焼ける空。
黒と灰色の煙
地上を彩る火の海。
燃える波の隙間を闊歩する、ブラックホールを浮かせた化け物群。
街灯に併設されたスピーカーから不愉快な警報が鳴り、遠くから人の怒号と悲鳴の織り交ざる大声が絶えることなく響いている。
少ないながらに残された人類の生存圏は、瞬く間に阿鼻叫喚の地獄へと化していた。
ホロウに呑み込まれた地域は体質の差異はあれど、最終的には人間を化け物に作り変える禁足の地。突発的なホロウの発生、或いは膨張で呑み込まれたエリアから逃げ出さないのはただの自殺行為だ。
例えそこに帰る場所があったとしても背に腹は変えられない。命が惜しいのならすぐにでもここから離れるべきだ。
それがわかっていてなお、俺の足は動かない。足を動かせない。
常人離れした脚力をもって脱出するのは容易な筈なのに、その脚は震えて力を発揮することは叶わない。いや、脚だけじゃない。手が、呼吸が震えて、荒くなる呼吸がひどく苦しい。もはや立っているのがやっとだった。
──逃げなさい。ほら、速く
目の前で座りこんだ母が、肌の表面から黒石を生やした母が諭すように言う。自分の命が風前の灯だと理解しているはずなのに恐怖に震えるわけでもなく、理不尽に嘆くわけでもなく、子供の夜更かしを諌めるような声色で離れろというのだ。そんなこと、できるはずもないのに。
「────」
感情の濁流で嗚咽に濡れた声は言葉にもならず、ただ肺の酸素を吐き出す行為にしかならない。現実に拒絶反応を起こす脳が滂沱の涙を溢れさせ、頬が濡れて視界が見えないくらいに歪んでいる。
震える手を縋るように伸ばせば母の手がすれ違って頭に乗せられゆっくり撫でた。子供を寝かしつける優しさで諭すように髪を梳く手はどこまでも暖かく、悲観さを感じさせない。俺の好きな母の手だった。もう、味わうことができなくなる母の手だった。
────人を助けろとか、希望を持って生きてとか言わないけど
────あんまり早く死んじゃダメだからね
ふり絞られた最後の言葉に肯定も否定もできず、ただ拒絶反応が大きくなって涙が蛇口を捻ったように零れ落ちる。
理性が囁いている。
背を向けて走り危険地帯から離れるべきだと。
母を人として終わらせたいのなら、自らの手でその命を絶つべきだと。
本能が叫んでいる。
母を抱えて一緒に行くべきだと。
例え助からないと分かっていても、一縷の望みに賭けて見捨てるべきではないと。
世界が遠ざかるように音が小さい。
過呼吸に近い自分の息づかいが耳に響いている。
俺の感情のままに吐き出される呼吸音は、母の消えようとしている寿命のシグナルに他ならなかった。
母は数分もしない内に化け物になる。意思もなく個体の判別もつかない人ならざるなにかに成って、そこらじゅうで彷徨っている奴らと同じになる。
それを息子として受け入れられる訳がない。けれど、同時に実行に移すことに対する葛藤があった。
母の最後の瞬間が、愛情を隠すこともないくらい大事に思っている実の子が己に手を掛ける光景であっていいはずがない。何よりも母は、俺のことを愛してくれていた。
母を有象無象と同じように彷徨わせたくない。その命を手に掛けるのが俺であって言いわけがない。しかし、俺でなければならないのだ。俺にしかできないのだから。
肺が苦しい。心臓がうるさい。耳に響く呼吸音が金切り音のように不愉快で、涙が止まらないせいで目が痛かった。それでも、震える手を力いっぱい握りしめた。
作られた拳が止まらない圧力でぎちぎちとなり始めて、伸縮する筋肉の繊維が許容を越えた命令で千切れていく。
俺の動きを悟った母と眼を合わせる。その顔には自分がいなくなることに対する心配と不安と罪悪感が読み取れて、どこまでいっても母は俺の母親だった。
もう二度と眼にすることがなくなる母の最後を脳に焼きつけて。
俺は────
疎らに雲を散らせた青空から太陽が燦々とアスファルトを照らしている。舗装された道路は所々補修された後が見えて過去の悲劇を刻んでいた。
傍らには警告色をしたフェンスに物々しく立ち入り禁止の文字が太く書かれていて、地面に添えられた花やフェンスに引っ掛けられた持ち主のだったであろう小物が寂しく風になびいている。
ここにきたのは片手では足りないほど久し振りだが、それだけの年数ではこの景色を変えるには至らなかったらしい。まぁ、こうして脚を運んでいる時点で俺も人のことを言えた口ではないか。
手に持っていた買い物袋から煙草を取り出して口に挟み百均のライターで先端に火を着ける。
ゆっくりと吸い込んで肺を紫煙で満たしてから、吸った時よりも時間をかけて吐き出した。
ホロウという人類の脅威のおかけで嗜好品の類いは崩壊した旧文明の時よりも価格が跳ね上がった。暇を楽しむ娯楽はすぐに供給を取り戻したが、煙草のような百害あって一利なしのものは淘汰されてしまい入手にはそこそこ手間がかかる。
それでも、俺のような物好きは割りと多いらしく取り扱う店は少ないが存在していてよく世話になっている。
始めた理由が理由なだけに禁煙はできるだろうが、既に味も楽しみ方も知ってしまったせいでどうも手放す気にもなれなず、立派なヤニカスの仲間であった。ついでに酒カスの仲間でもある。
続けている理由は遺産と補助金で金が有り余っているというのもあった。
口から紫煙を昇らせてフェンス越しに遠い景色を眺めれば、道路と住宅街を挟んだ数km先にはそびえ立つ塔の高さと同じくらいのホロウが佇んでいて、いまも旧エリー都を呑み込んでいた。
十年の月日が経っても抱く感情は初めて訪れた時と変わりない。
虚しさと寂しさと無力感。ホロウへの怒りも自分に対する怒りもそれの前には霧散する。確か二、三回目は煙草の火がなければ太陽が落ちても気づかなかったんだったか。
能動的になる程の感情が生まれることは無いくせに、いざ脚を向けてしまえばずっといてしまうのは未だに執着している証拠だった。
未練がましい感傷を絶ちきるために敢えて遠ざけていたのだが、それでも今日脚を運んだのは必要だと思ったからだ。
死んだ母の口が開くことはない。成人になって就職までした俺をあの人が眼に納めることもない。だからここにきたのは誰のためでもなく、強いて言えばただの自己満足にすぎないのだ。
その自己満足が今の俺には必要だった。
何度目かわからない紫煙が空を揺蕩う。煙草に残されたニコチンが八割を切った所で不意に固い足音と人の気配を感じた。
規則正しく。重心は真っ直ぐながらも得物のせいで若干左に寄っているヒール音。
該当する人物を頭に浮かべながら音のする方に眼をむけると、そこにはやはり我が上司殿が制服の姿で歩いてきていた。
「奇遇だな要、お前もここにきていたのか」
「そっちもな。今日は出勤だっただろ。一応聞いとくけど、抜け出してきてないよな?」
「……」
おいなんか言えよ。わかりやすく顔をそらんすんじゃねえ。
「ちゃんと捌けるように調整している。問題ない……はずだ」
「言いきれてない時点で説得力が皆無なことに気づけよ」
此方から眼を逸らして凛とした声から発せられた雅の言い訳に呆れを隠さずに返せば、童顔に備えられた端正な眉が少しだけ中央に寄る。
子供のようにむくれた表情は可愛らしくもあるのだが、内容は笑えたものではないので手におえない。つーかまだ勤務時間だろ、仕事しろ。
天下の虚狩り様も白紙に並ぶ文字列には苦戦を強いられるらしく、適当な言い訳を述べては逃れようとするのが日常茶飯事であった。会議に出席しない修行などと平気で宣うこいつの世話をしていた月城の心労は計りしれない。
「そういえば」
「あ?」
「装備の耐久性のテストをしたいと柳が言っていた。現在の技術でお前の力にどの程度まで耐えられるか確かめたいようだ」
″近く話がいくだろう″と雅は続けた。あからさまな話題の転換だったが、サボりに対して深く追及する必要も感じなかったため大人しく乗っかることにする。
しかしテストねぇ。無駄になる予感しかしないのが正直な本音だ。
「全部壊れるのにテストになんのかね」
現状、ホロウ内での武装をしていないのは俺だけなのだがこれは別に反骨精神や素手に対する拘りが有るわけではなく、単純に武装がないほうが楽という身も蓋もない話だった。
エーテルを活用した現在の技術では、俺のスペックに武器などがついてこれないのが原因である。
刀を握れば柄が壊れ、弓を引けば弦が引きちぎれ、ガントレットのような装着系も殴りつけたエーテリアスと一緒に粉々になる始末。
道具はいずれ壊れるものではあるが、自分が破壊すると分かってやるのはそれまでの時間と労力を無駄している気がしてあまりいい気分ではない。そのため、基本的に素手でタコ殴りにするのが俺のスタイルに落ち着いていた。
……刀のような格好いい武器を扱えないのが少し残念だったのは内緒である。
話を戻して耐久力というものは俺の前では無力なのだ。ホロウの外壁のような粒子状のものならともかく、どこから生み出されているか分からない膂力を振るわれて原型を残した物はない。
純度の高いエーテル結晶だろうが、それと化学物質を織り混ぜた高硬度の化合物の塊だろうが、俺がその気なら問答無用で用途を失った破片と化す。
つまり、俺が参加する以上結果は火を見るよりも明らかなのである。獣人系のシリオンか馬力のある知能機械人のほうが余程テストとしての適正があるだろう。
「私は物事を考えることに向いていない。しかし、一つだけ分かることがあるとすれば、柳のやることには必ず考えがあるということだ」
まぁ、それもそうか。
面倒ではあるが深く考える必要もない。それが仕事ならいつも通りこなせばいい。月城の望み通りの結果が得られれば報告の一つくらいあるだろうし。
口元から紙の焦げた匂いが漂っていることに気づいて火種を揉み消し携帯灰皿にねじ込む。二本目に突入してもいいが、ベビースモーカーでもないので止めておいた。
「時に要」
「今度はなんだ」
「お前は旧都陥落の犯人をどう思っている」
「……確かカローレ・アルナだったか?」
カローレ・アルナ。零号ホロウの暴走を引き起こした犯人とされるホロウ研究者。詳細は不明だが、市政はホロウの暴走の起点となったのが当時カローレが居たとされるへーリオス研究所と公表していて、暴走してから行方不明になった彼女の身柄を追っている。
分かりやすく言えば、旧エリー都陥落で被害にあった遺族の仇だ。俺たちは市政によってカローレ・アルナに憎悪を向けることが許可されている。
「私は彼女を許すことはできない。必ずその身と罪を白日のもとに晒し、然るべき裁きを受けさせる。
だが、お前はそうではないのだろう?それが少しばかり気になってな」
確固たる決意を滲ませる口調は氷柱のように冷たく鋭い。しかし、その決意と行動を俺に求める気はないようで此方に語りかける声色は普段通りのものになっており、純粋に気になっているだけのようだった。
疑問に対する答えはとうの昔に出ている。
「興味ないからだな」
「家族やそれに近しい人の仇でもか?」
「カローレを捕まえたとして過去が無くなるわけでも死んだ人間が帰ってくるわけでもねえだろ。なら、考えるだけでもムカつく奴なんてどーでもいいし時間の無駄だ」
そりゃあ目の前にしたらうっかり
仮に身柄を拘束できたとしても、そうかとしか言いようがない。
「それに母親が死んだのは俺のせいだ。もしホロウが暴走しなかったとしても、俺は俺の惰性で失ってただろうよ」
母が死ぬべくして死んだ何てことは決してない。だが俺は失うべくして失ったのだ。母の死因がホロウ災害になっているのはたまたまで、きっとそれ以外にもあったのだと思う。
油断。慢心。楽観的思考。希望的観測。その他諸々。それらの多数の要因
……母さんが耳にしたら烈火の如く怒りそうだな。どれだけ理由を言ったとしてもあの人は俺が死なせたなんて認めない確信がある。
「あとはまぁ、カローレが本当に犯人か疑わしいからな。あれだけの研究所施設が個人で成り立つわけないし、組織で運営してるなら責任がたった一人にあるはずない。
ろくに調査もしてないのに断定してるっことは一人に押しつけたほうがTOPSに都合がいいってのが、俺の証拠もない勝手な推測だ」
そもそも論として未だに未知の部分が多いエーテルを研究する施設での災害を、事故の可能性が高いはずなのに人災と発表していることに違和感がある。
そして、零号ホロウの暴走の起点であるへーリオス研究所は震源の深さと、それに伴って跳ね上がるエーテリアスの脅威度のせいでまだ謎多き場所だ。
何が原因で暴走したかも、カローレ以外の研究員の安否も正確に判明してない。なのに市政はたった一人の人間にすべての責任のレッテルを貼りつけた。大衆がそれ以上探るのを止めるかのように。
カローレが犯人であることを疑う人間はネット上でも少数派であるほど、エリー都で生きる住人は受け入れている。勿論、ホロウ災害という身近な危険のせいで気にしてる余裕がないところもあるだろうが。
「他人の保証で誰かを責める趣味は俺にはねえよ。どれだけ正当性があってもムカついたら嫌いになるし、正当性がなくても納得できる理由があるなら話を聞いてやらんこともない。
法律が罪を定めても、悪かどうかは俺が決める」
カローレ・アルナに石を投げる時がくるなら、それは俺が投げたいと思った時だ。罪を犯したからでも、誰かに害を為した時でもない。
「……」
雅は咀嚼するように顎に指を当て考え込んでいる。こいつは真面目ではあるが頭でっかちで他人の意見を聞き入れないほど融通がきかない性格じゃない。むしろ、TOPSのやり方に不信感を持っているからこそ、6課というマンパワーが許された特殊な部隊を設立したと月城から聞いている。
「悪たるは我が定める、か。
確かに要の言う通りだ。カローレ・アルナにしても、零号ホロウの全容にしても私には知らないことが多すぎる。しかし、どれだけ疑念を持っても私には敵を斬ることしかできない。ままならないものだ」
「だったら斬る前に月城とかに一言いえよ。そのために態々部下にしたんだろ?あいつなら事後報告でも少しくらいリカバリーできるだろうしな」
「あぁ。柳も悠真も蒼角も私にはできないことを可能とし、足りない部分を補ってくれる希少な人間だ。これからも私が前を走る度に世話になるだろう。
そして、きっとお前にも世話をかけることになる」
「自覚があるんなら自重しろ。言っとくが俺は仕事の範疇しかやらんからな。ホロウ災害も人命救助も構わねえけど、悪人の取り締まりは治安局の案件だ。俺は知らん」
「それでいい。私の願いは人々の平和と安寧、引いてはホロウの消滅。次にメロンだ。
カローレ・アルナの身柄や罪悪の真偽はその後でも構わない」
さいで。
英雄思考というかなんというか、雅の優先順位は何かと大衆願望によりがちな気風がある。家族の仇だとしてもきっちり公私を分けれるのは立派ではあるが、それができるならなぜ仕事から逃げるんだか。あとメロンってなんだ。
「む」
不意に耳障りの良い音が鳴るのと何かに気づいたような雅の声が聞こえたのはほぼ同時だった。
音の震源である携帯は静かになる気配が微塵も感じられず、ずっとその存在を示し続けている。雅は数秒の間、液晶を眺めると人差し指で一度タップした後懐にしまった。おい。
「どうやら柳にバレてしまったようだ。オフィスに稲妻が走る前に戻るとしよう」
「いい加減餡パンで機嫌を取るのも限界がくると思うぞ?」
「ならば別の方法を考えねばならないな。何かいい案はあるか?」
「仕事しろ」
下らないことをいい始めた雅を一蹴して俺も帰ることにする。あまり長居しても迷惑だろう。
買い物袋にあった缶ビールを開けて花束から離れた所にぶちまける。アスファルトに広がる小麦色を見ながらもう一缶を豪快に煽り一息で飲み干した。
あまり好きな飲み方ではないが、供養という名目ならこのくらいが丁度いいだろう。流石に慰霊を刻む石碑の前で悠長に嗜むのは気が引けたのもある。
死んだ母に届くとは欠片も思わないが時の経過を実感するのには充分だ。結局これも自己満足に過ぎないのだし。
「で、何でまだいるんだ?」
唇に残る水気を雑に拭いながら動く気配のない雅に問いかけた。
「私の予定では本来もっと速くここについていたはずなのだ。しかし、結果として滞在できたのは数分たらず。都市の道なりはまさに迷路の如くだな」
「はいはい。駅までは送ってやっからそこからはタクシー呼べよ」
「恩にきる」
ただ正確に帰るためのガイドが欲しかっただけらしい。ぶっちゃけ俺も雅もそこらの電車と同じ速さで走れたりするが、実行に移すほど常識はずれじゃない。それにビルの屋上を駆けるのは単純に目立つ。
来た時は違ってヒールが地面を叩く固い音を引き連れて歩く。
あと数年もすれば母の年齢を追い越す。母さんの言った早く死ぬながどれだけなのか判別はつかない。いや、そもそも時期的なものがあると思うことが間違っている。
健やかに長く生きることこそが母の願いであることは分かっているのだ。ただ、目的もなく生きて、死にたい理由があってしまうと時間を貪るのさえ億劫になる。
雅の誘いを受けたのも死なない理由を作りたかったからで、生きるためになにかしらの強制力が欲しかったからだ。
嫌な表現だが、明日仕事があると分かっているとそれをこなそうと身体が動く。まるで社畜のようだが、死なない理由には充分だ。
きっと母さんの望んだ生き方ではないと思う。でも、俺に精一杯できることがこれなんだ。こういう生き方しかできなくなってしまって、これからもずっとそうやって日常を貪るだろう。
そんな俺でも、自己満足の果てで命を拾うくらいはできるからそれで勘弁して欲しい。
昨日も今日も明日も、俺は身勝手な泥濘の中で生きていく。それが俺が俺に望む罰であり、誰にも譲れない俺だけの罪なのだから。