『TS薬を開発したいだけの異世界薬理教師』


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思索研究『問。私が世界を好きなのはどうして?』


 ◇◆◆◇

 

 曇天。

 空は厚く黒い雲に包まれ、日差しも影も消えていた。

 けれどそのくせ、風にはどこか春の気配があって、土の匂いが鼻の奥をくすぐる。リーシャは、こういう気候が嫌いでも好きでもなかった。 

 しかし、それは中立でも無感情でもなく。

 

 リーシャは広場の端の石垣に腰掛けて、鞄の中から取り出した飴玉をひとつ口に放り込んだ。

 甘くて、ちょっとすっぱい。近所の日用品店で買った飴玉。

 

 視線は空に向いていたが、意識はずっと地面のほうにあった。ぐるぐると巡る、総合学院──薬理学やユラリアのことが、まだ彼女の頭のなかを占拠している。

 

 小テスト、ほんとに……あれで、よかったんだろうか。

 

 今までは抱えたことのない、そんな感情がリーシャの中が噴出してくる。

 今までは理解していなかった。腑に落ちていなかった。だから、試験というのは面白くもなく、理解も出来ていない──『もしかしたら、先生の妄言かもしれないこと』を書き出していくだけのものだった。

 

 そんな試験のことが、リーシャは好きではなかった。

 リーシャにはわからなかった。どうして、先生の提示した定義を信仰(・・)しなくてはいけないのか。どうして、先生の考える理論を鵜呑みにしなくてはいけないのか。

 

 どうして、自由に考えて世界を分類してみることが許されないのか。そんなことを考えていた。

 考えて、考えて、考えて──リーシャはひとつの結論に辿り着いた。

 

 きっと、バトン(・・・)なのだろうと。

 昔の人の理論で証明されていた。それを新たな時代の人が利用し、更に新たなモノを発明する。更に新しい時代の人が、発明されたモノを利用して──また、新しいモノを作っている。それこそが、学問であると理解した。

 

 だが、同時に理解出来ないことが発生した。

 どうして、新しい人は古い人の理論を疑わないのだろうかと。

『古い人の理論』は絶対ではない。たまたま偶然、古い人の実験では全て成立してしまっただけの可能性は残されている。

 だというのに、それを絶対視してしまっている──その行動が理解出来ない、とリーシャは強く思っていた。

 

 

 ──『現象』は魔法ではない。魔法は『現象』を発生させるものだが、現象そのものではない。

 願えど、代償を払えど、魔法陣を描けどそれは現象ではない。

 それが、リーシャの根幹に流れる思想であった。

 

 

 だからこそ、『薬理学理論』の講義はリーシャにとって衝撃的であった。そう定めた理由がわかる。

 どうして、GLUTが存在すると考えられる(・・・・・)かがわかる。どうして、GPCRという分類をするべき(・・・・)かがわかる。

 

 それは、リーシャにとって本当に大きな衝撃だった。

 理論で繋がる世界がここまで広いとは、思っていなかったから。

 世界中に散らばる点と点が虹色の筆で繋がり、壮大な絵画を描いているような感覚に襲われた。

 

 リーシャにとって、薬理学理論は──『現象は、現象である』ということを。自分の思想の根底を肯定されるような講義であった。

 

 

 空を見上げれば青が閉ざされて灰色となり、人々の声は違うのに同じものに聞き取ることが出来る。地面を踏みしめた感覚は痛みと明確に異なる味を見せ、鼻に飛び込んでくる空気の香りは空気ではない。

 

 リーシャが歩んでいる世界のひとつひとつ。その全てに、理論(・・)が成立する可能性をリーシャは見てしまった。

 

 

 石垣に腰掛けていると、リーシャの見知った人が現れる。

 

 

「こんなところで会うとは……風邪でも引くよ、そこにずっと座ってると。もうすぐ雨が降りそうだし」

 

 声は、唐突だったのにどこか当然でもあった。

 振り返ると、見覚えのある外套──薬理学教授。

 

「えっ、教授!? なんでこんな──西区の外れに?」

 

 西区の外れというのは、お世辞にも治安が良い地域とは言えない地区である。リーシャは、そう認識していた。

 

 ひび割れた石畳の路地。歪んだ木造家屋。錆びた金属と、歩くだけで崩れそうな階段。

 何にも使えないガラクタに、何の役に立つかもわからないボロボロの装飾品。そして、腐敗することで原型をとどめていない食料。

 

 リーシャにとって、それは可能性の塊だった。

 自身の夢を広げ、世界に色彩と奥行きを与えてくれるものだった。

 

 どうして、石のひび割れは規則的なのか。

 どうして、歪んだ木造小屋からは新築のものとは異なる匂いがするのか。

 どうして、ここの金属は錆びると脆くなるのか。

 どうして、崩れそうな階段は──されど、崩れてはいないのか。

 

 リーシャにとって、全ては疑問の塊であり、夢の入り口だった。

 だが、同時にそれらが余人には理解されないものだということも理解していた。

 

「市場に用事があってね。少し実験したいことが出来ちゃって。ここならあるかなって」

 

 冗談のようで、どこまで本気か分からない。

 リーシャは、こういう分野における能力がユラリアよりも明確に劣っていることを理解していた。だから、その言葉が真実か冗談なのかを判断することを、既に諦めていた。

 

「……むしろリーシャこそ。この場所は似合ってるけれど、似合っていない。どういう風の吹きまわし? もしかして、私の出した課題のせいとか」

 

 もしかして、と教授は区切る。

 講義の最中に見せる側面とは、別の側面が顔を出している──リーシャは、教授に抱いた違和感を、そういったものだと認識した。

 

 教授にとって、薬理学理論の講義中で話すことは全て自明(・・)である。リーシャにとって、『炎路調節』が作成可能であれば『風路調節』も開発出来るのと同様に。

 

 それでも、今は違う。

 新たな対話であり、新たな可能性(・・・)であり、新たな世界の広がりが秘められている。だから、考えているのだとリーシャは判断した。

 

「ウッ……はい。あ、でも内容とかじゃなくてですね、あの、こう、もっとこう……出したあとに、ぐるぐるするっていうか。わかる(・・・)がわからないんです!」

 

 言葉がうまくまとまらない。焦りと恥ずかしさが入り混じったような声音になって、リーシャは両手をぶんぶんと振った。それでも、胸中に浮かんだ言葉を全力で吐き出しながら。

 

「提出した後にぐるぐる考えるなら、いい提出だったってことじゃない?」

 

 教授は答える。

 生徒を諭すような、子供をあやすような雰囲気で。

 

「……そうなんですか?」 

 

 だから、リーシャはそれに甘えてみることにした。

 甘えることは恥ではなく、疑問を抱くことも恥ではないはずなのだから。

 

「例えば、模範解答を写経しただけの課題があるとしよう。これを提出した後に、『ぐるぐる考える』ことはあるかな? せいぜい、あったとしても不正がバレないかの不安程度で──課題自体には、大した思い入れは生まれない」

 

 教授の話を聞き、リーシャは納得しかけて……納得を、停止させた。それは、もっと深くまで楽しめる可能性を見出だしたから。

 

「でもでもっ、苦労すればするほど『ぐるぐる』は増えるわけじゃありません。今回の課題だって、いつもと同じで(・・・・・・・)そんなに時間がかかったわけじゃないです! 文字を書く時間を除けば……五分もいりません」

 

 原理から考えれば、難しいことではない。

 薬理学理論で出された課題に対する、リーシャの率直な感想はそんなものであった。

 

 講義ノートや教科書を漁り、ユラリアに助けを求め、図書庫で司書の人に泣き付いて閉館時間を遅らせてまで書き上げた『魔法史学A』のレポートと比較すれば、その苦労はとても少ない。

 

 だというのに、それに『ぐるぐる』は付いてこなかった。

 

「じゃあ、リーシャにだけ特別だけれど。ひとつ、課題を増やしてみよう」

 

 教授は、言う。

 リーシャの疑問に、あえて答えずに。

 

「『この世界に、真偽判定が不可能な命題はあるか』──これを、新たな課題としよう。ああ、別に提出を求めるわけじゃない。自分のなかで考えるだけで良い」

 

「そんなのっ──」

 

 それを聞いて、リーシャは反射的に喉元から声を出そうとして。なんなら、少しばかり音が漏れてから。

 

 気付く。気付く。気付く。

 自分が『わからない』ことに。

 説明出来ないことに。定義できないことに。断言出来ないことに。

 

 教授はそんなリーシャの様子を見て、少しだけ笑みを浮かべる。

 

「別にリーシャの哲学を否定するつもりはない。ただ、これでも総合学院で教授を担っている者として、いずれ突き当たるであろう課題を提示しておこうと思ってね。論理を追究するのなら、『論理』というものの論理を追究しなくてはいけない時が、いつか来るから」

 

 教授はリーシャを見る。

 その視線に、何が込められているかをリーシャは完全には読みきれていなかった。が、それが自分への激励(・・)であるということだけは読み取れた。

 

「教授って……ホント、ズルいですね」

 

「教授というのは、ズルい立場だからね。生徒に提供するのは、正解ではなく問いかけであることが多いから。その問いかけから、生徒が何を深読みしようと──関与するところではない」

 

 曇天の空。空を覆う不気味な分厚い灰色の雲。

 どうしてそれらが落ちてこないのか、と六歳の頃に両親に尋ねて、わからないと言われたことをリーシャは思い出す。そして、教会の司祭に尋ねて、『神』のおかげだと言われ、神の実在を疑ったことも。

 

「教授は──何処まで知っているんですか? 何処まで、世界を説明出来るんですか?」

 

 だからこそ、リーシャは問いかける。

 自らの踏みしめる一歩一歩が、本当に実在するものなのかを。

 それに対する教授の答えは、淡白なものだった。

 

「きっと、リーシャの思っているよりは知らないかな。それこそ、薬理学に限ったって限界はある。例えば……この間の講義で話したアデニル酸シクラーゼ。あれの具体的な形だって、機能からの類推でしかない。証明は為されていない。GPCRだって、何の受容体かわかっていない──孤児(Orphan)受容体が沢山ある」

 

 教授は遠い場所を眺めるように。此処ではない何処かに焦点を合わせているかのように、空を見つめる。

 

「そして、きっとそれが解明されることはない。少なくとも私が生きている間はね」

 

 道具も、技術も、人員も、時間も。

 何もかも足りていない、と教授は考えていた。

 確かに魔法は万能に近い。地球に存在した個々の道具全てを上回る汎用性と利便性を持っていた。それでも、代替品にはならない。決して。

 

 リーシャはその言葉を受け取って、ひとつ、深く息をつく。『ぐるぐる』を巡らせながら。

 

「いいえ、解明されますよ。解明してみせます。この(・・)世界を舐めないでください! きっと、やってみせますよ!」

 

 リーシャは、無意識的に正解を引き当てていた。

 本人としては、いつぞやの夜食会での意趣返しをしただけなのだが──それは、致命的な言葉でもあった。

 

 わからない。知らない。自らの質問に答えてくれない。

 リーシャはそんな世界が大好きだった。例え疎まれて、うっすらと馬鹿にされたような視線を向けられていても。

 

「私、わかりました。『わからない』コトがないなんて、耐えられません。沢山わからないからこそ、わかった時が嬉しいんです。だから──教授がそう言ってくれて、とっても安心しました」

 

『ぐるぐる』は、解消された。

 世界にはまだ、未知が(あふ)れている。

 

 教授はそんなリーシャの表情を見て、少しだけ思案する。

 一瞬だけ流れる沈黙。『無い』が聞こえるって何だろう、とリーシャの興味が湧き上がったと同時に。

 

「ならば、学問の裾野を拡げると良い。そして、本当にその世界に足を踏み入れるのなら『会話』の作法を学ばなくていけない。悲しいことにね。人類文明は大きいが、小さいから」

 

「わかりました! ユラリアに今度教えてもらいます!」

 

 会話の作法が何を指すのか、リーシャにはわからなかった。

 そんなもの、理論さえ正しければ十分だったから。他者に理解してもらわなくても、認められなくてもリーシャには──理解(・・)こそが、最も大きな報酬だったから。

 

「頑張って欲しいね。それなら──今度こそ、また来週に」

 

 そう言って、教授は角を曲がり、街の雑踏のなかに溶けていった。

 その背中を見送りながら、リーシャは立ち上がった。

 さっきより、少しだけ軽くなった足取りで、彼女は歩き出す。

 曇天の空。

 足を進めるには、少しだけ明るすぎるかな──リーシャは、そんなことを考えた。

 

 

 理論や論理という言葉は、いつもリーシャのなかに存在していた。

 幼い頃から、誰かが当然のように話すことが、彼女には当然ではなかった。大人たちが「そういうものだから」と言うたびに、どうして、何故、と問いが立ち上がる。

 問いが立ち上がれば、追い求めるのは解答であり、理論であり、論理であった。それはリーシャにとって、当たり前だった。

 疑問があれば、答えを求める。たったそれだけのこと。

 

 それを嫌がられ、たしなめられ、時にはあからさまに避けられたことも一度や二度ではない。

 

『君は質問が多すぎる』

『そんなこと考えなくても、正解はこうだ』

『それを疑ったところで、何も得られないだろう?』

 

 そう言われて育った記憶が、いくつもある。

 

 両親は決して酷い人たちではない。むしろ、誠実で、仕事熱心で、質素ながら食卓を絶やすことのない──良い両親だと、リーシャは思っている(・・・・・)

 それが事実かどうかは証明されていない。世界と自分とを隔てる膜が家族との間にも、しっかり存在することをリーシャは感じてもいた。

 

 ある日、リーシャは母親に問うた。

 

『どうして、母親は子供を守ることが多いの?』

 

 問われた母親は、少しの動揺を見せてから──愛する娘に変な疑いを与えないように、極めて常識的な返答をした。

 

『それは子供のことが大切だからよ。大事なものは、守りたくなる。リーシャだって、そうでしょ?』

 

 そんな解答を、リーシャは受け入れなかった。

 リーシャにとって理論(・・)とは、証明や反証を絶えずされ続ける──世界から試され続けているものであった。世界という暴風の中に、もっとも無造作に置かれているものでもあった。

 

『どうして、大事だと守りたくなるの? 大事かどうかと、そうすべき(・・・・・)かは同じじゃないよね?』

 

 母親は明確に動揺していた。

 しかし、当時のリーシャはその動揺を見抜けるほど大人ではなかった。それに、動揺を見抜いたとしても、きっと問うのを止めていなかった。

 

『子供を守ると、人が増える。人が増えると──何が嬉しい(・・・)の?』

 

 リーシャは、ただ自分の中で思い浮かんだ疑問をそのたま出力しただけだった。

 今の自分が昔の自分に質問されたならば、『種族繁栄のため』だと答える。そして、『どうして種族繁栄なんてしたがるんだろうね?』と付け加える。

 

 それは、純粋な疑問でしかない。何処まで行っても。

 

 

 昼間、彼女がよく通っていたのは、小さな孤児院だった。実子はリーシャだけで、他の子供たちは、多くが事情を抱えた孤児だった。

 けれど奇妙なことに、リーシャはそこで孤独を感じたことがあまりなかった。世界との間にある膜が、ほんのすこしだけ薄くなったような感覚すらしていた。

 誰もが何かしらの『おかしさ』を抱えていて、それが自分には安心材料になっていたのかもしれない──そんな風に、リーシャは推定していた。

 

 

 孤児院には一つ、広い薬草庭があった。初めて植物を手にしたのもそこだった。指導役のシスターが言う。

 

『これは傷に効く。煎じて塗るのよ』

 

 だが、リーシャはそれだけで満足できなかった。

 

『どうして、これが効くの? どういう仕組みで?』

 

 誰も答えられなかった。

 そのとき、自分で調べるしかない、と直感した。

 

 彼女の「根本から理解しないと覚えられない」という性質は、昔から存在していた。

 暗記は苦手で、意味が分からないものは脳に留まらない。逆に、仕組みを理解した事象は、何年経っても忘れない。彼女にとって知識とは、『腑に落ちること』そのものだった。

 

 学院に進む夢は、その頃に出来た。きっと、そこならば自分を包む()が薄くなるだろうと。けれど、家にそんな余裕はなかった。そんなある日──隣接地区の書店で偶然手に取った小冊子から、奨学金の制度を知った。

 これしかない、と強く思った。

 

 全力で書いた志望文には、他の誰よりも多くの『なぜ』が詰まっていた。合格の報せが届いた日は、台所の奥で母が静かに泣いていた。

 

 それを見たリーシャは、『ぜんぶお母さんのおかげだよ!』と──最近身に付けた社交辞令というものを、使ってみた。

 両親の支援があったからこそ合格することが出来た。それは間違いないが、ぜんぶ(・・・)ではない。

 だとしても、リーシャにとって母親に社交辞令を使うのは──自身の成長を証明するようなものだった。あの時から、成長しているのだという。

 

 夜半に、二人で泣いてから笑いあって。

 それから、リーシャは自室に戻って。『どうして、感情が昂ると人は泣くのだろう』と考えた。

 

 

 それからの学院生活は、想像よりもずっと複雑だった。

 

 教室では浮いた。目立った。議論のときは突拍子もない意見を言って、教師を困らせ、他の生徒に苦笑されたこともあった。知識では劣らなくても、空気を読むという作法が欠落していた。教師のなかには露骨に彼女を持て余す者もいた。

 

 それでも、彼女が学院で得た最大の幸運はユラリアの存在だった。貴族で、上品で、誰とでも優しく接し、品位を損なわない……そんな彼女が、なぜかリーシャを気に入った。

『薬理学理論』との出会いも、自分にまとわりつく膜を薄くしてくれるものだった。

 

『変な発想』が許される。

『問うこと』が許される。

 それは、リーシャにとって大事(・・)なことだった。

 

 経験的には理解出来たからこそ、次は実証だともリーシャは考えていたが。

 

 

 ──思考が、時間を忘れさせていた。

 気がつけば、リーシャは無意識のうちに寮の前まで来ていた。舗装の甘い石畳が、靴裏にぐらつきを伝える。

 

「……うーん、わからないなぁ」

 

 ぽつりと呟く。

 

 リーシャは、深く、息を吐く。

 灰色の空の下。問いを抱えたままの自分と、問いを抱えたままの世界の距離が少しだけ縮まったような感覚がした。

 

 問いかけは、終わらない。

 

 

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