スピリュアル標榜だと、魂磨きは辛いから止めましょう。良心の呵責は思いから捨てましょう等の発言があります。スピリチュアルとは【愛】ばかり言って、愛より上に在ると思われる【良心】等は言いません。逆に良心は【邪魔者】的に思っているがあります。為にスピリチュアルという言葉を連発する方の多くからは【魂磨き】の発言はほぼありません。
そこにはお釈迦様が修行に入られた。【人は何故に生まれるのか?。何故に死ぬのだろうか?】。そうした疑問から修業に入られた基本を学ぶが抜けているがあります。
スピリチュアルという言葉を連発する人には、霊的世界を見るのは霊能力の問題であり、修業など無意味だと思っている方達があります。そこに【瞑想】が語られるのですが、瞑想だけでは片付かない問題があるのです。
瞑想だけでは【迷走】となり、魂磨きを忘れてしまう
スピリチュアルだ!。スピリチュアルだ!と発信している方達が霊と呼ばれる存在を見ている。その事自体は別に嘘でも何でも無いのです。ただ霊が見えるから【真理】を知るではないのです。霊的世界は非常に多様な世界で簡単には語れません。ならばどうしてこんなに【多様の世界なのだろうか?】。そうした疑問が発生してもよいのに、それが無いなのです。それは【意識】と呼ばれる存在に対する思慮が無いなのです。
霊界に関わると魂磨きは辛いし良心の呵責は重いと解る
世界の宗教で【魂】は説かれるが子細が説かれていない
そうした証拠として、日本の某仏教宗派は公然と人は死ねば土に還るだけだと霊界の存在を否定しています。すると貴方達の宗派で御本尊と仰いでいる霊的存在はいったい何物なのですかとなります。宗教そのものが自分達が御本尊と仰いでいる存在に対して、しっかりと目を向けていないなのです。
日本の仏教ではお寺に仏像を設置し、その仏像を拝んでいます。その仏像には【霊】が宿っていると解っています。逆にイスラム教などではそれを偶像信仰の対象として破壊しています。しかし、イスラム教ではそれは何の為か?。そこまで解っていたでは無いと言えます。そこにはムハンマド(マホメット)の霊界における地位の低さがあったなのです。
仏教の偶像に霊は宿る。その偶像に宿る存在とは?
仏教は人はお釈迦様の様に仏陀と呼ばれる存在に成れることを説いた教えですが、キリスト教にイスラム教にユダヤ教の様に万物の創造神の存在を説いたではありません。しかしキリスト教にイスラム教にユダヤ教の三派は同じ旧約聖書を聖典とすることから同じ意味の創造神を仰ぎながら、互いに血と血で洗う争いの中にあります。それはその三派に聖典は有っても、聖書そのものには【真理】が何も書かれていないがあるからです。
スピリチュアル標榜者の前に天使長ミカエルとか大天使ガブリエルと称する者が出て来ることは知られていますが、彼らはキリスト教とイスラム教を互いに戦わせている張本人達と言えます。それをおかしいと思わない感覚が不思議だとなります。どうしてそんな存在が天使長とか大天使と呼称しているのか?。大きな謎を生みます。
大本教の出口王仁三郎聖師は世紀の大予言者として実績を残された方で、スピリチュアル標榜者の段階の方ではありません。出口王仁三郎聖師その方が【自分はイエスに何一つ劣っていない。】と発言されましたが、優れた霊能力者は大本教の出口王仁三郎聖師はイエスと同格か、それよりは高い存在と見る向きもあります。ただキリスト教は世界宗教で、出口王仁三郎聖師の大本教は戦前は日本の大宗教でしたが今は小さな教団と言えます。世界レベルでは比較して語れませんが、その経典は多くの【真理】が入っているのです。
私から見るとイエスの教えは【真理】にはほど遠いがあります。私が霊界でイエスか?と思う霊に何度か出会い、その霊は私に自分はナザレのイエスと告げて来ましたが、キリストの意味が【真理】だとするならば、彼はキリストの名には値しないとなります。私が見せられた霊的映像では、キリスト教徒はみろく世には進めないなのです。そこに【創造神の一人御子】とは何を意味していたのかがあるなのです。
人の魂は丸い円球で在ることから中心に【核】と呼ばれる部位があり、その【核】は何で在ったかになるからです。日本神道ではその核の部分を天帝の分霊とし、人の良心の働きを司るともします。そこにはイエス一人が主の御子説はあり得ないなのです。大本教から出された【人は神の子・神の宮】が正しいとなります。
大予言者として知られた大本教の出口王仁三郎聖師は、霊界にミカエルと呼ばれる天使長は存在していない。それは日本語の【省みる】の言葉の意味だと残しておられます。
悔い改める省みる意味が天使長【ミカエル】とは?
聖書には人類の原罪として、蛇霊に唆されて神の御国(エデンの園)を追われた人類と告げられてはいるのですが、キリスト教等ではイエス一人を主の御子と信じればその人類の原罪は赦されるで片付けた為に、逆に原罪たる蛇霊の囁きの意味がさっぱり解らないとなります。
聖書から解ることは【龍とは霊界で年老いた大蛇霊】だけ
実際に神霊世界を見聞して来ますと、この地球上では【蛇霊は神霊】として祭られています。大本教の出口王仁三郎聖師は【救世主は素戔嗚尊】だと言い、自分はその素戔嗚尊の魂だと告げられました。以後、巷の自称救世主達は自分は【素戔嗚尊の魂】だと言われる。
素戔嗚尊は、日本神話で八岐大蛇(やまたのおろち)退治
人類の原罪に関わる大蛇霊を退治する存在が救世主?
世界の宗教で見落とされていたことは【人と蛇霊】との関係と言えます。私は神霊界修業を伏見稲荷山で積ませていただいた関係で、多くの神霊と呼ばれる蛇霊や狐霊に関わることが出来ました。その中で神として祀られている蛇霊が涙を流して泣く。悔い改めた蛇霊が蛇の身から脱却して麗しい天人の姿に成って天に戻る。そうした出来事に触れて、これは何だとなったのです。
宗教界では我が宗派の教えを信じる者は天国界で異教徒は地獄に落ちるとする教義が定番ですが、まったく違っているではないかです。
魂が汚れていないと天国界に、魂が汚れていると地獄界
魂は心臓に宿るが、間違った宗教は魂は脳に宿ると説く
古来より魂と呼ばれる存在は心臓に宿るとされていますが、一部の宗教では魂は脳に宿っていると説いている宗教もあります。それはその宗派の開祖は自分は十三次元の魂だと呼称されていても霊能者とは言い難く、魂が心臓に出入りしている様を見たこともないからと言えます。
霊媒者だと他人の魂でも自分の心臓にドンとぶつかって来る等を体験することから魂は心臓に宿るを体験します。また蛇霊が人の心臓に宿る魂を食い破り、その肉体を自分の借(仮)宿とする。そうした事柄の見聞をもするのですが、そうした見聞も無かったからと言えます。
そこには、人が生きていると実感するのは【意識】であり
意識と呼ばれる存在に深い思考がなされなかったがある
魂が【玉】型の存在であることは、【たましい】と呼ばれることからも【玉型】だとは推察出来ます。そしてその魂は【意識】を司っていることは古来より解っていました。しかし私達が生きていると実感する【意識】はどこに宿っているかとなると、それは脳だと思う方が有っても不思議ではないのです。だがその一方で魂は【心の存在】と考えた時、当然に魂は【心の蔵】と呼ばれる場所に宿るともなります。
お釈迦さまやイエスの時代。霊視で魂(光を放つ玉)の存在を見ることは出来ても、それを【写真】に写すは不可能だったでしょう。その時代は写真機と呼ばれる物が存在しなかったからです。為にお釈迦様でもイエスでも魂論は完全に説けていないが有ると言えます。またその魂の大きさは神霊と呼ばれる存在でその大きさが違い、魂が人の肉体に宿っている存在であることまでは掴みづらい事柄であったとは言えます。それを理解するには魂は分裂(分霊化)する。そうした知識も必要だったのです。
私は魂を見ると、丸い円球でその人の【心の在り方】で瑠璃色の様な美しい輝きを持った魂や、逆にどす黒く汚れて悪臭を放っている魂に遭遇して来ました。そしてその魂に出る点数が在り。その点数はその魂が持っている【良心】の点数であることを学んだなのです。お釈迦様は人に内在する良心神に気付かれたが、多くの諸神諸霊はそこまでの知識が無かったとも言えます。私も大本教神愉予告【九つ花に咲く一輪の言霊の経緯(秘密)】を解いていなければ理解しなかったかも知れません。
それは誰かを神と拝めばその点数が上がるのではなく、自分でその点数を上げて行く【自己研鑽(磨き)】の大切さです。そこで魂とは玉型の【玉思惟】であると説いて来ました。
世の中には私が説く魂は【玉思惟】論では無く、自称救世主と名乗る方の中には【魂は玉思惟では無く玉恣意の漢字の方だ】と説く方もあります。魂は玉恣意の場合の恣意とは【何をしても自由。自分勝手】の意味を持つなのです。
【玉恣意】の魂論も必ずしも間違いではないのです。大本教と呼ばれる宗教が丹波の片田舎の綾部で発祥した時、その大本教から【自分勝手、自己本位】の生き方を戒める教えが出されました。だが世の中はそうした自己本位、自己中心主義を戒めるのではなくて、自己中、自己本位の行動を【あるがまま】と説く誤ったスピリチュアルの教えもあり、世の中は辛い魂磨きを説く者よりもより安易な道を説くことがスピリチュアルだと思う者達も大量に出て来たなのです。
玉恣意は【心を次ぐ意】の玉で、次の世に輪廻転生で出る
明治25年に丹波の片田舎綾部で発祥した大本教から、何をしても自由だと言う生き方は神の意志に反する間違った生き方だと出されました。現在の世でスピリチュアルと呼ばれている人達が説いている内容は【九十九%】が自己本位・自己中の生き方を薦めていて、本人は何も知らずに自己の教えを聞いた他の人を死後の世界で地獄界に案内するという有様を呈しています。
大本教で説かれた【天国に案内すると言いながら、地獄に案内している取次ばかり。】です。だがそれには人々を地獄界に導いて居るところの神霊世界も学ぶ必要もあるなのです。自称救世主と称している方達の中には、自分を救世主と信じている人達を地獄界に案内して、その地獄界で自分達の王国建設を目論んでいる霊達もあるからです。そこで利用されるのが【奇跡】なのです。私達が住む地球霊界に関わって居る神霊達が必ずしも【正神界】の神々では無い。それを知る必要があったのです。
そこに大本教から元の創造神たる国常立尊は、蛇霊の囁きに毒された神々の多数決によって、地上主宰神の神の座から【鬼】として追われたがあります。私は鍾馗神と呼ばれる神の案内で【盤古大神】と呼ばれている神に拝謁し、人類の世に何が在ったのか?。その一端に触れたと言えます。
魂は汚れを磨かないと【獄】界に入るが説かれていない
巷で自分は創造神のうつそみ(現身)とか救世主ですと名乗り、自分を信じて天国へ案内すると称する方達を、死後の世界ではどこに向かっているかを調べますと、皆さん【地獄界に向かう亡者道】を歩かれています。
地獄に向かう亡者道は、この世に肉体を持っている時に道を変えないと死後は間違いなく地獄界へと向かいます。この世は魂の修行場、修学の場と言われていますので、この世で肉体を持って居る時にその方向を転換すれば地獄界落ちは免れます。
この世で方向を変えれば地獄道を免れるがその卆免?
宗教の我が宗派を信じれば天国で異教徒は地獄は無い
で、その宗教の教えを信じた人達は天国界に進んでいるのかとなった時、そうはなっていなかったなのです。そうしますと世界の宗教が説いて来ました【異教徒は地獄に堕ちる】の概念は、何を【基準】に見ていたのかとなります。
獄の漢字、【言が犾を犭(けもの)と犬】とに分ける世界
私達は神社に行きますと、そこに【狛犬】と呼ばれる存在を見ます。どうして犬が【神門】の役目をしているのか?。
魂に着いた汚れを【祓う】に、【犬】の漢字が入れてある
神霊の世界に蛇や狐や狸や猫の漢字を当てるも、言が鍵
神霊世界に関わりますと神霊の多くは蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊で語られます。私は伏見稲荷山に修業に入り。蛇霊や狐霊は神霊として祀られている。では人間は?。となりました。蛇霊として現れる神霊とは本来の蛇では無く。元は人霊なのです。かっては人であった時代も有る存在が蛇霊や狐霊と呼ばれる存在に身を変えられている。そして【悔い改め】れば元の天人の様な神姿に戻るです。
仏教で説かれた【輪廻転生】の転生は、神霊世界にも及ぶ
大本教神論、世に出ている神々が四つ足であると暴くぞ
仏教で説かれた【輪廻転生】を見て行くと、どうして最初から魂を玉思惟(玉恣意)とすれば、感じ(漢字)が解りやすいのに【魂(鬼が云う)】に成っているかです。そこに艮(牛虎)金神と呼ばれる神の存在が秘められてあるなのです。
魂は玉思惟と玉恣意の差で、反対方向に進む
スピリチュアル標榜者の神は愛だから何をしても赦されるとか、良心の呵責は重いから捨てましょうの論理は、魂の世界での破滅破壊にと導いているなのです。
最近見られる魂の多くはどす黒く汚れて、本来は丸い円球の魂がぺちゃんこ形と成ってきて、しかも真ん中が無い穴あきの【ドーナツ形】に成っている等が、そうした存在を霊的に見ることが出来る人達から報告されて来ています。
人は厳しい教えを鬼と言い、甘い教えを良い教えと思う
仏教では【識】と呼ばれる事柄が説かれます。私達日本人の大多数は仏教徒なので仏教の御経である【般若心経】を口ずさむがあります。その時、般若心経の中の【空即是式。受想行識】等の御経文を読み上げることで、【識】と呼ばれる言葉に触れます。その般若は【鬼】の意味を持っています。鬼が【心の御経として識】を教えているなのです。
この【受想行識】の言葉などスピリチュアル標榜者の前に出て来る天使長ミカエルとか大天使カブリエルと称する霊等から、そうした説明があるのかです。私は神霊世界に関わり、そこで出て来る霊を調べるサニワ(審神)の重要性を知ったなのです。
私に大天使と称する者が現れたら、サニワ(審神)をする
仏教の【識】が解らずに、大天使等と名乗るは片腹痛い
審神(サニワ)を知らずして、スピリチュアルで【愛】ばかりを言っている者達は蛇霊の囁きに毒された者達と言えます。そうしたスピリチュアル標榜者は真の天国界を知らず。その天国界に進む道のことも理解していないと言えます。
人は【神の愛】で生かされるでなく、識が在るから生きる
魂が死後の世界で苦しむは、その【識】が消えずに残るから
神は言葉と言うのであれば、言に音たる【識】とは何ぞ!
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