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「これ……真ん中を外したら、すごい火力にならない?」
『薬理学理論』講義後の昼食時間。
リーシャとユラリアは総合学院の会議室を借り、先の講義で提示された魔法陣を眺める。
二人とも片手に軽食を携えながら。
リーシャは、魔法陣の中心部──最後に作動する回路部分に存在する尋常ではない出力調節機構を指差して言う。
「少なくとも、これを外したら王都は吹き飛ばせると思う。でも……その場合、魔素が足りないかなぁ。私、そんなに多いわけじゃないし。ユラリアならどう?」
高威力で、複雑な回路であれば要求される魔素の分量が増加していく、というのは魔法陣構築における常識であった。故に中心部分の出力減衰部分を取り外せば、完成するのは魔素消費が数億倍になった、少なくともリーシャにとって活用不能な魔法陣である。
リーシャは、総合学院に入学した生徒の中で平均か、それより少しばかりの魔素量であった。それは、同時に王国全体では上位一割に入る程度の容量だということを意味する。
「私も無理ですよ。恐らく単独で発動させられる方は……少なくとも王国にはいません」
ユラリアの魔素量は、学院の中でも上澄みである。
第一級魔法を並列発動させ、その状態で数時間待機していられる王国第一王女の魔素量は、リーシャの数倍では済まない。
逆に言えば、リーシャの魔素量でも王国全土を覆うことが可能な『権能返却』の脅威を、ユラリアは理解していた。
それをもし仮に自分が使えば、惑星全土から魔法を消去することすら可能だということを、きちんと認識していた。
そんなユラリアは、提示された魔法陣の異なる部分に着目していた。
「これ、真ん中の一部を入れ換えたら……どうみても、第一級理論魔法『神聖大結界』なんですよね」
『
教皇在住教会とも呼ばれる神域は、認定された極一部の人以外を選別し、弾くフィルターを有している。
それを為し遂げる魔法が第一級理論魔法『神聖大結界』であり──ユラリアですら、単独での使用が不可能な魔力量を要求する魔法でもあった。
故に、ユラリアは誰でも気付く可能性のある中心火力制御機構ではなく、その周囲に注目していた。
「これを解析出来るということは……『神聖大結界』を解除可能になる、ということです」
数百年の歴史では太刀打ちが出来ないほど、古代から駆動し続けている魔法陣の解析。それは元来、一週間で解決させるものでは決してないはずだった。
ユラリアは改めて、魔法陣を見つめる。
「でも、どうして……? 教授が……いや、でもあの教授にしては……」
魔法陣という形を借りているものの、使われている技法は習ったことのあるものだった。
GPCRによる信号増幅を想起させる配列。そして、つい数時間前の講義で習った神経軸索部分における膜電位上昇の伝達。それらの機構が、丁寧なまでに再現されているようにしか見えない。
ユラリアは、その事実に気味の悪いものを覚えていた。
これが真ならば、『神聖大結界』の魔法陣を構築した千年以上前の人は、これを理解していたということになるからで。
王族であるユラリアからしても、革新的で聞いたことのない知識が大量に雪崩れ込んでいるようにしか思えない『薬理学理論』の講義内容。それから得られる生体内回路を、当時に理解していた人がいる可能性が高い──それは、ユラリアにとって十分恐怖を感じさせた。
「ねね、ユラリア。ここの部分って電位依存性カリウムイオンチャネルの不活性化機構みたいじゃない? ほら、教授が『不活性化ボール』って言ってた感じの!」
教授は、これを新規魔法陣だと言った。
事実として、これは新規魔法陣に該当する。
だが、その真意は中心部火力制御機構を取り外せば極めて高い威力の魔法陣が完成する──その事実の、一歩外側にある。
これは、自分自身に向けられたメッセージであるとユラリアは考えた。
これが『神聖大結界』の魔法陣であり、『神聖大結界』の魔法陣は、明らかに生体内回路を理解している人が組み上げた産物である、ということを伝えたい教授からのメッセージ。
だが、ユラリアの知る他の教会特有の魔法は
第五級治癒魔法『抗菌区域』も、第三級理論魔法『防壁生成』もユラリアは扱えるが、このような機構が組み込まれてはいない。
従って。第一級理論魔法『神聖大結界』の作成者は、それ以外に関与していないことになる。教会特有の魔法のうち、古代から伝わる魔法であっても、このような機構は存在していない。
でも、とユラリアは考える。
このような才を持つ人が。このような理論を理解している存在が、『神聖大結界』以外の魔法を開発していないことなど、あり得るだろうかと。
「うん、ここもちょっとGPCRっぽい? 七回編み込みがあるし……」
リーシャの指摘を聞いて、ユラリアはより確信に近づいた。カリウムイオンチャネルの不活性化機構。教授がたった数時間前に説明した概念や以前の講義内容が、千年以上前の魔法陣に組み込まれているというのは──単なる偶然では済まされない。
「ねね、ユラリア。真剣な顔で何を考えてるの?」
リーシャは半分食べかけのサンドイッチを置き、友人の表情に気づいた。
ユラリアは考えを整理しようと、魔法陣の図面から視線を外した。
「これは単なる魔法陣の解析演習ではない気がするんです」
ユラリアは声を潜めた。会議室には二人しかいなかったが、『壁に耳あり』という諺は王族にとって常識だった。
「これが『神聖大結界』の魔法陣で、しかも今日や昔に習った理論が組み込まれているとしたら、意味するところは一つしかありません」
「どういうこと?」
リーシャは首を傾げた。
この手の読み合いは、ユラリアの得意分野であった。
「教授は私たちに、生体内回路の理解が『神聖大結界』の解除に繋がると気づかせようとしているんです。つまり、その魔法陣を構築した人物は──」
ユラリアは言葉を選びながら続けた。
「現代で教授が話している薬理学理論を、千年以上前から理解していたということになります」
二人は無言で見つめ合った。
リーシャが徐々に状況を理解し始め、目を見開く。
「でも、どうして教授はそんなことを? それに、もしそうだとしたら、その知識はどこから? そもそも……何にもわからないよ?」
「そこなんです」
ユラリアは魔法陣の図面に戻り、指で円を描くように全体を示す。
「教会の他の魔法には、この機構は見られません。つまり、『神聖大結界』だけが特別なのです。そして教授は、この魔法陣を解析できる知識を私たちに与えようとしている」
リーシャはようやく飲み込めたようで、身を乗り出した。
「でも、ユラリア以外にはそうだとバレないんじゃない?」
「そうでもないでしょう。この講義を受けている人数自体は少なくありません。その中で気付く人がいるかもしれません。総合学院には、敬虔な信者が近くにいる人もいますから」
ユラリアは立ち上がり、窓際に歩み寄った。
学院の中庭では、他の生徒たちが昼食を楽しんでいる。
「教授は、何かしらの意図を持って私たちに講義をしています」
ユラリアは窓から視線を戻し、再び魔法陣の図面に向き合った。
その発言は敢えて濁した言い方であった。
「王宮と教会の関係は表面上穏やかですが、実際には長い間、水面下での緊張状態が続いています。特に『神聖大結界』の管理権限については、幾度となく争いの火種になってきました」
リーシャは自分のサンドイッチを見つめながら言った。
「私は……政治的なことはあまり詳しくないけど……確かに聞いたことがあるかも。王宮と教会の間では何世紀にもわたって、静かな戦いが続いているって」
王宮と宗教の醜聞が庶民であるリーシャの耳にまで噂として入っている、という事実に少しだけユラリアは驚く。
しかし、王宮と宗教に確執があることは少しばかり調べればわかることであり、言及に値することではないとすぐに思い直す。
「そうですね。表立った対立はありませんが、互いに相手の力を削ぎ、自分たちの権限を拡大しようとする動きは絶えません」
ユラリアはため息をついた。第一王女としての彼女は、この種の政治的駆け引きについて幼い頃から教育されてきた。
「『神聖大結界』は、ある意味で教会の最大の切り札です。教皇の居住地を守り、その領域内では教皇の権限が王権を上回ると認識されている。
そして、失敗してきた。とは、ユラリアは口に出さなかった。
だが、今にしてみれば失敗の原因は明白である。そもそも、根源的解析手法から間違えていたのだから。
既存の魔法陣や、それ以上に古い魔法陣の組み合わせで作られていない。零から魔法陣を組み上げられる者でないと、それを理解することは出来ないものだったのだから。
リーシャは残りのサンドイッチを口に運びながら、考え込んだ。
「でも、じゃあの教授って……王宮側の人だったりするの?」
「私の知る限り、教授は政治的立場を明確にしたことはありません。常に偽名を使っていますし。それでも……」
ユラリアは魔法陣の図面の特定の部分を指さした。
「教授は、おそらく第三の立場にいます。王宮でも教会でもなく、知識や学問そのものを重視する立場です。数百年前、『教会焚書事件』があったことを覚えていますか?」
「えっと……確か魔法史学の授業で習った気がするかも! 教会が危険と判断した古代の魔術書を大量に破棄したやつでしょ?」
「はい。表向きは『危険な禁術書の処分』とされていますが、実際には教会が自分たちの権威を脅かす知識──つまり多くの魔法を廃棄処分した件です。その時、多くの学者たちが抵抗し、密かに知識を保存しようとしました」
「え? そんな話、授業では習ってないよ?」
「当然です。王宮側も、教会の独占的知識が崩れれば自分たちが権力を掌握できると考え、表向きは焚書に抗議しながらも、実際には知識の大衆化を望んでいませんでした。教会にとっても、王宮にとっても知識の大衆化は敵でしたから」
と言ってから、ユラリアは王国を取り囲む国の状況を思い出す。知識の大衆化が発生した結果、発生した革命。それは一時的な満足を民衆にもたらしているのは確実だが、それが
「ですから、歴史編纂委員を持つ王国はそれを教会のせいにしながらも、実際は好都合であった。それが、あの事件における
ユラリアは、『教会焚書事件』の別の見方を知っていた。
その時に焼き捨てられた資料の多くは、攻撃的魔法であったという記載も多い。そして、ここで焼き捨てられていなければ、大戦は遥かに激化していたという意見があるのも、確かである。過激な意見の中には、大戦を迎えるまでもなく人類が滅んでいたというものもあるくらいには。
リーシャは口元に手を当てた。
「つまり……教授は、その時から続く……焚書から逃れた知識を伝える末裔なんじゃないかってこと?」
「でも、その可能性は低いと思います」
そう考えられるのは、自分やリーシャが直接教授とやり取りしているからである、とユラリアは考えていた。
故に、直接のやり取りではない情報から判断するしかない教会関係者は
むしろ、教授はここまでの推測を教会関係者にさせる為にこれを行ったのではないか、とすらユラリアは推測する。
ユラリアは再び魔法陣に目を向けてから、残っていたサンドイッチを食べる。
教会関係者がそうだと認識してくれれば、教授は『正体不明』ではなくなる。教会関係者にとっては、今まで滅ぼしてきた『焚書逃亡者』という枠組みに押し込むことが可能になる。
そして、『焚書逃亡者』が教会にとって敵とはなり得ないということは、歴史が実証し続けている。
だからこそ、その枠組みに自身を押し込む為にこの行動を取ったのではないか、というのがユラリアの推測であった。
「教授は、教会に牽制しながら私達のような人に
例えば、とユラリアは言葉を区切る。
「私たちは今、教授の意図通りにこの魔法陣が単なる『新規魔法陣』ではなく『神聖大結界』の解析であることに気づくことが出来ました。もし私たちがこの知識を持って『神聖大結界』に挑めば──」
「教会の最大の切り札が崩れる……」
リーシャの言葉に、ユラリアはゆっくりと頷いた。
「でも、それを知った教会がユラリアを襲ったりは……大丈夫なの?」
「私は大丈夫です。教会も王宮も、
それに、お互いが全てをかけた全面戦争を始めてしまえば、人類文明が戦火の渦に沈むということをどちらも理解していた。
王国第一王女を。それも、『優秀と名高い王国第一王女』に危害を加えるということは、人類終末戦争の狼煙を自ら上げることになる、と教会は理解している。
だからこそ、自分が狙われることはないとユラリアは確信していた。
それは、自分の命が握る最大の
「だから、むしろ不安なのはリーシャなんですが……」
教会にとって、最も相性が悪い相手がリーシャである、というのも事実である。
古来より続く伝統を重んじ、新しきものを時間と人数という強大な軸で押し潰す。それが、教会の使用する常套手段である。
だが、リーシャには『権能返却』が存在する。
加えて、『汎路調節盤』を始めとした革新的な魔法も。
それでも、ユラリアはリーシャに対する心配を完全に無くすことはしていなかった。
「大丈夫です。私や教授が、リーシャを守ります」
そして、ユラリアは教授についてもう少しだけ、考えていた。
確かに教授は王宮側でも教会側でもないが、それでも自分やリーシャを守ろうとしているということを。
「ねえ、ユラリア。結局、教授は私達に何をして欲しいんだと思う?」
リーシャの発した素朴な疑問に、ユラリアは簡潔に答える。
「結局、『自由に学ぶ』ことだと思いますよ」
恐らくそれには、自由に学ぶ為に必要なことや、自由に学ぶことが与える影響なども含まれている。
ユラリアは、そう考えていた。