軟禁されたいのが人間
多くの人間がカフェに群がって勉強しているのを見ると、たとえば発達障害だから怠けるという話ではなく、人間誰しも怠け癖があり、モチベーションが足りてなくて悩んでいるのである。カフェに軟禁されることで、ようやく勉強が出来る。モチベーションがなくてもそこそこできるのが健全さの証であるが、やはり、立派な健常者でも、たゆまずに動き続けるマシーンではない。誘惑が遮断されるに越したことはなく、だから衆人環視のカフェに軟禁されて勉強したいのである。時間が余っている人間というと、障害者だけではなく、専業主婦というひとたちがいるが、たいていはろくなことをしない。専業主婦が偉大なことを成し遂げたということはない。なにかしら軟禁され、強制されないと、健常者でも不善をなす。自宅軟禁というのがあるが、あれはまさに専業主婦的なものであり、自宅という自由空間の恐ろしさである。この手の自由の混沌を削ぎ落としたいからスタバに行くのであり、われわれがいかに自由を苦手としているか、なのである。独学がよくないというのも、独学だと成果が上がらないのではなく、「自宅」がよくないのである。カフェみたいなところで独学すれば、それなりに結果が出るかもしれないし、カフェも安くはないが、授業料よりは安い。授業料がリーズナブルであれば、軟禁される場所として、教室に通うのもよいかもしれないが、授業料は高額すぎるのが現実であり、気軽に払えるひとだけではないので、独学の可能性も広げたいところである。われわれの社会は完成に近づいているが、その結果息苦しいのは、授業料の高騰も一因である。自宅で怠けるのを回避するために高額な授業料を払うとすれば、無駄な生活苦である。