人はこの世に生まれ出て来ると、自己の過去世における【所業】を知りません。私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、【人は生まれて死んで。生まれて死んでの繰り返しである。人が自分の前世を記憶しないのは、この神の「恩寵」からである。過去の失敗した人生を記憶して思い出すことに何の意味があるであろうか。過去の自分を忘れて新しい自分で生きる。人は時には過去世の自分が神として祭られていることを知らずに、その元に参拝することもある。】と告げられたなのです。
それとは別に、【そなたの前世は悲劇の武将であった。人の「魂胆」が見抜けぬお人好しで、そなたを利用する者達によいように利用されて悲運の最期を遂げた。そなたの今生は、他人の「魂胆」を見抜く力の養いである。】と告げられたのです。自分の魂の欠点(他人の魂胆が見抜けない)を【更生(甦)】するです。
それと同時に、私は天より特別の使命も与えられたなのです。そこには、自分の魂の欠点を更生させないと、天から受けた任務も果たせないがありました。この世に生まれ出て来て、この世は天国等と遊んでいたのでは自分の魂の欠点も更生が出来ず。天から受けた任務すら遂行出来ないなのです。
私は確かにお人好しと呼ばれる性格です。その性格故に人から良いように利用される。それを自分の欠点とは思わずに、長所だと思っていた節があります。だが、今生では人の裏表を見させられるでした。特に霊的世界に関わっていると、その人の【信仰】はどの様なものだと見えて来ます。神だ!。神だ!。で神すら自分の虚栄心や欲望の為に利用して来るです。
その人は純粋に神の世界に向かっているのか?。自分の欲望の為に神すら利用しようとしているのか?。そうした人の魂胆も読めて来るようになったなのです。
人の人生は魂の【更生】の為に、カルマ(業)が存在する
仏教における【縁起】はそこから起きる。自分はどうしてこんなに辛い人生なのか?。そうした恨み節を出される方達が多いようですが、その魂の過去世における所業が解ると、それが【因業】の原因かと解って来ます。それを可哀想だとか気の毒だで助けると今生は良いとしても、必ず【来世】でそれが噴き出して来ます。
償(人・賞)いを終えた人は【賞】されるで天国が見える
人はその一生において善たる行為と悪たる行為をします。この世では【聖人君子】では生きられないのです。世界人類が平和でありますようにのスローガンで知られる【五井昌久】師は【神人合一】を説かれて来たのですが、自分が神人合一の状態に入った時、肉体を持った状態では生きられないと説いておられます。これは体験した者で無いと理解は出来ないでしょうが、人は肉体を持ったままで神として【生きる】ことは困難なのです。霊であれば「神」として存在はできるのですが、肉体人間として【命】を保つことは無理です。
巷には自分が【聖人君子】的なことを言っておられる霊能者がおられますが、もしもその方が命ある物を【食】をされていれば「聖人君子」などは嘘っパチなのです。人は他の「命」ある物を食することによって【業】を生じさせるからです。業を積まないとすれば、人は【食】さないとなります。
スピリチュアルで知られる元首相夫人は自分は太陽の光をパクパクと食していると言われていましたが、太陽の光を食するだけで肉体が生きていけるのであれば、その方の魂は汚れないでしょう。要は自己の活力たる【エネルギー】をどこから摂取するかの話だからです。宇宙に在る無限のエネルギーを摂取出来る肉体であれば、別に命ある物を食べる必要はどこにも無いのです。
仏教では僧は【肉食】をせず。野菜主体の【精進料理】をして来たのは、【命】ある物を食する問題だけでなく、自分の【業】を積まないと言う意味合いもあったのです。で、仏教では末法時代の僧は【肉食】をするとなっているのです。それは【業(カルマ)】の意味を理解しなくなっていることです。
別に創造神は、人間が【命】ある存在を【食】することを禁じてはおられるではありません。そこにあるのは自分の命の養いとして【犠牲】になった他の【命】をどのように【理解】するかなのです。お釈迦様の教えに【捨身飼虎】がありますが、そうしたことを語ると今では誰も知らないと言われてしまいます。お釈迦様は飢えた虎に我が身を捨てたことで、次の世に仏陀と成られたの話です。
別に自分の身を捨てて飢えた虎に食べさせたではなく、自分を犠牲として他の命を救った様な人達は【仏陀】の様な存在に成るです。神上がりをされている。
私は自分が霊媒体質であったことから、動物の肉を食をするとその動物に宿る【想念】を受けて来ました。特に酷いのが【牛の肉】で、牛の肉を食べた途端にトイレに走るでした。即座に下痢で、その牛の肉に宿っていた【想念】を【浄化】するでした。
その牛の肉そのものが、自分を食べてください。自分を食べてください。と言って来るのです。私に食べて貰ったことで、私の胎内でその想念が浄化されて行くでした。こうしたことは私だけで無く、霊媒体質者の方であれば、牛の肉を食べた途端に激しい下痢に見舞われた等の体験はされているでしょう。
それは別に牛の肉とは限らず、自己本位、自己中で生きる人の魂は肉体が自己中、自己本位であるが為に肉体が自分の汚れた魂を浄化出来ずに、霊媒体質者に憑霊してその肉体を使って自己の魂の浄化を図るなどもあります。
日本神道では、牛肉、豚肉、猪肉等を献上することは禁物とされています。何故に神々は動物の肉の献上を嫌われるのか?。そこにはそうした動物に転じた人の想念があるからです。仏教の【輪廻転生】には人であった存在が動物界に転じることは述べられていますが、僧の肉食を禁じることは書かれていても、何故にいけないのか具体的な記述がなされていないなのです。
欧米人の魂は肉食が主体なので、その魂はほとんど浄化されていないと言えます。どうしても獣的思考が自己の肉体に入るのです。霊学の分野では、ベジタリアン(菜食主義者)は霊(チ)の汚れが少なく、獣肉主義者は霊(チ)が汚れているとするのです。
イスラム教では豚肉を食べてはいけないが教義ですが、豚肉に想念はほとんど宿っていません。インドで牛は【神聖】な生き物として扱われる様に、全ての牛では無いのですが牛に転じた様な魂には想念があります。イスラム教では豚肉は悪魔とされましたが、魂的には低いので想念としては受けないと思われます。それと豚肉はよく火を通すで解る様に、霊(チ)は【血(チ)】に関わっているからです。
大本教の出口王仁三郎聖師は、牛のすき焼きを食べて、どうしてこんな美味しい物を食べないのかと言われ、大本教の出口なお開祖は【四つ足】を食べてと批判されていますが、そこにあるのは汚れた【想念】を消す力が自分に有るのか無いのかがあります。
何度か言いましたように
人が肉体を持つ最大の理由は、自己の魂を浄化する
私は霊界見聞の中で、魂に【点数】が出ることを知りました。この点数は超能力者達によれば、最後の審判時に永遠の天国界に入る段階を決める【良心】神の点数だと言います。それは別に最後の審判時だけではなく、人は肉体を失った時には【霊界】に入りますが、その都度に天国界三層、中有界、地獄界三層のどこかを決める点数でもあるなのです。
魂の点数は古来より、【善】-【悪】で説かれた
上記の図は、古来より【天使の天秤】と言われて来た話で、弁護士バッチなどにも善悪の秤たる【天秤】図が描かれます。決してスピリチュアルの【神は愛だから何をしても赦される】などはないのですが、どうしてそんなことを平気で言う人が多いのか?。それは今日迄、数の力が物事を言ったからです。
人の人生は一度で、我が宗派の教えを信じれば天国だ!
そうした間違った論理もまかり通ります。
だが実際には人は【輪廻転生】と呼ばれる事柄で、生まれて死んで。生まれて死んでを繰り返して来たなのです。もしも人たる人生が一度限りであるならば、【因業】律は生じて来ません。 お釈迦様は、人は何故に生まれ出るのだろうか?。人は何故に死ぬのだろうか?。その疑問から修業に入られたと言われています。ですから、【悪魔は実体を持たない現れであり、人には良心と呼ばれる神が内在している。】の悟りが出たと言えます。
ただ、お釈迦様はその【良心神】とは、魂の【心棒】で【天帝からの分魂】であるという所までの説明をされたのか?。それともその悟りは埋没していたので、今となっては解らないなのです。ただ、大本教から【五六七のみろく】神が説かれたことによって、それら一連の仕組みは仏教の【祇園精舎の守護神】であるところの【牛頭天王(牛虎金神)】であることは解って来るのです。
人は何故生まれ出るのか?。何故に死ぬのか?
霊界での死は、この世に生まれ出て来るもある
人の魂は霊界で向上するのは難しく、この世に出ることで大きく向上することが出来ます。そこにこの世は【魂の修行場】と言われて来ました。また、大本教の出口王仁三郎聖師は【天人の苗床】です。肉体の死を持って【天国】行きではないのです。【極楽に往生】でもないのです。肉体の死とは【霊界に帰る】なのです。その霊界は幾層にも段階や社会があるのです。
私は旧約聖書の神と称する声から、【この世に出ることは魂にとって修学旅行に出るような短い時間にしか過ぎない。】と告げられました。それは神にとっては、【この世が主たる世界では無い】と言う事です。魂が住む基本世界はどこまでも【霊界】にあるのです。
神からすれば、この世は主たる世界では無い
あるブログ主は、魂の本籍地は霊界で、この世は現住所と説かれていましたが、正しい論理です。が、それをスピリチュアル標榜者はどれほど理解しているのかなのです。霊が見えても霊と会話が出来ても、本物と呼ばれる霊能者は千人に一人程度で、後は邪神の餌食となると迄言われているのです。
ですから、邪神の餌食と化すであろう霊が見える人達は、愛だ!。愛だ!。そんなことしか言えないのです。スピリチュアルの【神は愛だから何をしても赦される】などは、仏教で説かれた【輪廻転生】も【業(因果応報のカルマ)】も何も理解していないなのです。
スピリチュアルに懸かる霊はほとんどが【蛇霊】とされますが、蛇霊の【知恵】では霊界のメカニズムは理解出来ないのです。自分が蛇霊と化して三千年の修業を積んで【龍神】と呼ばれる様になって霊界の【力(エネルギー)】を競う。そんなことばかりをやっている。為に、自己の良心神に目覚めて【悔い改める】が出来ない状態に入っているなのです。
魂の一生とは、輪廻の繰り返しです。人の人生には良い時も悪い時もあり。この世の命を終える時、自分にとっては良い人生だったとか酷い人生であったがあります。
人の人生とは、最後の時が良ければそれで良し
輪廻転生の終りも、最後が良ければそれで良い
お釈迦様が【悪魔は実体を持たない現れであり、人には良心と呼ばれる神が内在する。】と悟られた事柄は、私達の魂の核には【天帝の分魂】が備わっているなのです。その【核】は魂の【心棒】になります。この世の【苦】を【辛抱】することによって、魂は【磨かれ】。【心棒】は育ち。悳分(良心)が備わるなのです。
私は精神が錯乱した人を遠隔によるサニワ(審神)をしていた時、【棒に蛇が巻き付いている】光景を見て棒の意味がまったく解りませんでした。それは世界の宗教書をいくら当たっても、そうした記述がどこにもなかったからです。
蛇霊が改心すると現実世界の蛇が棒の様に【直立】します。いったいこれはどういう事なのだと資料を調べても、書かれた書物すら無い。でも、【蛇】と言う漢字を見たら、なるほどと意味が解るわけです。
人の魂には、全ての輪廻転生を通した点数(良心神)が出る
人は一度や二度の失敗した人生があっても、また生まれ出る
たまたま今の人生が悪かったとしても、それは今生の話で有って、非常に恵まれた人生もあったなのです。なのに不平たらたらで、人を妬んだり自暴自棄になって他人を傷つけるなどあってはならないのです。
私は人の魂と呼ばれる存在を見て来て、ここまで【深い仕組】であるとは知りませんでした。大本教から鬼が云うの【魂】で【牛虎金神・国常立尊(閻魔大王)】と出された事柄。突き詰めて行くと、そこにはとんでもない仕組をされた神の存在が見えて来るのです。
私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声が臨んでいましたが、その声は【この国(日本)は私の教えが満ちあふれている世界で唯一つの国である。】と告げられました。この日本の言葉(日本語)をもってしないと何人も解き明かせないようになっていたと言えます。
この日本は【私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国である。】と告げられた旧約聖書の神と称した霊声の内容は、ここまでの仕組を見ると間違いはないだろうと思っています。人類を永遠に嬉し嬉しの世。新しい天地に渡すです。
だが、新天地、新地球を言う霊能力者の方達も、皆さんその星を見たことが無いと言われます。神霊でもその星の内容を見ていないなのです。解っているのは、国常立尊(旧約聖書の神)様はその星が有ることを神々にも見せていない。知らせていないなのです。
大本教神諭に、この神の仕組は【世に出ている神達や人民が知る事では無い】とありますが、私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声も、【この神が書いた筋書きは、どの神も御存知無い。人民も知らず。この私だけが知っている。】と告げられたなのです。
大本教の出口王仁三郎聖師が予言された数々が的中していなければ、その言葉もどうかと言えますが、出口王仁三郎聖師の予言の数々は見事に的中して来たなのです。
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