天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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第一話が地の文しかなかったので、読み飛ばしてしまった人向けのまとめです。


自身の出生と生い立ちの経緯に原作よりも強いコンプレックスを持っている本作吾郎は、原作よりもさりな死別のダメージが更に重く、結果アイのことを割とフラットな目で見るようになっていた。
それが影響して、アイの子供となったことでテンションが上がって『自分のことを殺してくれた奴に感謝したいぐらい』とまで言っていた原作アクアとは異なり、本作アクアは現状のアイの状況の危険さを早くから認識するに至った。



1-2. 我が半身、我が共軛

 アイが双子の男女、アクアとルビーを産んでから、凡そ半年ほどの時が経った。出産に伴うバタバタが落ち着き、アクアとルビーの首も据わって乳歯もいくつか生えてきたことで、どうやらアイと、アイを取り巻く利害関係者たちの中で、一つの決意が固まったらしい。

 

「よし、それじゃ……『アイドル・アイ』の近日中の復帰に関して、方針を話し合うぞ、いいな?」

 

 アイとその二人の子供が、出産に伴ってその身分を隠匿すべく用意されたとあるマンションの一室にて、この部屋を用立てた張本人たる一人の男が、どこかから持ち込んだホワイトボードを、その掌で以て一つ叩く。

 つまるところ彼は、アイの所属するアイドルグループのプロデュースを行っている芸能プロダクション「苺プロダクション」の、社長であった。名を斉藤壱護と言う。

 

 染めた髪特有の褪せた色の金髪を短く刈り上げて、ハーフリムの細身の眼鏡をかけた壮年の男だ。宮崎の病院で吾郎として相対した時も思ったが、風体だけで言えばどこからどう見ても堅気ではない。ただ接してみればなかなかどうして愛嬌のある人物であって、そういうわけで吾郎としては彼に対してそこまで悪い印象は持っていなかったし、その記憶を受け継いでいる今のアクアからしても、またそうであった。

 そしてその傍らに立って、どこか物憂げな表情をしている人物が、彼の妻であるところの斉藤ミヤコである。栗色の髪を緩く伸ばした、年若く、そして傍目から見ても美しい女性だった。歳のほどは二十代半ばぐらいだろうか。アイの持つ、未成熟さをも内包した危うげな美しさとはまた違う方向性の美というものをこの女性は備えていて、なるほど斉藤壱護という人物の持つ審美眼は確かなものであるらしいと、どこか見当違いの感慨を持った自分がいたことを、アクアは憶えている。

 

 とまれ、この斉藤ミヤコという女性は、今のアクアやルビーにとっては決して浅からぬ関係の存在だった。すなわち、実母であるところのアイが何らかの事情で手が離せなくなったとき、アイの代わりに二人の双子の面倒を見てくれていたのは、ほかならぬミヤコであったのだ。

 如何な年齢不相応な精神を持つアクアであるとて、出物腫れ物所嫌わずであることには変わりない。赤ん坊であれば猶更のことであって、つまりアクアにせよルビーにせよ、ミヤコの手によっておしめを替えてもらった機会というのは決して少なくなかった。

 母の所属する芸能プロダクションの社長夫人を乳母代わりにしている事実に罪悪感を覚えないでもなかったが、しかしそれは一介の嬰児の身空であるアクアにとってどうこうできるようなものではない。故にアクアは精々、アイが自分たちの面倒をミヤコに任せている間は、可能な限り行儀のよい態度を貫くように心がけていた。それぐらいしか、できることがなかったとも言う。

 

 と、そんな風にアクアが思案を巡らせている間にも、大人二人と少女一人の間の話し合いは進んでゆく。

 

 アイドルとしてのアイの復帰戦は、一週間後に予定されている生放送の歌番組であること。

 これからの芸能活動やレッスンの間、直接アイが面倒を見ることのできないアクアとルビーの二人は、壱護の妻たるミヤコ夫人に託すこと。

 双子がアイの子供であるという事実を対外的に隠すため、外向けには二人の子供は斉藤夫妻の子供であると説明すること。

 

 仕事場にアクアたちを連れてゆけないかと、何の気なしといった風情で問うたアイに鬼気迫る剣幕で拒絶の言葉を吐く壱護という一幕を挟みつつ、とりあえずの方針は固まった。

 果たして彼ら三人は、以降の詳細を詰めるための軽い打合せをすべく、リビングから去ってゆく。

 

 如何に首が据わったとはいえ、短時間だけとはいえ、赤子二人だけを残して場を後にする不用意さにはやや閉口させられるところはある。しかし一方でこの瞬間は、アクアという個人にとっては非常に貴重で、かつ都合の良い時間でもあった。

 

「ねえ」

 

 そして同時にそれは――

 

「ね、()()()()()

 

 アクアの隣に座る、双子の妹のルビーにとっても、同じことであったのだ。

 

「ママ、来週から復帰だって! 楽しみ~!」

 

 どういうことか。つまりは、「そういうこと」である。

 

 

 

 アクアが、自らの片割れ、双子の妹であるルビーというこの乳飲み子のことを自らの「同類」であると認識したのは、そう昔のことではない。

 二週間ほど前の話だ。無事首が据わったことで、「はいはい」の形で自律移動ができるようになったアクアは、どういうわけか不意に夜中に目を覚ました。

 乳児の睡眠間隔というのは不規則なものであるとは知識として認識していたものの、だからと言ってすぐに意識的に寝入ることができるわけでもない。こういうとき、本物の赤ん坊であればギャーギャーと泣き喚いて母親を叩き起こすものではあるのだが、生憎とこちらは「中身入り」である。特にそういう気も起らず、かといって布団の上でじっとしている気にもならず、横で寝入っている母――アイを起こさぬように慎重に寝床を脱して、アクアはリビングの方へと足を向けた。

 

 そしてそこで、アクアは目にした。

 何をか。言うまでもない。照明の落ちた真っ暗闇のリビングの中、手元に光を発する板を、即ちスマートフォンを持って、何か忙しなく手を動かしながらも聞くに堪えない罵詈雑言を舌足らずに、しかし流暢に吐き出し続ける赤ん坊の姿を、である。

 

 ところで、乳児の成長、発達の段階として、発語というのは一つの画期だ。それは通常であれば凡そ生後十か月から十二か月ごろの、上下二本の乳歯が生え揃ったあたりで始まることが多い。知能の発達という意味でもそうであるし、そもそも物理的にも、上下の前歯が揃うことで初めて人間は歯擦音の類を発することができるようになるのだ。そして当然にそこから、喃語、一語文、二語文といった段階を経て、幼児は最終的に単一の文章を発話するに至る。アクアは、というより、吾郎は産科医であった故に、当然にこの辺りの発達に関する知識も、そして経験知もまた豊富であった。

 ともかく、いずれにせよ普通に考えて、生後半年ほどの乳児にまともな言葉など発せられるはずもない。アクア自身を差し置いて何をか言わんやという話ではあるが、アクアとて満足な発話ができるとは言い難かった。それは赤子としての、身体的機能の制約によるものなのだから、致し方のないことである。

 

 そうした観点で以て見るに、ならば目の前に広がるこの光景は、一体何だというのだろうか。

 ……いや、もはやとぼける必要も、しらを切る意味もない。つまりアクアの前で、今もなお耳を塞ぎたくなる罵声をひたすらに捲し立ててスマホの向こうの誰かと仁義なき戦いを繰り広げているのであろうこの子も、アクアと同類の存在であるという無慈悲なる事実ばかりが、そこにはあった。

 

 その後、とめどなく発され続ける汚言の数々にそろそろ忍耐が限度を超えたアクアがルビーを呼び止めたことで、双子は互いに互いが通常の赤子ではないことを認識するに至った。そこでまあ一悶着が起きたりしたのはご愛敬としたものであるが、とにかくその一件を経て、アクアとルビーの二人の間に、いくつかの約束ごとが取り決められた。即ち――

 

 一つ、自分たちのこの在り様は、二人だけの絶対の秘密にすること。

 一つ、そのために、日常の生活の中でどちらかがボロを出しそうになった場合、それとなく相手をサポートすること。

 一つ、どうしても必要になった場合を除いて、互いの『来歴』については詮索しないこと。

 そしてもう一つが――アクアたちの育児環境が安定し、アイが芸能活動に復帰した暁には、彼女の出演するテレビを互いに見ることができるよう、最大限協力し合うこと、である。

 

 

 

 過去の記憶に思いを馳せていたアクアが、そこで我に返る。未だはち切れそうなテンションを隠しもせずに身悶えしながら声にならない声を上げている己が妹を、アクアは呆れ半分、しかし共感半分の目線で見据えた。

 

「ま、確かにな。ってことは、そろそろ……」

「うん、『約束』、だよね!」

 

 ぴょん、と小さく跳ねるようにして、ルビーははいはいの姿勢のまま、アクアの方ににじり寄る。そして満面の笑みで、両手を掲げた。

 

「『推し活』、気合い入れるぞっ!」

 

 おー、と拳を天に突き上げるルビーの姿に、アクアも小さな苦笑交じりで応える。

 つまるところアイの息子娘として産まれた自分たち双子は如何なる因果か、共に母である「アイドル・アイ」のファンであったのだ。特に、ルビーは筋金入りの。

 ――本当に、因果なものだ。そして、難儀なものだ。アクアは内心に複雑な心情を抱えたままに、息を一つ吐き出した。

 

 そして、同時にアクアは思う。

 もしこれほどの荒唐無稽な奇蹟が、アイという少女の許に生まれた自分たちに舞い降りたというのであれば、今眼前にいるルビーにも引けを取らぬほどの熱量をアイというアイドルに傾けていたあの記憶の中の少女にも、そんな巡り合わせがあればいいのに、と。

 

 天童寺さりな。四年前に宮崎の病院で看取ったあの少女が、この国の、この星のどこかにまた産まれ落ちて、そして今度こそは自らの夢を叶えられる境遇に恵まれていたのなら、どれだけ素晴らしいことだろう。

 そうなればいい。そうであればいいのに。そう、祈らずにはいられない。

 あの今際の際の折、痛む体に、混濁する意識に鞭を打って、最後の気力でこちらに向かって手渡してきたアクリルキーホルダーのことが、未だアクアの脳裏には強烈なまでに焼き付いていた。

 

 

 

 

 

 とにもかくにも、日々は容赦なく過ぎていく。

 

 ルビーと「約束」の再確認をした次の週、アイは予定通りに生放送の歌番組に出演した。

 オープニング後早々にトップバッターとして出てきたB小町が、代表曲である「サインはB」を披露する。その中心に立って一際強い輝きを放つアクアたちの母は、まさに完全復調した「無敵のアイドル・アイ」の姿、そのものだった。画面越しでさえ感じられる彼女のオーラに圧倒されて、直前に叩き起こしたルビーが自らの横で狂喜乱舞とすら表現すべき痴態を晒しているさまを横目に、アクアはただ呆然とテレビの画面に見入る。

 

 ……これほどまでに、眩しい。自然と、そんな言葉が思い浮かんだ。

 一人の産科医として、自らが担当する「妊婦」としての星野アイの姿を、そして新たな生を享けた赤子として、自らを――時折名前を間違えてくれたりはしていたが――慈しんでくれる「母」としての星野アイの姿を長らく目の当たりにしてきたアクアにとって、「アイドル」として復帰したアイの、テレビ越しに見る強烈なパフォーマンスは、まさに横面を殴られたような衝撃だった。

 

 ――ああ、そうだ。そうだとも。僕はファンなんだ。星野アイの、「B小町の不動のセンター・アイ」のファンなんだ。間違いなく、紛れもなく。

 それを今更ながらに自覚して、故にこそアクアは決意を新たにする。

 この輝きを、断じて消させてはならない。それこそが、自身がアイの許に生まれてきた意味の一端を担っていると、そう信じているからには。

 

 とはいえ、流石にいくら何でも生後半年の身空において出来ることなどないに等しい。だから今は、今だけは、無邪気な一介のファンとしてアイの見せる一等星の輝きに身を委ねていよう。そうしていても、今この瞬間だけはきっと許されるだろう。

 そんな言い訳じみた思いを胸に、アクアは母の晴れ舞台を映すテレビの画面を、ただずっとその目に映し続けていた。

 

 

 

 ともあれ、斯くも鮮やかな地上波生放送ライブへのデビュー戦を飾ったアイ率いるB小町は、その絶対的センターの戦列への復帰とともに本格的に活動を活発化させ始めた。

 少なくない数の熱狂的ファンを抱えているとはいえ、「アイドル戦国時代」とも言える今の日本の勢力図の中では、B小町は未だそこまでの知名度や規模を持つグループであるとは言いづらい。彼女たちのバックである苺プロダクションがそこまで経営規模の大きい事務所ではないということも、そこには作用している。つまり、メディアやマスコミ業界に対して大規模な宣伝攻勢をかけられるだけの資金力があるわけではないのだ。

 

 ならば彼女たちが次に打つ手は何か。結局のところそれは、地道な営業活動であると言うよりない。つまりは仕事だ。一歩一歩着実に道を進んで草の根的に知名度を高めていくことが、結果的には確たる成果につながる。最低でも、それを信じて進むしかないのが現状のB小町であり、ひいてはアイの現在地だと言えよう。

 そういうわけで、無事に復帰を果たしたアイは壱護社長に連れられる形で頻繁に家を空けるようになった。

 アクアたち双子にとって、それは自らの母たる星野アイとの親子の時間が大幅に削られることを意味する。そこに少しの寂しさを感じないでもなかったが、そうはいってもアクアは、そしてルビーもまた「中身入り」である。現状に公然と不平不満をぶちまけるような分別のなさはなかった。

 やや厄介な気質すら感じるほどのアイのファンであるルビーに関しても、自らの傍に母がいない代わりにテレビの画面の中で輝く「推し」の姿を見れるのであればそれはそれでよし、という割り切りで以て日々を過ごしている。尤も彼女の場合は、代わりに母が家にいる間は恥も外聞もなく甘え倒し、なんの遠慮もなく(アイ)のおっぱいを吸っているのだが。アクアとしては、そこまで思い切りのよい振る舞いは到底できなかった。したいとも思わなかったが。

 

 

 

 ともかく、アイが仕事で双子の世話をする時間がなくなった代わりを務めるのが、壱護社長の妻であるところのミヤコ夫人だった。

 一応、それは事前の取り決め通りとは言えるだろう。しかし実際にその立場になってみると、見えるものも変わってくる。

 

 夜泣きはしないし、頻繁に困らせるような行動はとらない。勝手にはいはいで立ち入ってはいけないようなところに侵入したりもしないし、なんでも反射的に口に入れてしまうようなマネだってしない。客観的に見て、不気味なほどに大人しい子供だろう。もし産科医の吾郎としてそんな乳児の姿を見たら、発達に問題を抱えている可能性すら指摘したかもしれないほどに、アクアたち双子は一般的に見れば「手のかからない」子供だった。そのはずだった。

 それでもなお、目を離すことの許されない「双子の子守」という仕事は、一人で遂行するには余りにも心理的負荷が高いものだ。だからというべきか、ミヤコ夫人とアクアたち双子との間に、ちょっとした危機が訪れたことがあった。

 

 いつものように仕事でアイが家から出かけて行ったあといくらかの時が経って、ルビーが自分のおむつを交換してもらうために泣き喚いてミヤコ夫人を呼び止めたときのことだ。

 ルビーの方に向かって歩いてくるミヤコ夫人の表情には、明らかに疲労と不満の色が濃く出ていた。実際、限界だということなのだろう。ルビーのおむつを替えながら、ミヤコ夫人の口からは仄暗い本音が溢れ出してくる。

 アイが十六歳ととびきりに若い年齢であるから忘れがちだが、ミヤコ夫人の方もミヤコ夫人のほうで、そこまで人生経験が豊富というわけではない。二十代半ば、まだまだ自分自身の人生を楽しみたい年頃の女性だ。

 

「何だって、十六歳アイドルの隠し子の子守なんて……」

 

 そう毒づく心情は、アクアとして理解はできた。ほかならぬ世話されている本人がいうのはなんではあるが、労しいとすら思った。

 しかし、そこからミヤコ夫人の言動がエスカレートして、「アクアたち双子のことを週刊誌にタレこもうか」、とまで言い始めたあたりで、さしものアクアも捨て置けなくなった。

 

 一瞬背筋が寒くなり、少しだけの怒りが沸き上がり、しかしすぐに冷静になる。ミヤコ夫人の置かれている精神状態にまで、考えが及んだからだ。

 今の彼女は、どう見ても平常な思考能力を失っている。B小町は売れ始めてきているとはいえ、醜聞がスクープとして出たときにそれが大々的に世を席巻するほどにまでの一般的知名度は、現状ない。そしてそんな程度のネタを提供した人に支払われる取材料など雀の涙だ。五分、いや三十秒と考えれば、今ミヤコ夫人自身が言っていることが全くリターンに見合わない破滅への道であることなど、簡単にわかる。しかし今の彼女は、そこにまで思いが至らない。ならばそれはつまり、「過度なストレスに晒されて判断能力が低下している」状態である、と見ることができるだろう。

 ミヤコ夫人の爆弾発言を隣で聞いていたルビーが慌てた様子で「どうしようアクア、殺す?」などと本気ともつかない物騒なことを口にしている傍らで、アクアはここからどう手を打つべきかを考える。そこから出てきた案は、二つだった。

 

 一つ目は、今のミヤコ夫人の判断能力の低下を逆手に取り、「喋れる赤子」であるアクアたちが一芝居打ってミヤコ夫人のことをだまくらかす、という方針だ。一種のショック療法のようなもので、強いインパクトをミヤコ夫人に与えることで今持っている不満を強引にうやむやにする。例えば神懸かりのような振る舞いの演技でもして、「お告げ」でもくれてやれば、或いはミヤコ夫人に対してだけは、アクアもルビーも喋りかけても怪しまれない環境すらも作れるかもしれない。ピンチをチャンスに変える戦術だとも言える。

 ただ、これはある種の賭けでもあった。そして場当たり的な対処でもあった。こういう「猫騙し」の類は、その効果という意味では長くは続かない。ミヤコ夫人に与えた心理的インパクトのほとぼりが醒めたら、早晩また同じようなことが起こっても不思議ではない。そしてこのやり方には、二度目などない。いや、その時にはミヤコ夫人にとって、アクアたち双子の存在は「不気味な何か」でしかなくなるだろう。その先にあるものを、アクアは楽観視などできなかった。

 

 ならば、どうするか。問われるまでもない。こういうものは、正攻法以外には解法などないのだから。

 どうしようどうしようと焦るルビーの隣から、はいはいの姿勢で動き始める。

 

「なにするの?」

「いいから」

 

 言いつつ、未だ不穏なオーラをまとわせたままぶつぶつと黒い言葉をつぶやき続けているミヤコ夫人のすぐ傍に近寄る。座り込み、俯く彼女の膝の上に、手を置いた。

 はた、とミヤコ夫人の視線がアクアの方を向く。そしてアクアもまた、同じようにミヤコ夫人の方を見上げた。

 

 ――さあ、ここからが芝居の打ちどきだ。

 向けられた視線の中、その虹彩に映りこむ自らの姿を覗き込むようにして――そしてアクアはミヤコ夫人に対して、全霊の笑顔(ウソ)を、全力で叩きつけた。

 

「――みやこ?」

 

 そんな言葉と、一緒に。

 

 ベビースキーマ、という概念がある。乳児や幼児の造形は、一般に大人の庇護欲を誘うようにできているという理論だ。これは本能に根差す心理的作用であって、「可愛い」という情動の源泉の一つもここにあるとされている。

 つまり何をしなくても、子供というのは可愛い生き物なのだ。よほどその子供の存在そのものを憎んでいるのでもない限り、自らの名前を呼んで、無邪気に笑いかける子供のことを、人は邪険になどできようはずもない。

 ミヤコ夫人にしても、それは例外ではなかった。自分の名前を呼んで、無垢な瞳――無論、演技ではあるが――でまっすぐに見上げている赤子の、アクアの姿を正面から見たことで、どうやら彼女も我に返ったらしい。

 

「……まあ、この子達は悪くないものね。お門違いか」

 

 呟いて、手に持っていたスマホをしまう。そしてアクアめがけて腕を広げ、微笑んだ。

 

「はいはい。ほら、いらっしゃい、アクア君」

 

 促されるままに、アクアはミヤコ夫人に抱きつく。母親でもない、年若い美人の胸に抱かれることにどうしても気後れするところの多かったアクアではあったが、今回ばかりはやらねばならない。致し方のないことだろう。そしてミヤコ夫人の肩越しに、ルビーにもこちらに来るようにと無言で促す。

 ほどなくしてアクアの意を汲んだルビーの方もミヤコ夫人の傍へと近寄って、果たして二人を腕の中に迎え入れた彼女は、ようやく完全にその気を落ち着けるに至った。

 

 やっていることは、とんだ騙しだ。正直なところ、罪悪感はある。それでも、とりあえずはこの家の中の平穏が守れたという事実に、アクアは安堵の息を吐いた。

 アクアにとって、これはまさしく一つ目の「成功体験」であった。

 

 

 

 

 

 そんな、家の中で起こった小さな「事件」から、さらに数か月の時が経過した。

 アイも、B小町も、努力の甲斐あってか少しずつ、その知名度は上がり始めている。アイの復帰戦であった生放送の歌番組は十分な衝撃をお茶の間に与えていて、その甲斐あってか最近発表された新作のシングルは、オリコンの週間ランキングで三位に食い込んだ。少し前まで、客観的に見れば「凡百のアイドルグループからは一歩抜け出した」ぐらいの立ち位置であったB小町の規模のことを思えば、それは大躍進といってもいいだろう。

 これをきっかけに、さらなる飛躍が期待できる。そういう期待感のようなものは、確かに存在していた。

 

 しかし、それは必ずしも「今現在において売れている」ということを意味しない。

 その現実を突きつけているのが、今アクアたちを抱えるアイが覗き込んでいる、給与明細書だった。

 

 ――差引支給額、二十一万円弱。額面では二十五万円強というのが、今のアイのいわば「市場価値」だ。アイドルに夏冬の定期賞与などないわけで、つまりこれを十二倍した額、凡そ年収三百万円というのが、アイの収入だった。

 十七歳の少女の稼ぎ出す額としては、破格と言えなくもない。ただそれは、二児のシングルマザーたる彼女にとってはどうにも心許ない数字であったらしい。

 

「私一人なら、これぐらい稼げてれば十分なんだけど……」

 

 言いつつ、横に座るアクアとルビーに目線を送る。

 

「私が、もっと頑張らないと……じゃないと、この子たちを幸せには、できない。させられない。今のままじゃ」

 

 身につまされる思いだった。思わず、アクアは母から目を背けていた。

 手取り二十一万とはいえ、これには壱護がアイやアクアたちのために用意した住居の家賃や光熱費は含まれない。そのあたりはすべて、苺プロ持ちだ。無論、これを経費として処理することで法人税を圧縮できているという面はあるとはいえ、アイにせよアクアたちにせよ、この手取りの倍以上の金額を、苺プロからは援助されているに等しい。

 つまり今の生活が終わり、アイがこの場所から独り立ちをすることを考えようとなると、手取りの金額が今の倍ほどあっても生活水準を保てないということなのだ。アクアたちが長じて教育費を出さなければならなくなったとなれば、尚のことだろう。

 

 アクアは思い返す。吾郎の死因となったあの事件のことだ。

 あれがまだ終わったと言えない以上、アイの住環境は相応の安全対策が施された場所である必要がある。これは絶対だ。

 今はまだ、この家に苺プロの二人が出入りしているからよい。しかし今後、アイが自らの収入のみで生活基盤を確保しようとなったときに十分な資金力がなければ、そんな安全性の担保された物件を押さえることなどできるはずがない。そしてその行く末に何が起きうるかなど、アクアはもはや考えたくもなかった。

 

 アクアは、再びアイの方を見る。ルビーの身体を抱え上げ、憂いの表情を浮かべたままの我が母の横顔を、じっと覗き込んだ。

 

 ……どうにか、しなければならない。しかしどうやって?

 やっと自立歩行のできるようになった程度のアクアたちが、アイのためにしてやれることなど、まだ一つもないというのに。

 

 もどかしい思いを抱えたまま黙り込むアクアを他所に、アイはレッスンへと出かけていく。それをミヤコ夫人と三人で送り出したあと、アクアとルビーは示し合わせたように顔を見合わせた。

 

「ねえ、アクア」

 

 事務作業であろうか、パソコンの作業に集中し始めたミヤコ夫人に気づかれないように、小声で言葉を交わす。

 

「ママ、すっごく悩んでた。どうにか、できないのかな……」

 

 ルビーのそれも、また沈んだ声色だった。

 

「私、アイドルなんて月に百万円ぐらい稼げるものなんだって、思ってた」

「それは……流石に、そんなことはないよ」

 

 思わず苦笑する。どうやら我が妹は、思った以上に世間知らずであるらしい。

 余計な詮索は無用ではあるが、おそらく彼女に宿る「中身」のほうも、きっと成人になることなく天に召された誰かなのだろう。そんなことをアクアは考えた。

 

「アイドルは、セット売りだから。成功も失敗も、全部みんなのもの。グッズが収入としては大きくても、逆に売れなきゃ赤字だし。……水物だよ、アイドル稼業は」

 

 アクアの答えに、ルビーが目を伏せる。

 

「でもママ、あんなに頑張ってるのに」

「……そうだな」

 

 やるせない気持ちは、アクアもまた持っている。歯がゆさなど人一倍だろうと、自負もしている。

 互いに何も言うことができず、重苦しい空気が部屋を支配した。

 

 何か。何か、手はないか。思案をひたすらに巡らせる。

 頭を抱えるようにして、目を瞑って、アイのこれからの予定を脳内で一つずつ振り返って――

 

「――そうか」

 

 その末に、アクアの頭上に天啓が降ってきた。

 

「お兄ちゃん? 何か、あるの?」

「まあ……そんな、すぐにどうってことでは、ないけど」

 

 期待の目線で見つめてくるルビーに、アクアは向き直る。

 

()()()()()。母さんの。そこで……『ひと暴れ』、してみようか」

 

 

 

 のちにルビーは述懐する。

 ――ウチの兄が何かを思いついたときの、あの目。初めて見たのはあの時の、何の変哲もないリビングでの会話の中でだった、と。

 

 

 

 そこから数週間後の、とあるライブハウスで行われたライブにて、ネット上を騒がせる一つの動画が撮られた。

 

 二連のベビーカーの中、おしゃぶりを付けた双子の赤ん坊が、お揃いの(アイ)のサイリウムを使って全身でオタ芸を打っている。

 

 わずか二十秒やそこらのその動画は、短い間ではあったが日本中で大ブームを引き起こすほどの盛り上がりを見せ、のちにネットミームの一種となるほどに人々の記憶に焼き付いた。

 同時に、この動画が撮られたのがB小町の販促ライブ中のことであったという事実が併せて広まることで、B小町というアイドルグループの知名度は一段階上のステージへ押し上げられることになる。

 

 そして――

 

 

 

「へぇ、なるほど? コレが、いいのね?」

 

 この日を境に、それまで美しさの、輝きの片鱗を見せつつも蛹であった一人のアイドルが、完全なる羽化を果たす。

 

 

 

 ――伝説が、幕を開けた。




基本はこの通り、原作に沿って進みます。ただところどころの判断が原作と変わります。
一貫してより抑制的、理性的、現実的な動きになるので、ギャグ描写が減ります。

まあ、作者がギャグ描写があまり得意ではないからと言う面もありますが。

あと、基本的に原作の台詞のコピーは最小限度にすることを心がけています。なので似たようなシチュエーションでも各キャラは違う台詞をしゃべります。
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