自分の手すら見えないような暗闇だった。触手に縛られて身動きは取れないのだけど。
「我を求めよ」
視線だけを彷徨わせていると、暗闇の中に声が響く。
「理不尽に虐げられし者への救いを受け入れよ」
平坦な、しかし有無を言わせぬ口調で告げるその声は、僕に向かって語り掛けてきているのだと理解出来た。
この声こそ、丸喜先生が手に入れたと言っていた力なのだろう。彼の背後に浮かび上がっていた黄金の棺、僕をこうして捕まえている触手の主がこの声の正体だ。
「あなたの救いを、僕は否定します」
自由になるのが首から上しかない僕に出来ることは、こうして声を上げることだけだ。もし身体が自由だったとしても、声を上げる以外にやろうと思うことも無いのだけど。
「苦しみや痛みが人にもたらすものなど何も無い。我が救いを何故拒む。お前の苦しみの根源、望まぬ記憶すら忘我の眠りに消え去るというのに」
「僕にとってはその苦しみが僕を構成しているんです。苦しみも、痛みも、否定してしまえば僕自身を否定する」
「感傷に如何ほどの価値がある?」
「僕にとっては天秤を傾けるに値するほど」
僕の答えに、暗闇から響く声は何かを思案するように沈黙した。丸喜先生が手に入れた力は、丸喜先生が欲していたもののはずだ。だとすれば、今こうして僕に問い掛けてきているのは、他ならぬ丸喜先生自身の本心の一部なのかもしれない。
「人の認知を、心を変えて世界を歪めてまで、人は弱いものだとあなたは思いますか? 揺り篭の中から出られないくらいに、僕らは弱い存在ですか?」
だから今度は僕の方から投げかけてみた。返って来る答えは多分、分かっているけれど。
「弱い。理不尽な現実を前に、硝子のように砕け、元の形に戻れぬほどに」
「そんな弱い人間一人に、どうして世界なんて重たいものを背負わせようとするんですか」
たった一人で、世界中の人間の望みを叶え続けることが出来るだろうか。矛盾した、理想の世界を維持するシステムになることが出来るだろうか。僕にはとてもそうとは思えない。いずれ擦り切れ、疲弊し、身体が生きていても心が死ぬ。最初に志した理想も摩耗し、残るのは機械的に人の望みを処理するだけの抜け殻だけになる。進むべき方向が、今進んでいる方向が正しいのかすら誰も気付けないまま。
「だから人は互いに言葉を尽くして理解しようとし、意思を繋ぐんです。人の血の通わない法と秩序を、幾多の血を流して作り上げたんです。ただ一人の誰かが背負わなくても良いように」
「……詭弁だ」
「そう、詭弁です。あなたが言う救いと同じです。だから僕は、丸喜先生が消えてしまわないように、あなたの救いを否定するんです」
「我自身がそれを望んでいたとしてもか」
「それが全てでは無いと信じています。あなたが丸喜先生の全てでは無い。丸喜先生があなたの全てでは無いように。救えなかった自分を罰する言い訳に、世界を使わないでください」
「…………」
こちらを窺うような沈黙は、どこか可笑しそうな雰囲気を僕に感じさせた。何かを見定め、試しているようにも思える。
「我は汝、汝は我。人の心の海と現実を融け合わせることが我の役目」
「あなたの願いは人を救うことのはずでしょう」
「お前自身が口にしたはずだ。我は汝、されど汝は我にあらず。故に、我はそうあろう。お前がそう望んだのだから」
その言葉と共に、僕を拘束している触手が、空間ごと震えるのを感じた。
「僕は、僕はまだ……!」
同時に、丸喜先生の声がどこからともなく聞こえる。
「アザトース、まだ僕の力が僕の理想を実現するのに足りないというのなら……!」
アザトース、と丸喜先生が呼んだ瞬間、僕を掴む触手の力が増した。
「そうだ、我を求めよ。人々に求められし、理想の世界を」
肺から空気が絞り出され、声を出すことすら出来なくなってしまう中、僕と問答をしていたその声は喜色を湛えて丸喜先生の言葉を待ち望んでいるようだった。
「僕は、僕の全てを賭ける!」
「我は汝、汝は我。我、望まれし無垢の白痴なれば、今揺り篭の中に世界を夢見ん」
何かの契約を結ぶようなその言葉が響くと、真っ暗闇だった空間に黄金色の光が差した。眩しくて目が明けていられない程の光だ。
「皆の幸せのためなら、僕はどうなってもいい!」
丸喜先生の言葉が響く。強い口調で宣言されたその言葉は、覚悟と共に彼が抱える激情を滲ませていた。
「今こそ汝、究極の秘奥に目覚めたり。無尽の力を汝に授けん」
そんな丸喜先生の言葉と対照的に、喜色に満ちた声が響く。それは今か今かと、その瞬間を待ち望んでいるようだった。
「受け入れてくれ」
「我を求めよ」
丸喜先生の声ともう一つの声が重なって聞こえた。
「僕が創る……、いや……」
「人の心の海に生まれし我の救いを」
気が付けば、僕の身体を拘束していた感覚は消えていた。けれど眩しさのあまり身体を動かすどころか目を開けることすらままならなかった。瞼を貫通するような閃光の中、聴覚だけが、今何が起こっているかを把握するための術だった。
「僕とアダムカドモンが創る現実を!」
「原初の世界たる、我を求めよ」
その言葉と共に、僕は身体に当たる風を感じた。瞼を貫く閃光が収まるのも。久しぶりに機能した僕の視界には、黄金に輝く巨人の前に立つ丸喜先生と、それに対峙する怪盗団という現実離れした光景が広がっていた。
「このまま終わるつもりは無い……」
怪盗団の攻撃によって一度は地に沈んだ丸喜と、彼が操るペルソナたるアザトース。
丸喜のオタカラである人々を先導する灯を手にした蓮達だったが、再び現れた丸喜によってそのオタカラは彼らの手を離れた。
「アダムカドモン……、理想の現実に僕らを導いてくれ!」
そう言って怪盗団の前に立つ丸喜と、その後ろに佇む黄金の巨人。かつて大衆を怠惰に沈めようとした悪神と変わらぬ大きさを誇るその巨人は、感情の読めぬ無機質な目で怪盗団を睥睨していた。その威容は、見る者全てがひれ伏してしまうようなもの。けれど蓮達は強い意志と共に巨人に対峙する。
「いいえ、違います!」
「現実は自分で決める」
芳澤と蓮がその言葉と共に自分達のペルソナを対抗するように顕現させる。
「往生際が悪いね、さっさと倒れろ!」
明智がそう言って手に持った銃を丸喜に向け、発砲するも巨人の手が丸喜を護るように差し出され、銃弾を簡単に弾いてしまう。
しかし、それによって生まれた僅かな隙を縫い、蓮の呼び出した巨大な蛇のペルソナが炎を吐き出して巨人を焼き尽くそうとする。
「くっ!」
常人であれば声を上げる間も無く骨まで焼かれているだろうその業火も、黄金の巨人に守られた丸喜にダメージを与えるには至らない。それどころか、丸喜の背後に佇む巨人は、その岩塊のように大きな拳を固めて怪盗団へと振り下ろす。
「させねぇ!」
「防御は私達が!」
それを受け止めるのは竜司と春。二人のペルソナが怪盗団を圧し潰そうとする拳を全身で受け止める。
「どうして分かってくれないんだ! 皆が幸せになれる世界を!」
黄金の巨人、アダムカドモンの攻撃に顔を歪める竜司と真を見て、丸喜が悲痛な声を上げる。それは彼らを気遣うが故の苦しみ。
「そんな押し付けられた幸せなんかいるかよ!」
「私達は前に進む! それが苦しい道だとしても!」
そんな丸喜に返されるのは、竜司と真の決意の叫び。二人のペルソナはついに巨人の拳を押し返すことに成功した。
「心が壊れてしまう苦しみを、僕なら取り除いてあげられる!」
丸喜の言葉と共に、今度は巨人の眼前に莫大な熱量を孕む火球が生成される。
「フォックス! お前の出番だ!」
「言われるまでも無い!」
その火球が今にも怪盗団に放たれんとした刹那、双葉の声に反応した祐介のペルソナから火球を貫く鋭い氷槍が飛び、怪盗団を襲う前に火球は霧散する。
「認知訶学は洗脳手段なんかじゃない! 人に寄り添うための研究だ!」
「苦しみが多くとも、それでも人は理想に手を伸ばす。届かないと諦めるのではなく、理想へと辿り着くために」
祐介のペルソナが繰り出した斬撃が、巨人の身体に僅かな傷を付けた。そのダメージは確かに丸喜へとフィードバックされたらしく、丸喜は痛みに呻いて巨人に付いた傷と同じ位置、右肩を押さえた。
「理想を目指し続けられる程、人は強くなんかない!」
二人の言葉にそう返した丸喜が両手を左右に広げれば、巨人の目から幾筋もの光がレーザーのように飛んで怪盗団を襲う。怪盗団はそれぞれのペルソナでその攻撃を凌ぐが、細い光に籠められた想像以上のエネルギーが彼らの体力を大きく削ぐ。
「ワガハイが見た光は、憧れたニンゲンはそんな弱っちいもんじゃねえ! 人の心から、人の希望から生まれたワガハイがそれを一番知ってんだ!」
「強くなくても、私達は互いに支え合うことだって出来ます!」
そんな怪盗団を癒す風がモルガナのペルソナから吹く。そして怪盗団を護るように春のペルソナが彼らを囲む透明な壁を生み出した。それにより、巨人が尚も放つレーザーは壁に当たって反射し、その威力をそのままに却って自身を傷つけることになる。
「くぅ……! それでも、僕は……!」
「諦めなよ、俺達は止まってなんかやらない。アンタがお優しくも差し伸べた手なんか払い除けて、自分の足で歩くんだ」
自身の攻撃で傷つき、動きを鈍らせた巨人に巻き付いて動きを拘束するのは幾多もの蛇が人の形を象った明智のペルソナ。しかし彼のペルソナが取った行動はそこまで。そのまま巨人を絞め殺すには至らなかった。規格外の力を持つ明智のペルソナをしても辛うじて動きを止めるまでしか出来ない程に巨人が強大であったこともあるが、それ以上にこの戦いに決着を付けるべき人間は他にいたから。明智の目が、その人物を射抜く。
「あなたと怪盗団は似ている。でも、怪盗団は苦しくても前を向くことを選んだ。バイオレット」
「はい、フィナーレは私達で飾りましょう!」
蓮の差し出した手を取った芳澤。そのまま二人はワイヤーに引っ張られて空を駆ける。巨人が二人を追って顔を上げるが、それを妨げるように手にした銃を乱射して銃弾を巨人の顔に浴びせた。その後ろから、追撃するように蓮のペルソナ、ヨルムンガンドが体当たりを仕掛ける。その巨大な質量が威力に転化され、流石の巨人もよろめく。
「お願い、エラ!」
そして生じた隙。打ち合わせも何も無いまま、けれど芳澤はその時が来ることを分かっていたかのように自身のペルソナを呼び出す。全身を白に染め上げた花嫁のような出で立ちのペルソナ。自身と向き合い、すみれとして現実を生きる決意を固めたすみれが覚醒させたそれが、巨人の眼前へと迫り、手に持ったレイピアのような刺剣をその顔目掛けて勢いよく突き刺した。