日本人の大多数は所属する宗派は違えども、お釈迦様を開祖とする【仏教徒】とは言えます。その日本の仏教宗派の中には【死者は土に還る】だけで輪廻転生は無いと公言する魂の存在否定の宗派もありますが、その宗派は日本仏教会には所属していません。
仏教と言っても、仏教の本質を理解していなかった派も存在するのです。人は死んで土に還るだけと説いていても、多くの仏教宗派で魂は不滅だと教えている様に魂とは如何なる存在かを教えて貰わないと、その魂の存在を否定する宗派の教えに従っていると死後にその信徒の魂は迷いの中に入るが起きてしまいます。
日本仏教会に所属している派であれば、当然として死者は霊魂と成ってあの世に旅立つです。禅宗の曹洞宗は更に踏み込んで三時(過去・現在・未来)で【因業(カルマ)】を解消する為と教えています。当然にそこには魂の【輪廻転生】が有るなのです。
輪廻転生は、三時(過去・現在・未来)でカルマを解消する
この世で過去の自分の罪を解消すれば、天国界にと進む
但し、その三時(過去・現在・未来)で因業(カルマ)を解消するは輪廻転生が有ることを説いているとしても、それで霊界が理解出来るかと言えば出来ません。霊界を見聞していると輪廻転生で生まれ変わって行く魂の存在を見ることは出来ますが、その逆の輪廻転生をしないで、その魂が生きていた当時の姿をしたままの霊達の存在も見るからです。どうしてその霊達は【生まれ変わろうとしないのだろうか?】の逆の疑問が出ます。
古い時代の姿だから神では無く、生まれ変わっていない
生まれ代わらないは、自己の意思か?。別の理由か?
仏教においては【閻魔庁】の存在が説かれます。閻魔庁は冥府の役所とされ、閻魔庁はあの世(霊界)での【刑務所・警察】の様な役割を担った機関とも言われて来ました。スピリチュアル標榜では神は愛だから何をしても赦されますなので、悪を取り締まる閻魔庁は存在していないと見ているなのです。
そこには実際問題として、閻魔庁は必ずしも霊界の悪神や邪霊達を取り締まっていないからです。この世に関わる霊界は悪の野放しがあるのが実体なのです。そしてこの世の霊界は力が強い者が勝つ。勝てば官軍、負ければ賊軍なのです。それが多くの神々が汚れた色から来た黒龍神である実状なのです。
霊界の汚れの浄化として蛇霊を浄霊した方を希に聞きますが、汚れから黒色に見える龍も浄霊すると色が変わります。ただ龍神の浄霊は浄霊者の命に関わるほどのことなので、それに取り組むがないのです。霊界に正神界と邪神界と在ることは知られていますが、その力は拮抗しており神界を正義だと言うのは、この世の霊界の実状を理解していないなのです。龍神を浄霊するはどれほど苦しい作業になるか、したことが無い者には解らないことなのです。
この世の霊界の悪の野放しは、創造神が見当たらない
創造神は引退状態の【艮】か?。この世は修業場か?
悪霊達を取り締まっていない冥府とは?。そこにキリスト教の教義においては閻魔庁(冥府)の長官たる閻魔大王をサタン(悪魔)扱いにしています。日本でも閻魔大王は地獄界の長官で、その配下の馬頭牛頭の邏卒の存在を鬼として、節分の夜は【鬼は外】で炒り豆をぶつけるです。ここに大本教から【節分の炒り豆にも花が咲く】の大宣伝が行われました。そして大本教は鬼は外でなく【鬼は内】なのです。鬼は内?。
鬼と云う【魂】は、人の内なのか?。それとも外か?。
イエスは閻魔大王よりも格上で、罪を免除出来る?
私はナザレのイエスと覚しき霊に幾度か出会いました。それがイエス霊だと断言はできませんが、私がイエスと思った霊はその足に重い十字架を繋ぐ鉄の鎖の足枷を課せられており、それはとても天国界とは言いがたい光景と言えました。私はそのイエスと覚しき霊の姿を見た時、思わず号泣してしまったほどです。
子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、【人はこの世において他人が犯した罪分を代わって被ってあげることは出来る。しかしその罪分は自分が持っている徳分の範囲の中であり、自分が持つ徳分を超えてまで他人の罪分を払おうとすれば、その罪は自分の罪となって自分が地獄に赴かないと行けなくなる。】と告げられたなのです。それは安易に人の罪を被って上げてはいけないなのです。
キリスト教の贖罪は罪の売買で、誰かが代わりに落ちる
キリスト教ではイエス一人を主の御子と信じれば天国が教義なので、輪廻転生を司る冥府(黄泉国)をサタン(悪魔)の支配下とした意味は解ります。しかしそこにはイエスが持つ【徳分】が如何ほどの物で有ったのか?。それは自分(イエス)を唯一なる神の子と信じる者達の罪を消すほどの【無尽蔵の徳分】であったのか?。そうしたことが何にも説かれていないのが現実で、イエス一人を主の御子と信じただけでは天国門は開かないなのです。そこにはカルマとは、誰かが代償しても支払うがあったなのです。
閻魔大王の別名は【閻羅大王】で、羅城の門は【来世門】
輪廻転生を司る役所は閻魔庁で、人は黄泉(よみ)帰り
日本神道の死者は【黄泉(よみ)の国】で、そこに甦(よみがえ)る【黄泉還る】を秘めてあったなのです。
キリスト教では魂の更生である【甦り】では無く、【蘇り】を言います。蘇りは死者が息を吹き返す蘇生の意味で、蘇りはこの世から死ぬ時の姿をした自分が最後の審判を経て復活するを説きます。人の魂は【魂の更生たる甦り】下にありますので、それはこの世に再度復活する時にはその姿は昔の自分の姿ではなく、新たな人に成る【赤子】からのやり直しなのです。
ただ仏教にはそうした輪廻転生の教えはあるとしても、どの宗派であれ霊界の具体的内容は説けてはいません。それは僧侶と呼ばれていても単に僧侶の肩書きだけでは霊界の見聞が出来ないからです。ある僧侶の家で先祖霊に関わる霊障害が起きたがあります。その解決をその僧侶がお寺の御本尊に頼んでも出来ずに、他の僧侶の霊能者に頼んだがあります。
その人へ直接に神仏の声が臨んだことから霊界修業に入った人でないと、簡単には霊界に導けない。スピリチュアル標榜でも現実に神社仏閣に鎮座する霊から確約を取れる方であれば、それなりのことが出来るなのです。
しかし霊界では次元と呼ばれる階層が存在しており、魂がこの世に出て来るのは霊界での自分が住む次元界を上げるが目的で、この世は永遠に住む場所では無いのです。それがこの世は魂の【修行場】で、仮初め(一時)なのです。
禅宗の僧侶は、葬儀で死者に対して【喝!】の言葉を出す
葬儀の時の喝!は、この世に【未練】を残さず旅立てです
だがその【喝!】の大声を出す僧侶は、何故に死者は霊魂と成ってこの世に未練を残してはならないとするのか?。そうした説明になると、実際に自分が霊魂と関われる霊能者で無いと【喝】の意味が解らないとなります。
ただ霊魂と関わり霊魂と会話するにしても、韓国の文鮮明開祖が起こした統一教会で解る様に贋の霊能者を使い。事前に相談者の名前や住所を調べておいて、その贋の霊能者を本物と思わせて御先祖霊が苦しんでおられますと嘘を言い。高価な品物を買わせる霊感商法等も出て来ます。霊的世界を金儲けの道具とする輩の嘘も出せるなのです。
この世の霊界は魂の修業場の為、邪神の存在が許される
私は霊能者を商売にしている者ではありませんが、それでも死者の名前やその霊が生きている時に住んでいた場所やその人が亡くなった年が【光の金文字】で出て来るの体験を積み、本当に霊能者で有れば今の時代を生きている人の名前や住所も生年月日も解ると言います。邪神でも霊力さえあれば人の名前や住所は簡単に解るのです。それだけではその人が正神界か邪神界かは解りません。
霊能者とは座ればピタリと解ると言われている様に、霊能者の背後にはその守護神や守護霊が存在し、その守護神が相談者の守護霊を通して見るからです。私は稲荷神界で豊受姫のお世話になりましたが、豊受姫には私の家の預金通帳の額まで金利計算して知られていました。そしてそれらは霊界の【光の金文字】でも解るです。必要な場合は神業で使わなければならないお金の金額まで計算して金文字で出る。私はそうしたことから神霊に対して嘘を出すのは無意味だと言います。
ただ、
相談された神より相談する人の魂が高いと、見えない
仏教においては死者があの世に旅立つ道として【三途の川】が説かれます。しかし仏教の僧侶と呼ばれる人達がその三途川を見ているかと言えば、この三途の川は霊能力が無ければ見ることはありません。霊能者のみが見る霊界の川と言えます。
その三途の川は三本の川がそこに在るのでは無く、この世からあの世に渡る時その三途の川は【三途の方向に分かれる】意味の三途の川で、この川そのものはその人の【この世での生き方】で大海のような大河にも、激しい濁流の川にもなります。この川は見たことが無い者には語れない霊界の川なのです。
大本教霊界物語にはこの三途の川の渡し場には脱衣婆が居ると説かれていますが、脱衣婆の姿を見るのか!。それとも美しい女神の姿を見るのか!。それは貴方次第となるのです。
臨死体験で三途川を見たと言うのは主に仏教徒で、キリスト教徒の臨死体験では三途の川の報告がないことから学者は仏教の三途川は教えられた意識で見た光景ではないかとしますが、問題はキリスト教徒はイエス一人が神の子だの洗脳を受けている為に三途川を見ても解らないことと、ミカエルとかカブリエルと称して出て来る天使と呼ばれる霊に問題があったことの認識がないからなのです。
霊能者は自分の意識で三途川を見たではなく、霊的にその存在を見たなのです。私は豊受姫から【龍船】の存在を見させられ、神々からも【天空を飛ぶ船】も見させられて、イエスの教えとは実に狭い教えだと知ったなのです。
仏教で説かれる岸の彼方は彼岸なれども、その岸は遠い
新天地の弥勒世に渡る場合は、川でなく大海原で現れる
地獄に落ちるとは、この三途の川を渡ろうとした時、それまでは穏やかな流れの川が一転して濁流と化して、その人を飲み込んで地獄界に落とすなのです。スピリチュアル標榜者の【神は愛だから何をしても赦して下さる。】等を信じて三途川を渡ろうとすれば、間違いなく怒濤の波に押し流されて地獄界に行きます。
で、地獄界に行かない方法として、この世の霊界に留まる
この世の霊界に留まる限りは、地獄界からお迎えの鬼が来るなどは無いでしょう。平の清盛に関しては死ぬ前の夢の中に地獄の鬼達が火車と共に現れたとされますが、死後の世界たる霊界からのお迎えと呼ばれる現象は、天国行きとか地獄行きとかが確定している場合には生前に本人がそうした光景を見ます。が、それは数少ないと言えます。だがこの世の霊界に留まる限りは、次の世に人として出してもらえないとなります。例え地獄界に落ちても罪を償って、次も人の世に出して貰う方が正解ではないのか?。となります。その為の【輪廻転生】です。
某著名宗教家は多くの人を助けたいと願い。その力を欲して悪魔に自分の魂を差し出す条件で悪魔の力で多くの方を助けたと言われています。その代償として自分の魂を悪魔に食べさせたので、その死に様は凄まじかったと言われています。この話は霊能者と呼ばれる方達の中では有名な話で、私もその宗教開祖の側近の方からその経緯を聞いたがあります。
その方はその教祖が死ぬ間際も付き添っていて、その死に様を直接に見たが凄かったと言われます。その教祖はこの世における不幸の数々はカルマが消えていく過程と説きながら、今を救って欲しいと懇願する信徒を助けたいと悪魔の力に頼られた。その気持ちは私も痛いほど解ります。自分に人を助ける力が無いと、いくら人を助けて上げたいと思っても助けられないは誰しも解るからです。カルマと呼ばれる事柄は、通り一遍の【愛】の言葉では解決しないのです。
何の代償も支払わないで、貴方を助けますは無いのです
カルマの原則、自分が蒔いた種の果実は自分で刈り入れ
自分が犯した悪事の数々を忘れて、神様、どうか私の尻を拭いてくださいは無いのです。尻拭いをして貰えば、その代償はどこかで払わないといけません。スピリチュアル標榜者の大嘘は、【神は愛だから何をしても赦される。】は地獄界に導く悪魔達の罠なのです。イエス一人を神の御子と信じたから天国界も大嘘です。全ては仏教で説かれた【自業自得】の結果なのです。
私は大本教から世に出された【牛虎金神・国常立尊】から鬼を調べていて、仏教で説かれる【羅生門】の別名が【来世門】であることから、どうして閻魔大王の別名で有る閻羅大王の羅城門が【来世】に繋がるのかを考えていて、大本教神諭予告【九つ花に咲く一輪の言霊の火水(秘密)】から、その意味が解けたと言えます。
大本教から宣伝された事柄は、大本教からは直接には出されませんでしたが【みろくの世とは新天地に移行する。】であり、聖書と深い関わりがあるのです。それが大本教の出口王仁三郎聖師が自分と出口直開祖は旧約聖書に予言されたキリスト登場前に出る二人の男女の予言者だと言われた事柄なのです。
キリストとは真理の言葉で、人の様な身と思うと誤る
私が子供の頃に臨んでいた声は【旧約聖書の神】との名乗りでしたが、豊受姫によれば私の本守護神は天では天之御中主、地では国常立尊と呼ばれている神。7~8名の霊能者からは貴方の本守護神は国常立尊様ですと告げられたことから、私が子供の時に旧約聖書の神と名乗る霊から告げられた【私(旧約聖書の神と称する霊)は人類を永遠に嬉し嬉しの新天地に案内する。】が起きる可能性があると見ているなのです。
その時、重要なことは【この地球が所属する霊界に執着心や未練心】を持つなということなのです。
大本教から【人は霊(ひ)止(と)】だと出されたことは、宗教の教えとしては画期的なことなのです。私は霊界修行で多くの完全霊媒者と出会って来ました。その完全霊媒者は神霊や他人の霊に自分の肉体を貸して、その霊の言い分を自分の口を貸して語らせます。そこには人は魂を【霊止】としている存在だと解ります。
しかしそうした霊界修行をしていない人に【人が霊止】が解るのは、ホラー映画等に見られる【エクソシスト】なのです。エクソシストとは、悪魔に取り憑かれた人の肉体から悪魔を追い出す作業を指す言葉ですが、その人に悪霊が宿ったです。だがその肉体は一時的に悪霊に乗っ取られただけなので、その肉体からそうした悪霊を追い払えばいいなのです。
人の肉体から悪霊を追い出せば、その人は天人と同じ
愛ばかりを言っていると、その肉体に悪霊がはびこる
キリスト教の悪魔の定義は、イエス一人だけが神の御子だとした為に、まったく意味が解らなくなってしまったがあります。イエス一人が神の子説は弊害が大きかったなのです。
神懸かり現象と、悪魔憑きとではどこがどう違う?
人に霊が憑依してその肉体を支配している時、その人に向かって【喝!】の大声を出すと、その肉体に懸かっていた霊が抜ける現象があるのです。すなわち、葬儀の時に僧侶が【喝!】の大声を出すと、その肉体に未だ霊魂が宿っている場合、その大声でその肉体の霊魂は霊界に向かうです。
人は肉体の命が終わったからと言って、簡単に霊界には向かえません。自分自身が生きている時に【幽体離脱】を体験すると、肉体から離れても生きている自分に驚くとなります。それが肉体の死で初めて訪れると、霊界からお迎え人が事前に来ていないと生きている自分に迷うが起きるのです。
死んだと思ったら生きている。どこに行けばいいのだ!
私の幽体離脱は、当時私の世話をして下さっていたのは私の家系先祖霊が日蓮聖人の御分霊であったことから、日蓮聖人のお弟子さんの二人が私の幽体離脱の世話をして雲の上に乗せる等をしてくれたので無事に体験することが出来ました。霊界からの世話が無いと、そうした体験で知るは難しい面はあります。
人はこの世の命を終えたからと言って、瞬時にあの世での自分に【意識】を切り替えることは出来ません。霊界とは魂の修業場として創られたこの世とは違い。膨大な広さの世界となります。しかも次元界と呼ばれる異次元世界が広がり、あの世に渡ったならばこの世で聞いていた内容とは違うぞともなります。どうしてもこの世での生活に未練を残します。
霊界で自分が住む世界とは、スピリチュアルでも語られる【同一波動の者が集まる世界】である意味面白みが無いのです。ドングリの背比べです。この世は魂の学びの為に悪が一定許されているので、ある意味面白いなのです。誰しも悪的な事柄をして面白いと思う体験をして来たはずです。つまり悪を知って善を知るのです。その為にこの世は一定の悪が許されるのです。
この世に未練を持つと、元の霊界に馴染めないが起きる
そこに仏教で説かれた生まれ変わるの羅城門(来世門)を通らない霊達も出て来るとなります。縄文時代の姿をしていたから、それが神霊とは成らないなのです。そこに現れて来る霊が生きていた当時に関してはその服装で解るとは言えますが、魂は自分が生きていた過去の時代に縛られるのではなくて【進化】という道も辿らないと行けないともなるなのです。
人の魂は進化の道を進むので、過去世の自分を忘れる
この世は魂の修業場であれば、修行場の閉鎖は起きうる
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