スピリチュアルでは【神は愛だから、何をしても神の愛で赦されます。】がお題目です。キリスト教ではイエス一人が主の一人御子で、イエスを主の一人御子と信じれば天国にと説きますが、日本で世紀の大予言者と知られた大本教の出口王仁三郎聖師は【地獄界を覗けば牧師で一杯だ!】と記しておられます。
イエス一人を主の御子と信じれば天国のはずが、それを説いている牧師達が地獄界に落ちている。これは何だ!。となります。それ自体はこの日本でも自分が救世主です。メシアですと自称されている霊能者の方達が幾人も居られます。その信徒さん達の死後の行く先を見ますと、皆さん亡者道(死後は地獄界に落ちる道)を歩いておられます。その人をメシアと信じて地獄界に案内されるです。
これらの自称救世主の方達は、どなたも【神の愛】を説かれます。その信者の方達は【神の愛】を説く方は救世主やメシアだと言う先入観念の中に有るのです。為にそこには【奇跡】を見せる競争となり。自分が蒔いた悪の種の果実は自分で刈り取らなければならないの【正負の原則】の欠如があるのです。
人は自分の罪を被る者がいれば、救い主だと勘違いする
自分が救世主です。メシアですと名乗る者に惑わされる
一部なりとも霊界を見て来ますと、魂の輪廻転生を司っている【冥府(黄泉国)】の存在が出て来ます。スピリチュアルでは何をしても神の愛で救われますが定番ですが、何をしても神の愛で赦されるのであれば輪廻転生を司っている【冥府】の存在は何だ!。となります。その存在理由が解らなくなるのです。
キリスト教の教義では、冥府(黄泉国)の長官(閻魔大王)はサタン(悪魔)と定義されています。イエス一人だけが神の子だと信じる者は如何なる罪人であろうとも、それを天国に連れて行くのがキリスト教の基本原則となっているからです。
誰でも解る天国とか地獄の論理とは【善-悪=正負の原則(カルマ)】であり、その原則を貫く存在はイエス一人だけが主の御子だと信じる者だけが天国界に行けるとするならば、それを阻害する存在である以上、それを悪魔(サタン)だと形容しても別におかしくは無いと言えます。
そこに出てくるのは、
キリスト教のイエスは、閻魔大王よりも上位の存在か?
スピリチュアルでお題目とする何をしても神の愛で赦されるならば、地獄界と呼ばれる世界が在っては成らないとなります。しかも何をしても神の愛で赦されるのであれば、天国界もまた存在していないとなります。何故ならば何をしても赦されるのであれば、悪は永遠に残り続けるからです。悪で何をしても良い世界は、そこは本当の天国界ではないなのです。
スピリチアル標榜者は自己の言動の矛盾に気づかない
だが何故にその様なスピリチュアルが輩出するのか?
日本で大本教と呼ばれる宗教が起きた時、その神は世に悪神とされる鬼門の金神のことであると世に出されました。私は大本教の教義に触れた時、そこに説いている意味が最初はよく解りませんでした。大本教は何を持って【ウシトラ金神・国常立尊】は世に悪神とされる存在なのか?。その具体的自由が解らなかったのです。
大本教から出された艮金神とは【節分の炒り豆にも花が咲く】から、その存在は牛虎(牛頭虎パンツ)金神のことで【閻魔大王】のことだと解ります。日本人の多くは仏教徒で、閻魔庁とはこの世で悪をした者達を死後の世界で取り締まる霊界の刑務所や警察のことだと理解しています。その霊界の刑務所の刑務官や警察官の【邏卒】達に対して、節分の夜は炒り豆で【鬼は外】とぶつけているのは世に知られることです。
私は子供の頃、悪を取り締まる閻魔庁(冥府)の役人(邏卒)は鬼の様な形相だが悪の取締官。その存在に炒り豆をぶつける行為を見ていて、人々は【正義より悪が大切】と考えているのか?。と思っていました。
大本教から出た艮金神国常立尊は、世に悪神とされた?
節分の炒り豆で鬼は外とは、自分は罪人だと宣言する?
節分の炒り豆で鬼は外の牛虎金神は 閻魔大王だが?
私は大本教から【節分の炒り豆にも花が咲く】の大宣伝歌が出されていなかったならば、閻魔庁の閻魔大王とその別名羅王の羅城城門を【来世門】と言う言葉の仕組みを見落とすところでした。
大本教が発祥した綾部の殿様は元は鳥羽藩の九鬼(クカミ)氏の子孫で、熊野水軍と熊野神道で知られた家柄です。その九鬼家が内紛で二つの藩に分かれた時、熊野本宮別当家職を引き継いだ九鬼氏が綾部藩主となりました。その九鬼神道では宇宙の元津神を【宇志採羅根真】としています。ウシトラの言葉に、どのような漢字を振ったか?。の違いと言えます。
綾部藩の九鬼氏の節分とは、【鬼は内、福は外】でした
キリスト教の教義でサタン(悪魔)とされた冥府の長官(閻魔大王)は、日本では節分の炒り豆で【鬼は外】をされている鬼(牛虎)達の長官ではあるけれども、それはウシトラ金神・国常立尊(閻魔大王)は本当に【悪神】だったのでしょうか?。なのです。
私は仕事で丹後のある小さな町に出掛け、その昼休みに近くの小さな書店に入りました。そこで某著名な宗教家の方が書かれた著本をパラパラとめくってみましたが、さほどたいしたことは書かれていないとその書店を出ました。
その書店を出て数百メートルほど行ったところで、先ほどの書店でパラパラと見た本に私の体内から一匹のコブラ蛇が出て行った体験のことが書かれていると閃いたので、慌ててその書店に戻りその著名な宗教家の方の本を買いました。すると少しだけ書かれてていましたが、中味的な解説はありませんでした。
その著本に書かれていた内容は、ヒンズー教の奥義書とされるヴェーダ典には【人の中に眠るコブラ蛇が目覚めて走り上がる時、その人は「真理」に目覚める。】とだけ書かれていたのです。それで私が見た光景の意味は解りました。
ただ人の中に眠れるコブラ蛇が目覚めて走り上がる時、その人は【真理】に目覚めるだとしても、そこには【真理】とは何だ?。となります。その時、私にあることが走ったのです。
お釈迦様は真理を悟られたが、イエスは悟れなかった
スピリチュアル標榜者は別として行者筋からお釈迦様とイエスの差を語る時、創造神を第十識界としてお釈迦様は第七識界。イエスは第五識界。ムハンマドは第四識界とする説があります。この一段の識界差は格がまったく違った存在とします。この一段を上げるのは容易ではないのです。世に出ておられる神々も識界レベルとなると低いなのです。
その人の中に眠れるコブラ蛇が走って上がる時、その人は真理に目覚める【真理】とは、お釈迦様は真理を悟られたがイエスは悟れなかったとなります。私には【イエスの教えは美味なれども、真ん中が無いドーナツ型のパン。】と出ましたが、イエスの教えとはスピリチュアル女子が【神は愛だから、何をしても神の愛で赦されます。】と発信している【神の愛】が主体となります。
一方、お釈迦様の菩提樹の下での悟りとは何かとなりますが、通常は【仏の慈悲】だと言われています。ならばお釈迦様の【仏の慈悲】とイエスの【神の愛】でさほど変わりはないとなります。どうして私にお釈迦様は【真理】を悟られたが、イエスは真理を悟れなかったと出たのか?。もう【迷宮】に入った様な物だったのです。ただそれは仏教が大乗に走った時、大乗の教えによって消されているなのです。
仏教において説かれる【みろく菩薩】とは、その大乗仏教によって埋没していたお釈迦様の本当の悟りを世に出す菩薩のことでもあります。しかしそれはお釈迦様の死後【五十六億七千万年】後に現れる仏とされています。丹波から出た大本教は、その【五十六億七千万年】後に現れるとされている【みろく大神】を世に説いたなのです。
五十六億七千万のみろく菩薩とウシトラ金神の関係は?
私に旧約聖書の神と称する声が臨む前の幼い頃、幼稚園児で地元のキリスト教会に引率され見学に行っていて、その教会でイエス像を見た私は【在ってはならない偶像。私は貴方をその十字架で磔になっている様を解き放って上げる。】と、心の中で叫んだのです。私は幼い頃からイエスの教えには大きな間違いがあると認識をしていたなのです。しかしその間違いが何かが解らなかったと言えます。
霊界修業に入って幾度かイエスと覚しき霊を見ましたが、今更イエスを叱ったところでイエス一人が悪かったではないなのです。
日本の行者でイエスを主の一人御子と思う者はいない
スピリチュアル標榜者はイエスは人類の罪を背負ってくれたと言っていますが、そこには【カルマ(因業)】と呼ばれる事柄を理解しているか、理解していないかがあるのです。スピリチュアル標榜者は【カルマ】を理解していないから、イエス様一人が人類の罪を背負ってくださっているとなり、地獄界の存在を悪魔の仕業だと言う偏見の中に入ってしまうとなります。
私は初めて豊受姫の元に伺った時、豊受姫は【貴方には天之御中主様の御使者神が二対来ておられる。】と告げられましたが、4~5歳位の頃から自分は天帝からの密命を帯びてこの世に降り立った者と思っており、小学生の頃に自分に旧約聖書の神と称する声が臨んでも別に驚かなかったがあります。
その旧約聖書の神と称する声は【私はそなたが本当は何者かを神々に解らないようにしておく。当然にそなたも自分が何者かを知らない。それでもそなたが何者か解るような神でないと、この神が使える様な神とは言えない。それすら解らない様な神などは捨てておきなさい。】と告げられたがあります。それを豊受姫は貴方の本守護神は国常立尊と告げられたなのです。当時の私にはその天之御中主と国常立尊とではどう違うのか?。それすら解らなかったなのです。
ある霊能者は、貴方の背後には天之御中主様と呼ばれる存在も国常立尊様と呼ばれる存在も両方出ておられますと言われましたが、そうした存在が見えるとか見えないとかは個人の能力になるなのです。私を見てたいしたことが無いと言う霊能者の方が数は多いなのです。
私は霊能者をしている者ではありませんので、自分は霊能者だ。私に対して嘘を言ってその霊能力を確かめてやろう式の方が私に嘘の内容を言われても、私はそれを見抜くではないのです。私は子供の頃に旧約聖書の神と称する声から、それを最初から嘘と決めつけてはならない。嘘と思えても真実かも知れない。嘘も真実と思って対処する様にと教わったからです。人を騙して喜んでいる者には、最初から【良心】などはないなのですから教えても理解は出来ません。
ただ私は天帝から、自分はどのような密命を受けたのか?。それが思い出せないのです。豊受姫は私を【貴方は言葉の神と呼ばれる貴き御方で、貴方の言葉による教えは天帝の詔(みことのり)に等しき物で、貴方の言葉による教えが聞けぬ神は如何なる地位の神であろうとも天帝に対する反逆者として、天帝により裁かれます。】と告げられたなのです。
その神々を裁く天帝が本当にこの世に出て来るのか?
私は言霊師であった方の元で霊界修業中。ある相談者が霊障で苦しんでおられる。その霊障の原因を探っていたところ、蛇霊が出てきました。その蛇霊は生前はその方の先祖さんが大工の棟梁で、その元で働いていた大工だと言います。だが屋根から落下して大怪我をして働けなくなったら、その治療もせずに食も与えないで自分を餓死させてしまった。その生前は大工であった霊が恨みから蛇霊化してその子孫に祟っていると判明し、その蛇霊に言向けをしていました。
その蛇霊と化した霊がその子孫を恨む気持ちは解ります。自分の身を蛇霊化してまで恨んでいるのです。しかしそれはその子孫が犯した罪ではありません。その子孫は当事者では無いのです。その辛かった気持ちは汲み取って上げますので、もう恨みを忘れて本当の霊界に戻りましょうと言ったのです。
その時、私にある光景が見えてきました。一本の棒が在り。その棒に蛇霊が巻き付いているのです。その棒から八方に光が放射されると、その棒に巻き付いていた蛇霊が去ったのです。
一本の棒が光を放つと、巻き付いていた蛇霊が去った
この時、私に旧約聖書の主の一人御子の意味が解けた
日本神道では神を【柱】と言います。神と呼ばれる存在は人の様な姿で見る場合もありますが、大きな丸い玉で見る場合もあれば、神霊が【光の柱】として立つもあります。様々な事象があるのです。日本では神を【柱】と形容していますが、人に入っている魂では柱ではなく【杭とか棒】的な大きさと言えます。
どんな魂もタマシイならば【玉型】で、思惟(深い洞察力を持つて周囲を図る)の玉か、恣意(この世は遊ぶところだと好き勝手放題)の玉かに別れます。
魂は玉恣意から玉思惟に成長する為に、この世で学ぶ
私は子供の私に旧約聖書の神と名乗る声が臨むことを不思議に思っていました。私は日本人で仏教徒の子供であり、旧約聖書も新約聖書も何の関係もない立場です。そんな仏教徒の子の私に旧約聖書の神が何故に臨むのかです。
しかも【旧約聖書は我が書なれども、暗号化された文章で暗号を紐解く鍵を持たないで読むと意味を間違えるように造られている。新約聖書は人の子達が創った書で、私の書では無い。私の教えは世界の宗教書に記載されていない。私の教えはこの日本の昔話や民話。わらべ歌等に秘めた。この国(日本)は私の教えが満ち溢れた世界で唯一つ国であり、この日本以外の国では私の教えは出せない。】と告げられたなのです。
日本は、神の教えが満ち溢れている世界で唯一の国?
鍾馗神の案内で中国で創造神とも天子ともされる盤古大神に拝謁し、盤古大神など聞いたこともない神名で、その盤古大神を知りたくて大本教霊界物語を買い求めました。大本教霊界物語によれば盤古大神は国常立尊様が退かれた後の地上神界の主宰神の座を襲われたとあります。しかしそれは地上神界の主宰神の立場であっても、創造神たる神の立場では無いなのです。
私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、【私は全神々が束になって、この私に敵対しても私は一柱でも勝てる。】と告げられていました。
私は稲荷神界から【言霊】の世界に転じて、言霊とは何かが解った時、私が持っていたそれまでの神観はすべて吹っ飛んだと言えます。聖書の【言葉は最初に神と共に在った】を西洋で天使と称して出て来る霊達は何も解っていない存在だということです。
この宇宙は霊界に在る霊的映像から読み解く限り、仏教で説かれた【無から有が生じた】であり、その後に混沌(カオス)があり、神は言葉で何々在れと説かれたから万物が出来たの言葉の意味が違っていたのです。それは【言葉】と言えども、言葉とは何ぞやが解っていなかったなのです。そこに出て来るのが【龍宮の乙姫】と呼ばれる事柄だったのです。
大本教の出口王仁三郎聖師が神界にミカエルという名の天使長等は存在していないと言われた事柄は、日本語をもって解き明かすキーワードだったなのです。それで旧約聖書の神と称された神は【旧約聖書は暗号を秘めた書で、鍵を持たないと意味が解けないように創ってある。】と言われたなのです。
人の魂は玉形で、円球ならばも必ず【心棒】が存在する
心棒とは種々の活動の中心でも、何故【心の棒】か?
宗教においては【改心】を説く、改心は心棒を改める
人の魂の心棒を改めるが出来る神は、閻魔(円真)大王
そこに創造神を信じる者は【後悔(紅海)】を渡る型が必要
円球の魂は、丸くならないと【心棒(辛抱)】が出来ない
旧約聖書の神(日本ではウシトラ金神・国常立尊)と称する声は【この私を唯一神と信じる者は、一人残らずこの私が救おう。】と告げられましたが、すなわち人の魂の核の部分と結ばれる【心棒】に良心神が授けた造物神は、【後悔をした者】を救う型としてモーゼの紅海を渡ると呼ばれる型を人類に見せられたなのです。
そこに出て来るのが四十荒野をさ迷った後に来る【41】の数字で、日本では国道41号線は出口王仁三郎聖師の大予言【みのか尾張の国から出る】となります。
そして汚れた【心棒】も新しい心棒に取り替えることが出来る神は【閻魔大王】と呼ばれる【円真】であるなのです。
この世の出来事の解釈は、最終的に日本語で紐解ける
日本列島は世界の大陸の雛形論は、型の仕組みの説明
大本教から出された【節分の炒り豆にも花が咲く】は、深い深い創造神の仕組みの中にあるなのです。
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