天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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1-4. 「天才子役」

「あなた、コネの子でしょ?」

 

 ずびし、と音が出そうなほどの勢いで、人差し指が突きつけられる。

 煌めく柘榴色の瞳が、こちらのことを射貫く。

 

「あなたなんかよりも、ずっとずっとすごい演技、してやるから」

 

 勝気な表情で、挑みかかるような声で、その女の子はアクアめがけて、鮮烈なまでの戦意をぶつけてきた。

 あまりにも眩しい、それはきっと光にも似ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 案の定というか、あの撮影の数週間後に放送されたドラマの中で、アクアの母であるアイの出番はほとんどないに等しかった。

 ほんのワンカット、出番にして三十秒程度のことだ。しかしそのカットの中でですら、アイははっきりと視聴者を引きずり込んで見せた。ドラマの放映後、一瞬だけネット上で件のワンカットのことが話題に上るほどの影響力を、もはやこのアイドルは持ち合わせるようになっていたのだ。

 ルビーが憤慨し、アイが残念がる今回の顛末でも、アクアはあの日五反田監督の言っていた言葉に、やはり内心頷かざるを得なかった。そしてそれ故にこそ、アクアは彼の次に持ってくるであろう「仕事」のことに、少なくない期待を寄せていた。

 

 

 

 そこから数か月後のこと、とある田舎の山間の村にて、映画の撮影が始まろうとしていた。

 

 低予算の、ジャパニーズホラー映画だ。わざわざ山奥くんだりに、整形手術を受けにやってきた女性が遭遇する怪奇を中心とした、低予算故の不気味さをウリにした、どちらかと言えば小規模な作品だった。

 しかしその予算の少なさゆえに、裁量権を任されている監督――五反田監督は、妥協なく自らの嗅覚によって選りすぐりの役者を集めた。最低でも彼は、そう豪語していた。

 その中に、アクアの母であるアイも、そしてアクア自身も含まれている。

 

 期待されているのだ、自分は。五反田監督から。あの時の邂逅で、話したいくつかの言葉の中で、彼はアクアの中に何かを見たのだろう。それが何かは、結局のところこの脚本(ほん)の中にこそ答えがある。

 ならば、応えねばならない。アクア自身、今回の仕事に間に合わせるために苺プロに子役として所属する契約を結んだわけで、その仕事を全うすることは己の義務だ。

 ただそれによってこの世界を、芸能界というものを自らの進むべき路と定めたかと問われれば、必ずしもそうとは言い切れない。というより、まだアクア自身にはそんな自覚というものはなかった。それでも、今日の己の働きによってアイの躍進を助けることができるのであれば、それ以上の喜びはきっとない。アイの願いを、その夢を後押しすることは自分にとって願ってもないことであるし、そしてその結果として彼女が手にする名誉が、もっと下世話なことを言えば『安定した収入』が、『社会的地位』が、アクアの目指す「アイの安寧」に繋がるのは間違いのないことなのだから。

 

 とまれ何にせよ、今の自分に任された仕事とは、現場にて渡された脚本を読み、噛み砕いて理解することに他ならない。なし崩し的にアクアのマネージャー役にもなったミヤコ夫人の付き添いでやってきたルビーを伴って、アクアは控室で本読みに没頭し始めた。

 しかしそれが長時間に亘ってくると、焦れてくる人間がいる。言わずもがなルビーだ。

 

「……帰りたい」

 

 ポツリと言葉が漏れる。脚本の読解に完全に入れ込んで周囲の音が聞こえなくなっているアクアには、しかしその小さなつぶやきを拾うことができなかった。

 すると、次にどうなるか。これもまた、言わずもがなだろう。

 

「帰りたい帰りたい帰りたい!」

 

 つまりは、こうである。

 流石にこの段になればアクアも気がつく。本から顔を上げた先、気づけばルビーは座っていたパイプ椅子から床に降りて、文字通り駄々っ子の如く暴れ回っていた。

 アクアは、絶句した。戦慄したと言っていいかもしれない。確かに姿かたちだけならば年相応の振る舞いかもしれないが、それは凡そ「中身入り」のやっていいことではなかったからだ。

 

 ――帰りたい

 ――おうち帰して。

 ――()()()()()()()帰して。

 

 そう、喚きに喚く。そのあたりで、アクアはルビーが現状の何に不満を抱えているのか概ね察した。

 つまるところこの収録の場には、ミヤコ夫人こそいるもののアクアたちの実の母であるアイがいないのだ。収録が別日になっているからというのもあるし、アイはアイで多忙故に別の仕事が入っているからという事情も、そこにはあった。

 

 いずれにせよ、とんでもないマザコン妹である。と言うよりも「アイ」コンプレックスという方が正しいかもしれないが。ただ、今のルビーの発言は正直なところ不用意だ。

 この場には、どこに耳があるかわからない。ストレスが溜まっているのは理解できるが、些か以上に脇が甘いと言わざるを得ないだろう。

 

 これはまずいとアクアは腰を上げる。本を座っていた椅子に置いて、ルビーの方へと歩み寄る。

 

「あのなぁルビー、ここは公共の場だぞ。もう少し分別を――」

 

 言いながらしゃがみこんで、どうにかこのワガママ妹を大人しくさせようと手を伸ばす。

 

 

 

 しかしその手が彼女の身体に触れる前に、ばん、と何かを叩くような音が、部屋の中に響き渡った。

 

 

 

 ――まずい、聞かれたか。誰にだ。

 アクアは慌てて部屋を見回す。視線の高さは大人を想定していて、だからその視界に誰の姿も入らなかったことで、一瞬意識に隙ができる。

 そしてその間隙を、子供の鋭い声が穿った。

 

「――あのね! ここは『現場』なんだけど!」

 

 そんな、勝気な声が。

 

 

 

 視線を下げる。その先にいたのは、アクアたちと似た年恰好の一人の女の子だった。

 赤みの強い赤銅の髪が照明の光を受けて輝き、その下の紅の瞳は、はっきりとした意志の強さを感じさせる。はた目から見ても、幼児としてその容姿はかなり整っている。美少女と言っていいだろう。

 纏っているのは生成り色のブラウスと、白いつば広帽だ。それはこの映画、「それが始まり」の衣装に相違ない。

 

 記憶の中、諳んじられるほどに読み込んだ台本を思い返す。

 隣に立つ少女、「不気味な子供A」、己の共演者。そんな刹那の思考の末に、アクアは結論に辿り着いた。

 

「有馬、かなさん」

 

 視界の向こうの少女の顔が、その不機嫌そうな表情が、ほんの少しだけ和らいだ。

 

 

 

「そ、有馬かなよ。共演者の名前を憶えているとは、いい心掛けね」

 

 だいぶ上からの物言いで、有馬かなという少女がアクアに返す。同時に自らの後ろで、妹のルビーが怪訝そうな声を上げた。

 

「『有馬かな』? どっかで聞いたような……なんだっけ」

 

 小さく呟いて、記憶を探る素振りをする。

 ほどなくして、思い出したかのような声を上げた。

 

「そうだ、あれだ! 『重曹を舐める天才子役』!」

 

 言われた瞬間、アクアは噴き出して、そして目の前の少女は眦を吊り上げた。

 

「『十秒で泣ける天才子役』!」

 

 言いながら、ついでに失笑してしまったアクアの方もねめつける。

 

「あ、いやごめん。ウチの妹が。ちょっと突拍子もなさ過ぎて……」

 

 何か言われる前に、先手を打って謝る。これは流石に自分の落ち度だ。

 まあ、この妹のことだ。本気で間違えたというよりは、おちょくってみせたのだろうと思う。大方、兄とのじゃれあいに割り込まれたのが気に入らないとか、そういう思考回路に違いない。

 しかし、それに関しては言わぬが花だろう。そう思って黙って頭を下げたところに、それを言われた本人たる有馬のほうから追撃があった。

 

「そうだ、あなた」

 

 顔を上げる。つかつかと歩み寄って、彼女の顔がほど近くにまでやってきた。そしてその場所から、人差し指を突きつけてくる。

 

「知ってるわよ。あなた、コネの子でしょう?」

 

 すびし、と音がするほどの烈しさで、その指はアクアに向かって伸ばされていた。

 

 

 

「だって、本読みの時にはあなたいなかったじゃない。この役だって」

 

 また不機嫌そうな声色に戻った有馬が、言葉を投げつけ続けてくる。

 

「どうせ、あの監督がゴリ押したんでしょ。あなたも、あのアイドルの子も」

 

 なんというか、随分攻撃的な言葉をずっと吐き続ける子だ。もはやアクアの中で、この有馬かなという少女の印象はそういう方向に固定されようとしていた。

 頭の中の冷静な部分が、この少女の「ここまで」に至った部分が何かを考え始める。

 随分とバランスが悪い。この年齢でこれほどの語彙力を持っていて、しかし言う内容はあまりにドギツいのだ。

 なにか、引っかかる。元医師としての「吾郎」の部分が、アクアにそう囁いていた。

 

 しかしそんなアクアの様子にはお構いなく、かなの言葉はなおも続く。

 こちらのことを覗き込むように、挑発的な表情で、そのセリフは発された。

 

 

 

「ま、でも大したことないわよね、あのアイドルの子」

 

 

 

 冷や水をぶっかけられたような心境だった。思わず、アクアはかなのことを凝視する。

 

「だってこの間のドラマ、ほとんど出番なかったじゃない。大方、それしか使えるところがなかったんじゃないの? よほどヘッタクソな演技してたんでしょうね」

 

 棘のような言葉が、アクアに刺さる。後ろでルビーの気配が澱んだ。言うまでもない、それは凄まじいまでの怒気だ。

 そして同時に、一瞬アクア自身の頭の中にも類似した激情が沸きあがり、血が上るような錯覚を懐いて――しかしそれを、理性が押し止めた。

 

「ま、その点こっちは『天才子役』だから。 媚び売るしか能のないアイドルとは違って」

 

 こちらに背を向け、控室の出入口まで歩きながらそこまで言って、かなは振り返る。

 

「もちろん、あなたなんかよりも、ずっとずっとすごい演技、してやるから」

 

 勝気な瞳で、声で、それだけ言い捨てるようにして、ひらりと掌を振って、こちらから歩き去ろうとする。

 

 

 

 なるほど、確かに天才子役だ。挙措も、容姿も、そして抱えているプライドも、一級品と言えるだろう。

 初めて面と向かった時に彼女から感じた雰囲気のようなものは、アイにも通ずる「才能ある者」のそれであろうことは、間違いなかった。

 

 しかしアクアは今の有馬かなという少女を見て、「これは危うい」と感じた。これは捨て置けないと。

 お節介にも程があるだろうが、それでもこのまま黙ってこの女の子を見送るばかりでは、いられなかった。

 

「……ねえ、有馬さん」

 

 だからアクアはそう言って、かなのことを呼び止めた。

 

 

 

「何よ、文句でもあるの?」

「文句……そういうわけじゃないけど」

 

 傍を通りがかったADの女性に、自分の手荷物を押し付けようとしていた彼女が、振り返る。

 怪訝そうな顔をしてこちらを見るその姿に、アクアは言葉を続けた。

 

「僕のことは、まあどう言ってもいい。客観的に見てごり押しなのはそうだ。アイのことも……まあ腹は立つけど、百歩譲って許してもいい」

 

 言った瞬間後ろで膨張した怒気に見て見ぬ振りをしながら、そこで一呼吸置く。

 そして、一拍のタメを作ったあと、アクアはあえてかなのことを睨みつけた。

 

「けどね。自分がこれから演じる作品の監督にそういうこと言うのって、どうなの? だってそれ、あの監督が『ちょっと媚び売ったら役を用意してくれる程度の人間』って言っているようなものだぞ」

 

 「演技」をする。威圧感を、意図して言葉に載せた。目の前の少女が、かながたじろぐ。

 

「それは……」

「あの監督は、キャスト選びに手は抜かないって言ってた。低予算映画だから、せめて役者はこだわり抜きたいって。僕たちは選ばれたんだ。監督のプライドにかけて。僕も、アイも。有馬さん、君も」

 

 畳みかける。わかるだろう? と念を押すように、アクアは一歩かなの方へと踏み出した。

 

「期待されているんだよ、僕たちは。託されているんだ。だから僕たちは、その期待に応える義務がある。『使ってよかった』って、言ってもらう必要がある」

 

 一歩一歩近づいて、今度はアクアの方から、かなの目と鼻の先に立ち止まった。

 

「それなのに、演者の方が監督を信じないで、どうするんだよ。監督に陰口叩いて、いい作品なんて作れるもんか」

 

 気迫をこめて吐いたそのセリフに、かなが一歩退いた。おそらくは、こちらの迫力に気圧されでもしたのだろう。それでも彼女は、こちらから目を逸らすことはなかった。

 いっそ敵意すら感じるほどの強い意志の力で、アクアのことを見返していた。

 

 なるほど、大した胆力だ。アクアは思う。ここまで来てその態度を貫いてみせるのならば、それは彼女一流の誇りだろう。

 であれば、もはやアクアから言うべきことは何もなかった。

 

「……わかってるわよ。言われなくても」

「そっか。なら、いいよ。ま、精々有馬さんに失望されないように、僕も頑張るさ」

 

 纏っていた威圧的な雰囲気を、霧散させる。声も平らかに、表情も柔らかく、アクアはかなに笑みかけた。

 

「それじゃ、共演者として。今日はよろしく」

 

 そして、右手を差し出す。

 一方のかなのほうはと言えば、自らの前に突き出された手を見て少しばかり固まって、視線を宙に彷徨わせた。

 

 そこから数秒ほどの逡巡の時が過ぎ、その末に彼女はおずおずと、出された右手に手を伸ばす。

 斯くして二人の間に、握手が交わされた。数秒後、急に恥ずかしくでもなったか振り払うように右手を離したかなが、「覚えてなさいよ」と捨て台詞を吐いて逃げ出したことでその場はお開きとなったが、アクアにしてみればとりあえず、あのちょっと困った「天才子役」に自らの言葉が届いた事実に、幾許かの安堵をしていた。

 

 尤も後ろのルビーはと言えば、口喧嘩であのいけ好かない、母のことを馬鹿にした子役をけちょんけちょんに返り討ちにした己の兄のことを「かっこよかったよー」とひたすらに囃し立てるばかりで、アクアとしてはどうにもきまりの悪い思いをすることになったのだが、それはまた別の話である。

 

 

 

 

 

 そんな一幕を経て、実際の撮影の時間がやってきた。

 シーンは、村の入り口。鬱蒼と木の生い茂る林道の中だ。

 その環境に不釣り合いな二人の子供が、村へとやってきた女性、この映画の主人公の前に立ち塞がる。

 村の案内だと名乗ったその子供は、その歳のなりとはかけ離れた、不気味なまでの丁重な言葉遣いで女性を出迎え、その不自然さに、気味の悪さに、主人公も、そして見ている観客も、不快感と恐怖心を抱く。

 

 これが、監督――五反田監督の演出意図だった。

 ホラーとしての導入部だ。第一印象にも近い。無論、もっとあとにやってくるホラーとしてのメインディッシュはこの作品の中核を為すものであるに違いないが、正直このシーンはそれと同格レベルの重要さを持つ。

 よって、手抜きは許されない。お茶の間の話題を浚う天才子役の有馬かなを、決して安くはないであろうギャラを払って連れてきたのは、それほどまでにこのシーンに力を入れているからだ。重要視しているからだ。

 

 ならば自分も、それに伍していかなければならない。隣で薄ら寒い空気すら纏うような、気味の悪さを体現した見事な演技を見せているかなのほうにちらりと目線だけを向け、アクアは決意を新たにする。そして自らがこの場に持ってきた、「演技プラン」を思い返した。

 不気味さとは何か。それは「本来あるべきものがあるべき形をしていない」ことに対する、本能的な恐怖だ。自らの身体から伸びている髪の毛も爪も、その状態であればそれに対して何の嫌悪感も抱かないところを、しかしひとたび切り落とされ、自らの身体から離れた途端に、強烈な嫌悪感を催す「汚穢」と成り果てる。この心理的作用の根源も、実のところ同じだ。

 ならば今の自分に求められる演技は、子供らしい子供から少しずつ少しずつズレを生んだ、「不自然の塊」だった。

 

 かなの番が終わる。なればここからは、自分の出番だ。

 

 一瞬だけ、息を吸う。林を吹き抜ける風の音を響かせ、静寂の世界を作り上げたのちに、一歩を踏み出す。地面に落ちている枯れ葉を踏みつける乾いた音で注目を引き付けて、半拍のタメを作ってから、主人公の演者を見上げた。

 そこから、最初はにこやかに話し始める。表情も笑みを作り、柔和な雰囲気を纏わせて、しかし言葉遣いは完全に大人のそれを徹底する。

 喋る速度は、かなのそれよりはほんの少しだけ速く、しかし普通の大人の発話のそれよりは遅い。どこもかしこも中途半端でちぐはぐで、そこに吹き付ける風の生み出す葉擦れの音を引き立たせるように、テンポをコントロールする。

 

 そしてひときわ強く吹いた風に合わせるようにして、アクアは瞼を開く。

 その瞳はどこにも焦点が合っていない。真っすぐ演者を、その向こうのカメラを見ているようで、しかし実のところは全く、何も見ていない。それでも流暢で丁寧な言葉遣いは一切変わることなく、どこにもおかしい部分などないように振る舞い続ける。瞬き一つすることなく。

 あとはこの調子で、最後の会話までを完遂するだけだ。

 

 

 

 斯くして結果そこに生まれたのは、「何もかもがおかしいのに、当人だけは全くおかしくないように振舞う、何かが乗り移ってしまったかのような、不気味で不条理な子供の存在」に他ならなかった。

 

 

 

 五反田監督からのカットの声がかかった直後、引き攣ったような表情でこちらを見ていた主人公の演者が、まるで頽れるようにしゃがみこむ。そこで初めて、自分の息が乱れていることを、その彼女は意識した。

 つまりこの瞬間、アクアは目の前の役者に息をさせることすらも許さなかった。そういう雰囲気を、全身から立ち昇らせていたのだ。

 

「なるほど……? これは、似ている」

 

 アクアの遥か後方にてモニタ越しにその一部始終を眺めていた監督が、何かを確かめるかのように、そう呟いた。

 

 

 

 

 

 ――負けた。負けた。完膚なきまでに。

 有馬かなという少女にとって、このシーンのカットの掛け声は、自分に対する敗北宣告のように聞こえていた。

 

 初めは、単なるコネで入ってきた子だと思った。本読みの段階では存在しなかった役柄と、その役者だ。監督のお気に入りか何かで、急遽ねじ込まれた要員。予算をとってくるための、上からの指示かもしれない。しかも、おそらくはあのアイドルのおミソ。

 気に食わなかった。彼と一緒に、どういうわけか控室にいる子供が、聞くに堪えない喚き声を上げてじたばたと見苦しく動き回っているさまを見て、なおのことかなはその印象を強くした。

 

 いらいらする。馬鹿にしないで。ここは遊び場じゃない。そう思うと、言葉はどんどんきつくなる。

 でも自分が言っていることは正論だ。周りの大人たちも、私の言うことは正しいとほめてくれる。私の演技をほめてくれる。ママもそうだ。だから私は正しい。何も間違ってなんていない。

 

 そんな意識で、かなは目の前の少年のことをひたすらに攻撃した。嫌味を言って、挑発した。それに言い返しても来ない彼の姿に、所詮はコネの子でしかないと、内心で蔑んだ。

 しかしその後、言いたいことを言って立ち去ろうとしたところで、かなはその少年に呼び止められた。

 

 雰囲気が変わっていた。怒っているわけではない。それでも、目の前の少年の言葉を、黙って聞くことしかできない。逃げられない。動くこともできなかった。

 目が、吸い寄せられた。

 まるで大人のような雰囲気で、かなは少年に諭された。監督のことを、愚弄してはいけないと。

 正しかった。自分よりも。認めざるを得なかった。それがどうしても悔しくて、しかし同時に、どうしても引き寄せられた。

 だから気づけばかなはその少年から差し出された手を握っていて、我に返ってそのことに気づくなり、かなは慌ててその手を振り払った。

 

 それが、かなにとっては第一の敗北だった。

 だからこそ、演技では負けない。絶対に負けない。そう思った。負けるはずがないとも、思っていた。

 

 

 

 それが、どうだ。かなは林道の上、横に立つ少年を見る。

 あれは、なんだ。あの数十秒前までの空気は。あの少年は、かなの演技を引き受けて始めたその最初の呼吸の瞬間から、この場のすべてを持って行った。

 何かが致命的に塗り替わってしまったような、そんな本能的な恐怖すら感じる。それが彼自身の振舞いに、呼吸に、そして口調に起因したものであるということは、演技に敏く、造詣も深く、才能に富んだかなにとってはすぐにわかることだった。

 この少年が繰り出した演技は、その全てが微妙にずれていたのだ。そのずれが、途轍もない違和感を生み、不快感を生み、恐怖を生んでいた。

 

 これを、この少年は意図して作り出したというのか。あり得ない。そんなことが。

 思考がぐるぐるとかなの頭を回り続けて、それでも唯一、かなは理解する。

 

 今この場、このカットにおいて、最も監督の演出意図を理解できていたのは、それに応える演技を出来ていたのは、間違いなくこの、目の前の少年であったと。

 だから自分は、どうしようもなく負けたのだと。

 

 それに気づいた瞬間に、かなの視界が一気に滲んだ。それが涙であるということを理解するより先に、かなはしゃがみこんでいた。

 

「えっ……ちょっと、有馬さん? 大丈夫?」

「やめてッ!」

 

 そして、そこに追いかけてくる感情に、悔しさという衝動に引きずられて、かなは自らの傍に近づき、手を差し伸べようとした男の子のそれを叩きつけるように振り払った。振り払ってしまった。

 かなは初めて、自分のこの振舞いを嫌だと思った。こうして場の空気を悪くしてしまった、自分のことも。

 撮影の前、控室で自分に相対したときのこの男の子の振舞いと、今の自分のそれとを比較して、酷く惨めになった。あまりに幼くて拙くて、救いがたいほどに醜いものに思えた。

 顔を覆う掌で、視界は遮られている。それでもその向こう、男の子がこちらに差し出していた手を引いたのは、分かった。そしてその直後、彼が自分のすぐそばに、しゃがみこんだことも。

 

「……ねえ、有馬さん」

 

 声をかけられる。言葉は返せなかった。

 

「僕はさ。今の有馬さんが何を考えてるのかは、分からないけど」

 

 嘘だ。わかってるくせに。しかし声を上げるより前、彼に先んじられた。

 

「君のおかげだよ。今のカット、僕は君が作ってくれた空気に乗っかった。土台を作ってくれたのは君だ。僕一人の力なんかじゃ、ないんだ」

 

 ほど近くに、気配がする。彼が、隣にいる。畳みかけてくる。

 

「一緒にやったから、いい画が撮れたんだ。それなのにそんな風に泣かれたら、どうしたらいいかわからないよ、僕」

 

 嘘だ、そんなわけない。馬鹿にしないで。そう、撥ねのけたかった。

 でも分かってしまう。役者は嘘が得意だから。それを見抜くのも。

 

 今自分に話しかけている彼からは、何の嘘も感じなかった。

 本気でこちらのことを慮って、本気で困っている。そういう空気を出していた。

 

 だから、かなは諦めた。意地を張るのも、悔し涙を流すのも。

 顔を上げる。酷い顔をしているだろう自分が少しばかり恥ずかしくて、だからその原因を作ってくれた目の前の男の子に、八つ当たりするように声を投げかけた。

 

「……あなた、名前なんて言うの」

「僕? ……アクア、だけど」

「『アクア』ぁ? なにそれ、一丁前に芸名?」

 

 その言葉に、男の子――アクアが引き攣った表情をする。なんとなく、一本取ってやった気がした。

 

「芸名……まあ、そうと言えば、そうかな」

「ふぅん……ま、いいわ」

 

 そうだ。本名なんてどうでもよい。この業界にいる間は、この男の子は「アクア」だ。それ以上でも、以下でもない。

 

「有馬さん?」

「『かな』よ。『かな』でいいわ」

 

 ならば自分も同じこと。初めて自分が負けを認めた相手なのだ。変に畏まられるのは、プライドが許さない。

 目元をぬぐい、立ち上がった。同じように隣で立って、かなのことを見据えてくるアクアに、もう一度指を突きつけた。

 

「今回は、かなの負けよ。でも次もこうだと思わないことね、()()()

 

 言い放ったかなに対して、アクアの見せた少し困ったような表情は、その日の記憶の一番鮮やかなものとして、かなの脳裏に刻まれた。

 

 

 

 それは幼き日の、輝かしい記憶の一ページであった。




この時点で、アクアの演技力は原作に比べていくらか強化されています。ここまでの間にずっと「年相応の乳児」の演技を続けてきたことと、前世の吾郎の時点でより人間観察をしてきたためです。

また、ここの時点でのアクアの行動の変化が、将来のかなの性格に少し影響します。
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