襲撃を受けたリンは、敵の攻撃によって郊外ホロウに投げ込まれることになった。他の皆とはぐれてしまったリンだが、彼女を追ってホロウに入った対ホロウ6課の課長、星見 雅と奇遇にも行動を共にすることになる。
本来、ホロウに入るのはそれだけで危険行為だ。人体を侵食するエーテルは勿論。ホロウ内部は難解が過ぎる迷宮となっており、キャロット等の参照データがなければ移動もままならないほど。
しかし、そこは伝説とまで謳われたプロキシ『パエトーン』。データスタンドからホロウの観測データを抜き取り、順調に出口に向かっていた。
順風満帆の進行に思えたが、雅の持つ刀『骸討ち・無尾』が何らかの外的要因によって暴走するというハプニングが起きる。リンと共同して刀を鞘に納めたはいいものの、初めてのことに雅は動揺が隠せなかった。
「雅さん、大丈夫……?」
「……私の心配は無用だ」
「本当に? 今の雅さん、すっごく怖い顔してたから」
雅が思うのは大切な部下の一人。彼もリンを追ってこのホロウの何処かに居るはず。その強さに微塵も疑念を抱いたことなど無いが……。彼の篭手は父上が用意したもの。もし、自身の刀と同じようなことが彼の身にも起きていれば……事態は想像より尚悪いかもしれない。
彼の抱える事情を知らぬ故の、初めての恐怖が最年少の虚狩りに烈火の如き焦りを燻らせる。
「ゴホッゴホッ……雅さん、刀を受け取って」
「礼を言う。例え応急処置であろうと大した腕だ。後は私に任せろ」
絶えず襲い来る敵を鎧袖一触で斬り倒していく雅。敵勢も削がれてきた頃、覚えのある足音が一つ近付いてきた。
「命! 無事だった……か」
彼のことを間違えるはずもない。しかし、目の前に佇む白い影は亡霊のよう。大刀が纏うエーテルが怨嗟を具現化し燃えている。光を映さないその瞳を、雅は見たことがあった。
確か、あれは花火が咲いていた夜のこと……
「雅さん! 危ない!」
「っ!」
眼前に迫る刃に刀を潜り込ませて鍔迫り合い。より至近距離となった彼に訴えかける。
「何をっ! 私が分からないのか? くっ……!」
返ってくるのは低く唸る呻き声と、苦痛に歪む眼差しだけだった。熾烈な斬撃を繰り広げる命に、雅は断固として刀を振らない。例え、この状況に何の変動がなくとも、自らの意思で仲間を斬ることはできなかった。
だが、ここはホロウ内部。滞在するただそれだけが驚異となる場所だ。
「ゴホッゴホッ……ゴホッ!」
「っ、どうしたプロキシ!」
ほんの一瞬、リンを心配して目を離してしまう。胸を抑えて、今にも倒れようとしているリンに駆け寄ろうとした脚を止めて、横を影が通り過ぎる。
「え?」
「待て命!」
知性を失った狂爪がリンに迫る。鋭利な篭手から溢れる青みがかったエーテル。自我なき獣、市民に牙を剥く都市の脅威。都市の脅威は排除する。
『斬れ!』
声に促されるまま、無駄のない動作で振られた刀は、容易く肉を斬り裂いた。飛散る赤が火花のように地面に跳ね、コンクリートを火傷させる。
「…………ぁ」
真っ白だった頭が、ようやく色彩を認識し始めた。自分は今し方、何をした?
「違う」
「そんなつもりじゃ…………」
刀を持つ手が震える。滴り落ちる液体が赤いのはきっと気の所為だ。
「み……こと………………?」
リンに覆いかぶさっていた大きな背中がゆらりと沈む。篭手から溢れていた青いエーテルは消え、ただ赤い血だけが彼から漏れていた。大切な……大切な、…………仲間である命から。
「雅さん、雅さん! 早く応急処置を! 雅さんっ!」
それから、どうやってホロウから出たかあまり覚えていない。私はやっぱり……命を傷付けることしかできなかった。
「命さん……大丈夫だよね?」
「あのメガネの人が大急ぎで病院まで連れてったけど、あの傷はかなり深そうだった。……万が一もあるかもしれない」
ホロウ外に脱出したリン達を見つけた邪兎屋とホロウ6課。命を見るやいなや柳はパイパーを掴み繰り都市病院へ急行した。
「それで……課長。どうしてこんなことになったんです?」
「……悠真」
「命のあの傷、課長によるものですよね? ホロウ内で一体何が起きたんです?」
普段の飄々とした様子とはかけ離れた剣幕で、悠真は襲撃者の尋問から帰ってきた。彼の黄金の瞳はギラギラと光り、今にも掴みかからんとする一歩手前で静かに雅を見下ろす。
「……命は何かに操られたように、私に刃を向けた。あの時の彼に呼びかけても何も返さず、プロキシを襲う背に私は…………」
「……………………」
悠真は何も言えなかった。結果として大切な仲間を傷付けた雅に怒り。彼の異変を救えなかったことにただ悔しさを噛み締めた。
「捕虜から大したことは出てきませんでした。唯一裏付けが取れたのは、僕らの推測が正しかったことだけです」
「……そうか」
雅は魂此処に在らずといった様相のまま鞘を見つめる。パールマンは連れ去られ、命は重傷を負った。その全てに通ずる者が居る。懺悔をしている暇は無い。対ホロウ6課として、星見家の者として、すべきことは分かりきっていた。
ここに命が居れば
「プロキシ」
「雅さん……その……」
「我々対ホロウ6課が手を貸そう。貴様らの言う黒幕に用ができた」
「え?」
リンはすぐに理解すると力強く頷く。例え襲われたとしても、リンにとって命は交流を深めた友人だ。刀の暴走と命の暴走は似ている。対峙した二人が感じた既視感は共通していた。
「……信じていいのよね? お武家ギツネ」
「ああ、誰一人として逃すつもりは無い」
襲撃者の対処を対ホロウ6課と邪兎屋に任せて、都市に戻ったリンは腰を下ろす間もなく手付きの治安官の来訪を受ける。送電網とシステムから干渉され、絶体絶命の危機に駆け付けたのは顔馴染みの治安官、朱鳶と青衣だった。
しかしそれは同時に、隠していた秘密を知られることになる。勘づいていた青衣はともかく、健全な一般市民として接していた朱鳶は小さくない動揺があった。
「ありがとう、朱鳶さん!」
「お礼を言うなら、状況を説明してからにしてください。私は事実関係に基づき、厳正かつ公正に対処します。店長さんであっても、例外ではありません」
「うっ……この件はちょっと……複雑で」
『説明しよう』
工房のスピーカーから、突如として聞き覚えのある凛とした声が響いた。
「えっ? 待って、この声は……」
『久しいな、朱鳶。私だ』
雅はヴィジョン・コーポレーション事件の内幕と郊外で発生した出来事をかいつまんで説明する。真剣に聞いていた朱鳶だったが、ある出来事を耳にすると一層顔色を変えた。
「待って、となると……命は病院に?」
『ああ、柳によると、一命は取りとめたとのことだ』
「雅っ、あなたは!」
『わかっている。……だが、この件を解決するのが先だ』
「朱鳶よ、彼女の言う通り今は他にすべきことがあろう」
尊敬する上司が汚職に手を染めていた。自分の預かり知らぬところで旧友が生死を彷徨っていた。なじみの店長がプロキシだったことを黙っていた。朱鳶の胸中は言い表せぬ悲壮感に満ちていた。
彼を斬った事実に大きく揺らいでも、雅への信頼はまだあった。彼女の顔を立てて報告はせず、店長に一日の猶予を与えて店を出た朱鳶はすぐさま携帯電話を取り出した。
「なんで…………命……」
雅は
「もう……十分苦しんだはずよ」
時間が無いとは理解していても、せめて一目でも顔が見たかった。白が似合う彼には……病衣が最も似合ってしまうから。
相変わらず白い病室は凍えそうな程熱を持っていて、白い息が出てくるのはいつもの事。それにしても、背中がやけに冷たい。心の臓まで凍てついているようだ。
首をなんとか動かして腕を見ると、どうせ誰も外し方を知らなかったろう篭手が血と砂に汚れたままだった。表面の汚れを拭き取り、丁寧にそれを外すと黒い結晶が生えた手が現れる。
「……っ!」
黒い結晶──エーテル結晶が明らかに成長している。結晶の中で脈動する
「また駄目だったよ」
血を大量に流したせいか、体内のエーテルをあらかた放出したからか、篭手をしてなくとも結晶は落ち着いている。もう少しこのままでも問題無さそうだ。
久しぶりの生身の腕を摩っていると1通の書き置きが目に入る。丁寧に折られたそれを広げれば、現状が簡潔に書かれていた。パールマンの再確保、雅の逮捕、敵の狙いの推測……。まるで俺が起きると知っていたかのような、最低限欲しい情報。とても丁寧な字だ、置き人は朱鳶だろう。
「これで最後だ…………弟よ」
結晶を優しく撫でると脈動が鎮まる。あの日からずっと、弟は
「行こう」
書き置きの隣にあった通信機を持って、俺は白い病室を飛び出した。