今回のブログ記事の題は【人は死んだと思えばまたもや生き返る。この世は神芝居。神の舞台の芝居には善役もあれば悪役もある。素顔に戻ればすべて天人。】の言葉は、私が子供の時に臨んでいた旧約聖書の神と称する霊声が私に語って来られた言葉です。
その言葉の後、次の様な内容も告げられたのです。【私が隠れて演出して来たこれまでの世の神の舞台に上がる役者達は、誰も私が描いた台本の筋書きを知らずに演じて来た。為に間違えた演技をした者達も居る。ただ私が身を隠して与えた役割に従って、各自が自分の役割を演じて来た。私はこの世の舞台の幕を引いて、今と呼ばれる世界を終わらせる。一度はこの世の幕を引き、継ぎに新しい世界の舞台を開ける。継ぎの世の舞台の幕を開ける迄に今の世の神の舞台に上がった役者達は、その化粧を落として元の素顔たる自分に戻らなければならない。もし元の素顔の自分に戻ることが出来ないのであれば、継ぎの世と呼ばれる世界の舞台に二度と上がらせるわけには行かない。継ぎの世の舞台とは、誰もがその舞台では嬉し嬉しと喜ぶ演技の世界である。】と告げられたのです。
役者は舞台上の役で死んでも、次の舞台では出て来る
一定の公演期間は最終幕迄は、同じ役柄を演じ続ける
そうした内容は岡本天明師の日月神示にも見られます。悪をも抱き参らせそうろうです。この意味は非常に解釈が難しいと言えます。善と悪は表裏一体の関係であり、この世が神の舞台の演技場であるならば舞台の役として善役も悪役も生じて来るのです。ただそれはスピリチュアルで言う【何をしても神の愛で赦されます。】とは意味が違うなのです。
悪は魂の汚れから生じます。魂を汚さないと悪を演じられないのです。その為には自分の魂を汚して演じなければなりません。その魂の表面を汚す意味が【化粧】です。基本的にスピリチュアルでは魂磨きで魂の汚れを洗うを言いません。魂を汚すことで自分の姿が変わってしまう。いくら神と呼ばれても蛇や狐の姿となる。そこに元の姿に戻ることを【化粧を落とす】と告げられたなのです。創造神は何をしても赦されるならば、閻魔大王と呼ばれる存在も地獄界も無いとなります。
天国界に【悪】は存在しません。どうしてこの世には【悪】があるのだろう?。そうした疑問は誰しも抱くところです。ところがスピリチュアルに走ると、愛と言う言葉に惑わされてそうした疑問を持たなくなるのです。
この世は悪が無いと善が解らず、魂の修行場にならない
悪は魂の汚れから生じ、魂を洗えば元の素顔に戻る
この継ぎの世の舞台とは、嬉し嬉しの世であることはほとんどの宗教で語られて来た事柄ではあるのですが、問題はその内容が我が宗派の教えを信じれば天国界で異教徒は地獄界に落ちるの自画自賛で、宗教そのものが間違った教えに入ってしまったがあります。その嬉し嬉しの世に入る点数は、神は愛だから何をしても赦されるなどでは無く、善行から悪行を引いた点数であることを無視した教えと言えます。すなわちそこには自分が犯した罪の償いを自分に代わって被ってくれる便利な【救世主】等は存在していないのです。自分が蒔いた悪の種の果実は自分が刈り取るなのです。
嬉し嬉しの世の到来が見えた時、この世の幕は降りる
当時の私は子供であったことから、その辺の意味がよく解りませんでした。私は三十五歳を境として神霊世界と呼ばれる世界に関わって、奇跡とか神の現世御利益と呼ばれる事柄は稲荷神界で学びその体験をしました。それは実践行者と呼ばれる人達が関わる神仏世界との交流ですが、【真理】にはほど遠い世界だったとは言えました。私が子供の頃に旧約聖書の神と称する声から告げられた内容とはまったく関係が無い世界でした。
私自身は伏見稲荷山で初めての瀧行をした後、不思議な体験をしました。それはヒンズー教の奥義書とされるヴェーダ典に記載される【人の中に眠るコブラ蛇(眼鏡蛇)が目覚めて走り上がる時、その人は「真理」に目覚める。】と書き残された光景の体験です。私はその症状の文が書かれた書と不思議な出会いをしたのです。
その文を見た時、私の脳裏に【お釈迦様は真理を会得されたが、イエスは真理には至らなかった。】と出たのです。イエスの教えが【愛】であることは、スピリチュアルを見れば一目瞭然です。スピリチュアルでは【神は愛だ!】しか言いません。何をしても神の愛で赦されるで【悔い改め】が疎かになっています。だがお釈迦様の悟りは【仏は慈悲】だと言われています。それならば神の愛と仏の慈悲とでは、そこにどれだけ差があるのかとなります。
イエスの神は愛と釈尊の仏は慈悲では、さほど差は無い
されど私が子供の頃に臨まれた旧約聖書の神と称する声は、【そなたはナザレのイエスの愛の教えを何一つ恐れず乗り越えなさい。】と告げられて来ました。旧約聖書の神と名乗る声はイエス愛の教えは間違っていると告げられたのですが、お釈迦様の悟りが【仏は慈悲】であるとすると、お釈迦様の悟りも間違っていたとなります。
これはお釈迦様の菩提樹での本当の悟りは【仏は慈悲】では無かったが、後世の者達によって慈悲であったと書き換えられてしまったと言えます。だがその本来のお釈迦様の悟りが解りません。それが解るのはお釈迦様の死後、五十六億七千万年を経過して現れる【みろく菩薩】によって、お釈迦様が本当に覚られた内容が明らかになるです。
仏教においてはお釈迦様の本当の悟りは弥勒菩薩が出現されるとする五十六億七千万年後を待つではないのです。お釈迦様の死後500年間か1000年間はお釈迦様の悟りは未だ正しく伝えられる【正法】の時代とされますが、その後は仏法と修行者は存在するが悟る者が居なくなる形だけの像法の時代とされました。この正法から形だけの像法の時代に成る過程で起きたのが【大乗仏教】と呼ばれている教えとなっています。
すなわち大乗仏教が起きた時点で、お釈迦様の本当の悟りは世から忘れられてしまったです。そして今は末法の時代です。確かに大乗仏教ではお釈迦様の最初の教えを小乗とか原始仏教として、その教えをないがしろにしたがあります。
像法の時代に起きた大乗仏教に、お釈迦様の悟りは無く
仏界の如来・菩薩・明王から、お釈迦様の悟りは出ない
丹波の片田舎の綾部で起きた大本教から、その【56億7千万のみろく大神】が出されました。日本神道の世界から仏教のみろく菩薩が説かれるとは奇異なことですが、その大本教の神論には【九つ花に咲く一輪の言霊の経緯(秘密とも火水とも書かれる)】が幾ヶ所に渡って出て来ます。大本教ではこの一輪の言霊の秘密の言霊は【スの神】とし、大本教以後に誕生した多くの新興日本神道系の宗教では大本教を倣って【スの神】論を展開しました。
その大本教から救世主は【スの神】で【素戔嗚尊】が出されると同時に【五六七のみろく大神】も出されました。それでは話が噛み合いません。素戔嗚尊とみろく大神とをどう結び付けるのか?。その説明がなされませんでした。
この【九つ花に咲く一輪の言霊の経緯】は、大本教に在籍していた当時は大本教の機関誌【神霊界】の編集などをされており、出口なお開祖派であり、大本教を去った後に宗教家として神道天行居を創設した友清歓真(九吾)師に大本教神論予告の九つ花とは【九の魔法陣】のことであると伝えた神霊があったと言われています。
【九の魔法陣】から導き出されるのは【41】の数字で
その41は【ラ神】で、天之御中主様だと世に出された
それ自体は大本教神論の【綾部は福知舞鶴十里四方外囲い】が何を語っているかを理解出来るならば、実は導き出せるものなのです。私自身は大本教神論の【十里四方】から、これが何を語るのかを導き出したと言えます。何故ならは綾部は福知舞鶴十里四方外囲いでは、その方向が違って来るからです。言葉の意味が違うぞとなるのです。
私はたまたま寄った本屋にあった一冊の書を立ち読みしていると、そこに朝鮮半島に残される予言として【最後の審判前、救世の為に「米」一字の教えが起きる。その米一字の教えに従った者達の上には天罰は降りないが、そうでなかった者達の上には天罰が降りる。その天罰の最中に白十字が現れて、天罰を受けている者達もその白十字によって最終的には救われる。】と言う予言が残されていると、その本に記載されていたのです。
誰が考えても【米】一字で教えなど出来ません。ましてそれが最後の審判前、救世の為の教えだとは、何を言っているのかとなります。その時はそれでその本を買わなかったがあります。
たった一字の【米】が、最後の審判の救世主(メシヤ)?
私が子供の頃は旧約聖書の神と称する声が臨んでいて、その声は【そなたの教えに従った者達はこの私が助ける。】と告げられました。私が初めて伏見稲荷山に上がった時、豊受姫は私のことを【貴方は言葉の神と呼ばれる貴き御方で、貴方の言葉による教えは天帝の詔(みことのり)と言うべきもので、貴方の教えに従えないと言う神々は如何なる地位の神であろうとも天帝に対する反逆罪で裁かれます。】と告げられたがあります。
豊受姫が私に告げられた天帝からの詔(みことのり)とは、私自身は何の力も持たない輩ですが、その私が説く内容は天帝の詔(みことのり)に該当しているなのです。その米一字で説く内容が大本教神論に残された【九つ花に咲く一輪の言霊の経緯(秘密)】のことかです。
その九の魔法陣における【41】の場所は、日本語のアイウエオの【ラの神】で出口王仁三郎聖師が出した素戔嗚尊ではなく【天之御中主(天照皇大御神)】の解釈は間違ってはいませんが、それだけだと点数的には5点か6点程度の点数しか付けられないものと言えます。そこには出口王仁三郎聖師の魂と友清歓真師との魂とでは歴然とした格の差があり、友清師では理解不能と言えるなのです。
大本教が予告した九つ花とは【メシヤ(飯屋)】の教え
それは大本教神論に【この神は煮ても焼いても食べられる。】とあるからです。米ならば煮ても焼いても食べられるです。が、重大なことはこの九つ花の仕組みに【56億7千万のみろく】の謎解きがあり、今の世は七の世で、次に八の世に入る七転八起の【ダルマ(真理)】が秘められており、大本教神論にはこの神は達磨大師として現れたがあります。さらにそこにお釈迦様が悟られた事柄も書いてあるなのです。ですから大本教から【56億7千万のみろく大神】が出されたなのです。
為に【米】一字を見ても理解できないでは落第
私は曹洞宗の門徒の一人ですが、その曹洞宗の門徒に送られて来た曹洞宗の小冊たる機関誌にお釈迦様の菩提樹での悟りとは【悪魔は実体を持たない現われであり、人には良心と呼ばれる神が内在している】と悟られたと書かれた経典が見つかったとの記事に触れて、私は小躍りをしたなのです。
お釈迦様の本当の悟りは人に内在する良心神で、
それを56億7千万の数で紐説く369の仕組み
それは艮金神の【艮】に、天(点)を付けて
漢字の良(ラ)で、魂の真ん中の円真として説く
いったい誰がこんな言葉の仕組みをしたのか?。この仕組み、スパー・コンピュータをもってしても出来ないと言えます。大本教神論にあります国常立尊が三千年間に渡ってなされた仕組み。この仕組みをした神とは私達人類がこれまで知ることが無かった創造神たる存在なのです。しかし私が出会った霊能者達は、大本教から国常立尊は艮金神として説かれたが、頂上神たる国常立尊は大本教からは出ていない。大本教は【予告】の教団であり、未だ人類の上に国常立尊は出ておられないと言われます。
豊受姫は綾部は神の聖都。創造神が降り立つ処
おそらく大乗仏教下で如来・菩薩・明王の役目を持って世に出られた諸仏達も、その【人に内在する良心と呼ばれる神(天帝の分魂)】のことは理解に至っていなかったと思われます。何故ならば日本の古神道では人の魂は【一霊四魂】で構成されていると説いていて、その一霊を【直霊】と呼び、天帝の分魂で在り。人の良心を司っているとしていたにも関わらず、仏界はお釈迦様の本当の悟りたる人に内在する良心神を消したからです。
それが解るには、魂の心棒に巻き付く蛇霊を知る必要と
ダルマ(真理)には七転び八起が秘められているを知る
しかもこの仕組み、お釈迦様の悟りを56億7千万で出す弥勒(369)菩薩のみならず、イエスとモーゼが果たした役割が何であったまで秘められています。それは自分はお釈迦様とイエスとモーゼを出した本体たる永遠の仏陀と称した幸福の科学の大川隆法氏の自分は東大を出ました程度の学力では解ける様なものではなかったなのです。
本当に大川隆法氏が自称の九次元界以上の魂の持ち主の方であれば、どこかでこの図は見たことがあり。この問題は紐解けていたはずなのです。私はこの問題を見た時、イエスが仮に日本語を知っていれば、ヒントを与えれば解けた段階の魂かと見ました。さすがにヒント無しでは、イエスが日本語を知っていても難しかったでしょう。イエスの次元界はそこまで高くなかったからです。
これは単純に見ても意味は解けないのです。大本教の出口王仁三郎聖師は【神の九十九(つづら)折。折られた実物を見ないと言葉の綾(あや)が解らない。】と言われた事柄なのです。
私は日本語でも、言葉を仕組んだ神の存在に驚愕した
私は鐘馗神の案内で中国で創造神とも言われている盤古大神に拝謁しました。その盤古大神が何者か知りたくて大本教霊界物語を買ったのですが、盤古大神は木星神とあったことからその盤古大神の立ち位置が解ったと言えます。木星神とはギリシャ神話では【ゼウス】に当たるからです。その盤古大神に拝謁は【漢字の変換(返還)】という意味を持っていたのです。
大本教で説かれた艮(牛虎)金神国常立尊とは、仏教では【閻魔大王】たる存在として語られています。この神は人が自分は死んだと思っても復活させる【黄泉帰り(甦り)】を担当されているなのです。
しかしながらキリスト教の教義では冥府の長官(閻魔大王)は【悪魔(サタン)】と定義されています。そこにあるのは人はこの世に出て来て、イエス一人だけを主の御子だと信じたら人類の原罪とされる事柄(人は蛇の囁きで狂う)が許されるを教義としたからです。主の一人御子で何人もイエスを通さないと創造神には出会えないの教義の元、人は死んで冥府に行く。そんな冥府の主などサタン(悪魔)以外の何物でも無いとなってしまったなのです。その結果、大本教の出口王仁三郎聖師が言われた地獄を覗けば、地獄は牧師達で一杯だとなったなのでしょう。イエスの教えだと、人は蛇霊界からの脱却が難しくなるのです。逆に人類を蛇霊界の支配下に置くような教義を出したなのです。
イエスはその弟子達に蛇の様に賢くあれと説いたと言われています。確かに蛇霊は【知恵】を指します。しかし蛇霊は人類を神の御国から追った存在なのです。大本教から出された国常立尊を悪神として追った最大の物とは、キリスト教における教義とも言えます。そこにキリスト教は【666(みろく)は悪魔の印】とするを出したがあります。
イエスの霊界での地位は、キリスト教徒が思っているほど高い地位ではないのです。識界レベルでは創造神を第十識界とすると、お釈迦様は第七識界でイエスは第五識界と言われているからです。マホメットは第四識界と言われていて更に霊界での地位が低いなのです。それはキリスト教やイスラム教の創立に関わった天使長ミカエルとか大天使ガブリエルと称する霊も一段と低い存在だからです。そのイエスを一生懸命に拝んでいても高い次元界に進めないを起こしていたのです。
一人一人の魂の中の核には良心の働きを司っている天帝の分魂が存在する為に、創造神以外の存在を拝んだらどうにかして貰えるという問題では無いなのです。それは【閻魔大王】の沙汰を自分ならば引っ繰り返せますと言う様な話なのです。
神は愛だから何をしても赦してくださる等と言っていると、この世に生きている間はよいとしても、死後は間違いなく地獄界に落ちて行くなのです。大本教の出口王仁三郎聖師の言葉。天国に案内すると言いながら地獄に案内している取次ばかり。
スピリチュアル標榜者の神は愛だから何をしても赦されるでは、鬼と言われ悪神(サタン)ともされた閻魔大王と呼ばれる存在は霊界のどこにも居ないとなります。が、閻魔大王は最後の審判官の鬼たる存在としておられるなのです。それが魂を【鬼と云う牛虎】なのです。
閻魔大王は鬼とされても、魂の御親神と知る必要がある
私は真理を求めて、蛇霊や狐霊の世界から言霊に転じた
私が伏見稲荷山に初めて上がった時、稲荷大神首座神であるところの豊受姫は【貴方は言葉の神と呼ばれる貴き御方で、貴方の言葉による教えは天帝の詔(みことのり)に等しいもので、如何なる地位にある神でも貴方の言葉による教えに従わないといけません。その教えに従えないという神々は天帝によって最後の審判で処罰されます。】と告げられました。
だが私自身、稲荷神界に留まっていてもその【言葉】による教えに辿り着けなかったなのです。それはこの日本で神霊世界に関わるとは【蛇霊や狐霊】とされる神に関わることであり、それらの神霊によって現世御利益はもたらされますが、自分の魂磨きには関係して来ません。もしも彼らが人々に魂磨きを口にする存在であれば、彼ら自身が既に蛇霊や狐霊の身の段階から脱却して天人界へと戻っていたなのです。
蛇霊や狐霊は御利益はくれるが【真理】は説かない?
御利益で霊の存在は解るが、この世の目的が解らない
スピリチュアル標榜の方達からは、どこどこの神社に行けば現世御利益がありますよという話はいくらでも出て来ますが、スピリチュアルに走って自分の魂磨きをしましょうの話はほとんど出て来ないなのです。逆にスピリチュアルと称して神社に【霊的汚れのヘドロ】の様な物を平気で置いて行く為に、自分達が神社を汚していることに気づかないなのです。霊的世界の汚れを増長させているなのです。
そうした中での霊的世界の光景ですが、蛇霊が何かの棒に巻き付いている光景が出て来たのです。その棒が金色の光を放つと、それまでその棒に巻き付いていた蛇霊が慌ててその棒から離れて行きました。私はこの【棒】は何だろう?。となりました。
人は死後は【魂】となって、あの世(霊界)に渡るは世界の宗教の共通認識下にはあります。その魂とは【丸い球(玉)】であることも解っています。ただその魂はどのような構造体であるかは日本神道の【一霊四魂】以外にはその理論は人類には出ていなかったなのです。
大本教から牛虎金神が出され、魂の【鬼が云う】を演技
人の魂とは球体で、球体ならば必ず【心棒】が存在する
人の魂の心棒(杭)は、悔(杭)い改めで替えられる
人は悔い改めれば、創造神によってその罪が赦される
日本新道で神を【柱】と言うのは、その【心棒(杭)】のことを【柱】と呼んでいたなのです。
私が子供の頃には旧約聖書の神と称する声が臨み。その声から【ナザレのイエス】や【ムハンマド(マホメット)】の霊界における地位を聞かされています。その霊格ではとても救世主だと名乗れる様な段階では無いのです。大本教の出口王仁三郎聖師は霊界にミカエルと言う名の天使長は存在していないと残しておられます。
そこにあったのは私が子供の頃に臨まれた旧約聖書の神と称する声が告げられた【私が陰から演出して来たこれまでの世の神の舞台に上がる役者達は、誰も私が描いた台本の筋書きを知らずに演じさせた。誰もが私が考えた役割を、自分で考えた筋書きで演じている。】に該当しているなのです。ミカエルという名の役割があったとしても、それは魂の心棒の働きだとは誰も思っていなかったなのです。
旧約聖書の神と称する声が私に告げられたことに【旧約聖書は我が書なれども「暗号」を秘めた書で、その暗号を解く鍵を持たないと意味を間違えるように創ってある。この日本で無いと私の教えは解らない。】と述べられた事柄で、ミカエルの意味は【巳(蛇)帰る】だったなのです。
それは【巳(蛇)帰る】は役とは示されていなかった
それと同様のことに【八根】を羽根と思ったがある
大本教神論には【この神が世に出ておられる神々を誑かし(たぶらかし)て使って来たとありますが、それは世に出ている神霊や天使と呼称する者達が、言葉の意味を正しく取らずに言葉の仕組みに狂うがあったなのです。
それを証明するのが、
イエスは40日間荒野をさ迷って、41日目に神の御子
私は言霊学に入り、聖書の神は言葉なりの本質を知った
私は聖書の【神は言葉なり】の本当の意味を知った時、イエスのみならず。全キリスト教徒の誤りを知ったなのです。それは旧約聖書の神と称する声が【新約聖書は人の子達が為した書で、私の書では無い。】と告げられたことなのです。そして大本教の出口王仁三郎聖師が、みろく大神を新約聖書で悪魔の印とする【666】で出した意味もあると言えます。
そこには人類の歴史には、今の世に出ている神々も知らない深い【闇】の時代があったなのです。
これから先に起きる事は、人は死んだと思えば生き返る
その日迄に、自分の魂の元の姿を取り戻す必要がある
もう少しで嬉し嬉しの弥勒の世の到来がやって来る
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