スピリチュアルだ!。スピリチュアルだ!。を言われる方達のお題目として、【神は愛だから、何をしても神の愛で赦してくださる。】があります。何をしても神の愛で赦されるとするならば、愛と言う言葉の響きは人の心をくすぐるとしても実にちっぽけな物と言えます。
もし何をしても神の愛で赦されるならば、人は誰も【反省】すらしないでしょう。それだとその世界はやりたい放題と化します。スピリチュアルに見られるそうしたお題目は、イエスの愛の教えの影響を受けたと言えるでしょう。イエス一人が人類の罪を背負って下さったと本気で思っている人達が世には居るなのです。
こうした人達にお釈迦様の本当の悟りが【人には良心と呼ばれ神が内在している】だったと教えても理解することはありません。もし自分の中に【良心の目覚め】があれば、他人に自分の罪を押しつけることはしないし、そんな他人の犠牲の上に成り立つ教えは教え自体がおかしいと解るはずなのです。
悪魔の目的は、人々が自分の【良心神】に目覚めないこと
愛の教え一辺倒の人達は仏教の縁(因)から物事は起きる【縁起】とか、輪廻転生を起こすカルマ(業)に関してさほど理解はされていないようです。
実際に霊界の一部でも見聞して来ますと、神は愛だから何をしても赦して下さるは話が違うではないかとなります。それは【加害者を詭弁で擁護する】論の展開であって、【被害者の感情意識】をまったく理解していないと言えます。
イエスの有名な教えは【自分の頬を叩く者があれば、反対の頬を差しだせ。】ですが、その教えをおかしいと思わなかったなのかです。もし自分の妻子が誰かに無惨に殺されたとして、私には未だ他にも家族がいますからと言って自分の家族を更に殺して下さいと差し出すのですか?。となるのです。
自分の家族が誰かに殺されて、自分は愛で犯人を赦しますという人は詭弁だと言えます。それよりも自分は例え地獄に落ちても犯人に復讐したいと思うのが家族を愛している者の論理と言えるでしょう。自分は自分の妻子を殺した犯人を赦しますと言う者は、実は家族をさほど愛していなかったのではないかとなるのです。家族を本気で愛しているか愛していないかで、愛の反作用の【憎しみ】の度合いが違うからです。
被害者は加害者を恨む。霊界には被害者の恨みが渦巻く
イエスの愛の教えで、魂の恨みが癒やされるのか?
被害者の恨みは、ハムラビ法典に見られた【目には目を、歯には歯を】で、少しは癒やされます。だが恨みを果たし終えた後、そこに虚しさが起きるなのです。そこに加害者の罪を赦しなさいがあるのですが、それは【愛】では無いのです。愛と言う言葉で安らかな心が得られるものではなくて【悟り】の部類なのです。それは他人から得られるのではなくて、自己の心の持ち方に起因するなのです。
イエスの教えにある自分の反対の頬を差し出したとして、叩いている方も叩かれている方もそこまでの境地を得ることはないのです。
下記の図は、主に大本教から出された日本神道界の一部で説かれた【一霊四魂】を私流に解説した図ですが、
愛の働きは反対に走ると【憎しみ】の元凶となる
スピリチュアル連呼の人達は【奇魂】の働きが弱い
お釈迦様の教えに入ると奇魂(叡智)の働きが出て来ますが、イエスに走ると奇跡的な方向に走って奇魂(叡智)の働きが阻害されて来ると言えます。
愛は何も畏れないが、事の善し悪しの判断をしない
悪魔とは良心(直霊)の位置を【空く間】化させる
霊的世界を見聞していると、前世で無惨な殺され方をした方の今生の肉体が、その時に自分を無惨に殺した魂の今生の肉体に遭遇して仕返しをするがあります。その時、互いの肉体は自己の魂の経緯は何も知らない。気づいていないがありますが、しかしその魂は前世の出来事を覚えていて今世で復讐を遂げるです。この時、閻魔庁は復讐した人の罪を問いません。何故ならば、それで五分と五分のチャラだからです。
その人の前世に何があったのか何も解らないこの世の裁判所は、前世の出来事など知る由もなく裁判をしますので今生だけの罪を問いますが、人の【輪廻転生】を司って来た閻魔庁は過去の出来事もきちんと把握しているのです。
私は霊能者江原啓之さんの様な霊能者ではありませんので、その方の前世を知ってアドバイスなどは出来ませんが、それでも私の背後の神霊からその人の前世の所業を見せて貰えるがあります。それでこの方の今生はそうなったかです。時には巷で自称救世主とか創造神だと名乗っている方の前世も見させられるです。オーム真理教の教祖松本智津夫の前世を知ると、なるほどそれで今生はああした行為をしたのかとなります。
人の今生の運命は、過去世からの流れを受けている
自分の運命を変えるには、自分のカルマを解消する
人がこの世に誕生するのは、自分の過去世から積んだ【カルマ(因業)】の解消であり、過去からのカルマを今の世で解消すれば自然と運命は好転するのです。
イエスを主の一人御子と信じても、イエスに全キリスト教徒の魂を浄化浄霊させる能力は存在していません。イエスを主の一人御子と信じるだけでは、天国の門は開かないのです。天国の門を開くには、自己の努力が要求されるのです。
神と云うよりも、閻魔大王は何もかも見ておられる
霊世界に関わっていると、この世で酷い仕打ちを受けた人の霊が恨みから蛇霊と化しているにぶつかります。その酷い仕打ちを受けて蛇霊と化した霊に、神は愛だから何をしても赦されます等のお題目が通じるかです。自分が酷い仕打ちを受けて恨みから蛇霊と化しているのに、この恨みを果たすまでどうして成仏が出来るか!?。となります。
恨みから蛇霊と化した霊は【成仏】よりも、相手に同じ苦しみを与えないと溜飲が下がらないのです。
その霊を成仏させる為には、その願いを叶えてやる
人の輪廻転生は、どこかで過去の罪の精算が必要
今の世はどちらかと言えば罪を犯した人を愛で庇う(救う)のが正義で、被害者の感情を考えない【愛】的な要素が強いと言えます。しかし逆に言えば、加害者に被害者と同様の五分五分の仕打ちを与えることも【愛】と言えるのです。加害者側に偏った意見が愛ではないのです。
カルマの原則は正負の原則で、五分五分にする
霊界の見聞をしていると霊能者の間ではこの世で金権等の財。地位や権力等に溺れた人。他人を恨んだり妬んだりしていた人。また色情の因縁を生んだりしていた人達は死後の世界で蛇霊化すると言われている事実に遭遇します。
魂の嫉妬や怨念が蛇霊化なのに、愛で赦されている?
私は伏見稲荷神界と言う狐霊世界で神霊界修行をさせて貰いました。霊能者の間でこの地球の神霊界は狐霊や蛇霊の世界だとされる事柄も学びました。その狐霊や蛇霊の世界を学んだことにより、逆に西洋の一神教には大きな間違いがあると解ったと言えます。大本教の出口王仁三郎聖師は霊界にミカエルと言う名の天使長は存在しないと述べておられますが、西洋では唯一成る神の名の下に特定の霊により【真理】が葬られて来たとも言えるのです。
霊界を語る時、恨みから蛇霊化した存在を外せない
丹波の片田舎綾部で発祥した大本と呼ばれる宗教開祖の出口直に降りたのは、【艮(ウシトラ)金神・国常立尊】と呼ばれる神でした。ただ優秀な霊能者の事後判断としては、大本に降りた艮金神国常立尊とは神の高山の合目説では七合目段階の神との説があり、本家本元とされる十合目の国常立尊では無かったとも言われています。そこから大本教は【本番】に備えた【予告の為の教団】とする説があります。
大本教の出口王仁三郎聖師の予言には【大本は七代女子の教祖で続く】と出されましたが、今の教祖の筋ではなくて本来の筋の家系は既に七代の女子を生んでいます。すなわち大本教は予告教団としての使命を終えようとしているのです。予言教団と言われた大本教がその使命を終えるは、【みろく(五六七)世】の到来なのです。
大本教に世の大立替の予告教団の使命が与えられたので、二代目教主補の出口王仁三郎聖師は比類無き大預言(大予言)者として霊力を発揮された。その魂の格式はナザレのイエス以下では無かったなのです。イエスの千年王国等、イエスが死去して既に二千年以上経過しており、キリスト教徒は待ち望んでも起きえないのです。
艮金神は【恨み霊】で【祟りの金神】と恐れられた
旧約聖書の神も祟り神で、その同一性が言われた
恨み霊だから【艮】金神と言うは、ある意味解りやすい神名となります。しかしそれは節分の夜に炒り豆で【鬼は外】をされている鬼だとなると、これは単純な話では無いとなります。節分の炒り豆で【鬼は外】と打たれている鬼達とは、キリスト教の教義にはサタン(悪魔)は冥府の長官とする説がありますが、鬼とは冥府の長官たる【羅城の閻魔大王】の配下の邏卒達のことです。
されどその羅城門を別名【来世門】と呼び、その羅城の門をくぐればこの世で罪人であった人も来世も人としてまた世に出して貰えると言われていました。すなわち【輪廻転生】の大元です。
羅の漢字に死者の【維新】が読めるので、来世の授け
この世を去った人の魂はその前世がどれほど極悪人であったとしても、地獄界で罪を償い終え、この世に再度人として出される時はその肉体は赤子として真っ新な肉体になります。その肉体に過去の魂の罪状は書いてないのです。それが創造神の【恩寵】なのです。しかしその魂には罪の精算が終わるまで、カルマ(業)として残るのです。
鬼(牛頭虎パンツ)と云う魂に【来世】が授けてある?
大本教神諭は艮には【牛虎】もある。牛虎で鬼と云う
その羅城の門番を邏卒(悪を取り締まる警察官的存在)と言い、その邏卒は牛頭馬頭で虎パンツでこれを【鬼】と呼んだです。
大本教から世に出された艮金神とは、大本教神諭に【艮には牛虎もあるぞよ】で、この仕組みは日本語の言葉で解読させる仕組みになっていたなのです。その証拠として大本教が発祥した綾部藩の殿様は九鬼くかみ)神道家で、元は鳥羽藩主で熊野本宮の別当職の家系であり。そのクカミ神道では宇宙の元津神を【宇志採羅根真(うしとらこんしん)】としていたなのです。大本教から出されたのは【艮金神】で、ひらかなに当てる漢字を変えているなのです。
ウシトラ根真とは、宇宙を創世した元津神
そんな言葉の仕組みの芸当は文盲であった大本教の出口なお開祖に出来ることではありません。何故に艮金神と呼ばれる存在が文盲の老婆を使ったのかは、それは出口なお開祖が神界で罪を犯して、地上界に落とされた魂であったことに起因しているのです。
閻魔大王とは、人の輪廻転生を預かっている冥府の長官
黄泉(よみ)の国からこの世に戻るのが【黄泉帰り】
私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声が臨んでおり、その声はナザレのイエスは人類が思っている様な救世主たる存在では無いと告げられました。確かに、誰かに自分が犯した罪を押しつける。そんな教えがまかり通ってはいけないなのです。自分が犯した罪は、自分が払わないと神の子とは言えません。
大本教からみろく大神を【六六六】とする内容が出された時、日本では新約聖書で【666】を反イエスの悪魔と説いていることからどういうことだとなりましたが、反イエスの立場でないと【人に内在する良心神】が説けないのです。
良心神は各自の魂に内在する創造神の一人御子の立場
当然に、イエス一人が主の御子とする説とは対立する
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