人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

何をもって人の死を定義するのか?。自分の意識が続く限り、それは死とは言えない。魂は心臓に宿るのか?。それとも脳に宿るのか?。

 私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声を聞いていました。それは言うなれば他から私に語り掛けて来る声です。また神霊界に修業に入り、霊能者の方の様に自在に神霊と語れるほどではありませんでしたが、神霊と呼ばれる存在からの声を聞いていました。それは自分と言う肉体を持って、他の人からの言葉を聞いているのと同じ事と言えます。

 観音様と呼ばれる存在が祀られている観音堂では観音経を聞いたり、不動明王と呼ばれる存在が祀られている瀧場では不動経を聞かされるなどがありましたが、それらは私がその場所に身を置いたことから起きたことで、自分と云う肉体から意識が離れたではありません。

 しかし鐘馗神と呼ばれる神の案内で中国で創造神とも天子とも言われている盤古大神に拝謁した時は、私と呼ばれる存在は中国の紫禁城の様な宮殿に入り、その宮殿の中には多くの将軍霊が並び、広場には大軍団の兵士達が並んだ宮殿の広場を見ながら盤古大神と呼ばれる神の前に進み。その横には西王母と呼ばれている存在も座り、私の意識は完全にその宮殿の中に存在していました。その宮殿の大理石に膝まづいた時にはその大理石の冷たさが体に伝わって来るほどです。ハット我に返った時、自分は家の神座の前で座っていたです。

 こうした事は自己の肉体から魂が抜けたとか魂を霊界に飛ばすと言われていることで、時間とか空間とか次元と呼ばれる世界を越えた霊体験を自分の魂がしているとなります。

 

 私がある方達と一緒に神業に励んでいた時、伏見稲荷山の奥社付近でふと見ると私と一緒に神業をしていた方の姿を発見して、その人に向かって呼びかけたところ、その姿が瞬時に消えてしまいました。それで今自分が見たのはその人の霊だと思ったので連絡を取ったところ、その方は私がその日は伏見稲荷山に上がっていると知っておられたので、今の時間帯ならば私が伏見稲荷山の奥社付近ではないかと、自分の意識を伏見稲荷山に飛ばして奥社付近を捜したが私の姿が見当たらなかったので、自分には仕事もあるので肉体の元に帰ったと言われます。自分の意識を肉体に戻したです。その時間を聞くと、まさに符合しているのです。

 

肉体を持った人は生霊で、肉体を持たないは死霊

 

 世に千里眼と呼ばれる持ち主がおられます。例えばその肉体と私とが話をしながらもその方の意識は別の場所に飛んで行って、自分が見ている光景を語ってくれます。もし自己の意識を飛ばして見に行くであれば、それと同時にその肉体と会話をするのは難しくなります。その千里眼で他所に見に行く人を見ていますと、その肉体自体の魂ではなくて、孫悟空の分身術そのものではありませんが、その人の正守護霊(神)がその地に飛んで肉体たる自分の意識にその光景を伝達している等があると理解しました。

 これまで千里眼とは、自分の意識を飛ばすとか魂を飛ばしてその場所を見るとされていましたが、その肉体から魂が抜けるとその肉体と会話が出来ないことは霊媒者を通して会話していると解ります。通常の霊媒者は恐山のイタコに見られる様にその霊の想いを感じて、自分の言葉で会話しようとするのでズーズー弁になったりします。しかし完全霊媒者だとその肉体を霊に貸してしまうことにより、その霊が知る言葉そのもので語って来ます。そうした事例の数々を見て来ますと、これまでの宗教は【霊界の真相】を蔑ろにして来たなと解って来ます。

 

 そこに日本神道で説かれる事柄に【神人合一】に重要性があります。この世に居る自分とは別に神その者では無いのです。しかし霊的世界に居る自分は、神に該当している場合もあるです。そこに人はこの世の生き方次第で、神にも成れるし天人にも成れるがあります。

 

自己の意識が正守護神格ならば、その人は神界を見る

 

世に言う千里眼は、自分の意識を飛ばして目で見ている

 

 そうしたことは俗に今日までは【自分の魂を飛ばす】と言われて来ましたが、肉体の意識と魂たる意識は別なのです。肉体は肉体の命が尽きると、その時点で【肉体は死んだ】と言えます。しかし自分と云う存在は【意識】の中で存在しています。肉体から意識だけが抜けて生き続けると、そこに【死】はありません。

 私は魂とは【玉型の思惟(考えを巡らす)】本体のことなので、それを【玉思惟】と説いて来ました。しかし私以外の方には魂は【玉恣意】だと言われる方達もあります。玉恣意の恣意は【自分勝手、自己本位】の生き方です。スピリチュアル等で推奨する何をしても自由ですの生き方です。

 

 神霊界には【正神界】と呼ばれる神界と【邪神界】と呼ばれる神界が存在して来ます。その邪神界は自己勝手とか自己本位が主体の考え方で玉恣意なのです。【邪の道は蛇】で、その魂は蛇霊化を辿って来たなのです。

 イエスが処刑された数日後、その信徒達の前にイエスがその姿を現したのは【肉体の復活とか蘇生をした】のではなく、肉体から抜けた幽体(霊体)が霊性に目覚めていた信徒達の目には見えたなのでしょう。しかし当時のイエスの弟子には、そうした霊界のことが解る様な段階の者は一人も存在しなかったでしょう。で、イエス一人を主の御子だと信じていても、それで天国界に案内されるでは無いなのです。

 

処刑されたイエスが信徒の前に出た姿とは幽体

 

 私は霊界修行の過程の中では幾多の【生き霊】と会話して来ました。だがその生き霊を出した肉体人で自分の生き霊が私と会話した。そうした事が解っている人は数少なかったと言えます。ほとんどの人は自分の生き霊が私の家を訪問したことすら解っていないなのです。そこに大本教の出口王仁三郎聖師が出された【霊主体従】【体主霊従】があります。こうした霊主体従とか体主霊従を説いた宗教はそれまでは存在していませんでした。それは古い宗教の多くは霊界の内容があまり解っていなかったなのです。

 

 人はこの世で死を迎えると、その肉体に存在する意識は肉体から抜けて行きます。その意識は世界で【魂】と語られて来ました。英語だと【soul(ソウル)】と発音されるですが、日本でスピリチュアルだ!。スピリチュアルだ!。ばかり叫んでいるスピリチュアル女子達のスピリチュアルは英語では【spirit(スピリット)】と呼ばれる分野で、日本では【精神】を意味します。

 

ソウル(魂)とスピリット(精神)とは同じ事柄か?

 

 誰しも漠然とした感覚では【魂】と【精神】とでは、少し意味が違うのではないだろうかとは感じます。しかしその違いを【説明】せよと問題が出されたら、その説明が出来るかなのです。幸福の科学の大川総裁は大量の○○霊示集なる物を発行されていますが、その中の一冊に魂は脳に宿っていると記しておられます。それが自分はお釈迦様とイエスとモーゼの三体を出した本体たる永遠の仏陀で十三次元界だと呼称されていても、とてもそんな高い次元レベルの方とは思えないとなります。霊子(たまのこ)線の存在程度は説けても、その接続先が間違っているぞとなるのです。

 一般的に人の魂は【心臓】に宿っていると言われています。しかし【識】と呼ばれる事柄に触れると、【識】は心臓に宿るよりも【脳】に宿るのではないか?。そうした疑問は誰しも生じて来るのです。何故ならば人は誰でも【心の存在】は認めますが、心が知恵の様な働きをしているかとなったならば、誰でも疑問符を投げざる得ないからです。心(心臓)が物事を考えるのか?。

 大本教の出口王仁三郎聖師は【霊にチの発音】を出された。霊を【チ】と呼ぶことで、肉体の血には霊が宿っていることが解って来るのです。人の心臓に魂は宿り。霊は肉体の血として循環するのです。

 

人の魂は【心臓】に宿るのか?。【脳】に宿るのか?

 

人は精神を患う。それは心の問題か?。脳の問題か?

 

 そんなことは何一つ考えずに人はこの世を楽しむ為に生まれて来たのです。そうしたことばかり言っているのがスピリチュアルとなるのです。スピリチュアルは精神論は語れるが【魂】論は語れないとなるのです。

 

 私は大本教神諭が随所に予告する【九つ花に咲く一輪の言霊の経緯(秘密)】が、朝鮮に残されていた最後の審判前。【救世の為に米一字の教えが起きる】に基づいて解読出来ると分かった時、大変驚いたなのです。

 日本神道では【狸(タヌキ)神】とは、日本語の【タ抜き】の言葉だと言われています。宝の【タ抜き】で、宝を空(殻)にした者達です。この神の【宝】とは、【田から実る物】で【米】の意味を指しているなのです。

 日本神道では人民のことを【青人草(あおひとぐさ)】とします。しかしその青人草は何に実るのか?。どこにも書いていない。

 

旧約聖書であれば人民は【麦】に例えられる

 

  大本教の出口王仁三郎聖師は【西洋は麦が主食でパンの教え】。日本人は【米が主食】とは出されましたが【飯屋(メシヤ)の教え】とまでは説かれなかったなのです。だが大本教神諭には、【この神は煮ても焼いても食べられる。】となっているなのです。

 

日本の青人草は稲で、米と実った者を【稲生り】とする

 

 大本教から大宣伝された世の立替えに関して、一部の予言書に【白狐ならば、赦して使わす。】などの神示がありますが、霊的世界で語られる蛇霊とか狐霊とか狸霊とか猫霊等は爬虫類や動物の類いのことを語っているのではないのです。日本語が持つ【言葉の意味】が、そうした存在の姿に【身返る】をさせているなのです。

 で、蛇霊と化した魂の多くは【悔い改め】をしませんが、悔悟の涙を流す蛇霊ならばこれを赦して【天人界】に戻す。私はそうしたことを見て来た一人なのです。そこには誰かを拝めば自分が救われるなどはどこにも存在しないなのです。ただ人の魂の【真ん中の核たる部分は天帝からの直霊】の働きで、

 

神は汝と共にあり。人は神の子・神の宮で魂に良心神

 

人の魂の中の良心神は、【この世の閻魔(円真)大王】

 

 私は大本教神諭と霊界物語を読んで、ここまで仕組んだ神が在ると言うことは艮(牛虎)金神国常立尊=閻魔大王=牛頭天王=旧約聖書の神は同一の神で、存在しておられないではなく、一時的にその姿を隠した状態。すなわち神界の表舞台から【退(艮の道)】の状態に過ぎないと言います。

 私は鍾馗神の御案内で中国で創造神とも天子とも言われてた盤古大神に拝謁して、そんな盤古大神など聞いたことも無かった神なのでその盤古大神のことを知りたくて大本教霊界物語を購入して読んだのですが、そこに在ったことはスピリチュアル的なことに走っているでは永遠に万物の創造神と呼ばれる神のことに頭が回らないなのです。

 

 

 

 

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