666】が説かれますが、大本教から【みろく大神】として【666】が出されました。日本だと「666」で【みろく大神】として出すことは可能です。しかしそれはこの日本だけの論理となってしまいます。いったいこの【666】には、何の意味があるのだろうかとなります。
お釈迦様はこの世は【苦(9)】界と説かれた
天国界とは【禄(6)】界で、天国界に六つ花の種が無い
天国天人を育成する為に、この世の【苦(9)】で禄を創る
この世に在る時は高い地位に在ったからと言って、死後の世界でその魂は高い地位に進めているではありません。仏教で葬儀の時に大金さえ積めば【院号】等を貰えますが、別にお寺の住職がこの人は天国。この人は地獄だと決めているのではありません。坊さんを何十人並べて葬儀しても、地獄行きを免れるではなく、逆に地獄界に墜ちている方が多いのです。
最近、多くの宗教開祖が死後に地獄界に墜ちていると報告されますが、宗教家をしていても天国界に行けるではないのです。この世では上の地位に行く為に、自分自身は悪業に手を染めなかったとしても、悪との妥協を図る為に悪を見逃して来たがあるからです。
長い物(権力)には巻かれろで、自己の良心を殺したはず
他人の悪業に目を瞑って来た行為は、自己の良心神は自分も同類の罪人と判定してしまうからです。そこに、まず自分の罪を懺悔して、自分の誤りを認めることが先決となるのです。
自分の罪?。見当たらぬ。は、閻魔大王様に叱られる
仏教では死後の世界に入ると自分が生前に犯した罪を閻魔大王から見せられると言います。通常【浄玻璃の鏡】と呼ばれていますが、浄玻璃の鏡だけでなく各種の鏡が有って、自分の魂を汚していると自分の魂を【獣姿として見せる鏡】もあるのです。これが【獣鏡】です。そこに蛇や狐や猫や狸の姿の神も出て来るなのです。
この世の地位と彼の世の地位の間には、逆転現象がある
逆転の数字は【6と9】の関係に見られる
この世では社会の底辺で在ったが、死後の世界に帰られたならば神界の高い地位に就かれていた。そうしたことがママあります。この世では掃除のおばちゃんが、死後の世界では○○大神で在った等です。
そこにこの世の苦(9)は、天の禄(6)を身につける
スピリチュアルの神は愛だ。愛だから何をしても赦して下さるを信じて死後の世界に渡れば 45(死後)の先で【6(禄)】の存在が問われる。
この世は魂の修業場として創られた世界である為に、幾度も幾度も生まれ変わって出て来たなのです。その魂の修行場としては【牛馬】の悠久の時代がもっとも向いており、現代は魂を磨くどころか逆に落とす世界にと進んで行ったと言えます。
現代の様な進化が激しい時は魂の修業場として向かない
そこには宇宙における【らせん道】があった
大本教から出された【艮(牛虎)金神国常立尊】だけだと気がつかないのですが、大本教が発祥した綾部は熊野本宮別当家に当たる九鬼(くかみ)神道家が藩主で、その九鬼家では宇宙の元津神を【宇志採羅】としています。牛は【宇志(大人)】の意味で有り、閻羅大王の【羅(死者の維新)】を採用しているだったと言えます。そこに【螺線道】で知る【ら】も有ったなのです。
数字の【6と9】は、その働きが正反対の意味を持ちます。キリスト教では冥府をサタン(悪魔)扱いにしていますが、日本だと死者は【よみがえり(黄泉帰り)の黄泉の国】に渡るとして来ました。人は死ねば天国だと言うのは、キリスト教の誤った思想から来たと言わざる得ないのです。
天国天人界に進む為には、六(禄)を獲得する必要
では、その【禄】はどこから来た意味か?
禄は天から与えられる幸いで、天人は天から禄を貰う
みろくの世は永遠に嬉し嬉しの世と宣伝されたのは、食べる為の【扶持(俸禄)】が天から支給される為に、遊んでいてもいいのですよと宣伝されたのです。
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