【独自】虹波「猛毒、使用ちゅうちょ」 旧陸軍嘱託医師が学会誌に寄稿 治験前に毒性認識か 識者、医療倫理の問題指摘
国立ハンセン病療養所・菊池恵楓園(合志市)の入所者に戦時中投与され副作用を伴う死亡例が確認されている薬剤「虹波[こうは]」について、開発を担った旧第7陸軍技術研究所(東京)の嘱託医が戦後、「これは猛毒」「使うのをちゅうちょした」と学会誌に寄稿していたことが23日、分かった。治験前に薬剤の毒性を認識していた可能性があり、識者は医療倫理上の問題があったと指摘する。 医師は当時、慶応大医学部教授だった植村操氏(眼科)。「照明学会月報」(1947年2月)に「感光色素の応用(『虹波』由来記)」と題して寄稿した。 植村氏は月報で、虹波の主成分である感光色素が人間の耐寒機能向上につながると考え、「陸軍研究所で調べてもらって参考にしようとした」と記述。これがきっかけとなって「癩[らい]病や結核への効果が研究された。これが『虹波』である」と説明している。 ただ、感光色素の毒性に関する認識に関し、植村氏は月報に「無謀にも人体に応用しようとした」「これは猛毒なので、いつも第一被験者になって相当むちゃをする自分でも、使うのをちゅうちょした」などと記した。
戦時中の医学の実態に詳しい福島県立医大の末永恵子准教授(医学史)は「当時は自分に使えないなら他の弱者で実験しようという研究者もおり、考え方が一致する」と解説。植村氏の寄稿について「陸軍に薬剤の開発を勧めながら、戦後になって実は毒性を認識していたと告白している。当初から医療倫理上問題があると自覚していた証拠だ」と指摘する。 虹波開発は「極寒地作戦における耐寒機能向上」を目的とした軍事研究。旧満州(中国東北部)に展開し、極秘裏に人体実験を実行したとされる旧日本軍の731部隊が治験に関与したことが既に判明している。植村氏は月報に「数年前に満州に約1カ月出張して、凍傷予防の効果を実験した」とも記している。 月報は菊池恵楓園歴史資料館の原田寿真学芸員が入手。明治学院大国際平和研究所の松野誠也研究員も、出版と古書店を手がける金沢文圃閣[ぶんぽかく](金沢市)から提供を受けた。(髙宗亮輔) 菊池恵楓園での虹波治験 1942年12月に始まった治験は、当初から副作用や死亡例が確認されながら47年まで続いた。43年に80%超がハンセン病治療に「有効」とされたが、翌年に約3%に急落。7研の活動を記した「状況申告」(43年2月)は、虹波開発の目的としてハンセン病治療に触れていない。