続きを書いていくことにする。
前回までで逆豎についての話までが終わった。
今回はその続きからにはなるけれど…「ヴァンデミエールの白翼」についてはあれ以上に特に辞典由来であろう単語を見つけられなかった。
一応、ピスキーという語について、『神話・伝承辞典』由来なのかなと思って調べたとはいえ、この単語は別に『神話・伝承辞典』に由来はない様子がある。
(鬼頭莫宏『ヴァンデミエールの翼』1巻p.63 以下は簡略な表記とする)
『神話・伝承辞典』の「洗礼」という項や「妖精」という項を確かめたけれど、ヴァンデと関連付けられる話はなかった。
ただけれども、「妖精」の項に天使や妖精は死者の霊魂を運ぶという話があった。
「 ノルウェーやスコットランドやアイルランドのキリスト教徒は、妖精は堕落天使の子孫だと主張した。堕落しなかった天使と同じく、妖精も死者の霊魂を運んだ。
(バーバラ・ウォーカー『神話・伝承事典』 「Fairies 妖精」 山下主一郎他訳 大修館書店 1988年 p.242)」
その「ヴァンデミエールの白翼」の後の、「テルミドールの時間」には、死者を迎えに来る天使の話がある。
(1巻pp.88-89)
鬼頭先生が読んでいるらしい『神話・伝承辞典』にそのような記述があって、天使は死者の魂を運ぶという話はこの本由来なのでないかと思わせる部分はある。
ヴァンデ以外でそんな話を僕は聞いたことがないから、もしかしたら先の記述に「テルミドールの時間」のあの描写の由来があったりするのかもしれない。
そういう風にピスキーに関連する話題はあったとはいえ、この「ヴァンデミエールの白翼」には辞書由来と思しき単語が憐憫と逆豎以外にないので、この話についてはこれ以上書くことがない。
一応、この話には天使にも階級があるっていう言及があって、これは中世哲学の偽ディオニシオス・アレオパギテスが由来だから、その話をしようかな?とは思いはした。
(1巻p.48)
けれども、残念ながらお手元にこの話について引用に値するテキストが存在して無かったので、何かの文章を引用することは諦めることにした。
…。
『岩波 哲学・思想辞典』にも、クラウス・リーゼンフーバー氏の『西洋古代中世哲学史』にもその話が載ってなかったのはびっくりしたよ…。
クラウス・リーゼンフーバー氏は有名な人だったらしいのだけれど、それは哲学の"ちまた"で有名なだけで、普通はそんな名前は聞いたことがないだろうし、僕も未だにどうして有名な人とされていたのかとかは良く分かっていないくて、彼が日本に来た時に「知性の流出」とまで言われた所以は把握していない。
僕としては、実際会ったことがあって、トイメンで30分くらい話した記憶があるとはいえ、彼の声が小さくて聞き取ることに難儀したということは覚えていても、それ以上はあまり…。
話を天使の階級の話に戻すと、特にカトリックだと天使にも九つの階級があったりするのだけれど、これは別に聖書に書いてなくて、偽ディオニシオス・アレオパギテスの『天上位階論』に言及のある話になる。(Wikipediaの彼の記事をガン見しつつ)
だから天使にもあるという階級は、本来的に神の教えでも何でもなかったりする。
今回僕のお手元にあった資料にその話はなかったという話は先にしていて、ただその事に関しては、彼は哲学史の中に名前は出てくる人物であって、哲学としては新プラトン主義者としての著述の方が重要であって、天使云々は哲学にはあまり関係ないから触れられてないだけの様子がある。
一応、偽ディオニシオス・アレオパギテスの著作は『中世思想原典集成3』に翻訳が収録されていることは知っているのだけれど、僕がこの本を買う理由がないし、近所の図書館にも置いていないし、何より目を通す理由はないから特に何もしない。
ともかく、天使の階級の話は聖書に書いてある内容ではなくて、カトリックとかだとそういう風に歴史の中で生じた文化が教説として伝えられている話も多い。
カントの倫理学だと嘘をつくことは絶対の悪として認識されていて、西洋では長らく嘘をつくことを強い悪だとしてきた歴史があって、ただこれも聖書に由来した話ではなく、アウグスティヌスという中世の神父の著書に由来する道徳判断だったりする。
まぁ聖書の「創世記」の中で、アブラハムは妻を妹と偽ったというのに神は特に罰してない以上、アブラハムの宗教では本来的に嘘は絶対的な悪であるはずはないのだから、嘘をついてはいけないというのはただのアウグスティヌス以来の伝統という以上の話もないらしい。
ただ、鬼頭先生がそのような話に詳しい道理もなくて、ヴァンデのあの描写に関しては、『神話・伝承辞典』の文脈でのキリスト教批判、即ち全てを支配する男性の天空神が君臨していて、素晴らしき太母神の教えは忘れられているという発想が故のそれだと思う。
要は世界を支配するキリスト教の価値観は間違っているという前提の上で教会の教えを見ている部分があって、それ故に神の前に全ては平等であるはずであるというのに、現に世界には身分差がある上に、更には天使にさえ階級があるというのはナンセンスな教義だという発想として、あの場面のあの台詞はあるのだろうと思う。
(同上)
こういう風に天空の男性神=キリスト教の神の事を下げるような言及は『神話・伝承辞典』でされていて、この本は鬼頭先生もいくらか読んでいるらしくて、この本だとキリスト教の神をひたすらに否定して、その男性神が現れる前に存在していたと"される"女神の時代を称揚する本になる。
ヴァンデにもそういう男性の天空神よりも女性の地母神を善しとするような描写はある。
(2巻pp.106-1107)
鬼頭先生の『ぼくらの、』までの作品は基本的にこの『神話・伝承辞典』で言及されるところの、女神たちの織りなす神話的な世界を描くことが目的とされているのだろうという推論があって、インタビューでもちょいちょいそういう話はしている。
「―『ヴァンデミエールの右手』を1話目とする『ヴァンデミエールの翼』は連載デビュー作という位置付けですが、ドライな死生観をはじめ、現在の作品まで続く個性が既に随所に表れています。
鬼頭 極端な言い方をすれば、以降の作品はすべて『ヴァンデミエールの翼』の翻訳作業であるとも思っているんです。当時はこれだけ言えば十分だろうと思っていたもの説明不足であるということがわかり、それを手を替え品を替えて表現している感覚です。特に『ぼくらの』までの作品はそれが強いですね。(『Febri 』 Vol.40 2017年 pp.138-139)」
他のインタビューで鬼頭先生は作品に通底する世界観を持たせたいという話もしていて、ヴァンデには鬼頭先生の"例の"物理法則は登場しないので、そうとするとやはり、この話は女神たちが抱擁する神話の世界の話ということになると思う。
ヴァンデと『ぼくらの、』では大分作品の方向性が違っていて、けれども、鬼頭先生は『ぼくらの、』をヴァンデの翻訳作品だと言及している。
じゃあ、この二つの作品、そして『なるたる』に通底する情報は何かと考えた時に、考えられるのは『神話・伝承辞典』に見られる神話的な情報であって、ならばやはり、鬼頭先生が言っているのはその話であると処理して良いと思う。
鬼頭先生の『双子の帝國』でも『神話・伝承辞典』にその記述がある神聖娼婦や魔女という概念が出てきていて、まぁなんつーか、そういう話らしい。
もっとも、鬼頭先生の今後の作品にその要素が登場するかは微妙なところで、鬼頭先生サイドがヴァンデを描いた頃に持っていた、女神たちの世界への憧憬を未だに持ち続けているとは考えづらい部分がある。
僕が『神話・伝承辞典』の話をするたびにボロクソに言っていて、フェミニストおばさんの妄想文呼ばわりしているから多少はね…。
だってこの本、論証の部分とか一切ないし、明らかな誤謬があまりにも多すぎる上に、書かれていることは全てを女性は優れているという話に結び付ける連想ゲームだから仕方ないね…。
加えて、鬼頭先生の先のインタビューでの言及だと、説明不足で伝わらなかったから説明しなおしているという話な以上、読者がちゃんと理解してくれたらそんなことをする必要もないわけで、今後の鬼頭先生の作品の中で、そういう要素が出てくることはあっても、過去の作品のように強く下敷きにされるということはないと思う。
さて。
「ヴァンデミエールの白翼」について言及できることは言及しきったので、次の「テルミドールの時間」の話に移りたいけれど…この話では特に難しい単語の使用が認められなかった。
一応、死者の魂を運ぶ天使の話題はあったけれども、先にその話はしてしまったので、もう書くことは何もない。
よって、次の「フリュクティドールの火葬」に話を移す。
この「フリュクティドールの火葬」には"自家薬籠中"という語が出てくる。
(1巻p.144)
自家薬籠中なんてヴァンデ以外で聞いたことねぇよ。
なので、辞典由来としてこの語はあるのではないかと個人的に思っている。
この語については聞いたことはないとはいえ、字面から意味が分かるのであって、調べた限り出典とかは特にないらしいし、用法のズレとかも特にないと思う。
他には胞衣という語が出てくる。
(1巻p.150)
胞衣なんて言葉は普通に、生物の発生の文脈で出会うことはあり得る単語で、辞典なんて頼りにしなくても知っているという場合はあると思う。
けれども、鬼頭先生は枠外で補足してまで使っている所を見ると、鬼頭先生的には説明をしなければ伝わらない単語ということだし、もしかしたら辞典で得た知識だったりするのかもしれない。
次に走狗という語も枠外で説明を入れている。
(1巻p.153)
鬼頭先生は枠外で走狗を「他人の手足となって働く人、もの」と説明している。
これに関しては辞典の類で得た知識だと思う。
何故というと、走狗の元の意味合いを考えると、意味の良く分からない言及をしているからになる。
走狗は広辞苑に、
「①狩猟などで駆け走って人のためにおいつわれる狗(いぬ)。
②転じて、他人の手先となって使役される人を軽蔑していう語。「権力のー」」
とある。
ヴァンデでは②の意味合いで使われているけれども、本来的な意味は人間の命令で狩りの時にあっち行け、そっち行けと走りまわされている犬の話であって、その事が念頭にあった場合、あの木で出来たヴァンデミエールは他人に使役される存在であるとはいえ、命令であっち行け、こっち行けと走らされているわけではないのだから、イメージとしてギャップがある。
『史記』などの漢籍で使われる走狗という言葉は、本当に狩りの為に使われる犬についての言葉であって、そのイメージとあのヴァンデミエールの境遇とは重なっていない。
この場面は越王が宿願であった呉への復讐を果たした後の話で、范蠡(はんれい)は越王の人相を見て、彼は用が済んだ人間は平気で殺すような人で、俺は煮られる前に逃げるけど、お前は逃げないの?って手紙を送った場面になる。
呉がまだ滅ぶ前は越王に仕えていても問題はないけれど、呉が滅んだら平気で不要になった臣下を切るような人物で、実際、先の手紙を受け取った文種は王に剣を贈られて自殺を強いられている。
まぁともかく、『史記』では完全に狩りの時にあっち行け、そっち行けと走らされている犬の話をしているわけで、元々はそういうニュアンスの単語になる。
けれども、ヴァンデではそういう風に走りまわされていないというのに走狗と呼ばれているということを考えると、元のニュアンスを鬼頭先生は把握できていなかったのではないかと思う。
…『ぼくらの、』で同じく走狗という語が使われている時は別に違和感のある言及でもなかったのだけれども。
(鬼頭莫宏『ぼくらの、』7巻p.65)
もっとも、鬼頭先生はこの場面でも「他人の手足となって働く人、もの」というニュアンスで走狗を使っていて、「他人の手下になりたくない」と言わせているだけで、「他人のために走り回りたくない」というニュアンスでは使っておらず、たまたま本来的な走狗のニュアンスと取ってもおかしくない用法なだけだったのかなと思ったりする。
次に無辜という言葉がある。
(1巻p.154)
無辜の民なんて言葉は辞典なんて読まなくても出会う事のある概念とは言え、鬼頭先生は枠外で説明をしているし、辞典で知ることになりえる単語なのはそうなので、ここではこの話をすることにした。
無辜という語は『詩経』などに言及がある漢語だけれども、そもそも"辜"は罪とか咎とか意味する漢字であって、それが無いから"無辜"というだけで、辜の意味さえ分かればニュアンス的には何も難しくないそれになる。
だから、出典とか故事があるとかではないので、漢籍の使用例を持ってきても仕方がないような話で、これ以上僕は無辜という語についての説明をすることが出来ない。
次に鬼頭先生は通過儀礼にも枠外で説明を入れている。
(1巻p.162)
これに関しては割と謎で、通過儀礼なんて単語はわざわざ説明する必要などないのではないかと思う部分がある。
どっかの未開の地の民族が通過儀礼としてバンジージャンプをするという話は聞くことはあるだろうし、日常語でも通過儀礼なんて言葉は出会うこともあるだろうと僕は思う。
入りたての部活や会社で新人に割ときつめの事をやらせる伝統があったとして、それを通過儀礼ということはそこまで珍しい出来事であるということも無い。
もしかしたらヴァンデが書かれた1990年代後半の時点ではそれ程使われない語で、後の時代に使われるようになったという事情があって、こういう風に補足の説明があったのかもしれない。
今現在LGBTという概念は知っている人の方が多いようなそれだけれども、15年前は殆どの人が知らなかったわけであって、通過儀礼に関してもそういう話なのかな?と思う反面、当時の通過儀礼という語の用法の知識なんて持っていない以上、この事は分からないとして終わらせること以外は出来ない。
と言ったところで一旦区切ることにする。
本来的には中と下で一つの記事として一度完成させたのだけれども、ちょっとした修正のためにカタカタと書き足していたら文字数オーバーになって公開出来なくなって、オーバーした分を削るために二回目以降の偽ディオニシオス・アレオパギテスのアレオパギテスを消す作業とかしてたら発狂寸前になったために、記事を二つに分けることにした。
まぁ先月なかったし、今月二つ分でむしろ帳尻合わせが出来ていると考えれば良いだろうと思う。
続きはここ。(参考)
では。