彼との出会いはありきたりで、だけど掛け替えのないものだったように思う。
「インターノット名、ビジターだ。スカーフを巻いたボンプ、お前がプロキシからの遣いか」
プロキシとして活動していると、ホロウ案内人としての仕事が度々舞い込んでくる。
今回もその内のひとつ。内容はホロウ内の視察とエーテリアスの討伐。戦闘はすべて依頼人が引き受け、プロキシ側は案内にだけ徹する。そういった取り決めだった。
「ボンプ、お前、喋れるのか。いや、話しているのはプロキシの方か。ホロウの外と内で、それもリアルタイムで会話ができる技術など寡聞にして知らない。驚嘆に値する」
彼の話し方はどこか堅苦しくて、もしかすると気難しい人なのかもしれないと最初は思っていたが、いざ話してみると何てことはない。彼はとても素直な性格をしていた。
「プロキシ、エーテリアスだ。下がっていろ」
彼はプロキシとしての手腕に驚いていたようだったが、今度はこっちが驚かされた。
現れたのは複数のエーテリアス。どれも小型ではあるが、一般市民にとっては充分に命を落とす脅威となり得る。
どうするのかと彼を見ていたら、見ていたはずなのに見失っていて、そして耳を劈く破砕音が轟いた。
音の出所に目を向けると彼が居て、そこに居たはずのエーテリアスが一体残らず姿を消していた。
火を吹いたわけでもないだろうに、彼の拳からは謎の煙が立ち昇っている。あまりにも現実離れした状況に脳が理解を拒んだ。
訊けば、殴ったと短く返された。なんだそれ。
「次だ」
そういったことが何度か続けられた。
移動して、エーテリアスを見つけて、接敵と消滅が同時に起こる。
その時は思わず夢を疑った。
「次」
エーテリアスの大群に出くわした。
数えきれない、地面を埋め尽くすほどの数。いつもなら逃げ一択の状況でも、不思議と心は落ち着いていたのを覚えている。
彼の姿が掻き消え、黒い群体が突き破られて、爆発したかのように宙に弾けて形を崩していく。
千切っては投げ、千切っては投げ。
見る見る内に数が減っていく。あぁ可哀想にと初めてエーテリアスに同情した。
天高く蹴り上げられた最後の一体に何となく手を振っていると、ふと気付く。これまで一回も、彼が武器を使っていないことに。
彼の背中には大剣があった。大きな大きな片刃の剣。ホロウに入ってから一度だけ祈るように額を押し付けていたが、今回の探索では使わないのだろうか。
「使うと汚れる、欠ける、磨り減る」
まるで貧乏性であるかのような口振りだった。
普段は自営業を営んでいるとのことだが、あまり繁盛していないのかもしれない。
だったらどうにかしたくなるのが人の情。彼は良い人そうだし、と自然と手を差し伸べたくなっていた。
「護衛の依頼? プロキシが、俺にか。願ってもないことだが、それは本当にお前に必要なことなのか? お前の腕なら護衛なしでも充分にやっていけるだろう。その実績もあるはずだ」
お前の負担にはなりたくないと彼は言う。
彼の言動は気遣いに溢れていて、だからこそ引いてはならないと強く思った。
確かに、依頼するからには報酬を用意しなければならない。だが彼という強い味方が護衛してくれるのなら仕事の幅が一気に広がる。
これまで以上に資金調達が捗り、経験値が増え、プロキシとしての名声が高まっていくだろう。どちらかといえばこちらのメリットの方が大きいのだ。
決して一方が損をするような提案ではない。
「なるほど。そういうことであれば俺に否やはない。臨時ではあるが、これからよろしく頼む」
差し出された大きな手にボンプの手を重ねる。彼との協力関係はここから始まった。
そうして、いくつもの依頼を共にこなした。ホロウのあらゆる場所を探索した。彼の力はやはり凄まじく、その埒外な膂力に何度も度肝を抜かされる日々だった。
もちろん、彼に頼りきってばかりいてはプロキシの名が廃る。戦闘面を任せる代わりに、それ以外の問題は全てこちらで請け負った。
「任務完了。特に問題は無かったな。お前のお陰だ、プロキシ」
楽しかった。充実していた。難易度の高い依頼を次々とこなしていく内にインターノット上での評判は鰻登りとなり、単価の高い依頼が立て続けに入るようになった。
「プロキシ、囲まれている。数は二十数人、おそらくホロウレイダーだ。撃退する」
名声が高まれば良くも悪くも目を付けられる。同業者による妨害工作、アウトローたちによる資源目当ての襲撃。そんなことが何度もあったが、問題にはならなかった。
彼がいれば、どんな障害も乗り越えられた。
「前だけ見ていろ。背中は守る」
どれだけ助けられただろう。どれだけ支えて貰っただろう。
悪意のひしめくホロウの中で、何度その背中を見たか分からない。
黒いヘルムを被った彼は、いつだって迷わず前に出て、迫り来る敵意をものともせず斬り払い、殴り伏せ、蹴散らした。
超人。そんな言葉が相応しい。戦闘能力を持たないプロキシにとって、彼の存在はまさに暗闇を照らす灯りだった。
「恐れず進め。奴らには指一本触れさせはしない」
光陰矢の如し。輝かしい日々は噛み締める間もなく過ぎ去っていく。
気づけば、彼と肩を並べるようになってから随分と時間が経っていた。
それでも、彼の強さには慣れなかった。いや、慣れてしまってはいけないのだろう。
彼の存在が当たり前になってしまえば、きっとどこかで油断が生まれる。それが命取りになることを、ホロウは嫌というほど教えてくれる。
けれど、心のどこかで思っていた。
彼が居てくれる限り、自分は大丈夫だと。
それが慢心だったとしても、信じたいと思えるほどに彼は頼もしく、温かかった。
当然、報酬は正規に支払っていた。
しかし、どれだけディニーを積もうと彼の力には見合わないように思えた。
だから、追加で金を渡そうとしたこともあった。恩返しというより、感謝の形として。
だが彼は、頑なに受け取ろうとはしなかった。
「契約以上の金は要らない。気持ちだけで充分だ」
そう言って、差し出した袋に見向きもしない。
分かっている。それは拒絶ではなかった。
彼にとっての誠意であり、信条なのだろう。
たとえどれほどの力を振るおうとも、彼はそれを対価として秤にかけるようなことはしない。
義務のように正当に受け取って、過分なものは受け取らない。ただそれだけの人だった。
そんな彼の在り方がとても好ましく感じられた。
だからこそ、いつしかこんなことを考えるようになっていた。
ただの雇い主と護衛ではなく、もっと踏み込んだ関係になれないか、と。
彼の力に助けられ、偽りのない言葉に励まされる内に、線を引いたままの関係にどこか物足りなさを感じていた。
それはビジネスの枠を超えて、もっと素の言葉を交わせる関係──そう、たとえば友人と呼べるようなものを望む気持ちだった。
ある日、ホロウでの依頼を終えた帰り道、思い切って言葉にした。
ホロウの外で直接会えないか、と。
「……すまない。それはできない」
そう言って、彼は首を横に振った。
「ホロウの外で交流を持てば、俺が公安に捕まった際、お前にも捜査の手が及ぶ可能性がある。プロキシとしての活動にも影響が出るだろう。そうなれば、取り返しがつかない」
その口調に突き放すような意思は感じなかった。ただ、決意のような硬さが滲んでいた。
あくまで冷静に、どこまでも正しい理屈を述べているだけ。
だがそれが、余計に距離を感じさせた。
「俺とはホロウの中だけで会えばいい。お前の素性を俺に明かすべきではない」
彼なりの優しさなのだろう。
そうすることで守ろうとしてくれているのだと、頭では理解していた。
それでも、胸の内には冷たい何かが広がった。
それを止めることはできないと悟って、気分がどうしようもなく落ち込んでいく。
そんな心情を察したのかは分からない。
分からないが、彼の言葉はそこで終わらなかった。
「直接会って交流する以外にも、親交を深める方法はある」
そう言って、彼はおもむろに自身のヘルムに手を伸ばした。
あっさりと、迷う素振りもない。留め具を外す乾いた音が響いて、彼はそれを静かに持ち上げた。
そうして現れたのは、精悍な輪郭を持つ青年の顔だった。
黒髪はしっとりと額にかかり、重さと柔らかさを併せ持つ質感が風に揺れる。
切れ長の黒い目が、まっすぐにこちらを見据えた。
表情からは何ら感情を汲み取れないが、その瞳の奥には強い光が宿っている。揺らぎのない意志。人を慈しむ者の優しい目だった。
風に反応するように、頭頂から伸びる獅子の耳がぴくりと動く。
人と獣の特徴を併せ持つ存在、シリオン。新エリー都では珍しくないその姿は、しかしこの時ばかりは特別に見えた。
「空暮相馬、それが俺の名だ」
その名を聞いた瞬間、プロキシは息を呑んだ。
穏やかな口調だった。しかしその一言に込められた覚悟は、誰にでも分かるほど明白だった。
自分に素性を明かすなと言った彼が、自らの素性を差し出してくる。矛盾した行動の意図を理解して、胸の中で何かが震えた。
「この顔と名を、プロキシには覚えていて欲しい。お前を信じているという、その証として」
これは、信頼の証だ。
線を引いたのは守るためであり、今、彼はその線の向こう側から、でき得る限りのやり方で手を伸ばしてくれているのだ。
プロキシは、その伸ばされた手にそっと意識を重ねるように、心の中で彼の名を繰り返した。
空暮相馬。きっと、その名前に偽りはないのだろう。
嘘をつけない人だ。ずっとそうだった。無骨で不器用で、けれど真っ直ぐで。
ありがとう、と。そう言おうとしたが、言葉よりも感情が込み上げてきて声にならなかった。
だけど、それでもいい。口にしなくとも、彼には伝わっていると思えたから。
胸の内にあった冷たさが少しずつ溶けていくのを感じる。
たとえ直接触れられなくても、心は交わせる。
彼がくれたその証が、何よりの温もりだった。
微かな光の気配に目蓋が揺れる。気づけば、夢の輪郭は静かに遠のいていた。
温かい声が耳に残っている。あの日の情景がまだ近くにある気がして、リンはしばらく目を閉じたまま、胸の奥に残る余韻を確かめていた。
懐かしい夢だった。未だ色褪せない大切な想い出。何もかもが燦々と輝いていて、目を開けたくないほどに優しくて眩しい景色だった。
その後の記憶を整理する。
結局、イアスの導きによって自分と兄は彼と対面を果たした。街中でバッタリと、突拍子もなく。もちろんお互い素顔を晒した状態で。
あんなことがあった手前、とても気まずい空気が漂ったが、機転を利かせた兄によって今ではビデオ屋の店長と常連客という穏やかな関係に落ち着いている。
少しだけ物足りないが、それ以上を望んではいけない気もする。
今はこれでいい、と。ひとまずは納得しておこう。
「……そういえば」
ふと思い出す。今日は店に並べる新作ビデオを仕入れに行く予定だった。
整理を終えてスカスカになった棚が脳裏を過ぎる。あのまま放っておけば兄の兄による兄のための趣味映画だらけになってしまう。
こうしてはいられないと体を動かす。ベッドを抜け出して兄の用意してくれた朝食をありがたく頂き、そのあと手早く身支度を済ませてから家を出た。
新しい映画を仕入れたら、彼は店に来てくれるだろうか。朝の優しい日差しに照らされながら、リンはそんなことを考えた。