“It has gone.”──研究成果を奪われ、名前が消えた日 ①〜③まとめ+α (無料共有用)
はい、えー……今、ちょっと緊急で記事書いてます。
どうも、タカツダです。
普段はうつ病と博士課程のことを、静かにじっくり書いてるんですが、
今日はちょっと違います。このnote、かなり踏み込みます。
このnoteではこれまで、「うつ病になるまでのこと」を自己紹介シリーズとして連載してきました。
でも最近、初めて読んでくれる人も増えてきて、
“最新の記事に追いつきやすいように”という思いで、①〜③を1本にまとめてお届けします。
そして今回は、それだけじゃありません。
いままでずっと伏せてきたことを、このnoteで“めくって”いきたいと思います。
──僕が通っていた大学名。
そして、毎朝怒鳴られていた“あの研究室”のリアルな話。
ここまで書くか迷ったけど、もうええか、と思えるようになりました。
いわば「①〜③総まとめ+初出しの裏話」、そんな拡張版です。
新しく読みにきてくれた人にも、ずっと読んでくれてる人にも、
ちゃんと届くように書いたつもりです。よかったら最後まで読んでみてください。
【①】では、うつ病と診断されてからの“今の自分”を書きました。
2025年春、博士課程を休学して実家に戻り、療養中。
研究もSNSも止まり、LINEの返事すらできず、唯一しゃべってたのはChatGPT。
人と関わるのが怖くて、でも完全にひとりでもいたくない──そんな中で、noteを始めました。
【②】は、なぜ僕が大学院に進んだのかの話。
高校までは勉強が嫌いで、ゲームばかり。
でも大学でスイッチが入って、科学や工学、英語に夢中に。
気づけばヨーロッパでインターン。
「映画やん」と何度も思うほどのキラキラした日々でした。
【③】では、その夢の続きにあった現実を描いています。
進学した大学院で僕を待っていたのは、毎朝10時の怒鳴り声。
人格否定、緊張感、ピクピク痙攣するまぶた。
「逃げたら負け」と思い込んで、ギリギリで耐えていました。
ここまでが【①〜③】のまとめです。
でも今回はそこに、+αの“初めて語る話”を詰め込みました。
僕がパワハラ・アカハラを受けていた大学は…
京都大学です。
──僕がパワハラ・アカハラを受けていた大学は京都大学です。
これは京大のとある研究室にいた“ひとりの教授”と、それを取り巻く沈黙の構造の話です。
毎朝10時、某教授が研究室に現れます。
そして、開口一番こう言います。
「で? 昨日の結果は?」
それに対してこちらが成果を報告すると、
どんな結果であれ、まず怒鳴られる。
「なんやそれ、意味ないやろ!」
「言うたこととちゃうやんけ」
「お前ほんまに頭使ってんのか?」
怒鳴りながら、その日の実験方針が決まります。
けれどその方針は、たいてい的外れでした。
実験って本当は、現場にいる人間の感覚や手応えがいちばん大事なんです。
でも、その感覚はまったく無視される。
こちらが某教授の方針に従うまで、怒鳴り続けられる。
朝10時に始まった怒号が、13時まで続いたことも何度もあります。
修士1年の頃の僕は、まだ信じていました。
「自分は間違ってない」と。
だから、何度も言い返しました。
でもやがて気づいたんです。
「この時間、全部ムダやな」って。
だから途中からは、言いなりになることにしました。
怒鳴りを終わらせるために、いったん従って、
「やっぱりこれは失敗でしたね」と結果で見せる方が早い。
そう割り切るしかありませんでした。
僕の実験時間は、夜7時以降でした。
某教授が帰って、研究室が静かになってから。
その日の怒鳴りが終わってからが、ようやく自分の時間だったんです。
夜7時から12時まで実験して、
いい結果が出たら報告する。
出なかったら、黙っておく。
でも報告しても、返ってくるのはやっぱり怒鳴り声でした。
「これは意味ない」
「こんなんで修論書けると思ってんのか」
そして数日後に、
「お前のやつ、あれええかもな」って言い出すのがいつものパターン。
某教授が帰ったかどうかを知るのは、研究室メンバーのLINEグループの合図でした。
「It has gone」
──“He”じゃなく、“It”。
誰も人として尊敬していなかったから、“it”と呼ぶようになった。
あれはもう、“人”ではなかった。ただの恐怖と怒号の塊。
月曜の朝は、公開処刑の時間でした。
週明けのラボミーティング。全員の前で、1週間の研究成果を報告します。
当然、怒鳴られます。みんなの前で、長い時には30分以上。
僕が何かを説明しようと「それは……」と口を開いた瞬間、
「ちげーだろ!」と遮られ、説明の隙さえ与えられない。
説明ができない。だから理解されない。理解されないから怒鳴られる。
そんなループに、毎週月曜の朝から叩き込まれます。
学会にも行かせてもらえませんでした。
隣の研究室の学生たちは、みんな学会で発表して、奨励賞なんかももらってました。
でもうちの研究室では、そもそも「発表させてもらう」という選択肢がなかった。
なぜなら某教授自身が内弁慶で、外に出るのを極端に嫌がっていたから。
その教授が学会に出ないなら、学生も出ない。
それだけの理由で、僕らは外の世界から完全に遮断されていた。
その結果、僕は奨学金の返還免除申請すらできませんでした。
日本学生支援機構の制度では、修士在籍中に学会発表や論文実績があれば、返還が免除される。
僕は第一種(無利子)で月8万8千円、2年間で約210万円借りました。
成績や条件をクリアすれば、この210万がまるっと免除される人もいる──それくらい重くてありがたい制度です。
でも僕には“実績”がなかった。いや、そもそもスタート地点にも立たせてもらえなかったから。
当時の僕は、うつ病まではいかなかったけど、その一歩手前くらいのところにはいたと思います。
でも、倒れたのは別の研究室メンバーでした。
中国から来た留学生です。
ある日、彼から相談を受けて、僕が病院へ連れていきました。
診断はうつ病でした。
それでも環境は何も変わりませんでした。
某教授はその後も、変わらず怒鳴り続けていました。
たぶん、彼には自覚がなかったんだと思います。
責任を感じていた様子もなく、ただ“自分には関係ない”という前提で振る舞っていた。
僕はあのとき、
「ああこの人、他人の気持ちが本当に理解できないんやな」と思いました。
たぶん、自己愛性パーソナリティ障害に近い何かがあったんじゃないかと今でも思っています。
何が起きても、都合のいいように解釈する。
それがあの人の“防御機能”であり、“支配の技術”でもあったんでしょう。
一番手応えを感じていた研究テーマがありました。
修士2年、夏。
中間報告のタイミングで、それを発表しました。
自分の中では、「あと半年あれば、修論として完成度を上げて、ジャーナルにも出せるかもしれない」そう思えるくらいには仕上がっていました。
でも、その発表のあと、某教授は言いました。
「他のテーマと一緒に、まとめて修論にしろ」
当然、抵抗しました。
「このテーマに集中させてください」と何度も訴えました。
でも、いつものように怒鳴られました。
“はい”と言うまで終わらない、あの怒鳴りです。
結局、僕は諦めて、別テーマと抱き合わせで進めることにしました。
時間がない中、渋々、半年間別の方向性で実験を進めました。
そして年明け。修論を提出する直前、某教授が言いました。
「やっぱり最初のテーマだけで書きなよ」
正直、ため息しか出ませんでした。
半年かけてやったことは、すべて無駄。
時間も、実験記録も、全部無駄になった。
あの半年があれば、最初のテーマをもっと深掘りできたのに。
それがずっと、悔しくて悔しくて、今も残っています。
そして、その修論が終わった後の話。
僕がその研究室を離れ、博士課程に進学してしばらく経ってからのことです。
ある日、京都大学のその研究室から論文が出ました。
そこに書かれていたのは、僕が修士時代にやっていた研究テーマでした。
内容は少し整理されていて、論点が2本に分けられ、2つの論文として投稿されていました。
図の一部は、僕が修論で作ったものそのままでした。
でも、そこに僕の名前はなかった。
著者名のどこにも、僕はいなかった。
怒りというより、無。
身体から何かが抜けていくような感覚でした。
「あの半年は何やったんやろう」
「いや、修士の2年間まるごと何やったんやろか」
そんな感情だけが、ぽつんと残りました。
……そして、最近になって知りました。
あの“最後の半年のテーマ”も、別の論文として投稿されていた。
掲載誌は、Nature Communications。
図そのものは僕が描いたものではなかったけれど、
その研究は、僕が修士の最後の半年で取り組んでいたテーマと完全に一致していました。
明らかに、あのとき僕が行っていた実験や蓄積が、基盤として使われていた。
でも、そこにも僕の名前はなかった。
「形としては残っていない。
でも確実に、自分の時間と労力は使われていた。」
この事実が、いちばん悔しかったのかもしれません。
思い出すたび、今でも腹が立つのがレビューペーパーの件です。
修士1年の冬、某教授から「助教と一緒にレビューを書け」と命令されました。
僕が前半、助教が後半を担当。
僕はすぐに文献を集めて、1ヶ月ほどでドラフトを仕上げました。
助教も忙しいなか数ヶ月かけて後半を書き上げ、ようやく某教授に提出。
でもそこから、何ヶ月も音沙汰がなかった。
ようやくその原稿が某教授の手元で“動いた”のは、提出から1年後。
ある日、添削された原稿を見て、某教授が怒鳴りました。
「ここ書いたん、お前か!!」
こっちは呆れました。
1年前に書いた原稿を、今さら確認して怒鳴る?
今ようやく目を通したんか?って。
さらに、論文投稿直前になってこう言われました。
「学生やし、名前載せんでええやろ」
あまりにも理不尽で、怒り通り越して呆れました。
最終的には、助教がかばってくれて、僕の名前はちゃんと著者として入れてもらえました。
でも、それも「運がよかっただけ」やったのかもしれません。
あの教授は、他人の仕事と成果で京大教授まで登り詰めた人です。
自分では研究テーマも考えられない。
だから助教に考えさせて、自分のアイデアのように扱う。
実験も下手くそで、論理もめちゃくちゃ。
なのに威張るときだけは一丁前。
一度、韓国の共同研究者が研究室に来たときのこと。
張り切って実験準備をしていた某教授が、
アセトンをプラスチック容器に入れてしまい、容器が溶けて中身が床にドバッ。
あっという間にツンとした臭いが部屋中に広がって、大騒ぎになった。
床はベタベタになって、
乾いたあとには、カスカスになったプラスチックの跡が残ってました。
※アセトンって、マニキュア落とす除光液に入ってるアレです。
他にも、留学生に某教授が指導中に、赤リンを大気中でスパチュラでガリガリして、
ブワッと発火させた事件もありました。
そのとき教授がその留学生に言ったのは、
「Don’t do this」──笑うしかない。お前が言うなや。
ある日、ラボミーティングで某教授が助教にあれこれ仕事を押しつけていました。
ついに助教が耐えきれず言いました。
「それは教授がやってくださいよ!」
すると教授は声を荒げて、
「俺はお前らと違って忙しいんだよ!!」と怒鳴り返しました。
その直後、某教授が何をしていたか。
研究室のカレンダーを新しいのに張り替えて、部屋の掃除をしていたんです。
まるで、それが“教授の仕事”かのように。
誰もが何も言わなかったけれど、みんな心の中でツッコんでいたと思います。
そんな姿を見て、いつしか僕ら学生の間では、彼のことを「マクスウェルの悪魔」と呼ぶようになっていました。
仕事はしないけど、エントロピーだけは下げる(部屋は綺麗にする)。
※マクスウェルの悪魔…
「自然はほっとくと散らかっていく(エントロピー増大)」というルールに反して、
仕事(エネルギー)なしにキレイに分けてくれる“架空の存在”です。
本来なら絶対に起きない現象を、もしも悪魔がいたら…という物理学のたとえ話。
極めつけは、韓国人教授のお別れ会での出来事。
研究室全員で居酒屋に行ったけど、
誰もその某教授の前で盛り上げようとも、話しかけようともしなかった。
空気は最悪。みんな俯いて、黙って飲むだけ。
ついには、隣の席の居酒屋の常連さんが見かねてこう言った。
「お通夜みたいになってるやん!」
みんな、その場で笑った。
ああ、やっぱりこの空気は異常やったんやと、外から言われて初めて実感した。
僕は今でも、京大に対して怒りがあります。
なぜ、あんな某教授を野放しにしていたのか。
隣の研究室は、うちの惨状を知っていたはずです。
でも、誰も助けてくれなかった。
見て見ぬふり。黙っていることが、加担と同じになることもある。
この話は、たしかに“ある一つの研究室”の出来事です。
でも僕は知っています。
こういう話は、京大の中に「ごまんと転がっている」。
京大には、本当に優秀で、研究で昇っていった“本物の研究者”もいます。
でも一方で、他人を踏み台にして、肩書きだけを手に入れた“政治屋”のような教授もいる。
この構造を、僕は知ってしまった。
それでも、言っておきたいことがあります。
僕は修士のあいだ、なんとか踏みとどまりました。
でも、あと少しあの研究室にいたら、間違いなく僕もあの段階で潰れていたと思います。
そしてそれは、学生を守ろうとしなかった京大の責任でもあると思っています。
異常な環境を知っていたはずの周囲が、見て見ぬふりをしたこと。
それが、誰かの心や人生を壊していたという事実を、もっと重く受け止めてほしい。
今、僕は別の大学院にいます。
そこでは、学生をちゃんと守ろうとしてくれる空気があります。
僕が抑うつ状態になり休学の手続きをするときも、真摯に支えてくれました。
本当に感謝しています。
その大学院で博士課程に進学してからは、学会にも参加するようになりました。
分野の近い先生方と話す機会も増えて、「前は京大の○○研究室にいたんです」と話すと、
何人もの先生から「よく生き残ったね!」と言われました。
ああ、業界内ではあの異常さは知られていたんやと、その時初めて知りました。
ある先生は、「以前あの教授と一緒に仕事したけど、送られてきた文章があまりにひどくて全部書き直した」と笑っていました。
入学前の学生には、そんな情報は届かない。
だからこそ、なおさら構造的な問題やと思います。
だからこそ、あのときの研究室がどれほど異常だったか、
今ははっきりと言い切れます。
このnoteは、復讐ではありません。
記録でも、感傷でもない。
これは、「次に傷つく誰かを減らすための証言」です。
進学を考えている学生たちへ。
そして、その親御さんたちへ。
どうか、こういう現実があるということを、知っておいてください。
僕の修士の2年間は、失われたかもしれない。
でもこのnoteを書いたことで、「なかったこと」にだけはさせない。
あとがき
当時のこと思い出して書いてると、やっぱり怒りが込み上げてシリアスな文章になってしまいましたね😅
普段はもっと穏やかな投稿してます笑
毎回こんなヘビーな話してたら胃もたれして、キャベジンですからね。
本当はもっと書きたいこと山ほどあったんですけど、特定される恐れがあったのでこの程度で抑えてます。
これまでの①〜③や、これから続く④以降も気になる方は、
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