なぜマジカルチェイスは幻のソフトとなってしまったのか? ─PCエンジンソフトの厳しい流通事情─

0.はじめに



「マジカルチェイス」というゲームをご存じでしょうか? 1991年にパルソフトから発売された、PCエンジン用HuCardのSTGです。


上の動画で「超レアソフト」と評されているように、非常に出荷本数が少なかったことで有名です。そして同時に、恐ろしくハイクオリティであったため発売後からじわじわと評価があがり、ゲーム屋に探し求めるユーザーが現れたものの、なかなか再販されず、どこにも在庫がなくただただ「幻」となっていった、というソフトです。
如何にハイクオリティであったかというと、

「高速多重スクロールを実現」
「同一キャラを別パレットにし半透明っぽく見せる」
「ボスキャラが拡大縮小する」
「PCエンジンの内部音源を駆使した圧倒的サウンド」

と言った案配で(多重スクロール機能も、半透明機能も、拡大縮小機能もPCエンジンにはありません)、当時PCエンジンに深く関わっていた岩崎啓眞氏は

と、そのクオリティに驚嘆したことを証言しています。

このマジカルチェイス、これだけ高い技術力を誇りながらも、なぜ初期出荷本数が少なかったのか? なかなか再販されなかったのは何故なのか? を語るには、実のところ当時の流通事情が深く深く絡んでいます。よく「発売直後にパルソフトが倒産したため、再販が困難であった」とも表されますが、これは半分くらいは間違っていたりします。

この記事では私が調べた範囲で、当時の流通事情と、パルソフトの正体について解説いたします。よろしくお願いします。


1.パルソフトとは?



まず、ボーステックの解説から始めたいと思います。「なぜボーステック????」「ボーステックって、何ぞや?」となる方も居られるかもしれませんが、とても大事なのでこのまま続けます。
ボーステックは八巻龍一氏が設立した企業です。八巻龍一氏の実父は東京ボース工業という会社を営んでおり、八巻龍一氏は元々東京ボース工業に勤めていましたが、脱サラし、独立。東京ボース工業から一部出資を受ける形でボーステックを設立しました。
このボーステック、パソコンをメインに展開するソフトウェア会社です。当時、様々な企業がパソコンという新しい分野に活路を見出し、様々なアプローチを仕掛けていました。有名どころではエニックスが「ゲーム・ホビープログラムコンテスト」を開き、優秀作品に賞金を与え、かつ実際にそのゲームを発売していました。
ボーステックも賞品総額300万円のコンテストを開き、そこで優秀作のソフトを発売しつつ、優秀な人材を獲得していきました。「超時空要塞マクロス」「銀河英雄伝説」といった版権ものも取り扱うようになります。

ちなみにこの頃「パラディン」というゲームを発売していますが、このゲーム、当時高校生だった赤松健氏がボーステックに持ち込みを行ったことで発売に至りました。ハイパー家計簿という家計簿ソフトも発売しています。

1987年にはファミリーコンピュータのディスクシステムに参入しました。1988年にはシステムソフトの「大戦略」をファミコンに移植し、発売しています。
この後少し体制に変化が訪れました。ボーステックはPCソフト向けと、家庭用ゲーム向けで部門を分け、分社化することにしました。家庭用ゲーム部門は「クエスト」として設立。クエストは1990年にファミコン向けに「魔天童子」「ダンジョンクエスト」を発売しています。

そして皆さんご存じの通り、93年にSFCで「伝説のオウガバトル」

95年には「タクティクスオウガ」を発売することとなりました。

……が、今回の記事は時計の針をもう少しだけ巻き戻します。
90年はクエストがボーステックを吸収する形で合併を行っています。クエストは家庭用ゲーム、ボーステックはPCソフトというのは変わらないままです。

そしてもう一つ、この時、クエストが他社と共同出資し、販売用の専門法人を立ち上げることになりました。そう、これこそが「パルソフト」なのです。

そしてこのパルソフトの第一段ゲームこそ、マジカルチェイスでした。

2.逆風の中の発売



クエストが開発し、パルソフトが発売する……という形となったマジカルチェイスですが、この時代の流通はまだまだ未成熟だった、ということを知っておく必要があります。活発化するゲーム市場に合わせて新しく立ち上がり続けるソフトメーカーと、日本全国に点在する小売店がそれぞれ直接取引する……というのは無謀であり、仲介役に問屋がいましたが、その問屋も大小様々であり、大きな問屋が注文を受け付けるのは50本単位からだったので、町の小さなゲーム屋さんの場合は、規模の小さな二次問屋に注文する、なんてこともごく当たり前でした。場合によっては三次問屋四次問屋……ということもあり得ました。彼らは一次問屋とは違い、自前の倉庫はなく、電話と伝票のやり取りでモノを動かし利益を得ていたそうです。

なのでメーカーは問屋を巡り、商品説明をしたり、デモソフトを貸したり、はたまた展示会を開いて問屋や小売店、そして消費者を呼び、受注へと繋げようとしました。1988年にはサードパーティ各社が集まりCSG(コンシューマ・ソフトウェア・グループ。後年のCESAになる原型の団体)が結成され、共同で展示会を行うようになりました。これで効率的に営業活動が行えます。

ところがこうした血の滲むような営業努力は、効果的だったか、というとイマイチ疑問符がつきます。結局の所、問屋が注文を入れる目安は「如何にTVCMが多く打たれるか」「雑誌の特集はどれくらいか」「評判のシリーズの続編か」といったところが多く、無名メーカーの新規作となると、注文が非常に渋くなります。如何にメーカーの営業が問屋の担当者に対して「ファンがこれを待ち望んでいる」と力説しても、「いや、このジャンルはもう動きがないから」で話が終わったりしたそうです。問屋の担当者も正直なところ、似たような文句を他社から何十回も聞いているわけです。

そして91年のPCエンジンにはとある問題がありました。流通事情において、です。元々PCエンジンはCD-ROMを前提にしたハードでした。CD-ROMの有効活用としてゲームを選んだNEC-HE(ホームエレクトロニクス。NECの家電担当の兄弟会社です)、ファミコン以上のスペックを持ったチップセットを開発したハドソン。この二社がタッグを組み世に出したのがPCエンジンです。CD-ROMは当時非常に高コストだったため、HuCardを媒体にしました。CD-ROMは後付のオプション扱いです(後には一体型のPCエンジンDUOが発売されました)。
CD-ROMは非常に高価なオプション品として発売されました(CD-ROMドライブが32800円、PCエンジンと繋ぐインターフェースユニットが27000円。当時消費税がなく、贅沢品にかかる物品税の都合により分割して発売されました。消費税導入後にはセット販売へ移行します)。そしてNECは様々なバリエーション機を市場に投入していきます。

89年には拡張用端子を排除して価格を下げたPCエンジンシャトル(18800円)。初代モデルからコンポジット端子へ変更したマイナーチェンジモデルであるPCエンジンコアグラフィックス(24400円)。そしてメモリとビデオチップを強化した上位モデルにあたるPCエンジンスーパーグラフィックス(39800円)が発売されました。ちなみにPCエンジンシャトルは拡張用端子がないためCD-ROMを接続することができませんし、スーパーグラフィックスは別売りの接続ユニットが必要になります。まあ「スーパーグラフィックス対応CD-ROM2ゲームソフト」というものは結局発売されなかった(発売予定すらなかった)ので、あまりスーパーグラフィックスにCD-ROMを付ける理由はなかったのですけれど。

翌年にはゲームボーイに対抗したのか、携帯機であるPCエンジンGTが発売されましたし、91年になると従来のCD-ROMをパワーアップさせたスーパーCD-ROM2が発表され、PCエンジンDuoという拡張CD-ROM一体型の機種が発売されました。さらにPCエンジンコアグラフィックスⅡという価格を下げたマイナーチェンジモデルも発売されました。

こうした出し過ぎとも言えるモデルの拡充は、どうもNEC-HEが家電メーカーであったことが根本にあったようです。岩崎啓眞氏がNEC-HEの人に直接尋ねてみたところ、「PCエンジンがミドルレンジなら、スーパーグラフィックが高級機であり、シャトルが普及機」という狙いだったとの話です。当時の家電では高級機、ミドルレンジ、普及機のラインナップはよくあることでした。

が、これはよろしくない方向にも作用が働きます。これを扱っていた問屋の皆さんは「在庫があるのに新機種発表で旧型化」という事態になりました。しかも、何回も。さらにいえばPCエンジンコアグラフィックスⅡは値下げの結果、PCエンジンシャトルの存在意義を殺していました。更に言えばPCエンジンスーパーグラフィックスは対応ソフトが6本で終わっており、完全な失敗機種として認識されていたため、在庫をわざわざ買おうとするユーザーや小売店は存在しませんでした。そのため大特価品として値段を下げる必要が出てきます。場合によっては(というか、この後に及んでは)赤字で卸す必要もあるでしょう。

このゴタゴタを経て、一部の問屋ではPCエンジンの取扱を止めるところも出てきたそうです。この時期、90年に発売されたスーパーファミコンがぐんぐん成長していた事もあり、そちらのほうへ注力したほうが効率的、なんていう事情もありました。多数発売されるファミコン(91年は90年と並び年間150本以上新作ソフトが出る大豊作時期です)、急成長しているスーパーファミコン、そしてもう一つのライバルメガドライブもソニックザヘッジホックという本命ソフトをリリースして目立ち始めた頃です。市場には多種多様な新作ソフトが毎週毎週ガンガン発売されていきました。さらに、PCエンジン最高売上を誇る天外魔境Ⅱの登場は、もうちょっと先の話でしたが、「PCエンジンのメイン市場はCD-ROM2」という認識がじわりじわりできてきた頃でもあります。

マジカルチェイスが発売されたのはこんな状況でした。問屋はゲームの中身を見ることなく、「パルソフト」という無名メーカーが「マジカルチェイス」という無名ソフトを旧来のHuCardで発売することを判断基準として発注数を決めます。なお、この頃の他社の状況はというと、似たようなモノで、「ちゃんとしたゲームを作りたい!」と上司に直訴した新日本レーザーソフトの川出陽一氏は

「川出くん。良いゲームを作ったって,悪いゲーム作ったって,どうせ受注は3万本だから,数を作るのが大事なんだ」

https://www.4gamer.net/games/668/G066894/20230606056/

と返され、「駄目だなこの会社」と思ったと後年のインタビューで語っています。

パルソフトにやってきた問屋の発注数は、ごく少数でした。そしてマジカルチェイスは、多数に発売される新作ソフト群に埋もれていきました。

そしてここから、流れが変わります。


3.逆転の高評価 しかし



元々マジカルチェイスはPCエンジン専門雑誌において非常に高評価を得ることに成功していました。

もしもシューティング・アカデミー賞なんてのがあったら、ベスト・グラフィック&スクロール部門はこのゲームで決まり! とゲーム通の間では口コミやタレコミ(?)で噂されている、というほどビジュアル面の完成度は「ドラゴンボール」のカリン塔並みに高いぞ。(以下略)

マル勝PCエンジン1991年11月号 54p

グラフィック、サウンド、バランスは完璧。まさに文句なし。よくぞここまでやってくれました、って感じだ。(以下略) 岩崎啓真

マル勝PCエンジン1991年11月号 135p  

発売日が延びてしまったのでやきもきしたけれど、ゲームの完成度は抜群。今までのPCにはなかった色使いの美しさと技術力は、プレイするときっと驚くことだろう(以下略) AM

月刊PCエンジン 1991年12月号 149p

そして発売後には、実際に遊んだプレイヤーからの驚嘆の声が上がります。

ハードの限界を克服
「こいつぁ、良くできたゲームだぜ!!」というのが第一印象だった。ステージ3でスウィング・ショットを撃ちながら突き進む快感、多重スクロール。BGMは「ファンタジーゾーン」などと比べると、違うハードじゃないかと思えるくらい素晴らしい!(以下略)

PCエンジンFAN 1992年 2月号 43p 

いいぞ、パルソフト!
すごい。とにかくすごい。CD-ROM2もスーパーファミコンも色あせて見える。絵も音も完璧だった。6万5000も色はいらない。PCM8音もいらない──そんな気がした。(以下略)

PCエンジンFAN 1992年 2月号 43p

PCエンジンFAN誌上の読者投票では30点満点中の26.77点を獲得し、これは93年時点のPCエンジンソフト第三位となりました。そんな高評価で各ゲーム雑誌を埋め尽くし、見事マジカルチェイスは「そんなに凄いなら是非プレイしてみたい!」という、プレイヤーの好奇心を揺さぶることに成功します。


ところが……前述の通り、マジカルチェイスの出荷本数は非常に少なかったのです。あっという間に小売店から在庫がなくなり、問屋の在庫も消えました。PCエンジンFAN1992年8月号には「マジカルチェイスをずっと探しているのに未だに見かけない」という嘆きの投書が載っています。

市場在庫がなくなった場合、当然皆様の頭に浮かぶのは「再販」でしょう。ゲームソフトでも本でも、需要があればリピートがかかるのは当たり前のことです。ところが、このマジカルチェイスの再販は、なかなか上手く行きませんでした。これはマジカルチェイスだけが抱えた問題ではなく、当時のマイナーな、小規模ゲーム会社の宿命みたいなものでした。

通常、問屋は小売からの注文があり、かつ手持ちの在庫がなかった場合はメーカーに問い合わせします。メーカーが余計にゲームをつくって自分で在庫を抱えていればよいのですが、小規模メーカーの場合は予算的になかなか厳しいものがあったりします。なので「在庫なし」と答える羽目になります。

複数の問屋から短期間に問い合わせが来たとき、ようやく選択肢の中にリピートが浮上します。しかしここからも問題です。リピートには時間がかかります。当時のCD-ROMは他社の工場に生産委託していた都合で一ヶ月はかかり、HuCardは二ヶ月かかります(CD-ROMはビクターで、HuCardは三菱樹脂が作っていたそうです)。そうなると「発送は二ヶ月後です」となり、問屋としても「今ないんならいらない」とキャンセルしてしまいます。二ヶ月後も需要が残っているとはとても思えないからです。

見切りで注文数を想定し、HuCardの発注をすべきでしょうか? そこで読み間違え、在庫を抱えたらそれこそ死活問題です。発売半年経ったゲームソフトが再び大きくうごく、というのは今でも当時でもかなり珍しい事象なのですから。

もし末端のユーザーが「いつになってもいいから予約する! 前金も払う! 小売価格まんまの、値引き価格じゃなくてもいい!」と店に掛け合い、それが数千単位で行われたら問屋が動くと言うことはあり得るかも知れません。しかし、そんなことは起こりませんでした。結局マジカルチェイスはごく少数の中古品を巡って熾烈な競争が起きることになります。

ここで少しだけ話がずれます。実は、とある事情が重なり、再販に至ったというソフトが一本あります。その名は「ファミコンウォーズ」。詳しくはオロチさんのブログ、ファミコンのネタ!! にて詳しく解説されていますが

7社の問屋と、そのチェーン店(全国合計1017店)が協力し、任天堂に5000本のファミコンウォーズの注文を叩きつけることで再販を実現させました。

ですが、マジカルチェイスにはこの道を辿るルートは残されていませんでした。知名度が低く、存在を把握すらしていなかった問屋も多かったそうです。


4.パルソフトの危機


マジカルチェイスの発売後、パルソフトの経営に黄色信号が灯ります。ハッキリしたことはわかりませんが、良い状態ではなかったというのは確かです。

Wikipediaや各種サイトではパルソフトは「マジカルチェイス発売後、すぐにパルソフトは倒産した」という情報が書かれていますが、これは正しくありません。PCエンジンFAN 1993年6月号では、「なぜマジカルチェイスを再販しないのか」というまんまの議題が読者コーナーで取り上げられ、その際パルソフトの営業が返答をしています。つまりこの時点でパルソフトはまだあったのです。

ちなみにその返答は「再販のための努力をしてきたのですが、未だ実現するに至っておりません」というテンプレ的なもの。
同時に問屋や小売店にも質問を投げかけているのですが、その返答はかなり過激で、

「小売店からの注文がない」
「新品では利益が取れず中古を回転させて利益を得ているので、PCエンジンのような、価格の乱れが激しい市場の再販品はかなりのリスク」
「NEC-HEは5000本からでないとリピートを受け付けない」
「毎月毎月新商品が発売されるため、どうしても『ドラクエ』や『ストⅡ』のような大手の有名ソフトに目がいってしまう」

というはっちゃけたものでした。PCエンジン情報誌で書いていいことなんでしょうかこれは。

話が逸れましたが、それはそれでパルソフトの経営が上手くいっていなかったのは事実です。実は1992年にパルソフトはテクノスジャパンがアーケードで展開していた「コンバットライブス」をSFCにて移植・発売する予定でした。

ところが発売延期がなされたあと、コンバットライブスは本家のテクノスジャパンより1992年12月に発売されました。なにやらとてもとてもきな臭い匂いがします。

少し話がずれますが、この前に発売されたメガドライブ版「熱血高校ドッジボール部サッカー編MD」がパルソフトではなく株式会社S.M.Sからの発売になっている……という情報がピクシブ百科事典に書かれています。が、セガ公式を確認すると、きちんとパルソフトになっているので、誤情報だと思います。

この株式会社S.M.S、どうも住所がパルソフトと同じものが使われていたらしく、またマジカルチェイスの説明書にも「営業代行」として記載されています。

なので、もしかしたら、クエストと共にパルソフトに共同出資した会社かもしれませんが、詳細は不明のままです(誰か把握している方がおられたら教えてください)。

少し話がそれましたが、結局パルソフトは1992年9月発売の「ぎゅわんぶらあ自己中心派 麻雀皇位戦」が最後の自社ソフトとなりました。以後はクエストが自前で発売することになります。その結果、1993年3月に「伝説のオウガバトル」がクエストから発売されることとなりました。

パルソフトは静かに役目を終え、姿を消す……。こんな結末を迎えるはずでした。しかし1993年、突如として転機が訪れます。


5.再販


1993年7月号のPCエンジンFANにて、とんでもない企画が組まれます。「マジカルチェイス再販決定」。

画像

今まで困難だったマジカルチェイスの再販を、雑誌企画で実現するというものでした。

PCエンジンFANは非常にマジカルチェイスを推していました。発売後は「なぜマジカルチェイスは再販されないのか!?」「なぜ欲しいソフトが手に入らないのか」といった特集が組まれるようになり、読者コーナーに「マジカルチェイス再販友の会」というネタがあがると、読者からの反響が一気に編集部に送られたと言います。

これによりPCエンジンFAN編集部が、5周年企画としてマジカルチェイスを再販させようと動きます。問屋を通さず、直接パルソフトに発注をかける方式です。先行して読者から注文を集め、それをまとめ上げパルソフトに依頼。パルソフトはNEC-HEに発注し、できた物は編集部が受け取り、そこから人力で全力の個別配送作業に移るという、通信販売です(おそらく大量のバイトを雇ったものと思われます)。この時の価格は配送料込みの8000円でした(元の希望小売価格が8800円だったので、結構安くなってはいるのです)。

こうして見事通販の受注生産という形で再販を実現したマジカルチェイスですが、やはりこれも大量の数を市場に流すまでには至らなかったようです。1996年のゲーム市場では、相変わらずマジカルチェイスがプレミア扱いのレアソフトとして扱われたのでした。

ただし、困難なマイナーゲームソフトの再販を実現したという点で、PCエンジンFANの功績は大きいのではないでしょうか。


6.その後のマジカルチェイス



ここからマジカルチェイスは不思議な軌跡を描きます。

まず、所属クリエイターがクエストから離れました。ゲームデザインの皆川裕史氏はタクティクスオウガ制作後、スクウェアに移籍しました。伝説のオウガバトルの松野泰己氏も(マジカルチェイスのスタッフロールにYAZという名前がSpecial Thanksに載っていますが、おそらく松野泰己氏のことかと思われます。松野氏のハンドルネームがYAZZなのです)スクウェアに移籍。そこで「ファイナルファンタジータクティクス」を手がけ、ミリオンヒットを飛ばします。

97年にはクエストは一度合併したボーステックを再び分社化します。基本方針としてはやはりクエストは家庭用、ボーステックはPCなのですが、クエストの発売本数は明らかに減少傾向になりました。64で「オウガバトル64」、GBAで「タクティクスオウガ外伝」、ネオジオポケットカラーで「伝説のオウガバトル外伝」と三本だけ。

ボーステックは銀河英雄伝説シリーズを展開しつつ、なんとマジカルチェイスをWindowsに移植します。
1998年に「マジカルチェイス for Windows95」がボーステックより発売されました。

これはアレンジ移植ではなく、PCエンジン版をそのままWindowsで遊べるようにした移植にあたります。が、これもこれで知名度が低く、レアソフト化していきました(パッケージのメーカーはボーステックなのに、©表記は1998/QUEST なのは、実際にクエストスタッフによる開発だから、のようです)。

そしてもう一つ、マジカルチェイスに大きな動きがありました。なんとなんと、2000年にゲームボーイカラーへ移植されました。ボーステックではなく、ライセンスを受けたマイクロキャビンより「マジカルチェイスGB ~見習い魔法使い 賢者の谷へ~」が発売されました。

PCエンジンとゲームボーイカラーというプラットフォームの違いがあるため、完全移植とまではいきませんが、高速多重スクロールがきっちり再現されています。

そしてこのマジカルチェイスGB、スタッフロールが少しばかり変わっています。クリアをすると

<Magical Chase GB>
Program
C.G Design
Music & Sound
 AEON

……とだけ、出てきます。

画像
引用先 https://www.youtube.com/watch?v=CjG3R-j9gkM  ©マイクロキャビン ©クエスト

コレを見て、一人のスタッフが全部の移植作業をやったものという言説があるのですが、AEONとは開発会社の名前です。元ボーステックの石塚仁司氏が立ち上げた会社で、同時期の他のゲームのスタッフロールにも確認できます(スタッフの多くはもともと、元システムサコム社員が独立して立ち上げたジャックポット所属だったそうです。ああややこしい)。

クエストのスタッフが手がけた作品の移植を、元ボーステックスタッフが立ち上げた会社が請け負った……という、なんとも運命じみた軌跡を描くことになりました。

ですがこれも大きな話題となることがなく、少量出荷のレアソフトとなりました。現在、Beepさんにおいて4万円の買い取り価格がついているプレミア状態です。


そして同時期、ドリームキャストのドリームライブラリによって配信されていました。これは任天堂のバーチャルコンソールの先駆けのようなもので、ドリームキャストにゲームをダウンロードできて遊べる権利を買うもので、価格は1泊2日で50ドリム(50円)、7泊8日で400ドリム(400円)でした。

レンタルのようなもので、期間終了後は遊べなくなり、かつ、ドリームキャストにはこういったゲームを保存できる容量のストレージがなかったので、電源を落とすとダウンロードし直しです。

またこの頃は定額使い放題のブロードバンドがまだ普及しておらず、電話回線を使った従量制の低速回線でした。ドリームキャスト本体についているモデムも33.6Kbpsです。これは1MBのデータを転送するのに約4分10秒かかり、かつ電話代がかかります。

更にブロードバンドに対応するためにセガは一度サービスを休止し、大幅改修を行ったのですが、半年のサービス再開後、PCエンジンタイトルが消えることとなりました。その時当然、マジカルチェイスもラインナップから外れています(厳密にいうと入れ替わり製だったので、ずっとマジカルチェイスが遊べたわけではなかったのですが)。そしてドリームキャストの製造中止、セガのコンシューマビジネス撤退が続き、ドリームパスポートもサービスが終了しました。


7.その後のボーステック


その後、ボーステックはとあるプロジェクトを立ち上げます。「プロジェクトEGG」。過去のゲームをきちんと許諾を取って、Windows上でエミュレートし、走らせ、遊べるようにする配信サービスです。このプロジェクトはどんどんと大きくなり、他社ソフトを次々と配信する流れを生み出しました。

プロジェクトEGGの革新性はダウンロードを使ったサービスである、ということです。つまり、マジカルチェイスが散々苦しんだ「問屋からの注文がないから再販できない」という状況を丸きり無視できるのです。直接ユーザーと取引することができ、流通コストを最小限に絞ることが可能となりました。

ただしこのプロジェクトEGGが大きくなる一方、ボーステックは経営難に陥りつつありました。2002年にはクエストを分離。当時のスクウェア(現スクウェア・エニックス)に売却しています。

2004年には「ボーステックがプロジェクトEGGを断念する」ということで、社内でプロジェクトEGGを推進していた鈴木直人氏が独立し、D4エンタープライズを設立。ボーステックからプロジェクトEGGを引き受ける形でサービスを継続させることとなりました(名目上は共同運営です)。

人気シリーズ銀河英雄伝説も、当時の流行に乗り、2000人が同時に遊べるMMOSLGとして最新作が開発されていましたが……。いよいよもって、このあたりからボーステックに暗雲が立ちこめてきます。経営悪化に歯止めがかかっていなかったのです。

2004年5月14日、パッケージ版が発売されたのですが、ややこしいことにこの時はまだ「正式サービス前」でした。つまり多くの機能が未実装なオープンβ状態。なのにパッケージのどこにもβという記述がない、という、かなりアレっぽい状況です。パッケージの発売を機に正式サービス化と銘打ったわけですが、βと状況は変わりなく、その上いろんな障害とバグが発生しました。

当然ユーザーから非難の声があがります。しかしこの時、ボーステックの経営難はより深刻な方へと進行していました。結局銀河英雄伝説Ⅶのコンテンツは一応それなりには拡充されていくものの、進行は遅々として、同時に新たなバグが追加されていく、という有様でした。

ボーステックの経営悪化は2005年3月には「民事再生法の適用申請」まで至りました。経営難の企業が、債務整理をして事業再建を目指す法的手続きです。このままいったら破産間違いなしという有様です。

そしてこの経営難がトラブルの連鎖を引き起こします。ボーステックは銀河英雄伝説の海外展開を目論み、様々なアプローチを行っていました。

中国の盛大ネットワーク、韓国のプレナスと提携し、銀河英雄伝説のグローバル展開を図っていたのですが……なんとこれ、銀河英雄伝説の版権元、らいとすたっふに無許可で行っていたそうです。らいとすたっふはこれらの行為と、銀河英雄伝説Ⅶの有様に激怒し、最終手段に出ます。

「ボーステック側が無断で商標を登録しようとしたり、外国企業に勝手に版権を許諾したとみられる行為を行なったりといった、契約違反もしくはライセンシーとしての信義にもとる行為を行なうのみならず、ユーザーさまへの背信行為を繰り返し、再三の警告にも改善の様子が見られなかったのが理由です」

https://www.4gamer.net/games/010/G001079/20050414184946/

こうしてライセンスが切れてしまい、2005年5月にはサービスが終了してしまいました。ボーステックは新作の打ち切りの上、過去作の販売も不可能になってしまったのです。

2005年3月、東京地方裁判所に民事再生法の申請を行った後、携帯電話を中心にしたコンテンツ配信企業ビービーエムエフと資本提携が成立しました。これにより経営危機はなんとか回避。しかし翌月には、プロジェクトEGGをオンラインゲームの開発・運営を主に行っているガイアックスに売却します。

その後の2006年にはゲームコンテンツ関連の知財をD4エンタープライズに譲ります。2007年にD4エンタープライズはガイアックスから事業譲渡される形で独立し、プロジェクトEGGの単独運営に至ります。そして2009年にはボーステックはビービーエムエフが吸収した形で、解散となりました。まるで役目を終えたかのように、ボーステックは姿を消しました。

ボーステックが姿を消したことで、マジカルチェイスの再販、復活はいよいよ困難になったかに思えました。


8.そして


ところが時が流れた2013年、マジカルチェイスはちょっとしたニュースになります。

オリジナルサウンドトラックが1991年の発売から22年の時を経て、発売されたのです。オリジナルの作曲者は崎元 仁氏と岩田匡治氏であり、その権利はクエストの買収とともにスクウェア・エニックスに移っていました。なのでボーステック無関係に発売することが可能だったのです(かわりに©スクウェア・エニックスと銘打ってあります)。

ならばマジカルチェイス本編も復刻可能では? ……と思ったりするのですが、ちょっとここは、どうなっているのかがわかりません。果たして版権を所有しているのは何処なのでしょうか? 2020年にはPCエンジンminiが発売されていますが、ラインナップにマジカルチェイスはありませんでした。この辺りの事情をご存じの方がおられましたら教えてください。

そしてボーステックの創設者、八巻龍一氏ですが、2014年にはD4エンタープライズの広報担当として働いていることが確認できています。

https://www.d4e.co.jp/info/media/20140924_d4e_newsrelease_1.pdf

2018年に更新したと思われる(Googleのタイムスタンプではそうなっています)日本コンピュータゲーム協会の会員一覧にも、D4エンタープライズ所属として名前が挙がっています。

PCゲームの雄であるボーステックを生み出した人は、今はレトロゲームの復活に尽力を注いでいます。


人と会社に歴史あり。マジカルチェイスが歩んだ歴史は、ゲーム業界の悲喜こもごもが詰まったものでした。その悲劇はめぐりめぐって、かつての感動を伝えるプロジェクトEGGに繋がった……と、言えるのかも知れません。

最後に次の言葉を持って、この記事の締めとしたいと思います。

PCエンジンmini2には是非ともマジカルチェイスの収録を、よろしくお願い致します!!!!!

── 終わり


EXTRA Special Thanks

松野泰己 @YasumiMatsuno

岩崎啓眞 @snapwith


Special Thanks

吉野@連邦 @yoshinokentarou

RECCA @FamicomSpirits

オロチ(Famicom Archivist) @oroti_famicom

不自由人/エヤマ @UnFreeMan_

スベアキ(Ryo Saito)@Subeaki


参考資料

PCエンジンFAN 1992年2月号 1993年6月号 1993年7月号

月刊PCエンジン 1991年12月号

マル勝PCエンジン 1991年11月号


参考Webページ

https://fm-7.com/museum/products/brjuovxf/

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