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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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鷗外『智恵袋』『心頭語』(元祖イルミナティの重鎮クニッゲ『交際法』が元)。『慧語』『妄想』 new!!

森鴎外の『智恵袋』は大当たり本。読むきっかけとなった紹介者[存在を教えてくれたワクワクさん]に感謝。
本記事に興味があるなら、

『人間交際術』は元・元祖イルミナティの重鎮クニッゲが書いた今も役立つ本(鷗外と関係あり)。元祖イルミナティ資料集。元祖イルミナティ会員フーフェラント『マクロビオティック(長命術)』

Posted on 2025.05.02 Fri 07:24:56
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-595.html

もお勧めです。鷗外の考察もあります(「「ファウスト」や「アンデルセン」などのヨーロッパ文学を訳し、西洋文学を日本に広めた」あたりに書いています)。

それでは、
講談社学術文庫版『智恵袋(ちゑぶくろ)』『心頭語(しんとうご)』『慧語(けいご)』の備忘録(メモ)に入る。



森鴎外の『智恵袋』
森鷗外 著 / 小堀桂一郎 訳・解説

講談社学術文庫
1980年12月10日 第1刷発行


先に解説を記す。

p.423から
解説
  小堀桂一郎

 『智恵袋』『心頭語』
 明治三十年代の、或いは具体的な区切りで言えば日清、日露両戦争間の森鷗外はその前後の時期と比べて生彩を欠いて見える。文人の生涯の区切りに戦争を以てめやすとすることがおかしくないのはひとり森鷗外にかぎられた特殊な事例だろう。何しろ壮年時の彼はその公職から言えば陸軍の現役の軍医であり、従って戦争が起れば出征し、そして故国を留守にしたことによってその文壇的活動には或る程度空白が生ぜざるを得ない、という条件を背負っている。明治二十三年以来五年間五十九号にわたって自分の文章の主要な発表機関として刊行しつづけていた「しがらみ草紙」も明治二十七年八月、日清戦争への出征にあたって廃刊にした。二十年代のはなばなしい批評と論戦の時代が、これを以て一まず終ることになる。二十八年十月台湾から帰還し、それから日清戦争に再度出征するまでの約九年間を鷗外の末弟森潤三郎氏は「めさまし草」の時代、沈黙の時代(三十二年六月から三十五年三月までの小倉在任中にあたる)、「藝文」および「萬年艸」の時代、と三期に分けてその伝記を立てて居られる。

p.426
『大戦学理』(クラウゼヴィッツ『戦争論』)
【が鷗外の訳業の1つなので鷗外は陸軍にもかなり貢献しているんだよな】

p.427から
小池正直といえば年齢の点では鷗外よりずっと年長で、鷗外を石黒忠悳(ただのり)に推薦して陸軍入りを実現せしめた古い恩人とも言うべき人だが、官位から言えば東京大学医学部同期の卒業生として大体雁行(がんこう)的に昇進した(原文ママ)来た同僚である。その小池が明治三十一年の春、鷗外に内輪の相談をかけてきたことがある。石坂惟寛(いかん)医務局長が遠からず休職になる、その折にはお互二人と菊池常三郎とが同時に軍医監(後の軍医少将にあたる)に昇任し、三人が鼎足(ていそく)の如くに協力して陸軍医務に貢献しよう、という趣旨であった。どころが八月四日に人事異動が発表になってみると石坂局長が休職、小池一人が軍医監に昇任、次の医務局長に任ぜられる、というものであった。これだけでも鷗外としては出し抜かれたような感じを味わったであろう。加えて十月一日の異動で菊池は約束通り軍医監になっているが、もう一人軍医監に昇任したのは小野敦善という、下相談には上っていなかった人であり、鷗外は除外せられていた。彼の軍医監昇任はさらに九箇月おくれて翌三十二年六月八日であり、しかもこのときの異動で彼は小倉の第十二師団軍医部長に左遷されることになる。このあたりの事情の裏面は、今では全集所収の小倉時代の鷗外の書簡により、視角はやや彼の側に偏するかもしれないが大凡(おおよそ)をうかがうことができる。そしてそれによれば、鷗外の余りに多岐にわたる活動とその名声とを妬んで小池正直の劃策(かくさく)した陰謀が、鷗外を西方の辺陬(へんすう)小倉の地へ追いやったのだ、という判断が一般にうけ入れられている。
 かんぐれば、小池が約束を破って一人さきに昇任した八月四日の異動と、それに伴なうさまざまの思惑・憶測が刺戟となって三十一年八月九日の『智恵袋』起稿につながるという見方も成立つかもしれない。が、これはあくまでかんぐりである。明治三十一年にはたまたま『還東日乗』以後はじめて鷗外の日記がのこっていて(これが『小倉日記』につながる)、これを全集でうかがうことができるが、八月六日には〈小池を訪ねて陞進(しょうしん)を祝す〉という一行のみが見られ、九日の記事は〈時事新報社のために智恵袋の稿を起す。寺山の来り請へるがためなり。土屋来る〉の一行に尽きている。いかに目をこらしてみても、この二行を結び合せてその間に彼の感情の起伏をよみとることは難しい。せいぜい八月五日の記事に〈夕に賀古来る。共に松源に飲む〉というのは賀古のある意味での慰問だったのではないかと憶測する程度である。
 このような時期に起稿されてしばらく新聞「時事新報」に連載された『智恵袋』とはいったいどんな性質の文章であるのか、果して上記のような著者の伝記的背景との間に因果関係を推測させるようなものなのか、我々はまずその「序言」をうかがってみよう。この「序言」には、著者が「自分はなぜこのような文章を草し、発表するのか」という、その執筆の動機が端的に説明されているからである。そしてこれによれば、我々はここでこの箴言集の成立自体に就て、これは鷗外が自分の苦い体験に鑑みて、かねて脳裡に勘案し蓄積していた諸〻の処世知を一種の浄化作用として次々に吐き出したものだ、という見解をとってもよいように思われる。
 ところが「緒言」で述べたようにこの書はこれの続篇に当る『心頭語』と共に実は鷗外の創作ではなくて翻訳、ただし原書の本文に語学的忠実を守ってのそれではなくて、訳者の自由な筆削や補訂の多分に加わった、翻案的抄訳とでも呼ぶべき作業の産物なのである。これが一種の翻訳であるという事情は随分長い間人に知られずにいたようである。用心深く言えば、知られずにいたはずはないのだが、そのことが特に読書界の注意をひき、一般に意識されることがなくてすぎていたのだ、と言うべきであろうか。筆者も『智恵袋』という作品は昭和二十六年刊の岩波書店版の全集(第二次)第二十三巻随筆篇で読んで知っただけであり、
(ここからp.430)
これが最初に掲載されたという新聞「時事新報」の紙面を見たことはないのだが、その全集第二十三巻の後記によれば本篇の連載第一回たる「序言」には〈観潮楼主人〉の署名があり、第二回以後は〈鷗外訳補〉となっていた由である。つまり「訳」文であり、それに補筆した結果の産物だということは鷗外自身が初めから断っていたのである。ただその原書が如何なる書物であるか森潤三郎氏はじめ全集の編者たちは御存知なかった(同氏は『鷗外森林太郎』の中でこれに就て〈その拠る所の原書は不明である〉と記されている)し、後世の研究家の中にもこの原書を指摘する人はいなかったので、全集版の「後記」まで注意して読む人でない限り、大方はこの箴言を鷗外自身の創作と受けとってすませることが多かったようである。それに鷗外が明治三十一年の八月に至って俄(にわ)かに「世渡りの難しさ」というような問題に逢着し、そこに思いを凝らし、思索の結果を文字にしても少しも不思議ではないような、前記の如き事情は明らかに存在したからである。
 而して実を言えば、筆者は『智恵袋』と『心頭語』とが翻案の作だということに夙(つと)に気がついていた。何故ならば、上記の伝記的背景までは考慮せずに、ただ本文のみに当ってみたときの第一印象を以て判断するに、これは鷗外の作品としては、敢て言えばやや調子の落ちた作物である。従来もこの点を指摘した指揮者は少なくなかった。〈此篇題して智恵袋という、固(もと)より自賛の謂にあらず、わが智のあらん限をば此中に盛りたるを、吝(をし)まず授くといへるばかりぞ〉という「序言」の結びの言葉にしても、余り品格ある文章とは言えまい。内容の全体は一口に言って人とつきあって失敗せぬ法、ということである。作品を貫く俗情に比べて、量的にはしかしこれはかなり時間と精力を費したはずである。要するに鷗外ほどの精神の高さと厳しさとを備えた人が、どうしてこのようなつまらぬ箴言を長い月日にわたって営々と書きつづけたかという疑問がわく。この程度の内容を盛り込むのに何も頭はつかっていない、と著者は言ったかもしれないが、少なくとも書き綴る労力は費している。いや、書く労力だけではない、どうみても相当の苦心の作にはちがいない。彼はどうしてこんなことにこれほどの精力を注ぎ得たのか? しかもこれが翻案ものだとすれば、彼がこの箴言集を書き綴るのに費した労力は、創作の場合と比べてはるかに軽かったはずであり、そこで筆者の上記の疑惑もよほど和げられることになる。このように書くと、筆者は、鷗外がこのような「創作」に精力を傾注したはずがない、といった甚だ消極的、薄弱な根拠に依って、言わば勘にたよってこれが翻案だろうという憶測をしたように受け取られるかもしれない。しかし必ずしもそればかりではなく、この翻案の原典もまた夙に見当はついていたのであり、双方相俟(ま)って、『智恵袋』は自由な翻訳だろうという推定に固まっていたものである。筆者がこの「原典」を推測したに(原文ママ)ついては、私事にわたるが、次のような経験が動機になっている。
 筆者が留学生としてドイツに滞在中のことだったが、大学の研究室で日常顔を合わせる一友人が、君は斯様なる書物のあることを知るや、とて少し悪戯っぽい笑を浮かべながら、クニッゲのÜber den Umgang mit Menschen という本を私に示したことがある。それは私には初めて見る書物であった。その友人の説明によれば、これはどこの家庭にも必ずといってよいくらい一冊は備えてある、だが読む人は滅多にない、といった点で一寸(ちょっと)バイブルに似た運命を有する本であるが、時には物好きな青年が、実世間に立ち交って誤りなく身を処する法をそこから学ぼうとして真剣にこれを繙(ひもと)くこともあろう、古い本だが今読んでみてもたしかに参考にならぬこともない、と皮肉な笑いを交えての教示であった。私もまたそのとき少時(しょうじ)借覧したその書物を全篇読もうという気は起さなかったが、目次によっておよそどんな内容の本であるかという見当はついた。何分これにはひどく詳細丁寧な内容目次が十ページ余りにわたってつけられており、その目次を全部読み通せばそれが優にこの書物全篇の梗概を成していようというほどである。これより少し後のことであったと思うが、私は鷗外の『うたかたの記』の中に女主人公マリィが女家庭教師に借りて読んだ教養書としてクニッゲの『交際法』があげてあることに気がついた。そしてこれがあのドイツ人の学生が何故か皮肉な笑いを浮かべつつ私に見せてくれた本であるということもすぐに思い出したが、それでもなお特にこの書を手にとってみようという興味はまだなかった。そんな経験があってから十年近くも時を経たのち、私はふと思い立ってこの書物と『智恵袋』『心頭語』との関係が気になり、そこで、現在でもいかにもゆきとどいた感じの編纂と造本で刊行されているこの書を買求めて繙いた。現行の刊本は二、三種あるらしいが私は信頼のおけそうなディーテリヒ叢書の一冊になっている版を選んだ。読んでみればなかなかおもしろい。そして鷗外の『智恵袋』『心頭語』とこれを読み比べてみると予想は的中した。鷗外の二つの処世哲学的箴言集は要するにクニッゲ作『交際法』の抄訳に他ならなかった。そしてこの発見に促がされて調べてみれば鷗外の旧蔵書、つまり東京大学図書館の鷗外文庫中には古いレクラム文庫本のクニッゲが遺されており、その手沢本(しゅたくぼん)中には感想の書き入れや、翻訳に関係があるらしい符号等の書き入れもそのままに遺っているのであった。
[
鷗外がクニッゲの『交際法』をきちんと読んでいた物証がある。
小堀が比較して読まなかったら、クニッゲが元だと今も判明しなかったかもしれないな。

小堀のウィキ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%A0%80%E6%A1%82%E4%B8%80%E9%83%8E


『森鷗外の世界』講談社 1971 - 訳・解説
• 改訂『森鷗外の「智恵袋」』講談社学術文庫 1980

とあるので、『森鷗外の世界』についての言及があるかと思ったら、なかった。
小堀は、1961(昭和36)年から1963(昭和38)年にドイツに留学した。
「改訂」とあるのだが、『森鷗外の世界』の方も『智恵袋』の原文や口語訳や解説があるのかが気になる。
「そんな経験があってから十年近くも時を経たのち」ってことは、1971~1973年かその前後だろう。そんなにすぐに書き終わるとは思えないので、『森鷗外の世界』にクニッゲと『智恵袋』の関係が書いているのかどうかは、直接読まないと分からないな。


小堀桂一郎 | 人名事典 | お楽しみ
https://www.php.co.jp/fun/people/person.php?name=%E5%B0%8F%E5%A0%80%E6%A1%82%E4%B8%80%E9%83%8E
”小堀桂一郎
(こぼり・けいいちろう)
昭和8年、東京生まれ。昭和33年、東京大学文学部独文学科卒業。昭和36から38年、旧西ドイツのフランクフルト大学に留学。昭和43年、東京大学大学院博士課程修了、文学博士、東京大学助教授。昭和60年、東京大学教授。平成6年、定年退官。平成16年まで、明星大学教授。東京大学名誉教授。専攻は、比較文化、比較文学、日本思想史。

著書に、『若き日の森?外』(東京大学出版会、昭和44年読売文学賞受賞)、『森?外――文業解題」(岩波書店)、『鎖国の思想――ケンペルの世界史的使命』(中公新書)、『宰相 鈴木貫太郎』(文藝春秋、昭和58年大宅壮一ノンフィクション賞受賞)、『昭和天皇論』『昭和天皇論・續』(以上、日本教文社)、『萬世一系を守る道』『歴史修正主義からの挑戰』(以上、海竜社)、『再検証 東京裁判』『東京裁判の呪ひ』(以上、PHP研究所)、『靖国神社と日本人』『昭和天皇』(以上、PHP新書)、『さらば東京裁判史観』(PHP文庫)、『森?外』『小堀鞆音』(以上、ミネルヴァ日本評伝選)など多数。
(データ作成:2015年)

 ※「森?外」は引用元がそうなっている。「鷗」が表示できなかったんだろうな。着色は引用者
]

p.433から
 ここでクニッゲという文士とその著『交際法』について一通りの紹介をしておく必要はあるだろう。前記のように、この書はドイツに於てどの家庭にも一冊は備えられている(これは私自身大いに疑問とするところで、おそらく一時そのように称された、もしくは宣伝されたこともあったろうと思う程度であるが、一方最近では『子供クニッゲ』〔Kinderknigge〕という子供向けの行儀作法事典が刊行されているという事実もある。即ちこの場合「クニッゲ」はすでに「交際術教科書」という普通名詞的意味を獲得してしまっている)というほどの大衆性を有しているにもかかわらず、大かたの文学史の書物に於て記載洩れという扱いを受けているらしく、我国における知名度は至って低いようである。この機会に日本語で書かれたドイツ文学史数種を検(けん)してみたがクニッゲについての言及は見あたらない。ある独和辞典でKnigge をひいてみたら、そこには何と〈行儀作法の書物(著作家Adolf v. Kniggeにちなむ)〉といった本末転倒の説明が記してあった。

普通名詞にまでなったケツ社員ってクニッゲ以外には思いつかないな。
「我国」って表現を私は避けている。我と国を合体させた言い方なので国家崇拝を感じるからだ。



p.436から
(クニッゲ『交際法』について)
この書物の誕生は実はドイツ啓蒙主義時代のことだったので、つまり相当な時代物である。そこで改めて、前記のレクラム文庫やディーテリヒ叢書版に付けられた解題に基づき、作者クニッゲについて紋切型の紹介を行なうとすれば――、Adolph Freiherr von Kniggeは1752年(宝暦二年)10月ハノーファー近郊の小村に生まれたというから同時代の巨人ゲーテよりは三歳の年少ということになる。ゲッティンゲン大学に法学を学び、卒業後二十歳にしてヘッセン方伯に仕え、五年ほどカッセルで宮仕えの生活を送る。1777年25歳の折、ワイマル公に仕官することになり、カッセルを去ってワイマルに赴く。これはゲーテのワイマル着任より二年ほど後のことだが、クニッゲは彼の妻とゲーテの母堂との知己関係を利用して高名な『ヴェルテル』の詩人に近づこうとした痕跡はあるものの、結局面識を得るには至らなかったらしい。
[
小堀はクニッゲの解説で、メイソンと元祖イルミナティについて完全に無視していることに注意。ゲーテも元祖イルミナティ会員なのだから、ケツ社の集会において面識があるのでは? もし無くても文書のやり取りはしたことがあるのでは?
クニッゲの説明で秘密ケツ社の箇所を抜くのって駄目でしょ。『交際法』には、クニッゲ自身がケツ社員だったから書けた箇所があるのにね。鷗外は『交際法』における秘密ケツ社の箇所は採用していない。そもそも元ネタを明かしていない。おそらく、元祖イルミナティの重鎮の著作だと書くと不当な攻撃をされる可能性があるからだろうな。少なくとも理由の1つだろう。
小堀によるAdolph Freiherr von Kniggeの解説は、レクラム文庫やディーテリヒ叢書版に付けられた解題に基づいているそうだが、これらにはケツ社については何も書かれていなかったのかもしれない。

]
ワイマル出仕も長つづきせず、以後フランクフルト、ハイデルベルグ、ハノーファー、ブレーメンと移住して歩く。1791年ブレーメン市の官吏に就職して漸く彼の放浪生活は終ったかに見えたが、五年の後、1796年5月にわずか43歳という若さでチフスとおぼしき熱病で死んでしまった。晩年のブレーメンでの官位がどのくらいのものであったか、簡単な伝記によっただけでは古い官職のことに暗い筆者には見当がつきかねるが、町名主とか、区長とかに当る、比較的よい地位であったらしい。文筆に対する野心は早くからあった。今日では読む人もないらしいが、1781年以後、『我が生涯のロマン』四巻、『ペーター・クラウゼン物語』三巻等、今さらここに名を挙げても仕方がないかなりの数の作品を発表しているが、後世に残ったのは1788年、つまりフランス大革命勃発の前年、三十六歳の折の発表になる『交際法』(Über den Umgang mit Menschen)一巻だけである。
 元来かなり資産のある貴族の家に生まれたのだったが、父親が埒もない事業に手を出しては失敗を続けたので、彼が成人したころには家計はすっかり左前になり、かなりの負債をも背負ったまま、大学を卒(お)えるや否や早速就職して自活の道を講ぜねばならなかった。そこで伝手を求めてヘッセン方伯の宮廷に仕えることになったのだが、そこで彼が本性から宮廷人のタイプであることが明らかになった。つまり、彼は能吏としてこの小藩主の宮廷で成功を収め、藩主のおぼえもことにめでたかった。ところがお定まりの運命の転回が彼を待ち受けていた。彼の華々しい成功・出世に対して嫉(ねた)みをいだく同僚の陰謀がおこり、加えて血気さかんな二十四、五歳のクニッゲには、人に頭を下げて巧みに難局を泳ぎぬけるという呼吸はまだのみこめない。田舎芝居のみじめな幕切れは意外に早く訪れた。クニッゲというこの有能で賢い青年が、世間の難しさを知り、陰謀とたくらみを弄して他人の行路を妨げる人間への恨みを心に刻んだのはこのときだったらしい。だが大事なことは、これが決して彼を人間嫌いにする機縁とはならなかったことだ。彼は終生人づきあいのよい男であり、人を愛し、また愛される人間であったという。彼の死後、その手文庫の中から、何らかの彼の好意の発露に対する礼手紙が数百通も発見されたという事実がそれを裏書きしていようし、不成功に終った彼の小説『我が生涯のロマン』の中で、その主人公に与える描写、つまりクニッゲの自画像とおぼしきものに於て、〈彼はとても感動しやすい心を持ち、他人の運命に対しても、いつもそれが自分自身のものであるかのような暖い関心を寄せるのであった。……人の危急を目にしながら、その人に手を貸して助けてやることができないような時、同情の思いで彼の内心は千々に乱れるのであった〉と書かれたところがあるが、おそらくこれはいつわりのない彼の自覚であったのだろう。
 だから、このような心性の人であるクニッゲが、宮廷生活で一たん大きな成功をかちえながら、能力ではなくて人間関係での失敗によって挫折するという苦渋をなめたとき、その経験を生かし、他人に前車の轍を踏ませまいと思い立って処世哲学の書『交際法』を世におくった、というのは一応符節の合った経緯ではある。しかしその小説や戯曲については大概の文学史家から黙殺を以て遇せられている彼が、この処世訓集一巻でどうしてあの大きな成功を、それも以後二百年にわたって版を重ねるという言わば古典的な成功を収め得たのか、その辺の秘密はこれだけでは解けない。かえっていっそう、この書物の、文学史上一種突然変異的な奇書たるの印象を強めるだけであろう。だがこの書物の成功は実はそれほど突飛でも偶然でもない、精神史的に見ても必然とは言わぬまでも、もう少しつじつまのあった出来事と見るべきものである。
 その点について、前記ディーテリヒ版の解題としてマックス・リュヒナーが洞察に富んだ説明を与えている所に基づき、この書物の生まれ出た時代的背景に若干眼を向けてみよう。まず次のような文学史年表的な指摘を試みただけでも、この事情にはより明るい解明の光がさしてくるかもしれない。前記のようにクニッゲの主著『交際法』の刊行は1788年だが、その少し前、1780年には、死を翌年に控えていたレッシングがその最後の著述『人類の教育』(Die Erziehung des Menschengeschlechts)があらわれている。またリュヒナーのようにゲーテの戯曲『タッソオ』(Tasso)を人間の社会的成熟を描いた一種の教育劇として、シラーの『美的教育書簡』と同系列の文藝とみなす見解を以てすれば『タッソオ』が発表されたのはフランス革命勃発の当の年のことで、つまりドイツ古典主義を代表する三大詩人がほぼ同じ時期にそれぞれ似たような人間教育的意図を持った述作をしているわけである。これらの古典主義詩人たちの述作の根にはいずれも古典古代におけるパイデイアの思想があり、またこれは彼らが文学史上一般に古典主義者と分類される所以でもあろうが、彼らがひとしく人間の教育可能性を信じ、いつかは達成さるべきその人格的完成の理想を奉ずる、ルソー以来の啓蒙主義思潮の空気を呼吸して育った人たちであることも考慮さるべきだろう。
[
『交際法』が生き残った理由の1つはケツ社の後押しだろうな。
パイデイア(παιδεια):育成、教養、子供の教育、教育一般、文化。


猫の泉
@nekonoizumi
目次あり。ヴェルナー・ヴィルヘルム・イェーガーの『Paideia』の翻訳。
⇒W.イェーガー/曽田長人訳
『パイデイア 上 ギリシアにおける人間形成』知泉書館 http://chisen.co.jp/book/b351615.html
午前1:27 · 2018年6月25日

「ギリシア人の教養と理想的な人間像が相互に作用しつつ形成される経緯を描いた,イェーガーの古典的名著『パイデイア Ⅰ-Ⅲ』(1934-47)のⅠ,Ⅱ部を訳出した待望の書。…」

「…本冊ではホメロスからデモステネスに至るほぼ数百年間を扱う。英雄的で政治的な古典的時代のギリシアにおける教養の基礎およびその展開と危機について,著者は文学,哲学,歴史,宗教,医学,政治,法学,経済など多領域からの探求に挑む。…」

「…19世紀中期以降,科学技術の進歩,ナショナリズムや労働運動の高まりにより,陶冶の手段としての古典語の価値が揺らいだ。人文主義を擁護するためギリシア古典古代の教育上の意義を,「政治的な人間の形成」という統一的なプログラムとして「第三の人文主義」の立場から解明する。…」

「…教育とは個人の事柄ではなく共同体の事柄である。個々の成員によって刻印付けられた共同体は,政治的な人間にとってあらゆる行為と態度の源泉である。共同体の成員に対する影響は,新たに生まれる個人を共同体の意向に沿う教育によって意識的に形成する努力の中にあった。…」

「…パイデイアとは子供の教育,後に教育一般,教養,文化などを意味した。ギリシアにおける教養の本質を知ることは,現在の教育上の知識と意欲にとって不可欠の基礎となろう。」
午後10:28 · 2018年6月28日
]
少しさかのぼって考えれば、すでにエラスムスがブルグントの公子ハインリヒのために書いた、君主たるべきものの心得の書があり、それはこうした特殊な制約を超えて、一般的に少年の社会教育のための規範という性格を有していた。文化史家ブゥルクハルトの高く評価しているウルビノのカスティリョーネが著書『宮廷人』(Il cortegiano、1518)も、その表題の示すような狭い特殊社会の範囲を超え出て、円満かつ高雅な市民的生活の形成という目標をめざしていたと言えるだろう。

廷臣論(ていしんろん)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%BB%B7%E8%87%A3%E8%AB%96-100126
”廷臣論
ていしんろん
Il cortegiano
イタリアの作家バルダッサーレ・カスティリオーネの著書。4巻。1513~18年執筆,1528年刊。16世紀の宮廷に仕える廷臣と貴女の模範像とその心得,君主と臣下の関係を問答形式で記したもので,しばしば主君の模範像を規定したマキアベリの『君主論』と比較される。16世紀の最も著名な書物の一つであり,イタリア国内はもとよりスペイン,フランス,イギリスの文学および宮廷生活に多大な影響を与えた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について
” ※着色は引用者

更に、本書の後半に収められたスペインのイエズス会士バルタザール・グラシアンの『神託提要』(Oraculo manual, 1647) もまたこの系列につらなる重要な一書である。
[メモ者注:正しくはOráculo manual y arte de prudenciaつまり「á」の箇所があるのだが、本書の表記をそのまま記した]
 こうしてみれば文献史的に言っても、クニッゲの『交際法』には古くからの先行的範例があったのだと言えるだろう。それに加えて1780年代という時代における市民階級の社会階層的向上という背景も一べつしておかなくてはならない。隣国フランスで起った大革命がいわゆる市民革命と呼ばれる性格のものであったことからもうかがわれるように、十八世紀初頭以来ドイツに於ても都市に居住する商工業者の間で、経済的実力の向上に伴なう教養意欲の増大は著しく眼につく傾向であった。1730年にはクニッゲのまさに先例とも言うべき書物、フォン・ロールの『家庭用儀式学入門』が出て、人は国家に対してのみならず、世間のあらゆる階層、個人に対しても政治的関係に立っていることを説き、儀式、礼法、容儀(ようぎ)、挨拶、式辞、くだいて言えば、人中での然るべき身のこなしから口のきき方に至るまでの心得を教えた。1752年には前者に比べれば多少有名な俗流哲学者のクリスティアン・ヴォルフが『幸福増進のための出処進退に関する理性的方針』という書物を著わし、いかにも啓蒙主義時代にふさわしい実践的処世哲学を説いたりもしている。表題の中の「理性的」という措辞(そじ)などもまさしく時代の象徴的合言葉であろう。これらの書物の出現は時代の知識人が抱いていた人間の教育可能性への信頼と同時に、端的に社会の側からするその要請をもあらわしてはいなかろうか。

p.444から
 ところで、ゲーテ、シラーのような巨人的精神の持主にしても、クニッゲの如き謙譲な一文人にしても、ドイツの知識人の多くはフランス大革命のなりゆきに幻滅し、やがてそこから心は離れていった。革命ではなくて改良が、流血の犠牲ではなくて精神の営為が人類終局の幸福を達成するだろう、というのが彼等の期せずして一致した見解となる。恐怖政治の惨状を知った後の著述であるシラーの『美的教育書簡』には、政治変革ではなく、道徳的教養によってのみ人間社会は前進するものだ、という思想が明瞭にあらわれているが、大革命の影響を直接受けていないゲーテの『タッソオ』にもこの理念は言わば予言的に盛りこまれていたと言ってもよいだろう。小規模ながら同じ反応がクニッゲにも繰返されるのであって、クニッゲも当初はフランス革命の目標は諸国民に対して範例となるような「啓蒙」運動の強力な実現であると見ていた。この期待が破れたとき、彼はすでにその短い生涯を終ろうとしていたのだったが、ドイツには革命が望ましくもないし、また生じる可能性もない、領邦諸国の為政者たちは従来から行なってきている上からの啓蒙運動をそのまま押し進めてゆけばよい、革命ではなくて漸進的改良だ、――といった見解に到達していたようである。現在の体制を基本的には是認し、個々の足らざるところは教育的手段によって改善してゆけばよい、人間にはそれにこたえるだけの可塑性、改善可能性が含まれている――。こうしたオプティミズムこそ、「ドイツの惨めさ」を口を極めて弾劾するラディカリズムの徒の激しい批判にも拘らず、ドイツ人の市民性というものを、よかれあしかれ強力に維持してきた底力なのであろう。大局的にみれば、クニッゲの『交際法』をうみ出したのもこのような地盤に他ならない。やや先取り的な言い方になるが、森鷗外の歴史観にも、ドイツの古典主義者たちの抱いていた人間教育思想とでも名づくべきものの理念は色濃く影を落している。鷗外をいかなる意味でもオプティミストと呼ぶことは憚られるが、自ら諦念を言い、保守主義を称するこの人に、もしこの漸進的改良可能性への信頼がなかったとしたら、彼の文化意志の奥にひそむあのやみがたい熱情の如きものの力強さはどうしても説明がつかない。
[
「保守主義を称する」が解説者の解釈かどうか気になっていたら解決した。自分が保守だと、登場人物(鷗外が元ネタ)を通して語らせているのが鷗外↓

青空文庫
森鴎外 妄想
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/683_23194.html
” 仮名遣(かなづかひ)改良の議論もあつて、コイスチヨーワガナワといふやうな事を書かせようとしてゐると、「いやいや、Orthographie(オルトグラフイイ) はどこの国にもある、矢張コヒステフワガナハの方が宜(よろ)しからう」と云つた。
 そんな風に、人の改良しようとしてゐる、あらゆる方面に向つて、自分は本(もと)の杢阿弥説(もくあみせつ)を唱へた。そして保守党の仲間に逐(お)ひ込まれた。洋行帰りの保守主義者は、後には別な動機で流行し出したが、元祖は自分であつたかも知れない。
 そこで学んで来た自然科学はどうしたか。帰つた当座一年か二年は Laboratorium(ラボラトリウム) に這人つてゐて、ごつごつと馬鹿正直に働いて、本(もと)の杢阿弥説(もくあみせつ)に根拠を与へてゐた。正直に試験して見れば、何千年といふ間満足に発展して来た日本人が、そんなに反理性的生活をしてゐよう筈はない。初から知れ切つた事である。
 さてそれから一歩進んで、新しい地盤の上に新しい Forschung(フオルシユング) を企てようといふ段になると、地位と境遇とが自分を為事場(しごとば)から撥(は)ね出した。自然科学よ、さらばである。
 勿論自然科学の方面では、自分なんぞより有力な友達が大勢あつて、跡に残つて奮闘してゐてくれるから、自分の撥ね出されたのは、国家の為めにも、人類の為めにもなんの損失にもならない。
 只奮闘してゐる友達には気の毒である。依然として雰囲気(ふんゐき)の無い処で、高圧の下に働く潜水夫のやうに喘(あへ)ぎ苦んでゐる。雰囲気の無い証拠には、まだ Forschung(フオルシユング) といふ日本語も出来てゐない。そんな概念を明確に言ひ現す必要をば、社会が感じてゐないのである。自慢でもなんでもないが、「業績」とか「学問の推挽(すゐばん)」とか云ふやうな造語(ざうご)を、自分が自然科学界に置土産にして来たが、まだ Forschung(フオルシユング) といふ意味の簡短で明確な日本語は無い。研究なんといふぼんやりした語(ことば)は、実際役に立たない。載籍調(さいせきしら)べも研究ではないか。
[中略]
(明治四十四年三月―四月)




底本:「日本文学全集4 森鴎外集」筑摩書房
   1970(昭和45)年11月1日初版発行
” ※着色は引用者

「業績」とか「学問の推挽(すゐばん)」は鷗外の造語(ケツ社員の仕事の1つ)なんだ。
ドイツ語のForschung(フォルシュング)は英語だとresearchにあたる。和訳すると、研究とか学術調査って意味だ。
鷗外は「 研究なんといふぼんやりした語(ことば)は、実際役に立たない」と評価しているが、今現在、研究という言葉は定着している。
Orthographieは、正書法、正字法(正しい表記の仕方の体系)。
Laboratorium(英:laboratory) 実験室または研究室。


恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか
https://ogurasansou.jp.net/columns/hyakunin/2017/10/17/1196/

載籍(さいせき) とは? 意味・読み方・使い方 - goo国語辞書
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%BC%89%E7%B1%8D/
” さい‐せき【載籍】 の解説

書物に書き載せること。また、書き載せた書物。

「—調べも研究ではないか」〈鴎外・妄想〉



妄想(もうそう)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%A6%84%E6%83%B3_%28%E3%82%82%E3%81%86%E3%81%9D%E3%81%86%29/
” もう‐そう〔マウサウ〕【妄想】 の解説
[名](スル)《古くは「もうぞう」とも》

1 根拠もなくあれこれと想像すること。また、その想像。「—にふける」「愛されていないと—してひとりで苦しむ」

2 仏語。とらわれの心によって、真実でないものを真実であると誤って考えること。また、その誤った考え。妄念。邪念。

3 根拠のないありえない内容であるにもかかわらず確信をもち、事実や論理によって訂正することができない主観的な信念。現実検討能力の障害による精神病の症状として生じるが、気分障害や薬物中毒等でもみられる。内容により誇大妄想・被害妄想などがある。”

【感想文】妄想/森鴎外
玉井玉吉
2021年10月31日 14:33
https://note.com/tamai_upper_room/n/nac917d893b89
”▼雑感①:
表題の『妄想』は「もうそう」ではなく「もうぞう」と読ませる。待て、何故、濁る。
もしや濁音の有無で意味が違うのかも。で、国語辞典を引っ張り出して調べたらあったあった。
 
・妄想(もうそう):ない事に対して病的原因からいだく誤った判断・確信。
妄想(もうぞう):正しくない想念。転じて、根拠のない想像。△仏教語から。
 ※岩波国語辞典,第四版より抜粋。
 
とまあ、この二点、大して違いは無さそうだけど、ただ、気になるのは「妄想(もうぞう)」の説明に <<△仏教語から。>> とあるので、今度はそれを調べたら「莫妄想(まくもうぞう)」という禅語があった。
 
・莫妄想(まくもうぞう):妄想すること莫なかれ。
 
どうやら莫妄想とは、他と比較することで意味付けしようとするな!余計なことを考えずに一途になれ!といったぐらいの教えらしい。ということは、本書は「莫妄想」から「莫」が抜けて『妄想』という表題だから「主人公の翁が余計なことを自問自答している物語」ってことになり、なるほど合点、それなら妄想(もうぞう)の語意にも一致する。いやあ、ちゃんと調べた甲斐があった。
[略]
▼雑感③:
それにしても物語の設定に違和感がある。「設定」という言葉を使うのはあんまり好きじゃないが便宜上、あえて使わせてもらいます。で、違和感というのは、この小説は翁の回想録という設定にする必要はあったのか?といった点である。理由は、独断になりますけど、作中の最初と最後の翁のシーンが無くても回想部分だけで成立するような気がしたから。じゃあ、これを仮に回想部分だけにしてみると、もはやこれは鴎外自身の随筆・随想になってしまうことに気づいた。そもそも翁と鴎外の略歴もよく似ている。なのでそれを回避すべく、鴎外は『これは私の自伝じゃなくて小説だから間違えないでねー』という意図から、お爺ィの回想録という形式にして、小説っぽくして誤魔化そうとしたのかもしれない。で、なぜそんな事をしたのかというと、これまた独断になりますが、著者・鴎外はプライドの塊のような男だからである(本書の回想部分だけでなく『百物語』においても傍観者に徹する態度にプライドの高さが現れている)。もっと言うと、本書のラストに <<これはそんな時ふと書き捨てた反古である。>> とあり、これ、鴎外本人が直接この小説へ向けたメッセージと捉えることができる。そして、こんなことを言うと全国1000万人の森鴎外ファンに俺は殺されるかもしれないが、正直、このメッセージを作品に挿入する必要性は1ミリもない。つまりこの表記、鴎外の自負のなせる業に過ぎない。よって、この小説は鴎外のプライドの高さが見え隠れする珍品じゃないのかなあと思った。

といったことを考えながら、この感想文は昨日の深夜、赤霧島ロックを7杯ガブ飲みした時ふと書き捨てた反古である。
” ※着色は引用者。ルビは( )に変えた。

朗読 森鷗外『妄想』
https://www.youtube.com/watch?v=t3ABsqT05R0
”2022/04/02
1911年(明治44年)「三田文学」
(引用者略)
森鷗外
1862年2月17日(文久2年1月19日) -
1922年(大正11年)7月9日

]

 クニッゲは前述のように一時ワイマル公に仕官したことはあるが、求めていたゲーテとの交際は結局得られなかった。シラーとも何かの機縁で、マンハイムにおける『たくらみと恋』の初演に招待を受けたことがあるというくらいの因縁しかない。ゲッティンゲン大学における学生時代はいわゆるゲッティンゲンの「杜の詩社」(Göttinger Hainbund)の気勢が高まりつつあった時だが、その中心人物たるフォスやビュルガーとも交際はなかった。クニッゲの文学上の唯一の友人にしてかつそこから影響を受けた師とも言うべき人は、「杜の詩社」の連中によっていためつけられて大いに影がうすくなっていたヴィーラントであった。実際クニッゲの文体はその優美さ、上品でかつ明晰な論のはこび、一言で言えば親しみやすくわかりやすい言葉という点で、ヴィーラントの作りあげた感覚的な文藝語を世俗実用的な題材に巧みに転用したものと言うことができるだろう。
 具体的に内容について述べる段になると、しかしこの書を手短に紹介するのは容易なことではない。何しろ筆者の用いている四六版の、クニッゲにゆかり深いブレーメンはシューネマン書店刊の通称ディーテリヒ版で四百八十ページ。鷗外が用いたレクラム文庫版で三百七十ページ。全体は三部に分かれ、

 第一部
 序言 四項目
 第一章 人との交際に関する一般的見解と規則 六十三項目
 第二章 自分自身との交際について 九項目
(メモ者略)
 第三部
 (メモ者略)
 第八章 秘密結社について、及び秘密結社員との交際について 三項目
 (メモ者略)
 第十一章 結び 四項目

 以上のような構成になっている。

 鷗外はこの第一部第一 ― 三章の計百一項目、第二部第一・二章の計十一項目と第三章の冒頭第一項、併せて百十三項目を底本として、『智恵袋』の百十六条を翻案風の手加減を加えつつ訳出したわけである。次で第二部第三章の第二項から第三部第一章までの計百二十七項目から『心頭語』に属する九十五条を訳出したわけであるが、両篇の鷗外訳文と原典各章・各項目との対応関係については本書巻末の対照一覧表を参考して頂くことにし、ここでは詳しくはふれまい。ただ鷗外の加えた手加減というもの、翻案風抄訳なるものの実体がどのようなものであったか、実例に基づいて少々考察してみよう。この種の考察は『慧語』の場合には原典の各箴言がみな短いものであり、全体の分量も少ない故に、鷗外の手になると本文と原典各章の全訳文とを端的に並列し比較してみることが可能であった。ところが『交際法』の原文はそれぞれがかなりの長さであるが故に全体の並列対照という作業は本書の範囲内では不可能である。

例としては「序言」の、それも全文はやはり長すぎる故に、その冒頭と結びの節にあたる部分の原文をここに訳出引用してみよう。これはクニッゲの第一部序言第一項の冒頭と末節にあたっており、この第一項には〈何故秀れた大きな個性を有しながら、しかも必ずしも世間に出て成功を博し得ないか? 身を処する才(esprit de conduite)について。あるものは世間の慣行に自分を合せようとしない、あるものはそれに必要な常識が欠けている、あるものは求むるところが多すぎる。しかしそれにしてもどんなに善き意志善き素質を備えていても誰もが成功するわけではない、何故か?〉という長い見出しがつけられている。

 どんなに利巧な、分別のある人でも、日常生活に於て我々が首をかしげざるを得ないような行為に及ぶことがある。
(メモ者略)
どんなに才知ゆたかな人でも、天性あらゆる内面外面の美質を授けられているにもかかわらず、なおかつおよそ人の目につかず、その頭角をあらわす術も心得もない、ということがあるのである。(中略)
[メモ者注:「(中略)」は原文ママ]
 いや私がここに説こうとすることは次のような人々にこそ向けられているのだ。つまりまことに善き志と誠実な気象とを持ち、それに加えて優秀な素質と、この人生を切り抜けてゆこう、自他の幸福を築いてゆこうという熱心な意向を兼ねそなえていながら、それにもかかわらず世には認められず、無視され、結局何事も仕遂げられずにいるような人々に、私の話は向けられているのだ。こうしたことはいったい何に起因するのか。これらの人々には欠けていて、他のほんとうに優秀な素質があるわけでもないのにそれでもこの世の幸福の階段を一歩一歩と昇ってゆく人たちにはそなわっているこのものはいったい何なのか。フランス人が身を処する才(esprit de conduite)と呼ぶもの、それがこれらの人々には欠けているのだ。つまり人とつきあう技術である。
(メモ者略)
どんな人々の仲間にでも強要されることなくして自分の調子を合せ、それでいて性格の独自性を失うことなく卑屈な阿諛追従に身をおとすわけでもない技術、である。

 以上の如きがクニッゲの原文の表情である。此(これ)と彼とを比較して読んでみるとき、鷗外の文章構成が、普通に言う意味での翻訳とはかなり違ったものではあるが、一方。原文に話題とその発想、素材とその扱い方についての示唆を受けた程度とは言いきれない、もう少しそれに接近し、近しく依拠したものであるというそのあり方も大凡(おおよそ)読みとれることであろう。執筆を開始したばかりの第一条、第二条、それからとんで第十条などに於ては和漢の典籍の中から原典の趣旨を補強するによろしき逸話を拾い来って、ほとんど全文が彼の創作であるかの如き印象をなしているが、一方第四条、第五条に於ては要するに原書の自由で簡潔なる「翻訳」だという趣きが濃い。第四条の「人の短(たん)」は、原文の「隣人の短所をあばくなかれ」に拠るものだが、
 クニッゲ――〈自分を高く見せんがために隣人の短所を不躾けにあばいてはならぬ。他人の損失にもとづいて自分を光らさんがために、彼らの失策や誤謬を白日にさらすことはするな。〉
 鷗外――〈人の短を言ふこと勿れとは、翅(たゞ)に徳を立つる上の教のみならず、亦世に処する上の教(をしへ)なり。人の短によりて我長(わがちやう)を示さんとするは、盲(めくら)と明(めい)を争ひ、聾(みゝし)ひたるものと聡(そう)を争ひ、侏儒とせいくらべせんが如し。〉
(p.32だと「聡(そう)」なのだが、p.454だと「聴」になっている。p.32の方に改めたうえで記した)
という工合に対応する。
 これにつづくクニッゲの第五項「他人の功績を我身に簒奪するなかれ」と鷗外における第五条「人の長」も、原典の方が少し長いが、やはり並置比較してみよう。
 クニッゲ――〈他人の功績に帰すべきことを自分の身に引き当ててはならぬ。汝が随(したが)っているところの貴人に対して優遇や礼儀が示されたからといって、自分が好い気になったりするな。むしろ汝が一人きりだったらそうしたことは一切起らなかっただろうと思うくらいの謙遜さを示すべし。しかしまた自らそれだけの尊敬を受けるに値せんことをも努めよ。他処(よそ)なる太陽によって光る大きな月や、他の遊星の衛星であるよりも、むしろどんなに小さくとも自分自身の光で暗い一隅を照らす燈火であれ。〉
 鷗外――〈人の長を以て我長を継(つ)がんと欲すること勿れ。人の光を藉(か)りて我光を増さんと欲すること勿れ。日の光を藉りて照る大いなる月たらんよりは、自ら光を放つ小き燈火(ともしび)たれ。是(こ)れ鶏口牛後の説の骨髄(こつずゐ)なり。〉
 次には若干の箇条に於て鷗外がどうやら自分自身の体験を書きつけているらしいところを一、二の例をとって紹介してみよう。
 その一は第二十四条「寡言の得失」という文の後半に挿入された次の一節である。〈われ嘗(かつ)て始て某大臣に引見せられしことあり、主人と我とは一室に対座し、主人は葉巻煙草を啣(くは)へて我言を聴かんと欲するものの如し。われは談ぜり、而るに主人は答へざりき。
(メモ者略)
われは三十分以上の腹稿なき演説をなしたるなり。(メモ者後略。要は、相手がずっと黙っていて、鷗外だけが話したって内容)〉 余計な忖度のようであるが、この「某大臣」とは山県有朋ではあるまいか。森於菟氏は『鷗外秘話』の中で山県が洋行から帰って総理大臣になった頃(とすれば明治二十二年の末頃か)、鷗外は山県に引見されたことがあったと記している。ところが山県には新しい人をうけいれる意志がなく、この会見は幻滅に終ったらしい。この項の伝える某大臣の態度は、伝記作者が記すところの山県の狷介・傲岸という評と符節が合っているようである。
 もう一つの例は第四十九条「筵会の往反」と題する文のやはり後半であって、曰く、〈ここに可笑(をか)しき話あり、われ外国にありしとき、某の国務大臣の室なる伯爵夫人に式の訪問をなしたり。十五分ばかりも物語して、最早暇乞(いとまごひ)しても好からんとおもひ、起ちて辞し去らんとするに、夫人いま暫しと留む。又坐して五分ばかりも過ぎし頃起ちしに又留む。その気色いかにも誠らしきため、われは三たびまで坐したり、後に思へば、夫人の留めしは尋常の挨拶に過ぎざりしなり。われは当時未だ交際上手なる西洋貴婦人の挨拶のいかに熱心らしきかを知らざりしなり。〉
 国務大臣の令室なる伯爵夫人といえば、それは小説『文づかひ』にも登場し、『独逸日記』にも再三その名を見るところの、ザクセン王国国務大臣フォン・ファブリイス伯の夫人、アンナ・フォン・デア・アッセブルク夫人のことであろう。蓋し、西洋上流社会の儀礼に習熟していなかった鷗外若年の日に実際に体験した小さい失敗なのだろう。
 この他にもクニッゲの文に関係なく、鷗外が自身の見聞をまとめて編み出したと思われる実例が挿入されている項目はいくつかある。更に一箇条全文が鷗外の創作にかかると見るべき例もないわけではない。例えば、「人々相妨ぐる事」と題した、第五十一条は、クニッゲの原典には見当たらないし、また原典を照合するまでもなくその文言を見れば、これが鷗外の生(なま)の声であることの察しはつく。曰く、〈無秩序は人々相妨(あひさまた)ぐる道なり。西洋劇場の入口にて席札(せきふだ)を買ふものを見るに、後(おく)れて至るものは必ず前に至るものゝ背後に立ちて、帯の如くに相連(あひつらな)り、次を逐(お)ひて札を受く。我国の劇場などは此(この)秩序なきがために、肩相摩(あひす)り肘(ひぢ)相衝(あひつ)きて、その札を受くることは決して毫釐(がうりん)の早きを加へず。これ人々相手妨ぐるものにあらずや。〉
[メモ者注:
口語訳は、五十一 人々相妨ぐる事(公衆の場での秩序)
 秩序を乱すというのは結局人々が互いに邪魔し合う結果を来(きた)す。西洋の劇場でチケット売場の様子を見ていると、後から来たものは必ず先に着いた人の後に立ち、整然と行列を作って待ちながら順を追うてチケットを買うという習慣が身に着いている。日本ではこうした秩序感覚が欠けているために、入場券売場の窓口で互いに押し合いへし合いして先を争い、しかもそれで決して人より先に札を買えるという結果を得ているわけではない。要するに無秩序によって人々が互いに相手を妨害し合っているだけなのである。

これはその前条「稠人(ちうじん)中の不行儀」と題した箴言の系をなすものであろうが、いかにも明治三十年の東京で見かけられたであろう様な情景であり、その場に居合せた鷗外のしかめ面が眼に
(ここからp.457)
浮かぶようである。ところでついでに言えば、その「稠人(ちゅうじん)中の不行儀」はクニッゲの第一章第四十五項「ささいな社交上の不作法について」と題する項目の訳出で、『知恵袋』の本文を示せば、〈衆人(もろびと)の相聚(あひあつま)れる処(ところ)にて、人々皆為(な)さばその不便甚(はなはだ)しかるべき事の、偶〻(たま〱)これを為す人の少きがために、姑(しばら)く寛宥(くわんいう)せらるゝことあり。汝は此(この)寛宥を受くることの恥辱なるを忘るべからず。講堂にて坐睡(ゐねぶり)し、音楽の筵(むしろ)にて人と語り、演劇の席にて背後(うしろ)の人の視界を遮(さへぎ)るなど是なり。〉がその全部である。
[メモ者注:p.457の箇所とp.60箇所でわずかに違う箇所があるので、p.60の表記にした。

p.222からの口語訳は、
 五十 稠人(ちゅうじん)中の不行儀(人が多勢集まる所での心得)
 公衆が多勢相会している所では、挙措(きょそ)進退にも特別の注意が要る。そうした場での不躾けなふるまいは多勢が一斉にそれをやったら収拾のつかない混乱に陥るものなのだが、たまたま一人くらいがそれを犯しても影響が少ないというので、公衆がその唯一人の違反者に対して寛大に、見逃している場合がある。しかしそうして大眼に見てもらっているということが、実は大いなる恥辱なのだということを忘れてはならない。その種の不躾の実例を二、三あげてみれば、講演会場での居眠り、音楽会の会場での隣席のつれとのおしゃべり、演劇見物の最中に後の席の人の視界をさえぎる如くにのび上ったり、物を高くかかげ持ったりすること、といった類である。

この項なども鷗外が特に明治の東京風俗を矯正せんとの意図に出た創作であるかの如き印象を与えるが、これはクニッゲの原書にもたしかにその通りに出ているのである。
『智恵袋』が原書『交際法』第二部第三章「夫婦の交際について」の第一項を百十六「つまさだめ」と題して抄訳したところで中断し、その第二項以下が『心頭語』で再び取り上げられることになる。こうした区切りの悪い切り方になった理由はよくわからない。それに細かく言えば『心頭語』の新聞連載に際して、取り上げられたのは第百十九条の「厭倦(えんけん)の預防」からであり、百十七「早婚晩婚」、百十八「似たもの似ぬもの」は新聞掲載が確認されていない、全集版で補遺として収められた項目なのである。つまり新聞連載時の『心頭語』中、クニッゲからの抄訳はこの百十九から始まっているのだが、これは「厭倦(えんけん)の預防」と題し、夫婦間の倦怠の予防策を説くという甚だ以て世俗的な人生知が展開されている。クニッゲの書で言えばこれは第二部第三章の第四項「お互がお互にとってつねに新鮮に、愉快に、貴重でありつづけるために遵守すべき諸規則」である。ところがこれを書いている鷗外は三十九歳の独身男なのだから一寸奇妙なもので、これらは鷗外自身の破婚の経験から生じた苦い記憶の絡みついた人生知かと受けとった読者がいたとしても無理ではない。

『心頭語』は最初は匿名の文であった。これは緒言に記したように彼が「二六新報」のために小倉から送っていた原稿で、「千八」の署名を以て明治三十三年二月一日から三十四年二月十八日までの期間に断続的に掲載せられていた。森潤三郎氏によれば、送稿に当って次の如き契約を取り交していたという。

 一、心頭語ハ没書スルコトヲ許サズ。二、心頭語ハ作者ノ秘密ヲ保ツベシ要スレバ社員中又活版小僧中ノ実在人物一人ノ名ヲ署セシム(但心頭語ニハ法律ニ触ルルコトナキコトハ作者誓ヒ置ク)三、心頭語ハ何等ノ名義ヲ以テスルモ報酬ヲ受ケズ。四、其カハリ二六新聞ヲ贈ル外諸新聞ノ文藝欄(ツヾキモノノ小説講談ハ不用)ノ切抜通信ヲ作者ニ贈ルベシ。五、又乞評ノ為メニ寄セ来ル文学ニ関スル書ハ吝ムコトナク作者ニ贈ルベシ。六、心頭語ハ右五条ノ一ノ毀ルルト共ニ筆ヲ絶ツモノトス
 以下森潤三郎氏は『心頭語』の番号と新聞掲載月日の対照を調査報告されているが、この次第は現在では岩波書店の第三次(菊判)鷗外全集第二十五巻の本文に於て各項目の掲載月日まで確かめることができる。
 さて『心頭語』第一条から第十八条までは『知恵袋』からひきつづいて「夫婦間の交際について」のうち、第四項から第二十一項に至るまでのほぼ原典に見合った順序での抄訳であるが、第十九条以後は原典へのつきはなれがかなり自由になってゆく。

p.463から
 クニッゲの第三部には、このあと、さきに表示した如く、「身分低き者」「宮廷人」「聖職者」「学者藝術家」「各種職業人」「秘密結社員」等との交際法を説いた諸章があるのだが、それらは鷗外のとりあげるところとならなかった。

結局第三部は「貴人」との交際法を説いたそのほんの一端が翻案紹介されただけであり、全体としてみれば『知恵袋』『心頭語』はクニッゲ著『交際法』第一部と第二部の翻案だとみなしてよいことになる。第三部がとりあげられなかったのは、その諸章の内容がもはや鷗外の興味にうったえなかったのか、それともこの要約作業もかなり長くなったので読者を倦かしめんことを恐れ、また自らも倦いてきたものであったろうか。あるいは具体的な職業人との交際を説いた内容となると、如何に翻案に巧みな鷗外でも、日本の民俗に適用できるように書き換えることが難しく、わずらわしかった、ということもあったであろうか。

  *  *  *  *
終りにこの翻案的著作全般に亙る一つの不審を記しておかなくてはならない。それは鷗外が原作者クニッゲの名を遂に出していないという一事である。『智恵袋』は〈鷗外訳補〉と署したというのだから、これがつまり〈訳補〉の作業の成果だということは明らかにしているのだが、原作者の名は記さなかった。読者は第八十七条「吝嗇」の中にクニッゲの名が挙げてあったことにお気づきだったと思うが、しかしこれだけではかえって全体としてのクニッゲの著作権を無視した如くでおかしいし、それに『心頭語』となると、さきに引用した契約文の通り、匿名の文なのだから、これが翻訳を含む文章なのだということ自体伏せられてあるわけである。どうして鷗外は原著者の名を公けにしなかったのだろう。
[
p.80から
 八十七 吝嗇(りんしょく)
 倹約なるものに吝嗇の名を負はすべからざるは勿論なれど、奴婢(ぬひ)の陰言(かげごと)と近隣の噂(うはさ)とには此別あること少(まれ)なり。
(中略)
最後に一の注意すべきことあり、画家に顔料(がんれう)を求め彫工(てうこう)に礬土(はんど)を求め学者に書を借らんことを請ひて見よ。彼等はその物の価(あたひ)に拘(かゝは)らずして、意外なる吝嗇の色を見するならん。クニツゲ(Knigge)のいはく、我に和蘭(オランダ)製の書翰(しよかん)紙一折(ひとをり)を乞はんよりは、其価に数十倍せる金銭を乞へと。是(これ)も亦(また)交際家の知らで協(かな)はぬ事ぞ。
(後略)

p.252から
 八十七 吝嗇(りんしょく)(けちの種々相)
 倹約とけちとは違うことはもちろんであるが、雇人のかげ口と隣近所の噂話の中ではこの二つには区別がついていないことが多い。
(中略)
 最後に、世間には一寸特別な意味合いの吝嗇が居ることを注意しておこう。例えば画家に絵具を貸せ、彫刻家に良い粘土を貸せ、学者には書物を貸せと申しこんでみるがよい。彼等はそれが別段特に高価貴重なものではなかろうとも意外に出し惜しみをするであろう。クニッゲがこう書いている。自分が持っているオランダ便箋一帖を呉れと言われるよりは、その値段の数十倍にあたる金をねだられる方が自分には気楽である、と。こんな心性のあることも世に立ち交ろうとする人は心得ていなくてはならないのだ。
(後略)
]
この仕事のあとに間もなく始まる『フリイドリヒ・パウルゼン氏倫理学説の梗概』(『心頭語』と同年の明治三十三年)、『人種哲学梗概』(明治三十六年)、『黄禍論梗概』(明治三十七年)、あるいは抄訳のマキャヴェルリ『人主策』(明治三十四年)等一連の要約紹介の作業と同様、どうして『クニッゲ氏人生哲学梗概』という形ではいけなかったのだろう。いったい鷗外がクニッゲの名を出さなかったのは、要するに原作者を無視したのか、それともこれが最初から日本の風俗習慣にあてはめてかかれた書である体裁をとった方が客観的にみて適当だと判断したからだろうか。それも畢竟どちらでもかまわないのだが、この疑問はまた我々をもうすこし深くひきずりこむような問題、鷗外はどうしてこの書の内容をこのような形で紹介する気になったのか、そしてこれにどの程度の評価を与えていたのか、という点にかかわってゆくだろう。

小堀は、クニッゲが秘密ケツ社と関わりまくりだったことを意図的に無視していないか?
鷗外って親戚が西周で、西周ってオランダ系メイソンじゃん。
だから、メイソンの重鎮への言及は避けたのでは? メイソンどころか、誤解されまくりの元祖イルミナティの重鎮でもあるからな。鷗外の社会的地位を考えると避けたいだろうな。
「人主策」(明治34)は マキアヴェリの『君主論』だ。支配層の教科書を訳していたんだな。ただし全訳ではない。


国基研紀要
(において小堀桂一郎が書いている箇所。
13 國家基本問題としての「國家理性」論――その沿革と現代的効用について――)
https://jinf.jp/pdf/memoirs/jinfjournal_20210916/jinfjournal_20210916.pdf
” 中核的な字眼である「力量」の原語は virtuで、邦譯では他に能力、武徳、氣槪、徳性等の譯例があり、菊盛譯のマイネッケ本では譯語を出さずに virtuの原語で通してゐるが、それも一つの見識であらう。森鷗外は明治三十四年に原典の獨譯本Buch vom Fürsten から簡約な摘要・抄譯本を作り『人主策』と題して「二六新報」に二十四回の連載を出してくれてゐるが、その中ではこの語が他者に恃む事を排する意味での〈自力〉といふ含意を有する點に注目して〈自力の智能〉と説明的な意譯をしてゐる例もある。
 もう一つの字眼 fortunaは比較的廣く知られた女神の圖像と結び付いたもので、多くの譯者が共通して「運命」を採つてゐる。鷗外はこれを〈機會〉と解して〈機〉の一語で処理してゐるが、これは彼一流の簡潔硬質な文語文でこそ効果を發揮するのであつて一般的には「運命」が適譯であらう。
 この二つの字眼の相関関係についてマイネッケは興味深い注釋を與へてゐる。卽ち――敵同士は互ひに相手からその武器の使用を學ぶ。virtuはfortunaに挑戰する。fortunaは陰險である。故に virtuも敵を斃すためには陰險が必要だと知る。卽ち國家は行動に於いて必要な場合には權力を維持するために不當・悖徳な手段を取る事も許される、運命がそれを敎へてゐるのだ――といふ敎説がここに成立する。
 これは『君主論』第十五章「君主のうける褒貶について」の重點を成す一節の釋義であるが、鷗外の『人主策』でその部分の摘要譯は見事であるから敢へて引いてみよう。
 〈爰に行の必ず善ならんことを欲する一人ありて、許多の善惡を顧みざる人の間に立たば、その滅亡は踵を
めぐら

さずして至らん。
すなは

ち知る、人主の國を保たんと欲する者は、機に臨みて敢て惡を爲さざる可からず、而して是の如き惡行は、人主のその必要に應じて、自在に或は爲し、或は已むべきものなることを〉
 といふのであるが、念の爲に河島英昭譯岩波文庫版の原典からの現代語譯の例をも引いてみると、
 〈……すべての面において善い活動をしたいと願う人間は、たくさんの善からぬ者たちのあいだにあって破滅するしかないのだから、そこで必要なのは、君主がみづからの地位を保持したければ、善からぬ者にもなり得るわざを身につけ、必要に應じてそれを使つたり使わなかつたりすることだ〉
 ドイツ語からのかなり自由な重譯と定評ある原典譯とが、案外によく符合してゐる事に感心するが、實はここが、君主は己の國家を存續せしめるために〈必要〉とあらば惡行を爲すの自由を有する、との強烈な思想が語られてゐる節であり、マキアヴェリズムとして謂はば惡名の高い彼の敎説の肝所である。
” ※着色は引用者

マキャベリ語録 : お気楽日記
http://mbay.blog70.fc2.com/blog-entry-1139.html
”(塩野『マキアヴェッリ語録』の画像)
==================
謙譲の美徳をもってすれば相手の尊大さに勝てると信ずる者は、誤りを犯すはめにおちいる。=政略論=
==================
とか言い切っちゃうわけですから、そりゃ謙譲の美徳を賞賛する某国民にとっては不快な感情も沸き起ころうというもんでしょう。
==================
長期にわたって支配下におかれ、その下で生きるのに慣れてしまった人民は、なにかの偶然でころがりこんできた自由を手にしても、それを活用することができない。=政略論=
==================
これって、少々過激に意訳すると、「奴隷根性がしみこんだ身には自由なんてもったいない。」とかになっちゃうわけだし、
==================
はじめはわが身を守ることだけを考えていた人も、それが達成されるや、今度は他者を攻めることを考えるようになる。残念だが、これが現実だ。=政略論=
==================
とか、日頃から言いたいことを我慢して、日々を円満に過ごそうと汲々としているオイラのような謙遜家には、ここまで言っていいんかい?的な痛快感さえ覚えます。

あ、ここで引用したマキャベリの言葉は、すべて本書からの引用でして、塩ばあによる訳です。
なんでも明治時代に、「君主論」はすでに二種の日本語訳があったにもかかわらず、このマキャベリの思想を紹介しようとした森鴎外は、その理由を
「マキャベリの君主論は、小さな一冊だけど、例は多いし冗長だしで、読みやすいとは言えないわけよ。そこでワシがわかりやすく要点をまとめた本を書くことにするんだもぉーん。」と述べているのだそうです。

イタリア語の原書で読むことができる塩ばあは、この事実に触れて、マキャベリの文章は名文で、冗漫だとか読みにくいなんてことは絶対にない。その味わいを読者に味わって欲しくて”抜粋”という形を採用して本書を書いたのだそうです。
” ※着色は引用者

『心頭語』は明治33年=西暦1900年。覚えやすい。明治33年2月1日から明治34年2月18日まで断続的に掲載された。
『知恵袋』は『心頭語』よりだいたい2年前に発表。明治31年8月9日から10月5日まで、ほぼ連日という形で連載された。


鴎外の書斎から:資料解説4
https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/html/tenjikai/tenjikai2012/tenji4.html
”また、鴎外は数多くの作品を翻訳したことでも知られているが、その中からドイツの短編小説とオペラ、そして著名な思想家ルソーの自伝(『告白』)の翻訳の元となったドイツ語の洋書を鴎外の書入れとともに紹介する。
(略)
4-25-1 Rousseau's Bekenntnisse
uebersetzt von H. Denhardt Leipzig Reclam. 2v.
 ルソー『告白』。同書の翻訳『懺悔記』を制作する際に底本として使われた。明治21年(1888)の時点で、全訳出の計画があったというが、実際は要約や省略を含む抄訳となった。本書第1巻の21ページから第2巻の27ページまで346ページ分が省略されている。
 女性に対する露出によって快感を得ていた事を述べた箇所(本書第2巻)の欄外に「Exhibitioner」(露出者の意か)、展示部分の、寄宿先の牧師の娘(ラムベルシエエ嬢)に受けた折檻によって官能に目覚めた事を述べた箇所(本書第1巻)には墨書きで大きく「Pfarrers Tochter in Vassey」(ボセーの牧師の娘、の意か)とあり、左欄外には青字で「褻」とある。
 鴎外のルソーへの言及には、他に『ルーソーガ少時ノ病ヲ診ス』、石川戯庵による全訳書『懺悔録』(大日本図書 1912)の序文『「ルッソォ懺悔録」序』があり、本書への書入れの多さも相まって、関心の深さが窺える。『ルーソーガ少時ノ病ヲ診ス』では、クラフト・エービング(R. von Krafft-Ebing)の著書『変態性欲心理』(Psychopathia sexualis、鴎外は『華癲論』または『房惟心疾』と訳す)に上記のようなルソーの症例が記されていない事に疑問を呈している。展示部分の右欄外には「Zur Psychopathia sexualis」(変態性欲心理と比較せよ、の意か)と、対応する鉛筆書きの書入れがある。また、そこで引用された訳文は『懺悔記』の文章とは異なっており、『懺悔記』訳出にあたって鴎外が新たに訳文を作成し直した事がわかる。(河野・山田、一部改編)
” ※着色は引用者

鷗外は、マキャベリやゲーテ以外にも、ケツ社的に重要な人物の著作を和訳している。ルソーはフランスの啓蒙思想家なので今の赤組の先祖だ。


告白録(コクハクロク)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%91%8A%E7%99%BD%E9%8C%B2-64171

告白録(ルソーの自伝)
こくはくろく
Les Confessions

フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソーの自伝。『告白』『懺悔録(ざんげろく)』とも訳される。1764~70年に書かれ、第1部(6巻、1781)、第2部(6巻、1788)ともに死後出版。世間の誤解を解くとともに、将来の人間研究の資料を提供しようという目的で書かれた。ルソーは自分の一生を、作家になる前とその後に分け、前半生を幸福な時代、後半生を不幸になった時代としてとらえていたが、作品にもそうした考え方が反映し、2部に分けられている。第1部の少年時代、青年時代の記述は、率直かつ詳細なもので、ときには卑しい行為や性的異常をも、はばかることもなく描いている。ユーモアあり悔恨あり、それが過ぎ去った時代をふたたび生きる喜びと混じり合い、いまなお読者を魅了してやまない。第2部は、晩年の被害妄想の影響下に書かれたため、また、昔の友人たちへの遠慮からか、第1部と比較すると精彩を欠き、暗いものとなっている。思想家ルソーのひととなりを知るための第一級の資料であるとともに、自伝文学の傑作の一つ。日本では、明治初期、自由民権運動の時代に、『社会契約論』が影響力をもったのにかわって、明治後期(1891年、森鴎外(おうがい)のドイツ語訳からの抄訳が本邦初訳)、島崎藤村(とうそん)など、日本における近代文学の成立に『告白』の影響はみられる。

[原 好男]

『井上究一郎訳『告白録』全3冊(新潮文庫)』▽『中川久定著『自伝の文学』(岩波新書)』
” ※着色は引用者

日本の文学にも影響しているルソー。

評価ということについて言えば、鷗外がこの書物のレクラム文庫版をはじめて読んだのはドイツ留学中のことである。つまり彼は二十五、六歳の年齢でこの処世哲学の書を熱心に読んでいる。現代の青年が感ずるであろうようなひやかし半分の気持は全くなかったはずである。そして三十七歳という年齢に至って再びこれを取り上げ、その要約を紹介することを思い立っているわけである。彼がこの書物に出会ったとき、それは文字通り百年のネストセラーともいうべき安定した評価を受けていたし、これがレクラム文庫に収められていたということ自体、我国の岩波文庫本などのあり方から類推してさしつかえないことだが、ほぼ古典的名声を有していたことのめやすになる。
 しかしこれを明治三十年代の日本に紹介することの意味、となると、何といってもこの書がフランス大革命直前の時代に、それも地方的色彩の著しい北ドイツの小市民社会で誕生した「交際法」であるというその素性を無視するわけにはゆかないだろう。

p.469から
 『慧語』
 明治三十五年三月、小倉在勤の森鷗外は新たに東京の第一師団軍医部長に任命され、足掛け三年の九州での仮寓(かぐう)の生活を切り上げて念願の東京帰任を果した。彼の官途に於ける最大の難局は斯(か)くて無事切り抜ける事を得たわけである。もし『智恵袋』『心頭語』という二巻の処世訓箴言集を、作者鷗外の自戒の資という意味をも込めた仕事であると見做すとするならば、彼のその隠忍(いんにん)の努力と知恵の研鑽とは見事に実を結んだのだと評してもよい。
 ところで両箴言集にその様な「実用的」意義をも認めるとすると、ここにもう一つ問題になるのは、この危機が回避されたその後になって猶産み出されたところの第三の箴言集『慧語』の存在である。『慧語』は緒言に述べた如く明治三十六年三月から三十七年二月にかけて、雑誌「新小説」に六回分載された。計五十四条から成る箴言集であるが、これが成立の由来・因縁は如何なるものであったか。つまりこれは『智恵袋』『心頭語』の続篇であるのか。そうとすれば鷗外をしてこれらを書かしめたのはやはり引続いての「人生の難局」であり、具体的には第一師団軍医部長として今度は東京にいて直々に小池正直陸軍省医務局長の監督を甘受せざるを得ないという新しい地位に伴う難しさであったろうか。『慧語』が「新小説」に載り出した頃、鷗外はすでに或る意味では中央の文壇に復帰を遂げている。小倉に「隠流(かくしながし)」の生活を送っている間はさすがに文藝の分野での創作・翻訳の発表は絶えてなかった。だが明治三十五年東京での生活が再開されて間もなく、ヒッペルの小説『山彦』の翻訳が六月の「藝文」巻一から十一月の「萬年艸」巻二にかけて四回分載で発表される。翻訳とは言えこれはその原本の選択に於て明らかに彼の新婚の喜びを反映した、言わば第二の青春の讃歌である。続いて十二月、戯曲『玉篋両浦嶼(たまくしげふたりうらしま)』の「歌舞伎」への発表、「ほうぐ」「筆」「遠近」といった詩を「萬年艸」に載せる等の文業がある。つまり彼は陸軍第一師団軍医部長という公職にありながら文藝の筆を弄するという自己の境遇に対し、最早小倉時代に於ける様な遠慮を感じてはいない様である。「藝文」発刊の際に彼が執筆した「題辞」の言わば高踏派宣言ともいうべき高く持した口調にも、文学にかけた彼の理想・抱負を窺い見ることができる。
 そう思って『慧語』を読み返してみると、どうもこの集は『知恵袋』や『心頭語』とは少し違った性質を帯びているようである。即ち一言で言えば処世訓集という実用的側面よりも、例えばラ・ロシュフコーのReflexions ou sentences et Maximes moralesに見られる「省察と箴言」といった様な文学的・哲学的側面の方がより濃く表に出ている。

検索したら、Réflexions ou sentences et maximes morales表記だったのだが本書そのままに記した。この本は『箴言集』であり、略称Maximes (マキシム)。


p.471から
 実は、『智恵袋』『心頭語』に比べてより更に徹底して、鷗外はこれらの箴言の原作者の存在を示唆してはいないけれども、これもまた紛れもない翻案の産物である。原作者は、スペインのイエズス会士バルタザール・グラシアン、原本はそのOraculo manual y arte de prudencia)』――
[メモ者注:正しくはOráculo manual y arte de prudenciaつまり「á」の箇所があるのだが、本書の表記をそのまま記した]
といってももちろんスペイン語の原典ではなく、ショーペンハウエルによって素晴らしいドイツ語に移し替えられたHandorakel und Kunst der Weltklugheit訳して『神託提要・処世の術』である。

バルタザール・グラシアンの生れたのは1601年、穏和な東北部アラゴン地方のカラタユト近郊のベルモンテという小邑である。

1636年、三十五歳にして正式にイエズス会への入会を認められ、以後サラゴッサ、マドリッド等で僧団の活動に従事し、やがてタラゴナではイエズス会の学校の校長となり、1644年にはヴァレンシアに移って詩学・修辞学・哲学・神学の教授となる。

1658年、五十七歳にして、アラゴンの北西部の小邑タラソナの学院に歿(ぼっ)した。

 彼の死後間もなくその名声は世に弘まり始めた。

彼の名を不朽にしたのはしかし、前記の諸著作から三百箇条の箴言を抽出して編纂したこのOraculo manual である。編纂者はグラシアンの友人で、考古学者にして美術蒐集家のラスタノザ。1647年フエスカで出版されたが、これは今に伝わる版本が一部もなく、1653年マドリッドで再度刊行されたものが事実上の初版であるが、これも大英博物館に唯一部残存するのみで、普通には1655年のその再販が最古の版本である。

 次に流布の確認されているスペイン語版本の刊年はオランダのアムステルダムで出た1659年のもので体裁題名とも初版の原本と全く一致する。

そしてショーペンハウエルが翻訳に用いた底本が他ならぬこの59年のオランダ版で、その本の原物は彼の死後遺稿の管理者にして最初の六巻本全集の刊行者でもあったグリーゼバッハの所有に帰した。

p.477から
 ショーペンハウエルは1825年から30年にかけ(37歳―42歳の期間)ベルリン大学に講師として勤めたが、この滞在の終り頃スペイン語の勉強に集中した。1831年、ヘーゲルの命を奪ったかのコレラの流行がベルリンを襲い、ショーペンハウエルは疫病を避けてフランクフルト・アム・マインに移住したが、翌年ここで『神託提要・処世の術』の訳稿は完成し、彼はこれをドレスデン在住の友人でスペイン語学者のJ・G・カイルのもとに送って出版社を斡旋してくれる様に依頼した。カイルはこれを当時自分の著作を手がけていたライプチヒの出版商エルンスト・フライシェルに託して出版をすすめたのだが、この交渉は結局失敗に終ったのであろう。1839年8月カイル宛てのショーペンハウエルの書簡によると、彼はこの友人に対して、日の目をみなかった原稿を送り返してくれる様にと頼んでいるからである。そしてこの話はそれきりそのままになってしまった。1860年ショーペンハウエルは71歳で歿したが、その翌々年、彼の遺産管理者となったユーリウス・フラウエンシュテットがライプチヒのプロックハウス書店から『神託提要』を上梓し、訳者の死後初めてこの訳稿は(完成以来三十年を経過して)世に出ることになった。しかしこの版本は、グリーゼバッハによれば校訂が不正確で信用のおけないものの由である。
 初めての批判版が出たのは、1891年のこと、ショーペンハウエルの六巻本の全集の編纂者であるグリーゼバッハが、全集の補遺として四巻の遺稿集を編纂したうちの第一巻としてであり、刊行者はライプチヒのレクラム書店だった。即ちグリーゼバッハの批判版全集は正篇・補遺共に初めからかのレクラム文庫として出版されたのであった。

p.480から
 鷗外とショーペンハウエル訳グラシアンとの出会に就(つい)て見るとなれば、まずこの書の刊年が1891年であったこと(グリーゼバッハの解題は1890年十月の署名がしてあるが出版は翌年に持越されたらしい)は軽々に見逃し得ない意味を有している。つまり鷗外がこのレクラム本を買入れた年はどんなに早く見積もっても明治二十四年以前には遡れないからである。即ちドイツからの帰朝後のことに係(かかわ)る。
 【何故】(【 】は傍点の代役)この書を購入したか、という点に就てはわかりやすい。鷗外はフラウエンシュテット編纂の1888年版六巻本のショーペンハウエル全集(プロックハウス版)を所有していた。
(メモ者注:さっきは「プ」ロックハウスで今回は「”ブ”ロックハウス」。Brockhaus なので「ブ」が正しい)
そこへ全四巻の未発表手稿から成るレクラム本の全集補遺刊行の企画を知ったのでこの四巻をまとめて購入した。そしてその第一巻が偶〻グラシアンの『神託提要』であったというだけである。

 クニッゲやラ・ブリュイエールを読んだのは青年時代の留学中のことであった。

だがグラシアンの場合は違う。彼はおそらくは明治三十六年に至って初めてこの書を手に取ったのである。鷗外旧蔵のそのレクラム本に、クニッゲ等とは違って書入れの文字や下線傍点の類が全く見られないという事実も、そのことを推測せしめる。

p.481
マキァヴェルリの『君主論』の梗概を『人主策』として抄訳している

p.484から
 本書に於ては鷗外が翻案抄訳した箇条の全部に亙ってその原章を検出邦訳し、それを鷗外文の口語訳の後に添えて比較対照の便に供するという試みをした。もっとも彼此(ひし)の比較対照には口語訳部分を以てではなく、原典の拙訳と鷗外文とを直接に対比すべきがむしろすじであろう。

 終りに一言するならば、鷗外の『智恵袋』『心頭語』『慧語』という三種の処世術箴言集を纏めて一緒に編んでみたい、というのはかねて私が念願としていたところである。此度講談社学術局が独自のその企画をたて、その編纂を私に依頼してこられたのは、私にとって願ってもない幸いだった。そこで喜んで嘱に応じ、ここにこのような口語訳つきの書が誕生した次第であるが、編纂の過程で私の甚だ我儘な言分を全て快く容認された担当各位、直接実務を推進された宇田川真人氏には厚く御礼を申し上げる。またこの企画の元来の動機は昭和二十年に奈良天理市の養徳社から刊行された同じ内容の(但し鷗外の本文のみを収録した)一緒にあった由である。養徳社にすでに同じ着想の実現があったことを知り、それにも深く敬意を表する次第である。

ウィキの

『森鷗外の世界』講談社 1971 - 訳・解説
• 改訂『森鷗外の「智恵袋」』講談社学術文庫 1980

だと『森鴎外の世界』の方は「学術文庫」ではないな。提案は講談社学術局から。講談社学術文庫のシンボルマークは、古代エジプトにおいて、知恵の神の象徴とされていたトキをデザインしたもの。なるほど、赤組ケツ社員が企画に関わっていたんだろうな。

養徳社が奈良天理ってことは天理教の出版社なのか気になって調べたら、予想通り天理教系の出版社だ。


会社概要 | 図書出版 養徳社
https://yotokusha.co.jp/company-overview
”社名
株式会社 養徳社
創立
1944年(昭和19年)
所在地
〒632-0016 奈良県天理市川原城町388
TEL(0743)62-4503 FAX(0743)63-8077
詳細はこちら
事業内容
下記刊行物の制作・出版・販売
雑誌・書籍・講演会CD
月刊雑誌 陽気(1946年創刊)
沿革
 養徳社は、「営利にとらわれずに良書を発行し、わが国出版文化の発展に貢献する」という天理教2代真柱の構想のもとに、昭和19年(1944)10月14日、天理時報社出版部を発展的解消、甲鳥書林、六甲書房、朱雀書林、古書通信社を吸収合併して、新たに株式会社として設立された。
それ以来、人文科学、文芸、学術部門などの出版事業に尽力したが、昭和27年4月、事業を縮小、以来教外向き出版としては、過去からの継続事業である一部の特別な学術書、専門書の出版を行う。
この部門では、昭和42年11月に、『朝鮮語辞典』の出版で、毎日新聞社より毎日出版文化特別賞を受賞している。
一方、昭和24年5月から、「だれにでも気軽に読める信仰と教養の家庭雑誌」をキャッチフレーズに、天理教信者向きの月刊誌『陽気』を発行するとともに、教内向き単行本を随時出版している。なお、『陽気』は信仰体験雑誌として天理教内外でも高い評価を得て、天理教文書伝道の一翼を担って現在に至っている。
” ※着色は引用者

解説についてのメモは終わり。解説が長かったから大変だった。重要箇所が多くて飛ばしまくるのが無理だしな。


p.3から
 緒言 ――本書編纂の方針について――

 本書は森鷗外による「智恵袋」「心頭語」「慧語」という三種の箴言集を一冊にまとめて収録したものである。ただその本文編纂の方針が従来の全集、選集、数種の単行本所収のもののいずれとも違っているので、それについて多少の説明を必要とするかと思う。
「智恵袋」は明治三十一年八月九日から十月五日まで、ほぼ連日という形で四十一日にわたって「時事新報」に連載され、「心頭語」の方は鷗外の小倉在住中、明治三十三年二月一日から一年あまり、三十四年二月十八日まで断続的に、八十七回にわたって「二六新報」に掲載された。両篇とも鷗外の生前には単行本等に再録されたことはなく、全集の編纂によって初めて世人の記憶のうちに蘇ったという遭遇を持つ作品である。
 殊に「心頭語」の方は新聞初出時には「千八」という匿名による執筆であったから、鷗外にこの様な著作があったということ自体、全集刊行時に初めて世の知るところとなったというのが実相であったかもしれない。「心頭語」はまた初出時には普通に言う意味での随筆や時評、学術的感想や研究余録といった感じの文章も入り混って、より雑然とした性格のものであった。ただその中から鷗外自身が、本書に収めた如き処世術上の箴言のみを抜き出して一冊の帳面に貼りつけてまとめておいた、所謂「切抜帖」なるものが存在した。昭和十二年八月岩波書店刊の「鷗外全集・著作篇第十八巻」においてはその切抜帖に基づいて本文が編成された。その巻の「後記」には「掲載紙を先生自身整理されて一章毎(ごと)に小題を附せられた切抜帖を森潤三郎氏が所蔵せられてゐるから、此(この)たびはそれに従ひ、未整理の部分は之(これ)を新聞掲載の順序によつて後に続けた」としてある。
 今回本書に収録したのは、その切抜帖において鷗外自身が小題を附したという部分のみであり、「未整理」と考えられた他の部分はこれを全て省略した。しかもこの「切抜帖整理済」というべき部分を、「智恵袋」の本文に直接連続せしめて、恰も両者が相合(あいがっ)して一篇を成す如き体裁を取ることにした。
 この様な一見我儘勝手なる本文の編纂を敢てしたのは次の根拠による。
『智恵袋』は実は鷗外の創作ではなくして抄訳乃至(ないし)翻案、或いはその双方の性質を兼ね備えた著述であって、これにはつまり底本がある。原本は十八世紀ドイツの著作家Adolph Freiherr von Kniggeという人のÜber den Umgang mit Menschen(『交際法』)という、1788年の出版物である。原本は啓蒙的処世術書として本国では甚だ有名なもので、今日でもまだ立派にその古典的生命を保っていると言えるものであるが、正統の文学作品ではなく、偶〻日本ではほとんどその存在を知る人がなかったから、「時事新報」紙上に原作者の名を伏せたまま「鷗外訳補」というふれこみで「智恵袋」が連載された時にも、また後に全集に収められた時にも、原本とその翻訳乃至翻案という関係に気づいた人はいなかった。

訳補(やくほ) とは? 意味・読み方・使い方 - goo辞書
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%A8%B3%E8%A3%9C/

やく‐ほ【訳補】 の解説
[名](スル)原文に不足な部分を補って翻訳すること。

出典:デジタル大辞泉(小学館)


あくまで補ってなんだよな。原文と完全に無関係な記述を足すのは訳補ではないな。
本書の『交際法』=『智恵袋』対照表にて、
『智恵袋』について、

p.490
「(五十九 退屈 対応原文無し)」なのは完全に創作だな。なので一部訳補が正確。

『心頭語』についても、

p.505
”二百十一 貴人(以下の全項目にわたってそこから要旨を抄記した長い一条)進みて貴人に求むるものは……

なら要約なので問題なさそうだが、

p.498

(以下恋愛に関する心頭語四箇条はクニッゲの中に対応する原文無し、日本の実状に即した鷗外自身の意見)
百三十七 恋愛
百三十八 不如帰
百三十九 無愛の婚
百四十 先愛の禁

は全く訳補ではない。鷗外自身の意見が読める箇所である。

 鷗外は明治三十一年十月に「智恵袋」という名目でのクニッゲ氏『交際法』抄訳の筆を一旦中断したのだが、一年半ほど間を置いて「心頭語」の執筆にかかった際、自分の脳裡から紡ぎ出したエッセイに混じえて、再度クニッゲの原書を取り上げ、さきに中断した部分のあとを続ける形でまたこれが抄訳を作り始めたのである。「切抜帖」に集められた部分というのはまさにこのクニッゲの原書からの抄訳部分にあたるものである。
 従って、「智恵袋」のあとに直ぐ続けて「心頭語」の「切抜帖」部分を置いた本書の編成においては、鷗外が抄訳を作っておいた限りの『交際法』の訳稿の全部が、原著本文の配列通りに復元されて並べられたことになる。鷗外の切抜帖に洩れていたらしく、全集版の「心頭語」でその帰属を決めかねていた些少(さしょう)の補遺的項目も、原著の配列に復元するという規準を立てた以上はそれを然るべき位置にはめこむことは容易であった。
 要するにここに成立したものはクニッゲ原著『交際法』の鷗外による自由な翻案的抄訳を総て拾い出して原著の目次に一致する形で編纂したものである。既にその様な編纂者の私見に基づく本文構成なのであるから、一歩を進めて後の検索の便利を考慮して鷗外訳文の全項目に通し番号を付した。

それで古風な文語体の文章を単に現代語訳するというのではなく、語註、事項註及び一部章句の解釈や敷衍・補説を取入れた形での、全文の謂わばパラフレーズとでも呼ぶべき口語訳作成を敢て試みることにした。

パラフレーズ(paraphrase)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%BA/

パラフレーズ【paraphrase】 の解説
[名](スル)

1 ある表現を他の語句に置き換えて、わかりやすく述べること。

2 音楽で、ある楽曲を、他の楽器のために変形・編曲すること。また、その曲。敷衍 (ふえん) 曲。

出典:デジタル大辞泉(小学館)”


(緒言)p.7から
 「慧語」というのは、明治三十六年三月一日発行の雑誌「新小説」第八年第三巻から、第四、第五、第八、第十一、第九年第二巻まで六回にわたり、「癡人(ちじん)」の署名で掲載されたものである。これもやはり西洋の箴言作家の作品の自由な翻案的抄訳で、原本はBaltasar Gracian原著、A. Schopenhauer独訳のHandorakel und Kunst der Weltklugheit(『神託提要・処世の術』)である。鷗外の抄訳した部分は底本の配列と順序が一致していないので、この場合には原本の構成にこだわらず、鷗外の訳稿の順序をそのままに本書の本文とした。各項の通し番号も鷗外の付したものである。但し鷗外は最終回の掲載で通し番号がどこまで続いたかを忘れてしまい、「既出の慧語には数目ありき。癡人の癡(ち)なる、今偶〻(たま〱)其数を忘る。これを廃する所以(ゆゑん)なり」という断り書をして第四十六項以下は通し番号を省略した。本書では鷗外が其数を忘れなかったならばこうなったはずだという番号を復活せしめて一貫させた。

さすがに46は偶然だろうな。46以下は省略ってことは45までは鷗外は番号を付したってことだ

 本篇の口語訳に於ては一つの試みとして、鷗外原文の口語訳各項目の後に、ショーペンハウエルの筆になるドイツ語原文の邦訳をも添えることにした、ドイツ語原文と鷗外文との対応に於て、原文対翻訳という関係が必ずしも明らかでなく、鷗外による翻案補訂の度合がかなり強いと思われるものも二・三項目あったが(原文を「推定」と断り書きしたもの)、大部分の項目に於て鷗外の文はショーペンハウエル原文の簡潔な要約的翻訳であることが明らかにみてとれると言ってよい。この関係を確認するためには、むしろ拙訳による原典の訳文と「慧語」の本文とを比較しつつ読んで頂くのがよいかもしれない。ショーペンハウエルのドイツ文は、その独自の含蓄や一種の気息(リズム)を持った文体の調子までも考慮するときは、忠実なる邦訳はほとんど不可能というべきものだが、少なくともその意味・内容に就ては洩れなくこれを日本語に移すよう努力してみた。
    小堀桂一郎



『智恵袋』『心頭語』『慧語』
Ⅰ 原文篇

Ⅱ 口語訳篇
が分かれているのだが、備忘録(メモ)においては離さずにメモる方針だ。



  序言
  自ら定むる価(自分の評価を決めるのは自分だ)
  無過の金箔(完全無欠などという評判はかえって危い)
 人並(十人並みということ)
  人の短(他人の欠点)
  人の長(他人の名声)
 独り負ふべき荷(泣言を人にもらすな)
  幸に処する道(幸運を得た時の心得)
 自信(自信を失うな)
  人にもの乞ふ事(助力を乞うべきか)
  慌てざること(咄嗟の対応)
 妄語(約束を守れ)
  物を蔵むる処(身辺の整頓)



  世話(世話をやくことの意味)

p.38
十三 世話
 人の終(つひ)に汝を棄てざらんことを欲せば、汝先(ま)ず人を棄てざれ。世の交際をつとむるものは、多くは是れ世話好(ずき)にて、世話好ほど人に調法(てうはふ)がらるゝものはなし。遁世者(とんせいしゃ)ならぬに人を棄て人に棄てらるゝことは、利を好む人の上に多し。堕落の道なり。

(口語訳)
p.192
 十三 世話(世話をやくことの意味)
 他人から棄て去られたくないと思うならば、汝が先ず他人を見捨てないことだ。世に交際上手とされている人は、結局は世話好きなのである。世話好きな人は、この世間ではまことに有難い調法な存在である。世捨て人でもないのに、他人を棄てまた他人から棄てられるという種類の人がいる。それは利害打算で交際をする人間に多い。これも堕落の一種である。

講談社学術文庫版の和訳と比較してみよう。

p.94
 十三 自分のことに興味を持ってほしいと思うのであれば、貴方の方でも相手に対して興味を持つべきである。


 自分のことに興味を持ってほしいと思うのであれば、貴方のほうでも、相手に対して興味を持つべきである。人との交際を好まず、友情や親切心や愛情のセンスに欠け、自分だけで生きて行くような人間は、他人に助力を望んだとしても、相手にしてもらえないものなのだ。


興味を持つことと、世話好きであることとは必ずしも重ならないので、鷗外なりの解釈なのだろうな。
本書には、クニッゲ『交際法』 森鷗外『智恵袋』及び『心頭語』対照表がある。
対照表では、小堀が訳したであろう、項目ごとの和訳が書かれている。

「(13) 他人から関心を向けられたくば、まず汝が他人に関心を向けよ」が
「十三 世話」に対応する。
13という数字まで同じなので、鷗外が『交際法』のこの箇所を元に書いたのは間違いないな。
この対照表は『交際法』の第三部の途中(第一章)までである。
第三部の第八章「秘密結社について、および、その成員との交際について」の箇所はない。
当然、鷗外は秘密ケツ社の箇所は採用していない。箴言集に秘密ケツ社の箇所を採用したらおかしいからな。それに秘密ケツ社の箇所をもとに書いたら、元ネタがバレやすいからな(笑)




 打明くると隠すと(心を打明けることの限界)
  興ある対話(談話上手ということ)
  諛はで誉むること(人の褒め方について)
  客の持帰る物(談話によるもてなし)
  後言(蔭口について)
  罵俗(世をののしること)
  逸事(逸話の虚実)
  人の家の噂(他家の噂)
  貶斥(人をおとしめること)


  善く談ずといふ事(話上手について)


p.43
 二十三 善く談ずといふこと
 善く談ずとは饒舌(ぜうぜつ)の謂(いひ)にはあらず。世に饒舌家あり、その談は底止(とめど)なく敵手(あひて)を嫌はず。座中(ざちゅう)に新(あらた)に来るものあると早く去るものあるとを顧(かへりみ)ることなく、人の話の腰を折り、我(わが)話の種子(たね)を尽(つく)して飽くことを知らざるなり。これは筵席(えんせき)の厄介(やくかい)ものなるべし。善く談ずるものは少き語(ことば)に多き義を含ませんことを欲す。その言(こと)は簡(かん)なり約(やく)なり、而(しか)も味(あぢはひ)あるなり。一(ある)哲学者の自ら文を評せしを見るに、我文は意義と文字と合掌の如くにひたと合はんことを期すと云へり。談ずるにも此心持あらまほしきものなり。善く談ずるものは又(また)色彩を傅(つ)け気勢を作(な)して、左程(さほど)ならぬことを興ありげに聞(きか)せ、時としては無中に有を生ずる手段をさへ施すなり。


p.198から
 二十三 善く談ずという事(話上手について)
 話し上手とは即ちおしゃべりのことではない。世にはおしゃべりという種類の人がいて、この種の人の話は相手かまわずであり、一旦始まるともう止めどがない。一座の中には後から来てその場の話題をのみこめていない人もあろうし、早めに席を立たねばならぬ人もいるであろうが、それには一向おかまいなく、他人の話を途中でさえぎり、自分のかかえている話のたねをまきつくしてしまうまではあくことがない。これは宴会の席での厄介者である。話上手というのは少ない言葉数で豊かな内容を語りうる人のことである。その言葉は簡にして要を得ていて、しかも味わいがあるものだ。或る哲学者が自分の文章作法について述べた言葉を読んだが、それによると彼は自分の文は内容の重さと文章の長さとが合せた掌(たなごころ)の如くにぴたりと合っているのを理想とする、と言うのであった。談話の場合にもこの心がけがほしいものである。話上手の人というのはまた自分の言葉に色を施し、はずみをつけて、些細な話題をも面白そうに聞かせ、時としては無から有を生ぜしむるようなこつをも心得ているのである。

本書巻末の対照表より、
「(21) 長すぎる話、退屈な話を避けよ」に対応。この(21)には「二十四 寡言の得失」にも対応する


 寡言の得失(無口なることの利点と弱点)

  底なき嚢(底なし袋の如き人に注意)
  我上(自分のことだけを話題にするな)
  操持(節操について)
  ひとつ話(同じ事を二度言うのは恥だ)
  猥褻(猥談について)
  問(人に物を問う事)
 怒らざる事(怒りで他人を説得はできない)

 宗教(宗教を話題にする時)
p.47から
 三十二 宗教
 宗教の事は、人の衝突せんことを恐れて、絶(たえ)てこれを口にせざるものあり、臆病(おくびやう)といふべし。又(また)敵手(あひて)の言(こと)に苟合(こうがふ)するものあり、諂諛(てんゆ)といふべし。宗教の事は談ずべからざるにあらず、談ずとも功(こう)少かるべきのみ。その範囲内には一席の談話もて左右すべきもの少きなり。そが上縦(たと)ひ人の信ずるところの箇条よりこれに連係(れんけい)せる儀式などまで、余所の立脚地より難破すべきものなきにあらざらんも、試(こゝろみ)に思へ、汝は何物をもてこれに代へんとするかを。汝はこれに代ふべきものなきにはあらざるか。然らば汝は人の弊衣(へいい)を奪ひて、人を裸身にするものなるべし。汝がこれに代へんと欲する所のもの他(かれ)の身に適(てき)せざるにはあらざるか。然らば汝は人の着慣れたる衣を奪ひてこれに窮屈なる新衣を強(し)ふるものなるべし。

p.204
 三十二 宗教(宗教を話題にする時)
 宗教・信仰の問題はとかく人と衝突する原因になりやすい。そこで用心して宗教についてはとにかく話題にするのを避ける、という人がいる。臆病な話である。また信仰に関してというと何によらず相手の言分を御尤(ごもっと)もとしておくという人もいる。これはへつらいというものである。宗教は話題にしていけないというわけではない。社交の場で論じても得るところが少ないというだけのことである。宗教に関しては社交場裡の一席の談話などで判断を下したりできるような項目が少ないのである。その上、人の信仰箇条からこれに関係のある儀礼的な形式の細部に至るまで、その宗教を奉じない人の立場から見れば、論破説服できるような事項がたといないわけではないにせよ、考えてもみられよ、それを論破したあと、代りに何を相手に与えてやれるというのか。汝には代りに差し出すべき何物も持ち合せはないではないか。そうとすれば汝は人の着物が汚いからといって脱がせておいて、さて裸にしたまま何もやらぬ、というのと同じである。代りに与えたいと思うものがあっても、それが相手の身に合わなかったらどうするのか。その場合は、他人の着慣れた服を奪っておいて、窮屈な、身体に合わない新品を押しつける、というのと同じことであろう。
 [
クニッゲ『交際法』の「(31) 宗教に関する談話について」に対応。
鷗外は「宗教」という訳語を採用したんだ。
以下によると「 最終的にreligionの訳語として確立するのは、明治10年代になってからだというのがほぼ定説になっています」なので、『智恵袋』(明治三十一年)よりも前だ。


環流夢譚 その6――「宗教」概念という近代の神話
DJ プラパンチャ
2024年12月29日 22:15
https://note.com/prapanca_snares/n/n2f7b49b43062
”日本の場合だと、「宗教」という語の用例をたどっていくと、明治維新あたりで途絶えてしまいます。確かに、明治以前であっても、仏教文献には「宗教」という文字列は登場します。しかし、その意味は明治以降の「宗教」という語の意味とは全く異なっていました。

 もともと「宗教」は「宗」と「教」の二つの概念から成り立った複合概念でした。「宗」とは、仏陀に由来する「根本的真理」を意味し、まずは唯一のものです。インドで誕生した仏教の真理の核心が「宗」と名づけられるのです。そして、「宗」は仏教を信奉する人によって主体的に体得されます。これに対して、「教」はその真理を言葉で説き表わすことを意味します。「教」は真理を他者に伝えるために言語化されたものです。根本的真理は唯一であってもその説き方はいろいろ考えられるので、「教」は複数ありえます。すると、「宗教」という概念は、「根本的真理」と「言葉で説くこと」という二つの概念から成り立つことから、「根本的真理」の「教え」という意味を持つことになります。そこで、もともとは元来唯一であった「宗」も、次第にさまざまな「教え」が成立するにしたがって、意味が変わってきました。その結果、「宗教」は客観化しうる複数の仏陀の教えという意味をもってきたのです。

岩田文昭・碧海寿広編『知っておきたい日本の宗教』ミネルヴァ書房、2020年、p.6、太字引用者

 このように、「宗教」という文字列は明治以前からあったものの、仏道やキリスト教やイスラームなどを一括りにするジャンル概念では全くなかったのです。

 では、なぜ「宗教」という新しい概念が明治維新前後に湧いて出てきたのか。もうお気づきの方も多いでしょう。「宗教」というのは、religionやreligieといった西洋のことばの訳語として、新しくつくられたことばなのです。「宗教」という概念は、日本が「開国」によって西洋諸国と本格的に接触していくようになるなかで生み出され、使われるようになった新しい概念だったわけです。

「でも、江戸時代にも宗門人別帳とか宗旨改というものはあったよね。『宗門』や『宗旨』といった概念であれば、religionと同じではないにせよ、それに近い概念だと言っていいんじゃないの」と思う方もおられるかもしれません。確かに、「宗門」や「宗旨」といった概念は、religionと無関係だとは言えません。しかし、「宗旨」や「宗門」という概念は、あくまでも公権力によって支えられた行政用語でした

 例えば、江戸幕府が出したおふれ(法令)をまとめた『御触書集成』の「宗旨之部」を見てみると、近現代人が考えるような個人の「信仰」を問題にしているのではなく、家が所属する宗派やその治安取締りを焦点にしたものであることは明らかです。また『御触書集成』には、「宗旨之部」のほかに、「寺社之部」「祭礼之部」という箇所もあります。もしreligionと「宗旨」が同じであれば、これらはひとまとめになっていないとおかしいのですが、そういう切り分け方は全くなされていないし、意識もされていないのです。

 さらに言えば、「宗門」や「宗旨」という概念には、仏法の諸宗派や「きりしたん」は含まれていましたが、儒教や武士道や村の神社などは含まれていませんでした。これらは、個々の家が檀家として属する宗派ではないし、寺檀制度によって行政的に統制されるものとは異なるからです。当時は儒教は「学問」と呼ばれていたし、村の神社やそこで行われる祭りも、家の「宗旨」とは別のなにかだったわけです

 もっと言えば、明治時代前半の日本では、religionという概念をどうにかこうにか理解したり、日本語に訳そうとしたりしたのですが、このことばは最初から「宗教」と訳されていたわけではありませんでした。religionは当初は、「宗門」「宗旨」「教法」「聖道」「教門」「法教」「教法」「奉教」「神道」などなど、様々に訳されていました。「宗教」という訳語はそのなかの一つにすぎず、いろんな対抗馬が存在していたのです。「宗教」という語がそれらの対抗馬をしりぞけて、最終的にreligionの訳語として確立するのは、明治10年代になってからだというのがほぼ定説になっています(この説が妥当なものであることは、近年の研究である[長沼 2017]によっても確認されています)。

 もし、religionと明治以前の「宗旨」や「宗門」がほぼ同じなのであれば、dogを「犬」と訳したりcatを「猫」と訳すようにして、「宗門」とか「宗旨」と訳せば、それで話は終わっていたはずです。しかし、実際にはそうならなかった。明治10年代までいろんな試行錯誤が続いていくことになるわけです。このような経緯は、当時の日本の人々にとって、religionという概念が未知の新しいモダンな概念であったことを物語って余りあります
[中略]
ついでに言うと、「仏教」ということばが現在のような意味で用いられるようになるのも、明治以降のことです。どういうことかというと、「仏道」「仏法」「仏教」ということばは、どれも大昔からありました。しかし、最も普通に用いられていたのは「仏法」や「仏道」の方であり、「仏教」は限定的な用い方をされていました

「仏法」は仏や菩薩や教義や修行や祈祷や儀礼や僧侶や寺院などなど、仏に関するすべてを包み込むことばとして広くもちいられていました。「仏法」や「仏道」が実践に重心を置いた語であるのに対して、「仏教」ということばは仏典に書かれているような文字化された教えに重心を置いた語でした[島薗・鶴岡 2004: pp.192-193][クラウタウ 2012: p.109]。

 それでは、もともと「仏法」よりも使用頻度が低く、意味の範囲も狭かった「仏教」ということばが、なぜ現在のような形で広く用いられるようになったのか。ここには、19世紀の世界に生じた変化が大きく影響しています。19世紀以前の「人類」は、「インドやネパールやスリランカやチベットや東南アジアや中国や朝鮮半島や日本などのアジアの広大な地域には、“Buddhism”という『同じ一つの宗教』が広がっている」という認識を持っていませんでした

 19世紀以前にも、ヨーロッパの探検家や航海者や商人などが、ビルマの“Godama”とか、シャムの“Sommona Codom”とか、バリ島の“Khodom”などについて記してはいます。16世紀のポルトガルの冒険家のフェルナン・メンデス・ピントなんかは、中国と日本ではXaca(釈迦)・Amida(阿弥陀)・Gizom(地蔵)・Canom(観音)という四体のfatoqui(仏)と呼ばれるdeus(神)をbonzo(坊主)が崇拝しているなどと記しています。しかしそこには、アジアの広大な地域には、“Buddhism”という「同じ一つの宗教」が広がっているという認識はありませんでした[クラウタウ 2012: pp.18-21]。

 日本ではどうだったのかというと、明治以前にも、仏法は「天竺」(今で言うインド)という場所に起源があり、「震旦」(今で言う中国)を経て「本朝」(今で言う日本)に伝わったという認識はありました。「本朝」の仏法や、「本朝」の高僧について語る書物が大昔から書かれてきたことも事実です。しかし、アジアの広大な地域には、“Buddhism”という「同じ一つの宗教」が広がっているという認識は、やはりありませんでした(そもそも明治以前は「宗教」という概念自体がなかった)。

 19世紀にはそうした認識が新しく生まれ、“Buddhism”というカテゴリー概念が新しく生まれ、“Buddhism”は「世界宗教」だという認識(この認識も新しいものです)も生まれます。そして、この“Buddhism”の訳語として「仏教」という語が用いられることになります。そうすると、日本で行われているのも“Buddhism”=「仏教」の一種なのだということになりました。
かくして、明治以前に狭い意味で用いられていた「仏教」という語とは異なる、新たな意味あいを帯びた「仏教」という概念が広く用いられていくことにもなったわけです。
” ※着色は引用者。太字は引用元を再現した。
]


難癖(難癖をつけるということ)
  書柬(手紙について)
  嘲弄(他人を嘲けること)
  担ぐといふこと(人をかつぐこと)
  半呑半吐(言いかけてやめること)
  間の悪さ(友人の間の悪さを救え)
  慰問
(以下、項目名はメモする箇所のみ記す)


p.60
 五十 稠人(ちうじん)中の不行儀
 衆人(もろびと)の相聚(あひあつま)れる処(ところ)にて、人々皆為(な)さばその不便甚(はなはだ)しかるべき事の、偶〻(たま〱)これを為す人の少きがために、姑(しばら)く寛宥(くわんいう)せらるゝことあり。汝は此(この)寛宥を受くることの恥辱なるを忘るべからず。講堂にて坐睡(ゐねぶり)し、音楽の筵(むしろ)にて人と語り、演劇の席にて背後(うしろ)の人の視界を遮(さへぎ)るなど是なり。

p.222から
 五十 稠人(ちゅうじん)中の不行儀(人が多勢集まる所での心得)
 公衆が多勢相会している所では、挙措(きょそ)進退にも特別の注意が要る。そうした場での不躾けなふるまいは多勢が一斉にそれをやったら収拾のつかない混乱に陥るものなのだが、たまたま一人くらいがそれを犯しても影響が少ないというので、公衆がその唯一人の違反者に対して寛大に、見逃している場合がある。しかしそうして大眼に見てもらっているということが、実は大いなる恥辱なのだということを忘れてはならない。その種の不躾の実例を二、三あげてみれば、講演会場での居眠り、音楽会の会場での隣席のつれとのおしゃべり、演劇見物の最中に後の席の人の視界をさえぎる如くにのび上ったり、物を高くかかげ持ったりすること、といった類である。


p.60から
 五十一 人々相妨ぐる事
 無秩序は人々相妨(あひさまた)ぐる道なり。西洋劇場の入口にて席札(せきふだ)を買ふものを見るに、後(おく)れて至るものは必ず前に至るものゝ背後に立ちて、帯の如くに相連(あひつらな)り、次を逐(お)ひて札を受く。我国の劇場などは此(この)秩序なきがために、肩相摩(あひす)り肘(ひぢ)相衝(あひつ)きて、その札を受くることは決して毫釐(がうりん)の早きを加へず。これ人々相手妨ぐるものにあらずや。

p.223
 五十一 人々相妨ぐる事(公衆の場での秩序)
 秩序を乱すというのは結局人々が互いに邪魔し合う結果を来(きた)す。西洋の劇場でチケット売場の様子を見ていると、後から来たものは必ず先に着いた人の後に立ち、整然と行列を作って待ちながら順を追うてチケットを買うという習慣が身に着いている。日本ではこうした秩序感覚が欠けているために、入場券売場の窓口で互いに押し合いへし合いして先を争い、しかもそれで決して人より先に札を買えるという結果を得ているわけではない。要するに無秩序によって人々が互いに相手を妨害し合っているだけなのである。
(チケットって席札とか札って言うんだな)


p.62から
 五十六 人の答
 世慣れたりと云はるゝ人にも、人に物問ひて答を待たず、又はその答の半ばに更に他事を言ひ出づるものあり。こは心ある人には厭はるべきことにて、その厭はるゝこと稀なるは、世に心ある人少きが故のみ。われはかゝる悪しき癖あるものに許すに、まことに世慣れたりとの称(となへ)を以てすること能(あた)はず。西洋諸国の宮廷に出入(いでいり)する交際家に此癖(このくせ)多きは、わが毎(つね)に怪(あやし)みおもふところなり。

p.226
 五十六 人の答(人の返事は最後まで聴け)
 社交には慣れていると見られている人々のうちにも、他人に物をたずねておきながら、相手がその答にうつらぬうちに、あるいは答を言い終らぬうちにまた別の事を言い出すような人がいる。こうした不躾は心ある人からみればまことにいとわしいことなのである。こうした不躾な振舞が悪く言われることがめったにないらしいのは、つまりは心ある人が少ないからであろう。相手の答をも心して聞いていられないような人に対しては、他の面でいかに社交に慣れているように見えようとも、交際上手という評価を与えることは私にはできない。西洋諸国で宮廷の如き上流社会に出入している紳士の中にも此種の癖はよく見うけられるのであって、これも私の常に不思議に思うところである。

せっかく答えてくれているのに聴かないのは失礼過ぎるし、次からは答えてくれなくなるかもしれない。なので気をつけないとね


 p.63
 五十七 はたを引立つる事
 はたを引立つること(原文ママ)、即ち傍(かたはら)なる人にその長を示すべき機会を与ふることは、まことに世慣れたる人の所為(しよゐ)の中にて、最も労(らう)少くして功多きものゝ一なり。われは世に此(この)一事を以て通人(つうじん)若(もし)くは訳(わけ)知りの名を博(はく)し得たるものあることを疑はず。

p.226から
 五十七 はたを引立つる事(周りの人をひき立てるという事)
 はたを引立てる、という表現がある。つまりパーティなどの席上で、自分の傍に居る人に、その人の優れたる面をあらわすような機会を作ってやる、謂わば花を持たせてやることである。これは社交上手とされる人の振舞の中でも最も労少なくして功多きものの一つである。この程度の社交的心得があることのみを以て、世間に「通人」とか「訳知り」という評判を得ている人が少なくないが、それも私に言わせれば少しも不思議ではない。


p.80から
 八十七 吝嗇(りんしょく)
 倹約なるものに吝嗇の名を負はすべからざるは勿論なれど、奴婢(ぬひ)の陰言(かげごと)と近隣の噂(うはさ)とには此別あること少(まれ)なり。
(中略)
最後に一の注意すべきことあり、画家に顔料(がんれう)を求め彫工(てうこう)に礬土(はんど)を求め学者に書を借らんことを請ひて見よ。彼等はその物の価(あたひ)に拘(かゝは)らずして、意外なる吝嗇の色を見するならん。クニツゲ(Knigge)のいはく、我に和蘭(オランダ)製の書翰(しよかん)紙一折(ひとをり)を乞はんよりは、其価に数十倍せる金銭を乞へと。是(これ)も亦(また)交際家の知らで協(かな)はぬ事ぞ。
(後略)


p.252から
 八十七 吝嗇(りんしょく)(けちの種々相)
 倹約とけちとは違うことはもちろんであるが、雇人のかげ口と隣近所の噂話の中ではこの二つには区別がついていないことが多い。
(中略)
 最後に、世間には一寸特別な意味合いの吝嗇が居ることを注意しておこう。例えば画家に絵具を貸せ、彫刻家に良い粘土を貸せ、学者には書物を貸せと申しこんでみるがよい。彼等はそれが別段特に高価貴重なものではなかろうとも意外に出し惜しみをするであろう。クニッゲがこう書いている。自分が持っているオランダ便箋一帖を呉れと言われるよりは、その値段の数十倍にあたる金をねだられる方が自分には気楽である、と。こんな心性のあることも世に立ち交ろうとする人は心得ていなくてはならないのだ。
(後略)

【クニッゲ登場。クニッゲ本を参考にしている著作にクニッゲが登場】


口語訳の箇所では、
p.276からの「百十六 つまさだめ(結婚相手の選択の動機)」で『智恵袋』は終わる。
p.277に「(以下『心頭語』切抜帖より)」とある。
『心頭語』(口語訳)は「百十七 早婚晩婚(早婚晩婚それぞれの利点・欠点)」から開始。


『心頭語』については特に記した箇所はなし。

『慧語』

p.157
 十五
 人の作為(さくゐ)せしところのものに瑕瑾(かきん)なきは莫(な)し。哲学然り、宗教も亦然らざること能(あたは)ず。故に名声を愛護するに巧(たくみ)なるものは、公言してこれを奉ずることを敢(あへ)てせず。況(いは)んや SPIRITISMUS(スピリチスムス), VEGETARIANISMUS(ヱゲタリヤニスムス), 其他幾多(いくた)の時尚(じしやう)俗習(ぞくしふ)をや。若(もし)夫(そ)れ此等(これら)を藉(か)りて纔(わづか)に人に知らるるものは、その名声豈(あに)以て名声と為すに足らんや。

p.380から
 十五
 およそ人間が考え出し作り出したものに何らかの欠点がないわけがない。哲学も、宗教も皆その例外ではない。だから自分の名聞を大切にするものは、特定の哲学・宗教を奉じていることをあまりあけっぴろげに言明したりはしないものである。まして降霊術だの菜食主義だのといった流行習俗に属するものは信奉を公言したりすべきものではない。そんなものの信奉者としてわずかに名を知られたところで、それは名声などと称するには値しないものである。

 原章(三十)全訳
 〈評判よろしからざる主義・事業にはかかわりあうな〉 更にいけないのはそれによって名声を馳せるよりもむしろあざけりをうけるような邪教淫祀に身を入れることである。分別ある人なら皆避けて通るようないかがわしいセクトが世間には少なからずある。しかし蓼喰う虫も好き好きとやらで、賢い人が捨てて顧みないようなものに限って手を出したがり、かつそうした珍奇な宗旨を奉じていることを以て大いに自己満足を覚えるという輩もいるのである。それによってその徒輩は案外広くその名を知られるかもしれないが、しかし名声といったものではなく、世の笑いものとして、なのである。用心深い人間はまともな哲学とてもあまり目立つような形で信奉を公言したりはしないものだ。ましてやその信者が世の物笑いになっているようなあやしげな教説などについては、それらはもう世間一般の軽蔑を買っていることで十分有名なのだから、具体的に此処にその名を挙げるまでもなかろう。

「具体的に此処にその名を挙げるまでもなかろう」なので、ショーペンハウエル原文の和訳には心霊主義と菜食主義の箇所はない。心霊主義(スピリチュアリズム)の誕生はバルタザールの著作より後だから心霊主義への言及は無くて当然である。
鷗外がわざわざ心霊主義と菜食主義と書いたことから、この2つに鷗外は否定的なのだろう。心霊主義に否定的なのは啓蒙主義的だ。クニッゲ本を元に『知恵袋』『心頭語』を書いただけある。軍医つまり医者でもある鷗外は菜食主義に否定的なんだな。
「降霊術」と訳すと意味が狭すぎるので心霊主義(スピリチュアリズム)と訳す方が良いだろうな。
『慧語』は明治三十六年(1903年)三月から三十七年二月にかけて、雑誌「新小説」に六回分載された。
1848年のフォックス姉妹のハイズヴィル事件より後だ。
神智学協会ができた1875年よりも後でもある。
なので、心霊主義(スピリチュアリズム)と訳しても問題無し。
1832年にショーペンハウエルが『神託提要・処世の術』の訳稿を完成させた。


Spiritismus – Wikipedia
https://de.wikipedia.org/wiki/Spiritismus

Spiritismus(ドイツ語)の日本語訳、読み方は
https://kotobank.jp/dejaword/Spiritismus

Spi・ri・tis・mus, [ʃpiritísmυs]

[男] (-/ ) 精霊崇拝,心霊信仰.

出典 プログレッシブ 独和辞典


時尚(じしょう) とは? 意味・読み方・使い方 - goo辞書
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%99%82%E5%B0%9A/
” じ‐しょう〔‐シヤウ〕【時尚】 の解説

その時代の好み。時好。

「—に適するの大文字を作り得る者あらば」〈竜渓・経国美談〉”



p.169
 五十二
 敵の我を小にするは我が拙きなり。若(も)し我(われ)巧なるときは、敵をして却(かへり)て我を大にせしむべし。そは最も忠実に無間断(むけんだん)に我が当(まさ)に防ぐべきところ、我が当に悛(あらた)むべきところを指し示すものは、讎敵(しうてき)に若(し)くものなければなり。 
[無間断(むけんだん)=絶え間ない。]

p.420から
 五十二
 敵とわたり合ってその結果として自分の器量が小さくなってゆく様に見えるのは自分が拙いのである。自分の対応が巧みならば、敵の攻撃を受けることでかえって自分が大きくなってゆくのだ。なぜならば、絶えず執拗に我方の弱点を突くことによってそのありかを教え、我方が改善しておかなくては将来危い様な急所を指摘してくれるのは、最も敵意に燃えたつ敵にしくものはないからである。

 原章(八十四)全訳
 〈敵からも裨益(ひえき)を受けること〉 物事は何でもつかまえ所というものがある。つまり、触れれば手を切ってしまう刃先をではなく、安全な柄の部分でつかむものである。この呼吸は敵のやり口に相対した時にこそ最も重要である。知恵ある人にとって敵から受ける裨益は、愚かなる者が友から受ける助けよりも大きい。好意を以てしては成し得ない様な、艱難の山をつきくずすという事業を、敵意がやってのけたためしはしばしばある。敵によって己の大を成し得た知恵者も数多い。憎悪より危険なのは阿諛(あゆ)であって、前者はこちらの急所を指摘してくるのに後者はそれをかくしてしまう。知恵者は敵の憎悪を一つの鏡とする。それは味方の贔屓よりもよく物を写し、以て我が失策を予防し、或いはそれを改善せしめる。競争相手と敵意とを隣人に持っていれば用心の活動は活潑となる。
(裨益[埤益]:助けとなり、役立つこと。)

味方よりも敵の方が言いにくいことを言ってくれるからな。
「友人は知りたいことを教えてくれるが、敵は"知らなければならない"ことを教えてくれる。」(リスティックの研究)
原文の英語は
"Friends teach what you want to know.
Enemies teach what you need to know."


https://x.com/Chimaera925/status/814145687545778176 と続き
”Chimaera925/峨骨
@Chimaera925
孤独か。感じないな。孤独と感じる必要が無いから。必要であれば、それを感じる事もあるのかもしれないが。孤独や孤立、批判を恐れていては何も表現できないし、音楽やっている時にとっくに潰れていただろうな。表現なんてある種、エゴを押し通す事だ。何度も懐疑してへし折ろうとしたけどやめられん。
午前1:27 · 2016年12月29日

「好かれようが嫌われようが関係ない」そう思っている間は、他者の好意や嫌悪を非常に気にしている。気にしていなければ、そんな言葉は出てこない。全ての者に好かれるのは不可能だし、全ての者に嫌われるのも不可能だ。悪役演じて敵を作る事で丸く収めようって時にもな。他者は思い通りにならない。
午前1:32 · 2016年12月29日

だからこそ面白いってのもあるか。
午前1:33 · 2016年12月29日

他者を怒らせたり笑わせたり泣かせたり喜ばせたりする。これは人の心を動かした結果だ。結果はどうあれ、一人のちっぽけな人間が人々の心を動かす。これは実に面白いものだ。
午前1:38 · 2016年12月29日

孤独は大して恐れる程のものでもない。単なる静寂ならば良き隣人だ。思索と知識を深めてくれる。人の心が解らなくなる、これこそが危険だ。これが解らなくなれば、多くのものを踏みつけにし恨みを買い、人々が離れて行くだろう。それ以上に暴君となり他者を踏みにじる自身が許せんだろうな。
午前1:57 · 2016年12月29日

端から見ていて愚かで醜悪だと思ったものに自身がなってしまうというのは、想像しただけでも恐ろしいものだ。そして、そうなってしまった時には自身では気付けないものだ。他者が見えていれば、それなりの精度で他者が自身の鏡となるだろう、か。
午前2:00 · 2016年12月29日

解っていて見ないのと、解らず見えないのは別物。姿見が家にあれば必要な時に見れば良い。それが無ければ、自身の身なりの乱れを確認することが出来ない。人に尋ねれば良いか?人は相手に不快感を持たれるような言いにくい事をそうそう言ってはくれないものだ。
午前2:05 · 2016年12月29日

リスティックの研究/Rhystic Study[PCY] 友人は知りたいことを教えてくれるが、敵は知らなければならないことを教えてくれる。

MTGのフレイバーの中ではこれが一番印象に残っている。敵は実際の敵である必要はない。仮定するだけでそれについて知らねばならない事が解る。
午前2:20 · 2016年12月29日


末那識(まなしき)について、解説をお願い致します。 | 清森義行のブログ
https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12627053117.html
”人間は、どのように存在しているか、という点を掘り下げたのが、阿頼耶識(あらやしき)であったのに対して、

末那識は、阿頼耶識の上に働いて、歪んだ生命の動きを掘り下げたもの、と言えます。

「無我である真実の自己」が分からず、自分でないものを勝手に、「これが自分だ」と思い込み、自我を生み出した心です。

言葉を変えると、自我執着心であり、悪の根源とも言える心です。


末那識の、"末那(マナ)"とは、梵語の「マナス」を音写したものです。

梵語の「アーラヤ」を、"阿頼耶"と書いたのと同じやり方です。

マナスとは、「思い量る(おもいはかる)」という意味なので、「思量(しりょう)識」とも言います。

"こころ"を表わす心・意・識という語を厳密に使い分ける場合には、"意"を当てます。


では、「思い量る」というのは、何を思い量るのでしょうか。

末那識が思い量るのは、「自分の都合」です。


ただひたすら、自分のことだけを、寝ても覚めても思い量り、何事も自分中心に物事を考える心です。

唯識学の入門書として、有名な『法相二巻抄(ほっそうにかんしょう)』には、

『凡夫の心の底に常に濁りて、先の六の心は、いかに清くおこれる時も、我が身、我が物という差別の執を失せずして、心の奥は、いつとなく汚れる如きなるは、この末那識のあるによりてなり。
末那識は、ひがめる心なり。末那は、阿頼耶の見分に向かいて、これを、我、我と思う。この外に物を知ることなし』


的確に、簡潔にまとめられた名文で、末那識を教えています。

末那識とは、ただひたすらに自分のみを愛着し、執着して、他を認めたがらない、我執の"こころ"である、と言えます。

末那識とは、

言葉を変えると「自我執着心」であり、「無意識に、自分に対して『俺が俺が』と執着する心」と言い換えられます。

そして、「この心は、四六時中、働いて休まることがない」と唯識学では教えます。

これを「無間断(むけんだん)」といいます。

熟睡している時も、気を失っている時でも、いつも働いています。

末那識の働きを、一つの例えでいうと、多人数で撮った同窓会や、クラスの集合写真でも、或いは数人で撮った家族写真を手渡された時でも、

誰もが、例外なく、先ず最初に自分を確認して、それから他の人物に目が移って行くのが普通です。

たとえ恋人と写っていても、
たとえ最愛の孫達と写っていても、
先ずは自分を確認することから、私達は始まるのです。

これは、無意識の心である末那識が働いているからであると、唯識学は教えます。

私達は自分に一番の関心があるのであり、

自分を無意識に、とにかく感じたい、知りたいのです。

自分中心の心が、"末那識"であり、

この末那識の自己中心性を、4つに分析したのが、根本煩悩と言われる

我癡(がち)
我見(がけん)
我慢(がまん)
(があい)

であります。

これを「四煩悩」と言い、末那識と、いつも一緒に働く、中心となる煩悩であります。 
” ※着色は引用者

仏教では愛は悪。


p.169
 五十三
 PHOENIX(フヨニツクス)は霊鳥なり、焚(や)けて又火中より起(た)つ。早く名を成しし士も、久しく一事を為さざるときは、伎倆(ぎりやう)おのれの下に在るものに凌(しの)がるることを免かれず。再び火中より起つ用意ありて始て可なり。

p.421から
 五十三
 フェニックス(不死鳥)は霊妙な鳥である。火にやけてもまた灰の中から立ち上って生きるという。早くに名声を得たものも、久しく業績を出さないでいると、才も技も自分に劣る後進のものに追い越されよう。灰の中からまた立ち上るほどの気迫があって初めて真に不朽の名を成すことができる。

 原章(八十一)全訳
 〈才能の光を蘇生させること〉 これがフェニックスの特有の力である。業績はいかにすぐれていようと古びてゆく。それと共に名声も古びる。後から来る者は、その中身は凡庸でも人目に新しければ、それを以て先行の古くなった偉業を見下す様になる。故に、英気に於て、才能に於て、冒険に於て、全てに於て再生を企てよ。新たなる光を帯びて登場し、太陽の如くに日日に新たに立ち上れ。また己の才能の見せどころを時々取り替えるがよい。そうすれば見えなくなったところに対しては要望が生じ、新たに見えてきた部分に対しては喝采がわき起る。
(「日日」なのはおそらく、p.421の「日」の直後が次ページの「日」だからだろう。
本当にケツ社員[であろう人]は不死鳥が好きだね(笑) 元ネタのショーペンハウエルとバルタザールも怪しい。重要なのはこの箇所を鷗外が採用したことだ。
『慧語』の備忘録は以上だ


(本書の備忘録は終わり。『交際術』と同じく大当たりだった。読むきっかけとなった紹介者[ワクワクさん]に感謝。

読むきっかけの呟き(存在を知らないと読みようがないのでこれがきっかけ):


『人間交際術』は元・元祖イルミナティの重鎮クニッゲが書いた今も役立つ本(鷗外と関係あり)。元祖イルミナティ資料集。元祖イルミナティ会員フーフェラント『マクロビオティック(長命術)』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-595.html

ワクワクさん
@uxskf
森鴎外と言えばクニッゲ

智恵袋
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午後8:59 · 2023年11月2日
·
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MitNak
@Mit3279
詳しく聞きたいです。ちょうど医学者としての鴎外を調べてるので。ちなみにこの男は💉の狂信者です。
午後9:04 · 2023年11月2日
·
310
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ワクワクさん
@uxskf
https://ir.lib.shimane-u.ac.jp/ja/list/department/037002/Departmental%20Bulletin%20Paper/p/21/item/45015


ここが詳しいかと

イルミナティの重要人物のクニッゲを森鴎外が翻訳したりしてたって話ですね
午後9:06 · 2023年11月2日
·
430
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[
森鴎外って西周と親戚って時点で怪しいよね。この名前がまさに「西」をあまねくせんみたいな名前通りに、日本語を誤訳で破壊し続けている。目イソンってマジ迷惑だな。
2人とも津和野人脈だよ。
島根の津和野=山陰の小京都。
森鴎外、西周、大国隆正(平田篤胤門下)、福羽美静(大国隆正門下。明治天皇の侍講)の出身地。玉松操(元・真言宗醍醐寺僧。岩倉具視の腹心)も大国隆正門下。

リンク先は、
「お探しのページを表示できません

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なのでリンクを張りなおした↓

水内透
山陰地域研究(伝統文化)第三号 一九九五年三月
森鴎外研究 アードルフ・フォン・クニッゲ ―森鴎外の『智恵袋』との関連において―
https://ir.lib.shimane-u.ac.jp/45015
からダウンロードして下さい。



以下、参考資料


参考資料


森鷗外の箴言集『智恵袋』『心頭語』『慧語』の人間知
Kent Nishihara
Kent Nishihara
2017年1月6日 21:20
https://note.com/kent248/n/na744c4464d3d
”小堀桂一郎訳・解説『森鴎外の「智恵袋」』(講談社学術文庫)は、森鷗外の処世術箴言集『智恵袋』『心頭語』『慧語』と、小堀桂一郎によるその三作の口語訳によって構成されている。

小堀桂一郎の委細を尽くした「解説」によると、鷗外の『智恵袋』と、その続編にあたる『心頭語』という二つの箴言集は、「実は鷗外の創作ではなくて翻訳、……訳者の自由な筆削や補訂の多分に加わった、翻案的抄訳とでも呼ぶべき作業の産物」である。すなわち、「鷗外の二つの処世哲学的箴言集は要するにクニッゲ作『交際法』の抄訳に他ならなかった」のであり、「鷗外の旧蔵書、つまり東京大学図書館の鷗外文庫中には古いレクラム文庫本のクニッゲが遺されており、その手沢本中には感想の書き入れや、翻訳に関係があるらしい符号等の書き入れもそのままに遺っている」のであるが、「虚心にこれに対するときは、まさにすてがたい人間知宝庫として今なお我々をひきつける」というのである。

第三の箴言集『慧語』も、「鷗外はこれらの箴言の原作者の存在を示唆してはいないけれども、これもまた紛れもない翻案の産物」であり、原作はスペインのイエズス会士バルタザール・グラシアンが著し、「ショーペンハウエルによって素晴しいドイツ語に移し替えられた……訳して『神託提要・処世の術』である」という。編纂者ラスタノザは、初版本に付した「読者に告ぐ」のなかで、「賢者の饗宴に携えて出る備忘録として頂きたい」と書き記している。ちなみに、『慧語』については、鷗外が翻案抄訳した箇条を検出・翻訳して、「口語訳の後に添えて比較対照の便に供するという試み」がなされている。

さて、この三つの処世術箴言集には、どのような処世的哲学が開陳されているのか。「鷗外が自分の苦い体験に鑑みて、かねて脳裡に勘案し蓄積していた諸々の処世知」でもあるだろう。小堀桂一郎の口語訳から、気の向くままに抜き書きし、思うところをメモしてみたい。

画像
《智恵袋》

【自ら定むる価(自分の評価を決めるのは自分だ)】
一人の人間の価値は他人によって傍から決めてもらうべきものではない、その人自身が自分で定めるものである。

善用すべき手段とは、自分のすぐれた能力は機会をつかんで程よく人に示せ、ということである。あまり控え目にして自分の有能さを秘めかくしていては君は人の目にとまらない。また能力を誇示しすぎた場合には、人に嫌われ妬まれる。

鋭い錐の尖が自ずからに袋を破って外につき出る如く、才知能力が衆に擢ん出るということは畢竟必然の勢としてそうなるのであって、殊更に遠慮すべきものではない。

ーー江戸時代の幕府行事年代記『玉露叢』にある、知恵伊豆こと松平伊豆守信綱が頓知をもって、まだ若年であった四代将軍徳川家綱の至難の御意に応えたことを、大老酒井讃岐守忠勝は、若い将軍が何でも出来ると錯覚することをおそれたという逸話をひいて、むしろ「危いと思うのは松平信綱の上である。主君が彼奴には出来ないことはないのだ、と思いこまれた場合、現実にその出来ないことが生じた時、いったいどうしたらよいのか」と諭すのは、いかにも鷗外ならではの翻案である。

【独り負うべき荷(泣言を人にもらすな)】
原則を以て言えば、泣言を決して他人に洩らさないこと、これが肝要である。全て不幸や心配事は汝が己一身の肩に背負うべき重荷である。
ーー概ね、きわめて当然のというか、奇をてらわない、ごく普通の基本的な心得、あるいは人間知が示されている。

【世話(世話をやくことの意味)】
他人から棄て去られたくないと思うならば、汝が先ず他人を見捨てないことだ。世に交際上手とされている人は、結局は世話好きなのである。

【諛わで誉むる事(人の誉め方について)】
阿諛追従にはしらぬかぎりは人を誉めるがよい、……おもねり、へつらいにならぬ限り、とはどういうことかと言うに、その人のほんとうによい所を見てとって単純にそれを誉めるのだ。

【善く談ずという事(話上手について)】
話上手というのは少ない言葉数で豊かな内容を語りうる人のことである。その言葉は簡にして要を得ていて、しかも味わいがあるものだ。
ーーというような技は、常人にはなし難いのではないか。

【寡言の得失(無口なることの利点と弱点)】
ーー鷗外がある大臣に引見されたときである。「主人の大臣と私とが一室に対い合って坐し、主人は葉巻をくわえて」、何も語らないので、鷗外が話すが、返事はない。結局、鷗外は「三十分以上、何の準備もないままに演説をさせられたようなもので、さてどんなつまらないことを述べたのであったか、思えば危っかしいかぎりあった」という経験談を挿入している。

【怒らざる事(怒りで他人を説得はできない)】
何事にもまず冷静を以て対処せよ。冷静ということが第一である。どんな場合にせよ、怒りを以て他人を心服せしめることはできないのだから。

【宗教(宗教を話題にする時)】
宗教・信仰の話題はとかく人と衝突する原因になりやすい。そこで用心して宗教についてはとにかく話題にするのを避ける、という人がいる。臆病な話である。
ーーばっさり「臆病」と斥ける姿勢には共感するが、その後についての態度には疑問なきにしもあらず。

【間の悪さ(友人の間の悪さを救え)】
或る席上で汝の友人が、著者本人がその座中に居ることを知らずに或る書物の非難めいた批評などをし始めようとする気配があったならば、汝は当の著者が座中に在ることをあまりあらわならぬ言葉遣いでその友人に注意してやるがよい。この種の例にはいたる処で出遭うものである。
ーー鷗外自身も「非難めいた批評」をはからずも耳にすることがあったのだろうか。

【筵会の往反(宴会出席時の心得)】
ーーここで鷗外はドイツ留学時代の失敗談を披露している。某国の国務大臣の奥方なる伯爵夫人に表敬訪問した時のこと、頃合いをみて「辞去の意を表すると、夫人がまあもう少し如何、と引きとめる。……自分は三度までも坐り直したのだった」のであるが、「伯爵夫人がまあもう少しと引きとめたのは、社交上の極く普通の挨拶だった」ことに後になって気づくというわけだ。京都の“上がってぶぶ漬けでも”を連想するが、洋の東西を問わず、今も昔も退散の潮どきは難しい。

【干栄(名誉欲の強い人)】【自惚(うぬぼれ乃至虚栄心)】【高慢(高慢の実体)】
ーーこうした性癖をもつ御仁を、鷗外の周り、すなわち、陸軍や官界の上層部に目撃したり、やむなく付き合わざるを得なかったり、あるいは迷惑を被ったりしたのだろうか、なかなか痛烈である。
「干栄」の人は、「その者が信ずるところの名誉が実は虚妄なることを決してその者の面前で口にしてはならない。其者はいつまでも汝のその失言に対する恨みを忘れずにいるであろう」と注意を促す。
「自惚」の場合は、「その真に賞讃に値するところを取上げて少しは褒めてやるがよろしい。冷遇して怒らせるのもつまらぬことである」「諌めたり戒めたりするのは余計なことである」と冷ややかだ。
「高慢」については、「もしまた彼の方から高慢に押しつけがましく近づいてきた場合は、敢然反撃してその高慢の鼻をへし折ってやるべし」と言うから、クワバラクワバラ。

【強情(強情人間二種類)】
賢いが強情だという型の人に無理を言われた場合、表面は相手の言う通りにしておき、かげではひそかに理にかなったやり方で事態を捌いておくがよい。彼は後になって、さきに自分の言い張ったことの非合理を悟り、汝が取ったやり方を是認するに至るであろう。

莫迦でかつ強情だという人間に関わり合って無理なことを押しつけられた場合、しばらく相手の言分を通しておいて、而して彼が失敗するのを傍観していればよい。

これとは別にここに一つの秘策がある。それは汝の方が人一倍の強情さを発揮して相手を圧倒することである。

【吝嗇(けちの種々相)】
ーー「最後に、世間には一寸特別な意味合いの吝嗇が居ることを注意しておこう」というので、不思議なことに、ここだけは原著者クニッゲの名前を出し、「自分が持っているオランダ便箋一帖を呉れと言われるよりは、その値段の数十倍にあたる金をねだられる方が自分には気楽である」と書いていることを例にあげて、「こんな心性のあることも世に立ち交ろうとする人は心得ていなくてはならないのだ」と教え諭している。

【暗愚(愚かさとは何か)】
ーー「その他多勢」の「潜在的善人たる大衆の存在」によって、「幾多の強力なる個人があまりに恣にその権力を発揮することを防いでいるのである」と述べるまではよしとして、「こうした無害な愚か者たちの扱い方は」云々とくると、支配者臭ふんぷんと言うほかない。

【老人対少年(若い人とつき合う老人の心得)】
御老人に対して忠告する。……老人はただ若い人に交ってその楽しむところを己も共に楽しめばそれで足りる。……また常に自分が若い人たちのために何かの点で役立つようにと心がけよ。
《心頭語》

【無愛の婚(愛情なくして始まったある結婚の話)】
ーーというのは、ヨハンナ・クレンム著『ヘロの燈』の物語である。鷗外はこの作品を「珍しい着眼と思いがけぬ構想とを以て」、「同居以前に相愛することなくしていきなり同居生活に入る」という結婚の問題を、文学作品に取り上げたもので、「日本人の立場からこの作品を読んでみると、いよいよ味わいの深いものがあることは争われぬ」と述べ、いわゆる西洋式と日本式の是非を、道徳問題の評論家や恋愛評論家に問いかけている。

【少時の友(竹馬の友の貴重さ)】
人の手足はとかげの尻尾とは違って、一旦切られたらもう再生することはできない。竹馬の友の交りも同じことである。少年時代の友人はかけがえなきものとして大切にせねばなるまい。

【同志(地位・年齢の相異と志の異同)】
ーー鷗外によれば「友人とは志を同じくする者のこと」であり、「一般に世間では社会的地位の高いと低い、老成と若年といった距りのある間柄には友人関係を生じ得ないと言っている」が、果たしてそうだろうか。鷗外は原著から離れて、『後漢書』の「逸民伝」を持ちだし、「世を捨てた隠者の厳子陵が旧友である後漢の名君光武帝に見出された時の故事」をあげ、さらに「唐の文人韓退之とその十七歳年長の友人孟東野とはこの年齢の差を忘れて、真に親しい友人同士として交際していた」という東洋の例をあげて、社会的地位や年齢差を超えた友人関係はあり得るとする。

【矩を踰えざる交(交際に於て限度を知ること)】
すべて限度を越えたものは見苦しい。交友関係もまた然り。松の葉は常に緑の色をかえず、口に入れて噛めば渋味がある。友情の表現もそんな風にありたいものだ。

【敵の残酷(敵の発揮する真の残酷さとは何か)】
恐ろしいのは、敵が党派を糾合し、あちこちに手を配って汝を社会の外に締め出し、生きながら葬ってしまおうという挙に出た時である。……ショーペンハウエルが焦立ったのも、自分の著作に対する学界のこの空気扱い、無視黙殺の態度であった。その結果彼の筆からは自ずからに憤懣と怨恨の気が溢れ出た。
ーーそのため、主著『意志と表象としての世界』第二版序文に、「ヘーゲルを中心とするベルリン大学の『哲学教授諸公』に対する猛烈な悪罵の言葉を投げつけ」、ショーペンハウエルは全著作中で一つの大きな汚点を残したことは争われない、と鷗外は惜しむのである。


およそ敵が我方に加えてくる残酷な仕打ちは、それがどんなにひどいものであろうと客観的にみて不公平なものである限り、決して時間の力に抗することはできぬものだ。時が経つうちには敵の残酷に過ぎたると我方の不遇に過ぎたるとの不均衡は必ずつりあいを回復して運命の公平さを実現するものである。

【敵降(敵は自潰して降ることあり)】
こうした敵の降伏はたとえて言えば病原菌が毒素を出し、その毒が一杯になることによって己れ自身が生活力を失う現象の如きものであろう。
ーー鷗外の比喩は卓抜である。

【危険(非常の際の対応)】
例えば福沢諭吉翁がその『福翁自伝』に記している幕末当時の回想に於けるが如く、向うから辻斬らしいのが来ると思って気迫も猛に徐ろに接近してゆき、すれちがいざまに駈け出して逃げる、といった奇計が功を奏することもあるであろう。
ーー鷗外は福沢諭吉の『福翁自伝』もやはり読んでいたんだ。

【貴人(貴人、高官、富豪、その他有力者とのつきあい方)】
ーー多くのケースをあげて、「貴人」とのつきあい方を開陳している。例えば、「貴人は大がい忘れっぽい。私の経験にも以下の如き実例がある」とか、「貴人には贈物などをするな」「策略を貴人に献ずることほど危険な話はない」「貴人の面前で他人の品評をしてはならない」「貴人が質問する場合、そこには往々に落し穴がひそんでいる」などと、至れり尽くせりであるが、鷗外ほどのエリートならいざ知らず、「貴人」とは縁なき衆生にとって無用の長物である。
《慧語》

ーー鷗外の『慧語』には、各項目に見出しは付されていないが、その後に添えられた、ショーペンハウエル原文からの小堀桂一郎による邦訳には見出しがあるので、便宜上その見出しを記して、抜き書きを書き留めたい。

【いささかも弱点なきこと】
人の身にそなわる才智能力の秀でたるところ多ければ多いほど、その反面彼の偶有する短所欠点はますます人眼につきやすいだろう。……むしろこの弱点を仮装して美点と化してしまうがよい。丁度シーザーがつねに月桂冠をつけてその禿頭をかくしていた故事の如くに。

【他者の期待をつなげ】
人は渇きを覚えれば井戸に行って飲む。そして渇きがとまれば即ち歩み去る。新しいレモンは金の皿にのせて卓子の上に供せられもしようが、汁をしぼって出したあとはあっさりと芥溜行きだ。……私が他人の期待を悉くかなえてやるときは、私はすでに飲み水を提供した井戸、汁をしぼり取られたレモンの運命を辿るのである。人に対する駆引の妙はたえず自分を頼りに思わせておくことである。

【意図を曖昧にしておくこと】
事業に巧みな者は、自分が右に行くか左に行くか、他人の眼には推測不可能なる様に振舞う。他人の眼から見れば、我が行動は秋の空の如くに見定めがつかず、我が内心は閉じられた扉の前に立つ如く窺うに由なし、というようにするがよろしい。

【時に右する如く、時に左する如くに行動せよ】
私が人前で左にゆこうとするが如き姿勢を見せるのは、実は右にゆこうと思うからである。これ兵法に言う牽制の如きものである。……まあ考えてみたまえ、真直ぐに飛ぶ鳥は必ず射落されるではないか。

【勝勢に乗じて運から離れよ】
幸運の肩車に乗った、と感じた時は、幸運の肩が疲れやすいものであることを忘れぬように。……退却に成功するということは突撃に成功するのとかわらぬ功名なのだ。

【事態に則した行動をとれ】
必要でないときは汝の知恵は働かせず、汝の力は用いずにおくがよい。力の節約は物理学の理法に従っていようが、また処世の道にもかなったことである。すぐれた鷹匠はひんぱんに鷹を放しはしない。その代り一旦放すとすれば必ず獲物を取ってくるであろう。そのような時機を見はからって放す。

【秋霜の気概あれ】
他人と相対した時は汝の心胆の剣がたしかに鞘に収まっている、必要とあらば抜く用意があるという気迫を感じとらせるがよい。……甘い蜜を蓄える性を有つ蜂が、他面その身に鋭い針を蔵しているのも故なきことではない。これも自然の摂理の一面である。

【行動と知性】
知恵深く慎重な人物は往々にしてこの逸機のあやまちを犯す。……今日なすべきことを為残しても、明日やればよいのだからーー、という言いわけが結局機会逸失を招くのであって、「明日があるからー」という言葉を口にしない人物は事を為すにあたっての失敗は少い。

【致命的でない程度のすきを見せること】
一切過失を犯さぬというそのこと自体が実は最も危険な過失なのだ。……処世の道に長けている人間はことさらに我身に一寸したゆるみを見せる。或いは突かれても痛くない程度の傷を作ってそれで敵方や嫉妬者を懐柔するのである。

【敵からも裨益を受けること】
自分の対応が巧みならば、敵の攻撃を受けることでかえって自分が大きくなってゆくのだ。なぜならば、絶えず執拗に我方の弱点を突くことによってそのありかを教え、我方が改善しておかなくては将来危い様な急所を指摘してくれるのは、最も敵意に燃えたつ敵にしくものはないからである。

” ※着色は引用者


記事公開後、ここより下に資料を追加するかもしれない



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