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『薬理学理論』の講義が終わったユラリアとリーシャは、いつものように窓際の小さなテーブルを確保していた。
周囲の喧騒を背景に、二人は話し始める。
「ありがとうございます。パンを取ってくれて」
ユラリアはリーシャに微笑みかけた。
「どういたしまして!」
リーシャは明るく返し、自分のスープを軽くかき混ぜながら言う。
「今日の講義、面白かったね。GPCRの話ってさ、なんだか魔法陣と似てるところがあると思わない?」
ユラリアは少し考えるように目を細め、講義内容を想起し、照らし合わせるようにしてから音声に変換する。
「確かに、構造的な類似点はありますね。特に七回膜貫通部分が、一部の
「そうそう! そうなんだよね! やっぱ似てるよね!」
リーシャは目を輝かせる。
「それで、私が考えてたのは、もしかしたら魔法陣の形成にGPCRみたいな受容体の構造を応用できるんじゃないかなって。そもそもあそこらへんのお話って、
ユラリアはパンを小さくちぎりながら、リーシャの言葉を吟味する。
「そうですね。GPCRがアゴニストを受け取り、構造変化を起こして経路を活性化させるように、
「そう! そして、例えば私の『炎路調節』の魔法陣なんだけど……」
リーシャはテーブルの上にノートをひろげ、簡単な模式図を描き始める。
「ここに
「ええ、伝統的な理論では魔法陣の構造は一度設定したら、発動中の変更は出来ないとされています」
「そこなんだよ!」
リーシャは少し声を上げ、辺りが少し静かになったことに気付き、恥ずかしそうに周囲を見回してから声を小さくする。
「でも、GPCR──も多分そうだったけれど、受容体って全然途中でも色々変わってくれるじゃん? だから、
「つまり、魔法発動中に魔力の流れる経路自体の強度を変更できる、可変式魔法陣ということですね」
「そうそう! でねでね、個人的な拘りポイントは、元々の出力はちょっと強めなの。それで、こっちの……
リーシャが自分の家の調理器具を融解させた時は、その『そこそこの抑制』を外すように抑制調節を負にしていた。逆に言えば、それは負にすることで火力を上昇させることも出来るということを示すことにもなっていた。
「で、だから『風路調節』も『水路調節』も同じ原理で作れたの! 真ん中をちょっと弄っただけ!」
ユラリアはスープのスプーンを置き、真剣な表情でリーシャを見つめた。
その視線には、充分な尊敬が込められていた。同時に少しばかりの嫉妬も。
「それは本当に革新的です。魔法陣学の基本原則を覆すような発想ですよ。魔法陣というのは、普通は出力調整を発動中に出来ません。ですから、『発動する前にどれくらいの出力が要求されるか』を推定する能力が大事にされていたのですが……」
リーシャの作った魔法陣では、その前提は崩れている。
発動途中に、必要になったら強弱を付ければいいのだから。
「私、ただ単に『こうしたら便利かも』って思っただけなんだけど」
リーシャは照れた様子で髪をかき上げる。
あまり褒められ慣れていなさそうなリーシャの様子に、不満を抱きながらユラリアは口を開く。
「それがまさにリーシャの素晴らしいところです。私なら、まず伝統的な魔法陣理論を全て検証し、矛盾点を見つけ出し、仮説を立て、それから実験計画を立てます。短く見積もっても数ヶ月はかかる工程です。でもリーシャは、直感的に新しい可能性を見出して、実用化します」
「あははっ、それって褒められてるのかな?」
リーシャは照れ笑いを浮かべる。
「でも、ユラリアはすごいよ。私の考えがどこから来たのか、理論的に説明できちゃうんだから」
理論的な説明が出来ていないのは、自分の方である──喉元まで競り上がってきたその言葉を、ユラリアは飲み込む。
言語化し、他者に理解しやすい形で伝達可能かという点と、自らの中で論理的に構成する能力は別である、というのがユラリアの考えであった。
そして、リーシャは後者に著しく秀でているとも考えていた。
「それは互いの長所が違うというだけです。私は既存の知識を組み合わせることはできても、リーシャのような飛躍的な発想は生まれません」
それは、ユラリアなりの強がりでもあった。
新しく出来た友達に見限られないようにするための。
ユラリアは、この自分の認知が歪んでいることも認識出来ていたが、それ以外の手法を知らないのもまた、事実であった。
「それなら、もっと一緒に研究しようよ!」
リーシャは興奮した様子で前のめりになった。
「例えば、さっき講義で出てきたGPCRの『β-アレスチン経路』っていうのも、魔法陣に応用できると思うんだ!」
「具体的にはどのように?」
「うーん、例えば」
リーシャは鶏肉の一片を食べながら思案した様子を見せる。
「火炎魔法を使っていて……今度はその出力じゃなくて、属性を切り替えたい。例えば、風空魔法も混ぜられたら嬉しいじゃん? その時は、あの経路みたいに火炎属性の
リーシャは数秒間、宙を見つめるようにして集中する。
それから、思考の海から帰ってきたリーシャはごめんごめんと軽く謝ってから、話を続ける。
「そう。だから『炎路調節』だけじゃなくて、『炎風複合調節』みたいなことが出来るかなって、考えてたんだけど……
リーシャは手で円を描く。
その目には悪戯が成功する直前の子供のような笑みが浮かべられていた。
ちょっと待っててね! と言うと、リーシャはあれこれ言いながらノートに魔法陣を描いていく。
「こっちの回路を繋げて。で、これと組み合わせればここの抑制……の調節は出来る。で、これで分離出来たから、あとはこれと調節部分とを繋げて」
リーシャが書いている図を、ユラリアは見る。
洗練された魔法陣が描かれていく。だが、それが何を意味するのかは最早ユラリアには理解出来る複雑さではなかった。
「これを……スペースが……あ、でもここを二重解釈にして.……共用部分の再利用で……出来たぁ!」
「どんなものが出来たのですか?」
ユラリアは、一度深呼吸してからリーシャに尋ねる。
完成したものはどうみても、真っ当な常識で測れるものではないと分かっているからである。
「仮の命名だけど、第二級複合魔法『汎路調節盤』かな。火炎、風空、水流、錬土、氷結、雷電、治癒の七つの調節と切り替えを一つの魔法にまとめたもので……」
ユラリアは頭を抱えた。
異なる属性の魔法を使う際には、魔法陣の再展開が必要になるというのは、少なくともここ百年以上の共通認識である。
「多分それ、
むしろ、そうして置いた方が安全だとユラリアは判断した。
これが一般に広まることの恐ろしさを、即座に想定できないほどユラリアは混乱していなかった。
「そうかな。なら、特異魔法『
なる可能性がある、どころか確定でなると言っても過言ではないとユラリアは思っていた。
特異魔法には様々な種類の魔法が存在するが、目の前で展開されているものはその中でも異様なものであった。
「……それにしても、複雑な魔法陣ですね」
「『魔法不全化』の話があったじゃん? だから、折角だし魔法陣回路を他者から読みにくいようにしようと思って」
だから自分が読めなかったのか、という納得と共に、どうしてそんなに滑らかに技術応用が出来てしまうのかという、困惑がユラリアの脳内には渦巻いていた。
「……誰でも読めると、怖いですからね」
ユラリアの歯切れが悪い様子を受け、リーシャは表情を少しだけ変える。
「あ、ごめん。王国の安全とか考えると、ちょっと微妙な話題かも」
「いいえ、そんなことはないです」
ユラリアは首を横に振った。
「リーシャのような人なら変なことには使わないと信じられますから。むしろ、このような技術が平和的に利用されることを考えるべきです。例えば、農業用の水路を季節に応じて調節するとか」
「なるほど!」
リーシャは明るく言った。
余計なことを言ったかもしれない、とユラリアは少し後悔した。
「それと人体治癒にも使えるかも。なんか──」
「理論的には可能かもしれませんね。ただ、魔法と医学の融合は未開拓の分野ですから、慎重な研究が必要ですよ。今日の講義で習ったように、人の生体反応は複雑ですから。安易な魔法使用で、重大な問題が発生してしまうかもしれません」
「むぅ……そっか……でも自立思考出来て、状況から使う魔法を自動で選択してくれる魔法陣とか頑張ったら出来そうだよね! 名付けてっ、『
早いところこの人を、王宮魔法開発師か何かの職業にくくりつけた方が良いのかもしれない、とユラリアは考えた。
野放しにしていたら、知らないうちに魔法の歴史を大幅に塗り替えかねない、とも同時に思っていた。
「とりあえず……『
責任を棚上げしてから、ユラリアはリーシャに鶏肉を一欠片渡した。
「そうしよっかな……え、くれるの? やったー! ユラリアにはこの魔法陣、どうぞ! 私はもう自力で組み立てられるから!」
無邪気に喜ぶリーシャとは対称的に、ユラリアは思考を放棄していた。
とりあえず、自分も何かひとつくらい魔法開発をしてみようと、ユラリアは強く決意した。