人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

霊学№65 太陽をお天道様と拝む。人の額の心眼の部分を通じて太陽光で自己の魂を浄化する

私達は太陽を【お天道(おてんとう)様】として拝むを知ります。私の母の母であった祖母は【太陽】に向かって毎朝拝んでいました。別にどこかの宗教を信仰していたではありません。昔の人は太陽そのものを【お天道様】として、神として拝んでいたなのです。祖母も太陽そのものを神と考えて、太陽に向かって常に【感謝】の御礼を述べていました。

 

お天道様は常に自分を見ておられる。隠せない

 

自分は、お天道様に恥ずかしくない行動をする

 

日本の宗教団体の幾つかは【太陽】そのものを【天照大御神】様として拝しておられます。その【天照大御神】様とは伊勢神宮に鎮座されている御神霊とは違います。天道として太陽そのものを【天照大御神】様と唱えて直接に拝むことです。人霊を拝むではありません。

私自身は霊界修業の中で霊界の伊勢神宮から出る万霊体に及ぶであろう絢爛豪華な【大神霊行列】を見せてもらいましたが、その事に対して御礼は述べましたが、それは私が説くところの神ではありません。私が説明しているのは【創造神】たる神です。

 

私は霊能者とは言う程の霊能力は持ちません。しかし、【霊媒体質者】であるが故に多くの霊の憑依を受けています。自己の肉体に憑依して来た霊を自分の肉体に入れて浄化するです。為に私の手先の指は冷たく。低い霊は足先から上がって来ますので、足先は冷たくて厚手の靴下が欠かせません。夜は靴下を着用して寝るほどです。

私は2番目の師匠から、霊界の歩くバキュームカーのあだ名を付けられましたが霊を吸い込む体質です。と言って、私一人の浄化能力ではこの世の霊的汚れの前では微々たるものです。

 

私は霊界修行の中で一時に何万体という霊の憑依を受けて、伸びてしまったがもあります。その時、太陽を見ると太陽を直視出来ます。これはどういうことかと、その時に私の側に居た言霊師の2番目の師匠に尋ねましたところ、その数時間前にある出来事があり。その時に私は数万体と言う霊に憑依されてしまった。その大量の霊の憑依で太陽が直視出来る。目を閉じて数時間横になっていれば霊の憑依が取れるだろう。憑依が取れると太陽を直視出来なくなる。無理に太陽を直視すると網膜を焼かれてしまうと注意されて横になっていました。

数時間後に私の体力が回復して来たので、注意しつつ太陽を見ると、もう太陽を直視出来るではありませんでした。その時に少し網膜に傷が付きました。私はそうした太陽と霊の憑依の関係を数々体験して来た者なのです。自分の体が霊憑依でフラフラになった時など、太陽を見ると必ず直視が出来ます。大量の霊に憑依されたなのです。

 

私の2番目の師匠は言霊師で自称【国常立尊】の現身(うつそみ)と名乗り、自分は太陽が直視出来ると豪語していて、他の自称【国常立尊】の現身と言う方達と、どちらが本物かで【太陽を直視する競争】をしていました。その競争に負けて【失明】された霊能者の方もあります。

何故に太陽を直視出来るのかと疑問を持っておりましたが、その言霊師である師匠には毎日毎日大量の霊が憑依していたのです。

 

霊感者と霊媒質者は本質を異にします。豊受姫のお代であった私の最初の師匠は霊能者と霊媒者の両面を持たれておりましたが、その働きとは必ずしも同じではありません。霊感者や霊能者は霊を見たり、霊との会話が主体です。霊感者も霊界修行を積めば霊能者ともなるです。

それに対して霊媒質者は必ずしも霊が見えるとか霊と会話が出来るではありません。その多くは霊に憑依されて自分が苦しむです。

 

霊媒質者の特徴は、大量の霊の憑依で下痢を起こす

 

人の腹を【高天ヶ原】とも言い、人の腸に龍が入る

 

人は【神の子・神の宮】とも言います。だが、それはこの世に生きたから神と成れるではありません。大本教神諭に、【人には神とも成れる魂を授けてあるにも関わらず。】の神とも成れる要素を持っているなのです。大本教の出口王仁三郎聖師が【この世は天人の苗床】と告げられたのも、人はこの世の生き方で【天国天人】とも成るからです。為に人の肉体は神霊の汚れすら【浄化浄霊】出来る力を持っているなのです。

 

霊の憑依を受けて苦しい時、神社等で受けたお札に向かって祝詞を上げますと、肉体の【第三の目】と呼ばれる場所に【光】が入って来ます。それは【神は光】だと言われる由縁でもあります。が、それほど強力ではありません。霊媒体質者だとそうした神社のお札やお守りの一つ一つを見て、力が強いお札やお守りを購入されるがあります。祈祷されていないお札やお守りには何の光も入っていないとなります。

一体や二体の霊の憑依ならば神社のお札でもそれなりの効能はありますが、大量の霊に憑依されてしまうと神社のお札ではさほどの効力はありません。お札その物が汚れた霊を吸い込んで真っ黒けになるがあるのです。どうしてもその肉体が霊を引き寄せるとか吸い込むからです。

 

私の周囲には【霊媒体質者】の方が集まって来られていますので、霊の憑依による対処法を聞かれるがあります。そうした時に私が申し上げるのは、【瞼(まぶた)を閉じて、額(ひたい)の第三の目の場所を太陽に向けて、祝詞をあげなさい。】です。単に額を太陽に向けているひなたぼっこの状態と、その状態で「祝詞」を上げるのでは受ける太陽の光がまるで違うことを霊媒体質者だと体験として知ります。天津祝詞(大祓い)等を奏上すると、受ける光の量が大きくアップするのです。

 

霊の憑依が多ければ多いほど、太陽の光が増す

 

ただ体が回復しても、太陽に向かったままで目を開けると【網膜が焼けます】ので、目を開ける時には必ず顔をそむけてからにしなさいと言って来ました。 それは私自身が多くの霊の憑依を受けて、体が弱った時に必ずそうするからです。自己体験に基づくアドバイスです。

この世に生きている時は死後の世界の存在をバカにして、あの世に渡ってから助けてください。助けてくださいと言って来る霊が多いのです。

一部の宗教は我が宗派の教えを信じれば天国で、異教徒は地獄に墜ちるの一点張りで、霊的世界の説明を怠っているのです。

 

 

一部の霊能力者は人の額に【第三の目】があると言う

 

盲目の霊能者。肉体の目で無く心の目で神仏を見る

 

私はこのブログで【盲目の霊能者】の存在を紹介しました。盲目でありながらカラーで光景を見る。そうしたことを言うと科学者や医学者は必ず【非科学的】だと批判されるでしょうが、現実には存在されるのです。それは【第三の目】で見ているからです。私は学者の様に頭から否定論ではなく、実際にそうした事例にぶつかると、その【理由】を探ろうとします。何かの要因がなければ「盲目者」に神仏が見えている理由が解らないからです。

 

霊界には【霊界の太陽】が存在し、その霊界の太陽が見えた時にはその人は神界の入り口に到達したとします。その霊界の太陽とは現実の太陽を目で見るのではなくて、霊界で輝く太陽を心眼(第三の目)で見ているのです。

世紀の大予言であった大本教の出口王仁三郎聖師は、霊界に現れる太陽を【天照大御神】と呼び、霊界に現れる月を【素戔嗚尊】と呼ぶと残しておられますが、同一の神の表れとして【日月】で一体なのです。それはまったく別の神では無いと言うことです。

私は子供の頃は旧約聖書の神と称する声を聞いていたのですが、【日本神話の神代の話はそうした事実があったのではない。全てこの私が人を使って創作させたものである。それは「最後の審判」の為である。そなたは何故に私があの様な日本神話を作らせたのか?。それを紐解くがよい。】と告げられました。

大本教の出口王仁三郎聖師は【スの神】論を展開されて、私は【ラの神】論を展開して来ました。ラ神とは人の魂に内在する天帝の分魂で良心の働きでもありますが、真性【天照皇大御神】の働きであるのです。そこに【お天道様】は全てを見通しておられるともなります。為には先に【スの神論】を出す必要があったなのです。そこには【創造神の遠大な計画書】が存在しているなのです。

 

 

 

 

 

その第三の目のことを【心眼】と呼ぶのは【心の目】だからです。医学者から言わせればそんな目はどこにも無いと言うでしょう。医学的に人間を解剖しても、そんな組織は存在しません。

私達がよく知る【出雲の大国主命】様にはいろんな呼び方があります。【大国主命】様。【大黒】様。伏見稲荷山では【権太夫(ごんだゆう)】様と呼ばれる姿があります。大国主命様として出て来られる時は若い青年姿。大黒様として出て来られる時は中年の姿。権太夫様として出て来られる時は老人の姿です。そうしたことは稲荷行者ならば語るでしょう。

私の伏見稲荷山における修業時代、常に私の前に出て来られるのは【大国主命】様。【大黒】様。【権太夫】様で、いったい私と何の関係があるのかとなりましたが、私が住む土地が【元出雲屋敷】と呼ばれる土地でもあったからです。その土地に関しては、霊能者の方達の調べでは今の世に出ておられる神々以前の神界に関わるでした。今の人類が知らぬ神です。

 

私は日本の神である【大国主命】様と、インドの神である【大黒天】様が【同一神】とされていることに疑いを持っていました。日本神話の内容とインドの神では話が何一つ符合しないからです。別の神では無いだろうかと疑ったのです。だが、その大国主様が【青黒三つ目の忿怒相】の仏の姿で出て来られた時、それは今から約三十万年前のお姿だと感じました。その当時の神々には、【三つ目】の時代があったなのです。

 

当然にその時代とは今の世ではありません。今の人類とは遺伝学で20万年前からとされています。人類は幾度か滅びていると言われています。今の世は【第七の世(代)】とされています。第六の世は【水の審判】で終わってしまったなのです。ですから【みろくの世は第八の代】と予告されているのです。第八は【末広がりで開く永遠の世】です。

霊学ではその第三の目が退化し、その部分を【頭蓋骨】が覆ったことで今の二つ目になったとする説もあります。その第三の目の部分は【頭蓋骨】で塞がれていますので、医学でそれを知ることは不可能です。しかし【霊体】には第三の目の働きがあるのです。

そこに出て来るのが仏教の仏像に見られる額の【ホクロは目】の説です。仏教学では白毫(びゃくごう)と呼び【長い毛】とされています。しかしその部分から【光を放つ】と言われて来たのは、その部分そのものが【神の光】を受け入れる部分でもあるからです。神霊の出入り口でもあるのです。

 

額の心眼は、自分が神の目として見る光景でもある

 

で、大黒様にはインドで神の時代があったとも言えます

 

スビリチュアルは【神は愛だから何をしても赦される】等と言い。良心など捨てろとか。【悔い改める】を一言も言わない多くのスピリチュアルとは、この世で生きている時は好き勝手をやって、死後に地獄界に墜ちて助けてください。助けて下さいと人に憑依してくる霊達。そうした霊のことを何一つ知らない者達と言えます。

 

 

私を見た霊能力者の方達の中には、貴男の本守護神は【国常立尊様】様だと言われた方が7~8人ぐらいは居られましたが、閻魔大王様だと言われる方もありました。私は私の背後に存在すると告げられた【国常立尊】様を見たことはありませんが【閻魔大王】様たる方は見ています。ですから、私の背後には【閻魔大王】様が居られますとは言っています。だからこそ大本教神諭の【この神はこの世の閻魔として現れる】を説いて来たと言えます。この世の閻魔とは魂の真ん中(円真)に【良心神】です。

 

神社等に鎮まる御神霊を【姿】として撮る秀でた霊能力を持つある行者さんが間違ったことを言われ続けるので、私が注意申しあげたところ、おまえごとき者がこの私に向かって意見をするなと言われるので、ならば【私の背後には閻魔大王】様が居られますので私の背後を見てくださいと申し上げたところ、自分の背後に閻魔大王様が居る等と言うようでは、あの男も終わりだ。たいしたことが無い。と他の人に言っておられました。

その後、その秀でた行者の方は私に【侘び】を入れて来られました。お赦し下さいです。その理由を他の方には言われていました。【あの男の背後の存在の光を見せられた。あんな恐ろしい光はこれまで見たことがない。光そのものに殺される。神社や仏閣に鎮まっている御神霊の光の比では無い。】で、私はその方の私に対する無礼は赦すと言ったのですが、私の側から逃げて行かれました。その光がよほど恐ろしかったのでしょう。

 

私の霊界修業の世話をしてくれた豊受姫のお代であった最初の師匠は、【貴男を見て、こんな恐ろしい存在を見たことが無いと言う霊能者ならば本物ですが、貴男を見ても何とも思わないような霊能者ならばたいしたことがない霊能者です。相手にする必要などありません。】と語っていましたので、神社や仏閣に鎮まる神仏を写真として撮るほどの霊能者であれば、私の背後に【閻魔大王様】が居られると見えるだろうと思って言ったしだいです。

 

が、スピリチュアル標榜者の段階であれば、そうした神仏の姿を写真に撮るなどほとんど出来ないのです。ですから私の後ろの方を見なさいと言っても無理なのです。四次元霊世界をウロウロしている様なスピリチュアルに、高次元界の光を見せるのは危ない行為だからです。強度の光を受けると発狂にもつながるからです。

スピリチュアルで伊勢神宮に参拝したら【女神】様が出て来られて声を掛けられた。それを【嘘】だとは言いませんが、伊勢神宮鎮座されている御神霊を【天照大御神】様と唱えて拝むことと、太陽そのものを【天照大御神】様として拝むこととは【根本的】に違うのです。

 

神社仏閣に鎮まる神霊の光は魂を浄化する能力が弱い

 

自己の心眼を通じて太陽たる天照大御神の光を受ける

 

但し、絶対に太陽そのものを直視してはいけないのです。目を瞑る必要があるのです。

 

漢字の【額(ひたい)】の部分に【客】の字があるのは、そこから【客神】たる神の【光】が直に入るからです。そしてそこが古来より【心眼】と呼ばれて来たのは、そこを通じて私達の魂の汚れを洗う作用があるからです。ただその為には、【祝詞】を唱えなければならないのです。そうしないと効力が無いのです。ただその為には目を閉じますので、祝詞の暗記が必須となってしまいます。祝詞を暗記するなどは、いい加減な取り組みでは出来ないとなります。

それと同様のことはヨガで額の【チャクラ】が言われてはいますが、ヨガでは【祝詞を奏上】するなどは言わないのです。そもそもヨガには【言霊】そのものの概念は無いからです。また知らないなのです。

 

 

 

信仰は、人は「言」を仰ぎ見よ

 

神は言葉で示し申す(示申)

 

 

 

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