「パパ、これはなんて読むの?」
何処にでもいる子供だった。貧困に喘がない家庭で育ち、余裕をもって教養と情緒を育んでいた。両親に大切に思われていたし、これから産まれてくる弟も同じ様に愛そうと思っていた。
「これはね、
「えいゆう?」
「そう、英雄というのは、誰も選ばなかった道を往き、偉業を成した人のことだ」
「んー、よくわかんない」
「例えば、誰かに優しくすること、困ってる人が居たら助けること、それだけで立派な英雄だ。その本に書いてあるような大きな敵と戦ったりしなくても、人は英雄になれる」
父の書斎が好きだった。あの少し埃っぽくて、煙草の名残が染み付いた本棚が好きだった。父の膝上で本を読み、分からない所を教えてくれるあの時間が好きだった。
「あら、ここにいたのね。ミコト、お父さんの仕事の邪魔をしてはダメでしょう?」
「えー!」
「大丈夫だよ母さん。ミコトは大人しく本を読んでいるだけだから」
お腹を大きくさせた母は心配性で、常に何かしている人だった。本を読んでと頼めばこの本はまだ難しいと口にしながらも、落ち着く声音で読み聞かせてくれた。
「ミコトは大きくなったら何になりたい?」
「……わかんない。やっぱり、物語に出てくる英雄のような、そんな偉い人になればいいの?」
「いいえ、それは違うわ。人は英雄になる必要はないの。自分の人生を生きて、その中で少しでも他者を思いやってくれたら、母さんは嬉しい」
「じゃあ、英雄じゃなくても、母さんと父さんや皆を守れるような人になる!」
暖かな家庭、幸せなんて実感してなくとも、それがどれだけ尊いものだったかは知っていた気がした。
幸福は積み重ねられるもの、不幸は突然降りかかるもの。何時かの本でそんな言葉があったのを、よく覚えている。
あの日、街では花火の打ち上げがあった。彩色され散る火花が鮮やかな花弁となり、青黒い夜空が綺麗に輝いていた。弟が産まれたら今度は四人で行きたいと、何も知らない自分は言っていた。
「逃げて、ミコト!」
時間が巻き戻ったかのように、燃える街は空を夕暮れに変えた。突如として出現したホロウ災害が街を地獄にした。
「母……さん?」
「あなただけでも……早く!」
「でもっ!」
母の体表にはエーテル結晶が現れていた。黒い結晶は、この終わらない夕暮れに下ろされる夜の帳のようだった。
「生きて!!」
今にもエーテリアスに成り果てようとしている母は、震える手で持っていたナイフを俺に渡した。こんな物でエーテリアスを倒すことは出来ないというのに。……いや、
「生きなさい! ミコトっ!」
「っ!!」
母の腕は既に侵食されていた。いつエーテリアスになって襲ってくるか分かったものじゃない。
「あなただけでも生きなさい、ミコト!」
初めてエーテリアスを殺した時、想像以上にそれは脆かった。ナイフでコアを一刺しすれば簡単に消滅した。まるで赤子みたいに小さくて、存在としての基盤が整っていなかった。最期に付けられた腕の傷だけが事を証明して、血液だけが時計みたいに流れた。
「どうして殺したの? ねえどうしてどうしてどうしてどうして?
お兄ちゃん?
「ああぁぁあああ!!!」
腕が酷く痛んでのたうち回る。着けられた拘束具が激しくぶつかり合って金属音を警鐘し、狂乱する肉体を屈服させる。
「はぁ……はっ……っ!」
発作が鎮まり、理性の光が戻った眼が見たのは厳重な拘束具。罪人の反攻を一切許さないそれが自身の腕に着けられている。
宵も深けてきたという時間帯、遮光を目的としたカーテンから僅かに漏れている街灯が部屋に滲んでいる。
「うっ」
壁に体をぶつけながらトイレに駆け込み、ありったけをぶちまける。ヒリヒリする口端を拭い。ようやく重苦しい拘束具を外す。手首には痣がくっきりと残っており、手枷を外したというのに消えない罪がまだその身を犯してるみたいだった。
「違う……俺は……」
自然と手が刃物を求める。大刀は……本部だ。包丁もバターナイフもない。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
本日も最悪の目覚めだ。仕方がないから、出勤の準備をする。嗚呼、今日はあのパン屋の営業時間に間に合いそうだ。
証明ID、寝癖、服装、万事完璧。
「灰色の朝だ」
まだ誰も居ないオフィスは残酷な程の落ち着きをくれる。きっと自分が居なくてもこの光景は変わらないと安心感がある。偶に訪れるこの孤独に慣れてしまっていた。
「……そろそろかな」
コツン、コツン、と高さがあるヒールの音が廊下に響く。自分も装備の関係で踵の高い靴を履くが、彼女のはよりバランスを取るのが難しいピンヒールだ。普段から慣れているとはいえあのヒールで戦うのだから素直に感服する。
「おはようございます」
「おはようございます、薄乃隊員。……どうしていつも照明を付けないのですか?」
「はは、あれでも十分明るいですよ」
副課長と書いて真の課長、対ホロウ6課の大黒柱、保護者。その功績や人気から熱狂的なファンを持つ対ホロウ6課の中でも彼女は様々な呼び名がある。『対ホロウ特別行動部第六課』の副課長、
「あ、これあんぱんです」
「いつもありがとうございます。……薄乃隊員、顔色が優れませんが大丈夫ですか?」
「んー、いつも通りですよ副課長。悠真じゃあるまいし、病欠は要らないですよ」
ケラケラと軽く手を振ってはぐらかせば、眼鏡越しの視線が鋭くなった気がする。そんなことは気にせず、椅子をクルクルと回しながら朝の美味い珈琲を飲む。やはり珈琲は良い。香りは良いのに味は苦く、深くに潜む充足感が腹から鼻腔を刺激する。独りで飲むには珈琲に限る。
「はあ、浅羽隊員にあなたの爪の垢を煎じて飲ませたいです」
「あっははは……。あいつは虚弱体質ですから、その判断は難しいですよねえ」
「逆に」
椅子を掴まれ、珈琲をあわや零しそうになる。眼前に迫る月城副課長の目は、絶対に虚偽は許さないと強く物語っていた。
「薄乃隊員……。やっぱり顔色が悪いですね」
「……ふふ、俺の肌は美白ですから。病気のように見えてもしょうがないですよ」
「私たちはそんなに頼りないですか?」
食い気味で言葉を重ねられ、気押される。此処の人達は皆が皆、人が良すぎる。手頃な言い訳一つ口ずさもうとして、月城さんの圧に言葉は口内に閉じ込められる。
「薄乃隊員……?」
違う……違うんだ、俺にそんな価値は無い……。あなたがそんなことをする必要なんてないんだ……。
「あの……」
嗚呼、寄り添わないでくれ……独りに……いや、独りは嫌だ! 誰か……誰も来ないで、近付かないで……傷付けたくない!
「命! 命っ!」
「…………ぁ」
重力に負けた黒と白が破砕音と共に複合されたコントラストになる。手から零れ落ちた珈琲カップが落ちたようだった。
「あー、すみません副課長、急いで掃除しますんでこの話はまた今度に」
「……」
これに機を見たとばかりに破片を拾って珈琲を拭き取り、逃げるようにオフィスの外へ出てトイレに駆け込む。
「オヴェ……ヴ……」
対ホロウ6課に来てそれなりに経つ。大衆に祭り上げられるのも慣れてきた。だけど……
「
撹拌する罪と幼稚な心に苛まれている。日に日に腐敗する癌細胞が脳神経を侵食している気がする。こんな俺があの人達と並び立つ? 悪い冗談だ、何も面白くない。
「命……?」
「やあ、悠真。今日も遅刻かい? 君も懲りないなあ」
悠真越しに見えたトイレの鏡に映る蒼穹の瞳は濁りきっていた。はは、なんて面白い。
「今日は当直だろう? それまでに終わらせるもんは終わらせとけよ。まあ、俺も手伝うからさ」
「……あれ?」
気が付けば仮眠室で寝ていた。トイレで悠真と鉢合わせしてから記憶が無い。
「痛い」
起きようと体に力を入れるとズキズキと痛みを訴える。自主的か他者による行いか、どの道気絶していたことは確定だった。
「誰……」
誰か助けて、そう吐きそうになった口に篭手を突っ込む。このまま口と手のどちらかが壊れてしまいたい。しかし、生理的拒絶反応がそれを許さなかった。テラテラとした粘性の唾液に塗れた篭手は人の手というより、もはや化け物のそれに近い。
汚すわけにもいかず手拭いで拭き取り、スマホで現在時間を確認する。まだ手のつけていない仕事が多く残っているというのに、もういい時間だ。これは残業だなと乱れた制服を直していると、1枚の書き置きが目に入る。
『今日はもう帰って安静にしてくださいby柳』
オフィスは朝と同じで人気無く。大層な寝坊をかましたみたいな言い難い感情が胸を突き刺した。自分のデスクにあった書類は影も形も無く消えている。また悪いことしちゃったな。
「はは……」
もうそろそろ限界だし、折を見て辞表を出そうかな。