人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

霊学№80 この世は神の世界の舞台の演劇場所でもあり、舞台には善役もあれば悪役もある

 私は子供の頃は旧約聖書の神と称する声を聞いていたのですが、その神はこの世は【魂の修学場】であるとの話と、この世は【神の舞台の演劇場所でもある。】と聞かされました。

 

この世は魂の修学場であるので、神の舞台をも見せる

 

 その神の舞台には【善役】もあれば【悪役】もある。悪も神の舞台の演劇役者であると知らなければならない。もし悪役が居なければ、神の舞台も意味をなさない。魂の修学場とも成らない。正義の役は大根役者でも勤まる。見事な悪役を演じる者が在ってこそ、正義の主役も支えられる。正義とは何かも解る。見事な悪役を演じたならば、次の舞台には主演の善役にも取り立てる。

 

難しいのは善の役よりも悪の役である

 

 善役であろうと悪役であろうとも、神の舞台が終わればその化粧を落として【素の顔】に戻らないと行けない。その時、化粧を落としても【心の底】まで悪の役に染まっているならば、次の舞台に立たせるわけには行かない。

 この神の舞台に上がる役者には、この神の【筋書き】は一切渡さない。役どころだけである。この神の筋書きを知らずして、神の舞台に上がる役者は与えられた役をこなさないと行けない。この神の舞台には主演もあれば、ただの通行役もある。主演だから自分は高い魂とか、通行の役だから自分の魂は低いではない。役で有る。一瞬の通行役がその舞台を感動させるもある。

 どんな役でもその演技が真摯であるならば舞台は成功する。その時は、私はそうした者を次の舞台で取り立てよう。そうした役者が混然として神の舞台は成り立つ。要は各自が与えられた役割を筋書きも知らずにどれだけ見事に演じたかである。

 この神の舞台は全ての神や人民が演じているのではない。他の神々や舞台に立たない人民は観客である。どの神も私の筋書きを御存知では無い。この神が役者を使って演じさせる舞台は、幕が終われば神々や人民もこの神の筋書きに大拍手大喝采となるであろう。と告げられたなのです。

 

創造神から見れば本当の悪は無く、全て役の【化粧】

 

全ての【真相】は、この世の舞台が終わらないと解らない

 

 そのことに関しては大正3年旧7月11日の大本教神諭に、【今度の大事業(大望)は人民の知りた事では無いぞよ。神界へ出ておでます神にも御存知ないような深い仕組であるから。】があります。私が聞かされた内容と同じような意味です。

 そうした内容は【日月神示】を初めとして各種の神示にも出ています。日月神示等は【悪も抱き参らせそうろう】です。しかし、その内容では解るようで解らないでしょう。悪も抱き参らせそうろうとは意味が違っており、その化粧を落とすとは魂の汚れの洗濯であり【悔い改める】意味だからです。

 

悪は自分の魂を汚さないと、演じたくても演じられない

 

汚れたままの魂で行くか?。魂を【洗濯】するかの選択

 

 スピリチュアルで日常的に説く、何をしても神の愛で赦されますなどは魂の【洗濯】を何一つ理解していないのです。

 

魂を【洗濯】しないと、天国行きの【選択】が出来ない

 

 人は自分や自分の家族が悪たる者によって傷つけられた時、殺された時、相手が後悔して【悔い改める】ならば相手を赦す気も起きるでしょうが、何一つ悔い無いとなれば、とても赦せるとはならないでしょう。それが映画や舞台の中での悪役ならば、どの役者さんも元の舞台が終われば素顔に戻れます。映画や舞台では見事な悪役を演じて、舞台の正義の主演俳優を盛り上げてくれます。

 もしも人の魂がそうした役者のようなものであれば、今の世の舞台で殺されるとその役では舞台に復活は出来ませんが、その演目(舞台)が変わると次は違う姿で舞台に立てます。すなわち【輪廻転生】を起こすなのです。

 そうしたことを理解されていた某大行者さんは、自分を殺す人があっても恨まない。逆にありがとうと言うとまで言われていました。この世がいくら苦しくても、神罰の関係で自殺するわけには行かないのです。しかし、殺されるのであれば、さっさとこんな世とはおさらば出来るです。自分がいくら望んでも出来ないことを適えてくれたなのです。

 

魂は今の世で殺されても、次の世の舞台に復活している

 

 しかしこの世で悪を演じてしまうと、元の素顔になかなか戻れないが起きてしまうのです。それは黒蛇霊等に向かっていくら【改心】を薦めても、改心する存在はほんの僅かだからです。最後まで悪で死んでやる式です。とことんまで魂が腐りきるまで、悪に染まるなのです。

 

蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊等は、元神の姿に戻っていない

 

 私自身は神霊世界の一部分に過ぎませんが見聞して来て、どこにも本家本元とされる艮金神国常立尊様を見たではありません。為に、言霊師であった2番目の師匠の御祭神が【国常立尊】と称しておられましたので、その御神霊を拝見して、この御神霊が【国常立尊】様かと見誤ったこともあります。私が間違ったのは、その国常立尊と名乗る御神霊の類い希なる【奇跡力】を見せつけられたからです。後でその御神霊は【神仙界】の方と解ったなのです。

 

 私は伏見稲荷山でお世話になり、数々の【奇跡】を見て来ました。私が伏見稲荷山で見て来た奇跡的な事柄は、私の別Hpの【あなたの知らない伏見稲荷山】の中の【白狐のお話】に記載しています。その内容だけでもスピリチュアル標榜者の方が言う事柄とは違うと解るでしょう。

 それは神等は存在していないではなく、世に御神霊として出ておられる存在の活動証明のようなことです。スピリチュアル標榜ではなく、現実に霊的世界と向き合っている行者筋や霊能者の方が何故神霊を【蛇霊や狐霊】等と称しているのかを解る為でもあるのです。

 

私は蛇霊や狐霊の存在から、創造神の存在を確信した

 

現世御利益を得るのと、魂は創造神の元に帰るは別の道

 

このブログの欄外にありますリンクの【あなたの知らない伏見稲荷山】にある【白狐のお話】に載せています。

 

私達がこの世に生きていることが、神の舞台の役者であり

 

自分以外の他人の行動によって、善や悪や物事を学べる

 

 悪も役者だと告げられると、一見すると矛盾した教えに聞こえます。しかしこの世が魂の修学場だとすると、修学場には【悪】が存在しなければ【善】が学べません。天国界に入ってしまいますと、もう悪とは何かを知ることが出来ないのです。天国は悪を学ぶ場所ではないのです。悪を【卆業】して入る世界です。

 私はスピリチュアルが言うエンジェル(天使)などは使い物にならない者達と言っています。魂の汚れの意味を何も理解していないからです。南無妙法蓮華経(サンスクリット語で、魂たる根は泥の中に生きても、水面に汚れ無き白い花を咲かせる仏に私は帰依しますの意味)にしても、何を教えた言葉かです。【南無妙法蓮華経】と御題目を上げることではないのです。

 別にこの世は【南無妙法蓮華経の七文字】で創られたではありません。その南無妙法蓮華経の言葉の意味を知るならば、スピリチュアルが言う天使等はそれこそ泥池の中に沈めてやろうかです。例え自分はこの世の【泥】の中に生かされても、耐えたる者は見事な【華(花)】を咲かせるからです。

 

 私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から【私はそなたを社会の底辺に置く。そなたは社会の底辺を便所虫の如く這ってでも生き。社会の底辺で「人の心の在り方」を学びなさい。】と言われました。社会の底辺を歩く事で、私は【良心】の大切さを学んだのです。

 

悪の学びを知らないで、本当の善など解るはずもない

 

そこに大悪党の改心は、単なる善人よりも秀るが起きる

 

 私は霊界に関わって、単なる善人では【天国門】は開かないを知りました。また宗教が説く【我が宗派の教えを信じる者は天国で、異教徒は地獄に落ちる。】などもどこにも無いとも解りました。誰かを救世主と思っても、その人が【天国門】を開けてくれるではないのです。そこにあるのは旧約聖書で示される【自分が蒔いた種は自分で刈り取れ】の原則です。ハムラビ法典で在れば【目には目、歯には歯を】で自分が積んだ罪は自分に返る【カルマの原則】なのです。

 

人の肉体にはその【カルマ】を解消させる働きがある

 

 今日の霊学では天国界には第一、第二、第三があるとされています。仏教的に言えば第一は如来の様な世界。第二は菩薩の様な世界。第三は羅漢のような世界です。では、その如来と菩薩と羅漢の差はどこにあるのかとなります。菩薩の世界とは【世の為、人の為。自己を犠牲にして他人を救う。】から行ける世界と言えます。羅漢とは【他の人から尊敬される様な段階】を指します。単にあの人は良い人だではなく、尊敬される様な面です。

 だが、そこに菩薩と【如来】とではどう違うかがあります。それは【知恵でなく智慧】の差です。その智慧が【悟り】に繋がるからです。その智慧とは東大や京大等に入り、この国の指導者に成る為の学び的な知恵なことではなく、悟りに到る智慧です。

 ナザレのイエスは弟子達に【蛇のように賢くあれ】と言われたとされますが、蛇は【知恵】でもあるのです。しかし蛇の知恵では【智慧(真理を明らかにして悟りを開く)】とは成らないのです。逆に知恵があることで【悪知恵】を働かせて地獄に落ちるです。蛇の知恵からは脱却しないと行けないなのです。

 

蛇の知恵でいくら賢くても、悟りを得ることは出来ない

 

 その智慧の働きとは、日本神道で説く【一霊四魂】の【奇魂】の働きと言えます。自分がこの世の出来事を見ていて、どれだけ【思考】をするかです。直感だ!。直感だと言っているスピリチュアルの方の魂の点数を見ると低いが見受けられます。

 今の世に天国界に入る様な人は希だとされますが、スピリチュアルで説く天国とは本当の天国で無く、中有界の上階程度なのです。中有界の上階だと【輪廻転生】は免れないなのです。

 

直感に走りすぎると、この世の意味に気がつかない

 

 世紀の大予言者であった大本教の出口王仁三郎聖師は、【地獄を覗けば牧師や僧侶で一杯だ!】と残しておられますが、それは我が宗教の教えを信じれば天国だ!。そうした教えだけに終わったからです。それは自分が何の【思考】もしないから、奇魂がまったく働いていなかったのです。私はそれに今は【スピリチュアルの人】を足してあげます。

 

  日本の霊能者は、人が生前過度の【権力、金権、恨み、嫉妬、色情】などに走ると、死後にその魂は蛇霊化すると説いては来ましたが、スピリチュアルで愛ばかりを言っている人達も【蛇霊の容器】と化しているとされます。スピリチュアルは儲かるで、あちらこちらにセミナーが催されていますが、そうしたセミナーに行って黒蛇霊を付けられたという話はたくさんあるのです。

 が、今の神霊界を見れば多くの神霊は蛇や狐だらけではないかと言う反論は出るでしょう。それはスピリチュアルだけでなく、新興宗教に入信して黒蛇霊を付けられたの話も後を絶たないからです。

 そうしたことは日本の本物の霊能者ならば説きます。しかしスピリチュアル標榜だと理解出来ないなのです。スピリチュアルでは神の舞台の通行役にも上がれません。逆に神の舞台の【阻害】者と化してしまうのです。

 

 下記は過去に何度か出した図です。だがスピリチュアルに走ると、こうしたことも何一つ解らないのです。私は自分が出している内容が【絶対に正しい】とは言いません。だが、一考する余地はあるはずです。どうして大本教から【牛虎(艮)】金神とか【羊猿(坤)】金神が出されたかです。

 私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から【そなたにはこの神の力を何一つ与えない。】と告げられています。ですから奇跡的なことを見せるは、蛇霊の足元にも及びません。貴方が昨日の夜に何を食べたとか、誰と出会ったのか言い当てられません。そんなことはどうでもよいことだからです。

 

古来より正神に奇跡無し。言葉で教えるより道は無し

 

【邪の道は蛇】。どれだけ正しい教えであったかです

 

 

 こうした図は日本神道系の方から他にも出ているはありますが、スピリチュアルに走ってしまいますと、いくら見ても【理解】が出来ないのです。それは【蛇の囁き】が大きいからです。蛇霊がその人の奇魂の理解を妨げるからです。百回見ても千回見ても、その意味が理解出来ないのです。しかし、蛇霊が離れると意味が解って来るのです。

 

 

人は誰しも本当の神は【公正と正義】の存在と思いたい

 

 だが、この世のどこを見ても【公正と正義】の神は支配していない。 為に、ニーチェの如く神は死んだのか!。となります 。

 

私は神々に良心を見たのでなく、人の心に良心神を見た

 

 私は神霊世界を見て創造神を説く者ではありません。私は人の心の中に【良心】神を見たので、日本語と言う言葉に限られますが、日本語の仕組で【人に内在する良心神】を説いているのです。

 私に人には【良心神】があると見せた。その人達は神の舞台の通行役程度の方であったかも知れません。だが、私はそうした通行役の人達から良心の大切さを教えられたなのです。学びました。

 

 私の元にどこどこにこんな人が居られますと紹介されて来る方達がありますが、そんな紹介は要りません。そうした人を論評する必要もありません。何故ならばそのような人の誰一人として、人に内在する【良心】神など言わないからです。どれだけその人物が【奇跡】を現出させようとも、蛇霊や龍神達が見せる奇跡の力は解っています。

 

私は問う、貴方に愛は有っても【良心神】はあるのか?

 

 

 

 

 

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