「心の糧」は、以前ラジオで放送した内容を、朗読を聞きながら文章でお読み頂けるコーナーです。
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坪井木の実さんの朗読で今日のお話が(約5分間)お聞きになれます。
大学時代の必修科目に、「写真基礎」という講義があった。専任教授をつとめた先生は、業界の第一線で活躍している著名な写真家だった。
先生は全くの素人の私たちに手取り足取り教え、作品作りの楽しさを体験させてくれた。一眼レフカメラの扱い方から、フィルムの現像、プリント、写真を使ってのプレゼンテーションの仕方まで...あの頃を思い出すと、暗室に灯された赤い電球の光や、ツンと鼻を衝く酸っぱい定着液の匂いが蘇る。
ある日、屋外での撮影実習のために、私たちは先生と共に近くの山に登った。夕暮れの時だった。美しい夕焼けを眺めながら、先生が突然クイズを投げかけた。
「写真だけで、写っている風景が朝焼けなのか、夕焼けなのか、どうやって判断できると思う?」
私たちは我先にと持論を述べた。これまで学んできた理論を並べて、いかにも知っているようなそぶりをしながら、自分の方が正しいと主張し合った。そんな雄弁な生徒たちの言葉に、先生はただにこやかに耳を傾けるだけだった。
議論が一段落すると、先生が悠然と口を開いた。
「正解は、できない、のだ」
その予想外の結論に、誰もが落胆してしまった。すると、先生がやさしい口調で語り続けた。
「日が昇るのも沈むのも同じ現象だから、一瞬を切り取る写真だけでは判断できない。諸君にはできることを教えるが、できないことをも学んでほしいのだ」
私は深い感動を覚えた。
「できる」と強がる私たちに比べて、「できない」と素直に認める先生の謙虚さに、真の強さがあると思った。
あの日のことは生涯忘れないだろう。写真の技法だけではなく、人生そのものを先生から教わった気がした。