あの販促ライブの日以降、B小町を――とりわけアイを取り巻く状況は、劇的に変わった。
潮目が変わったのだ。アクアとルビーが、一心不乱にサイリウムを振り回してオタ芸を打つあの動画――「サイリウムベイビーズ」の動画が出回ったからか、それともあの販促ライブの日に、「何か」を掴んだアイの振る舞いが、一気に化けたからなのか。恐らくは、そのどちらでもあるのだろう。
そこから一年の間に、アイは瞬く間に活動の場を広げていった。ファッションモデルやラジオアシスタントと、様々なフィールドで、彼女の力は求められ始めている。「アイ」というアイドルは今、単なるいちアイドルからマルチタレントへと脱皮を果たそうとしている最中の、立志伝中の人物とも言えるだろう。
あの時、無茶をした甲斐があったというものだ。販促ライブに出かけるアイを見送った後、ミヤコ夫人に向かってアクアとルビーは初めて、そして
そしてまんまとあのライブハウスに乗り込むことに成功しさえすれば、あとは御覧のとおりの始末である。ミヤコ夫人には後始末を含めてかなりの迷惑をかけてしまったが、それをするだけの意義は、確かにあった。
因みにアクアとしては、あの場所で自分たちが「サイリウムベイビーズ」として一躍有名になることに対して、「身バレのリスク」を考慮していないわけではなかった。した上で、問題ないと判断していた。
未だ一歳になったかどうかのあの時のアクアたちは、顔立ちに関してアイとの共通性を発見することは難しい。そもそも一般の大人にしてみれば、乳児の個別個別の顔立ちを比較することすら難しいだろう。おしゃぶりを咥えていればなおさらのことだ。
そうなれば、赤ん坊とその親の血縁関係を類推する材料として使えそうなものは髪の色ぐらいであろうが、これに関しては二人ともにアイとは似ても似つかない。アイが黒髪なのに対して、アクアたちは日本人離れした金髪である。こうなれば、
その結果が今日に繋がっているのであれば、凡そアクアとしては「賭けに勝った」としたところである。最低でもあの時の判断は間違いではなかったと、アクアは信じていた。
ともあれ、この一年という月日は、アクアたちの上をも平等に過ぎてゆく。どういうことかと言えば、やっとアクアやルビーが自ら立ったり走り回ることに対して、周囲に怪しまれることがなくなってきたということである。
当然、そこには発語も含まれる。尤も、二歳やそこらの年齢の幼児がいきなり大人顔負けの豊富な語彙で流暢な言葉を喋るのはいくらなんでもおかしい。通常の二歳児はせいぜいが三語文、普通は二語文を話すぐらいが関の山で、語彙も千語を数えないのだから。そういうわけで、そのあたりの加減をうまくコントロールすることも、怪しまれない程度の幼い振る舞いを意識することも、アクアは常に忘れていなかった。平たく言えば「演技をしている」ということなのだが、どういうわけかアクアとしては、この演技をしている感覚というものが、不思議と気に入っていた。
これは、吾郎の時代にはなかった感性だ。もしかしたら、星野アクアというこの身体の持つ本能的な何かが、そう感じさせているのかもしれない。
その辺りは、やはりアイの子だということなのだろうか。アクアはぼんやりと、そんなことも考えていた。
演技、と言えば、ここ一年のアイの芸能活動が誰がしかの目にでも留まったか、彼女のもとに大きな仕事が転がり込んできた。
即ち、ドラマへの出演だ。アイ曰く端役ではあるらしいのだが、それでもいちアイドルとしては画期的な出来事だろう。喜ばしいことである。
その撮影の日、アクアとルビーはミヤコ夫人に連れられる形で、演者であるアイとともにドラマの撮影現場――スタジオへと向かった。
本来ならばアイとの関連性を伏せておくために双子ともに留守番していることが望ましいのだが、昨今俄かに多忙になり始めたアイのマネージャー役としてミヤコ夫人が駆り出されるようになったことで、あの家の中で双子の子守ができる人間が誰もいなくなってしまっていた。流石にミヤコ夫人すらもいない完全な双子のみでの留守番はリスクが高い――尤も、「中身入り」のアクアやルビーにとっては当然できないことではないが、それはそれとしてである――ということもあって、「ミヤコ夫人の子供」という設定を徹底した上で、双子ともどもに現場に同行する運びとなっていた。
道中、「くれぐれもアイのことを『ママ』とか言わないように」とミヤコ夫人より耳にタコができるほど念を押されつつ辿り着いた現場は、学校の校舎を模したスタジオだった。
そこに一歩立ち入れば、広がるのはまさに「現場の世界」である。アクアたちが初めて立ち入った、それは紛れもない「芸能界」の一端であった。
役者に撮影スタッフ、美術に照明、そのほかの利害関係者たちと、所謂「業界」の人間たちがそこかしこにいる光景はアクアからしても初めて経験する非日常にほかならず、そこに静かな興奮を懐く自分がいることも、自身をして否定できない。
母親役のミヤコ夫人に連れられて入った教室のセットの中を見回せば、右を見れば只今売り出し中のグラビアモデル、左を見れば「可愛すぎる演技派」と世間を騒がせている若手女優と、どこもかしこも綺麗どころが揃っていた。無論それは、アイも含めてのことだ。
どうやら、綺羅星揃う芸能界の中でも、今回の現場は特に選りすぐりの容姿の若手達を揃えるという意図のある企画らしい。まるで見たことのない世界の中に放り込まれて、アクアは目がくらくらしそうになっていた。特に
ともかくそういうわけで、このままでは精神力がガリガリと音を立てて削られそうだと感じたアクアは、満更でもなさそうなルビーを体のいい生贄に押し付けるような形で教室のセットを後にする。
差し当たっては、別室にいるであろうミヤコ夫人のところにでも合流しようか。そう思って歩き出したところを、しかしそのタイミングで急に、頭上から影が差した。
前に、誰かが立っている。慌てて顔を上げた。
「ん? お前……」
目が合う。どこか不機嫌そうな顔に、鳶色のくせ毛と無精ひげを生やした男だ。
アクアはその姿を、アイが現場入りの挨拶をしたタイミングで目にしていた。
「かんとくさん……?」
「おお……あのマネージャーんとこのガキか?」
曰く、「五反田監督」と。
つまり彼こそが、今回のドラマの撮り手たる御仁であった。
「まあ、大人しくしてる分にゃいいが……あんま出歩くな。そんで、あんま騒ぐな。泣くようだったら摘まみ出すぞ」
随分と威圧的な態度だ。そうアクアは思った。子供のことがあまり好きではないのだろうか? いや、というよりも、自分の現場が荒らされることが気に食わないのだろう。
いずれにせよ、クリエイター気質の人間だ。あまり機嫌を損ねない方がいいのは間違いない。
「わかってるよ。だいじょうぶ」
笑みを顔面に張り付けて、無垢に、しかし神経を逆撫でしないような遠慮を含めて、言葉を返す。
一年も経てば、この辺りの「演技」というのはアクアの中で随分と板につくようになっていた。
「なら、いいけどよ」
「あ、でも。ねえ、かんとくさん?」
と、そこですかさずアクアが切り返した。これは一種のチャンスだと、思ったからだ。
「ん? なんだ」
「えっとね……」
そこで一度言葉を止め、タメを作ったあと、努めて無垢な瞳を心がけて、五反田監督を見上げる。
「とってるの、みたい!」
「……撮影をか?」
「うん! アイがうつってるとこ!」
これは嘘ではない。実際にアクアは、できればアイが演じているところを見てみたいとは思っていた。こうやってこの場の責任者に遭遇できたからには、ダメ元でも当たってみる価値はあるだろうと考えていた。
期待を籠めた目線で、五反田監督を見つめる。暫くの間、こちらを見返して悩んだ素振りを見せていた彼は、その末にどこか諦めたような様子で息を吐いた。
「ま、いいか……騒ぐんじゃねぇぞ」
「やったっ! ありがと、かんとくさん!」
折れた様子で自らの要望を聞き入れた監督に、アクアは両手を挙げて喜んで見せた。そして「かんとくさん、すき!」と飛びつく。
まあ、一種のサービスだ。五反田監督も五反田監督で、「よせ、やめろって」と口では言いつつも、どこか満更ではない表情をしていた。
「嘘は愛」。我が母がたびたび口にするその言葉は、その根源こそ星野アイという人間のある種の「歪み」に相違ないのだろうが、それでも一面においては正鵠を得ているのかもしれない。こうして「無邪気な子供」の演技を重ね、洗練させていく中で、アクアの胸中にはアイに対する共感の情が生まれ始めていた。
ともあれ、これでアクアはアイの演技を間近で見る権利を手に入れた。ついでにマネージャーの子供として、苺プロの印象の向上に一役買ってみせたのではないかとも勝手に自負する。
そのまま少しの間だけ五反田監督にじゃれついていれば、そう時を置かずにセット側の撮影スタッフが彼のことを呼び止めた。そろそろ本番、ということらしい。
初めて間近で見る、星野アイの演技だ。果たして何が飛び出してくるだろうか。
自分でもわかる期待の視線のその先で、係の持つカチンコが、掛け声とともに打ち鳴らされた。
シーン二、カット七十四、テイク一。机に座って駄弁る女子生徒たち。
主人公の女の子の横に座る、その友達のうちの一人が、アイだ。
主人公が思いを寄せる男の子のことで悪戯っぽく揶揄って、無邪気な笑い声を上げる。本当に、ただそれだけの一幕だ。どこにでもあるような日常のワンカットだ。
だというのに、引き込まれた。演技にではない、存在にだ。
私を見ろ。私の輝きを見ろ。無言のうちに、そんな主張が、声が聞こえる。おそらくこれは無意識の行いだ。
……いや、すべてがそうというわけでもないかもしれない。何となれば今のアイの振る舞いは、明確にカメラの存在を意識しているからだ。
撮影が始まる前、彼女は言っていた。「どこから撮られるのかが分かっているなら、そこから可愛く見えていれば十分なのだから、むしろ得意分野である」と。
ならばこれは、無意識にすら刻まれた意図を伴う振る舞いなのだろう。
「なるほど、これは……」
横で五反田監督がそんな呟きを漏らす。
きっと今彼も、同じようなことを考えているのだろう。今自分の受けているこの衝撃は、きっとファン贔屓、身内贔屓というだけのことではないのだろう。そう、アクアは考えた。
しかし――そこでふと、アクアは気がついた。気がついてしまった。
今回の主演である、アイの隣の女の子のことだ。挨拶のあと、控室でルビーのことを抱き上げていたあの子の肩書は、「可愛すぎる演技派女優」であった。その肩書で、このドラマの主演を勝ち取っている。
しかし今、そんな彼女の隣に座っているアイは、演技の質はともかくとして、存在感という意味では隣にいる主役すらも塗り潰してしまっている。端的に言えば、「存在を食ってしまっている」。
「これは……まずいんじゃ」
思わず、呟いてしまっていた。
確かこの現場に入る前、アイは言っていた。自分に割り当てられたのは、端役であると。つまりその存在感は、端役相当でなければならない。まあ、「端役」というには少しばかりクローズアップされていそうな
無論、脇役の方が人気の出るドラマやアニメの存在は枚挙に暇がないが、それでも今回のドラマが何を目論んでのものかぐらいは、アクアにもわかった。つまり、あの「可愛すぎる演技派女優」を売り出したいのだ。
だとすれば、むしろこのドラマの画として、今のアイの存在はむしろ邪魔だ。邪魔になってしまっている。
「センターの弊害……」
そうだ。アイはB小町の不動のセンターで、いつだって主人公だった。主人公であることを求められ続けてきたのだ。だからそんな彼女にとって、今回の役どころは結局のところ、ミスマッチだということなのだろう。
悩ましいことだ。思わず腕を組んでいた。
しかし――そんなアクアの思惟は、不意に割り込んできた誰かの声によって遮られる。
「お前……」
訝しがるような、そんな声に。
横を見る。視線の先にいたのは、五反田監督だ。そして向けられていた目線に、アクアは自らの失策を悟った。
なぜなら彼は、五反田監督は、あり得ないものを見るような顔で、自らのことを見てきていたからだ。
「かんとくさん?」
「……いや、お前それはもういいから」
ダメもとでやってみた演技も、そんな言葉で切って捨てられた。思わず、苦笑が漏れていた。
「なあ、お前。……猫被ってやがったな」
形こそ問いのそれだが、これはもはや確認でしかないだろう。アクアにしても、流石に観念するよりないのは理解していた。
ため息交じりに、声が漏れる。
「……油断、しちゃいましたね」
「油断って、お前さぁ……」
わざとらしく頭に手を当てて見せれば、呆れ果てたような言葉が返ってきた。目線を外して、演技するアイの方を見る。
「気味が悪いでしょう、こんな子供」
呟く。全く、とんだ油断だ。たかが二歳でこんな態度を、言葉遣いをする子供などいはしない。考え方もだ。
いくら特異な才能が集まるのが芸能界とはいえ、これは人間としての発達の程度を超えているのだから。
「まあ、確かにな。早熟なガキなんざこの業界にゃごまんといるが、
後悔しきり、反省しきりのアクアに向かって、五反田監督の答えが返る。
やっぱりそうだよな、と項垂れたアクアだったが、しかし横から伸びた腕が自らの身体に手をかけたことで、弾かれたように隣を見た。
「……けど」
抵抗する余裕もなく、アクアの身体が宙に浮く。抱え上げられていたのだ。言うまでもなく、五反田監督の仕業だった。
身体ごと向き直らされる。視線が彼と合った。五反田監督の瞳の中に、アクアは驚きに目を丸くしている自らの姿を見た。
「面白れぇじゃねぇか」
にやり、と五反田監督が笑う。急転直下の展開に思考が追いつかないアクアをよそに、彼が続けた。
「確かに、あのアイドルのはやりすぎだ。ぶっちゃけ、演技自体は並だしな。それであそこまで目を惹くってのは才能だが……この場にゃ合ってねぇ」
ちら、とアイの方を見る。カットがかかり、セットの中の空気は俄かに弛緩していた。演技が終わって女優たちが話し合うその只中でさえ、アイの放つ存在感は褪せていない。
「そういう意味で言やぁ、まあこの役振った上が悪いってこったな。多分だが、撮ったカットの殆どはお蔵入りだ」
ま、事故に遭ったとでも思うしかねぇな。皮肉気に漏らす監督に、アクアは食い下がる。
「どうにか、なりませんか? せっかくドラマに出れるっていうのに、これでは……」
しかしというか、案の定というか、監督は首を振った。
「残念だが、無理だな。テイク撮り直すほどのことでもねぇし、時間もねぇ。お前の考えてるとおり、上の連中がホンを変えて、あのアイドルの出番を削るのはもうしょうがねぇ」
「そう、ですか……」
落胆せざるを得ない。せっかく掴んだチャンスだったが、これでは半ばフイになったのが決まったようなものだ。
報われない、そう思いかけた所で、しかし五反田監督の言葉はなおも続く。
「けどな、
早熟。自分のことだろう。顔を上げたアクアに、五反田監督はまたも意味ありげな笑みを浮かべて見せてきた。
「俺はあのアイドルの演技、嫌いじゃないぞ。だから代わりにと言ってはなんだが、一個仕事を持ってこようと思ってる」
持ち上げていた身体を、降ろされる。急変する流れに目を白黒させるばかりのアクアめがけて、監督がしゃがみこんだ。
同じ高さで、目線が合う。右の手の平が、頭に載せられた。
「映画の仕事だ。悪くないだろう?」
映画。話についていけず、ただ呆然と肯いたアクアに向けて、監督は畳みかけた。
「そうだろう。ただそれには条件がある」
そこまで言って、言葉を切る。アクアの上に載せていた手と反対側の腕を後ろに回し、何やらごそごそと探るような仕草をする。
そしてほどなく、彼は自らの左手をアクアめがけて差し出した。
正確には、その手に持っていた名刺を。
「お前も、その映画に出ろ。バーターだ」
言って、彼はもう一度笑う。
「面白い画が撮れそうだからな」
その目には、確かな好奇の光が宿っていた。