なぜこんな不思議なことが起きるのか?
例えば、すぐにドラゴンを出したい"ドラゴン係"の使い魔なら、魔術書の該当ページに折り目を入れて開いておくだろうし、逆にそれを力づくで邪魔したい"封印係"の使い魔なら、そのページを別のページとくっつけて開けないようにしたり、印やキーワードの上に粘着シールを貼って、それらを見つけにくくする妨害工作を企てるだろう。
こんな強引な遺伝子発現の調節の仕組みで、表現型可塑性が生じることがある。
実際のゲノムDNAの"本"は、文字の連なる二重らせんのテープに近い。ただし真核生物のゲノムDNAは、それだけで染色体を構成する訳ではない。DNAのテープを巻いたボールが数珠つなぎになり、折りたたまれ、沢山集まった状態である。ボールに対応するのがヒストンというタンパク質。それにDNAを巻いたものが多数繋がるクロマチンという構造が、ずっと連なって染色体を構成している(図4-7)。
転写調節因子などのタンパク質や非コードRNAは、特定の酵素を呼び寄せて、DNAやヒストンなどの分子に化学基を加える化学修飾を行い、DNAとヒストンの結合を強めたり弱めたりする。例えば、DNAにメチル基が付加されると(DNAメチル化)、ヒストンの修飾状態が変化し、DNAとヒストンの結合が強化される。結合が強まると、転写調節因子(使い魔)などがDNA(魔術書)にアクセスできなくなり、特定の遺伝子の発現が抑制される。逆に結合が弱まれば、アクセスが容易になって、発現が促進される。
DNAメチル化は、印やキーワード上に粘着シールを貼る行為にも対応している。プロモーターや転写調節領域で、DNAメチル化が行われると、それらへの基本転写因子や転写調節因子の結合が妨げられ、遺伝子の発現が抑制される。
貝類でもこうした仕組みで、水の流れや温度変化、捕食者への曝露により、殻の形や大きさ、成長率などが変化する。特にヒラマキガイ科は、この仕組みで表現型可塑性を示すことが知られている。例えば、水質変化などの環境ストレスによりDNAメチル化の状態が変化し、殻の厚さが変わったり、寄生虫の感染に応答したヒストン修飾により、抵抗性が変化する。まだ確かめられてはいないものの、ヒラマキミズマイマイ属の車輪型と竜骨型も、この仕組みで生じている可能性が高い。
表現型可塑性では、DNA塩基配列が変わらないので、変化した性質は普通、次世代に遺伝しない。ところが例外がある。ヒラマキガイ科にも事例があるが、時に表現型可塑性で生じた性質が、次世代に受け継がれるのだ。つまりDNA配列の変化なしに進化が起こりうる。なぜそんな不思議なことが起きるのか?
シールを貼られたり、ページを糊付けされた魔術書でも、文字だけが複製されれば、初期状態に戻った魔術書から、呪文を見つけられるようになる。しかし、もし文字だけでなく、シールやページが張り付いた状態ごと複製されたなら、そうはいかない。
同様に、もし環境要因で誘発されたヒストン修飾やDNAメチル化の状態が、生殖細胞にも保持され、子に受け継がれると、表現型可塑性で生じた変化が"文字"──DNA配列を変えずに遺伝しうる。例えば、ヒラマキガイ科のビオンファラリア属では、人為的にある遺伝子のメチル化の状態を変えると、殻の形が変化し、それが次世代に遺伝する。
とはいえ、ヒラマキガイ科でこうしたエピジェネティックな遺伝の例はそう多くない。しかも可逆的で、遺伝しても数世代しか続かない。また今のところ、ヒラマキミズマイマイ属の場合、車輪型と竜骨型を含めて、表現型可塑性で生じた形が遺伝するという証拠は得られていない。今後見つかる余地はあるが、それほど一般的ではないようだ。
ではヒルゲンドルフが研究した、化石のヒラマキミズマイマイ属ではどうだろう。
少なくともヒラマキミズマイマイ属の場合、殻の形は遺伝することなく変わる種が多いので、形の変化が観察されたからといって、進化が起きたとは言えないだろう。もちろんヒルゲンドルフが研究した化石種は絶滅しているので、その変化が表現型可塑性によるものかどうか、今となっては分からない。
だが現在オランダの大学で現生ヒラマキミズマイマイ属を対象に、表現型可塑性を研究しているタクミによれば、化石で記録されたような変化の一部が、表現型可塑性で生じることが実験で観察されているという。それを外挿するなら、1866年の系統樹を進化と考えることには、慎重さが必要であろう。
しかし、だからといって、それはヒルゲンドルフの業績と研究の価値を損なうものではない。過去の時点の視点に立って見れば、その独創性と先進性は奇跡ですらある。間違いなく現代の大進化の研究は、その基礎をヒルゲンドルフの発見に置いているのである。
なおシュタインハイムには、今では博物館があり、化石の産地も一部保存されていて、見学できる。タクミはドイツを訪れた際に近くの街まで行ったものの、残念ながら現地までの公共交通機関がないなどの事情で辿り着けなかったという。そんなわけで、いずれ伝説の地を巡礼する機会を楽しみにしているそうである。
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さらに〈もし時間が巻き戻ったら、人類は似ても似つかぬ生物になるのか? それとも代わり映えしないのか?〉では、「進化」をめぐる、生物学者たちの大論争について詳しく見ていきます。
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本記事の抜粋元・千葉聡『 進化という迷宮 隠れた「調律者」を追え 』 は、進化生物学の醍醐味を伝える科学ミステリーの傑作です。ぜひお手に取ってみてください!