2025-05-28

月速5センチメートル

 彼の名前は悠太、38歳、会社員。ある朝、鋭い痛みが下腹部を刺した。まるで誰かが内側からナイフで突き刺すような感覚だった。病院医者淡々と告げた。

尿路結石です。5ミリの石が尿管にあります自然排出を待ちましょう」

悠太は目を丸くした。

自然排出? どれくらいで?」

医者は無表情に答えた。

「人によりますが、1カ月で5センチメートルほど進むこともありますよ」

「月速5センチメートル

悠太はその言葉を頭の中で反芻した。まるで詩のようだ。だが、その詩は彼の体内で静かにしかし確実に進行する苦痛メタファーだった。

 

 悠太の生活は一変した。痛みは不規則に訪れ、夜中に彼を叩き起こすこともあれば、会議中に冷や汗を流させることもあった。石はまるで意志を持った旅人のように、悠太の体内をゆっくりと移動していた。5センチメートル。たったそれだけの距離が、悠太には果てしない旅路に思えた。

ある夜、痛みが引いた隙に、悠太はベランダで月を見上げた。満月だった。冷たく白い光が、彼の疲れた顔を照らす。

「お前も5センチずつ動いてるのか?」

悠太は月に向かって呟いた。月は答えず、ただ静かにそこにあった。悠太はふと、自分人生もまた、こんな風にゆっくりと、だが確実に進んでいるのではないかと思った。

 

 彼は石のことを「旅人」と呼ぶようになった。旅人は悠太の体内を、時に静かに、時に激しく揺さぶりながら進んだ。悠太はその動きに合わせて生き方を変えた。カフェインを控え、水をがぶ飲みし、医者の言う「運動」を始めた。ジョギングの途中、ふと立ち止まり自分の体に耳を澄ます旅人はそこにいる。まだ、動いている。

ある日、会社の同僚が言った。

「悠太、最近なんか変わったな。顔つきがさ」

悠太は笑って答えた。

「まあ、旅の途中だからな」

同僚は怪訝な顔をしたが、悠太はそれ以上説明しなかった。

 

 1カ月半が過ぎたある朝、トイレで小さな「カチッ」という音がした。悠太は息を止め、便器を覗き込んだ。小さな灰色の欠片。旅人はついにゴールにたどり着いたのだ。痛みは消え、悠太の体は軽くなった。だが、どこか寂しさも感じた。あの小さな石は、彼に多くのことを教えてくれた。焦らず、ただ進むこと。痛みと共に生きること。そして、終わりは必ず来ること。

 

 その夜、悠太は再びベランダで月を見上げた。

「月速5センチメートルか。悪くないペースだな」

彼は呟き、静かに微笑んだ。月は変わらずそこにあり、悠太の新しい旅路を照らし続けていた。

 

(了)

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