対ホロウ6課で副課長兼情報官を務める月城柳は怒っていた。
可憐で敬愛する自身の上司たる星見雅の報連相の意識を改心させんと無表情を作る鉄仮面の下で憤慨していた。
雅と柳の付き合いはそこそこ長く、雅が大衆の想像する人物ではないことくらいは他の誰よりも理解しているつもりだ。そのため彼女が会議をすっぽかそうとしたり、事務作業から逃れんと画策するのも慣れていて、その逃げ道を封じるのも柳の仕事の一つだったりする。
長としての立場を考えるなら雅の仕事に対する姿勢は落第物であるが、それを咎めるに留めるだけで済んでいるのは虚狩りという実積と戦闘能力に加え、柳という苦労人、もといワーカーホリックがいるおかげである。
柳は6課のまとめ役として奮闘していて、それは傍から見れば一人に仕事を押しつけ過ぎではないかと思われるが、柳自身苦労を覚えても決して苦痛という訳ではないし雅を含めて誰かの役に立てる実感は中々に得難いものであり、休暇を求めようとも6課からいなくなるというのは頭に全くないのだ。
故に今まで口頭で注意を終わらせてきたし、多少眼に余るのならしっかりと口調を厳しくしてきたつもり、だったのだが。今回ばかりは、流石に罰が必要かもしれないと柳は認識を改めざるを得なかった。
雅の好物であるメロンを大食間である蒼角に目の前で食べさせるか、一週間刀を禁止するかどちらにしようかと考えていると、視界の外から土を踏みしめる人の気配。
振り返ればそこにいたのは上司が直接勧誘した、雅曰く″私よりエーテリアスを破壊できる″男。そして今回、柳の仕事を増やした片割れの一人の柊要だった。
対ホロウ6課は所属人数が四人という少数精鋭の部隊だ。その人数の少なさが許されているのは星見雅といった圧倒的な個が存在していると同時に、協調性の大事さを理解している優秀な作戦指揮官の月城柳が籍を置いているからに他ならない。
そこに新たな人材が加わる。それが一体どれ程の影響を与えるのか、そこに至るまでの過程で幾つの書類が積み重なるのか、数多の修羅場を潜ってきた柳でも見当が付かなかった。
さらに言えば6課は公的機関、つまり公務員である。給料に税金が支払われるとなれば当然その道は険しく、一日二日でなれるものではない。学校での訓練と卒業といった経歴を持つことが前提で、鬼族という特殊な生い立ちである蒼角だって、未成熟さと柳の実積が重なってようやく認められたのだ。
雅や柳、その他ホロウに資格を持って関与する人間に客観的に認められる何かが、柊要には必要不可欠なのだ。でなければ、ただえさえ顰蹙を買っている治安官に加えていらない敵まで増やすことになる。
故に今日のこれはそのための試験であった。
「では、試験の内容を確認します。
目的は共生ホロウの消滅。人員は柊隊員一人とキャロットを積んだ緊急連絡用のボンプのみです。
ホロウ内では空間が無作為に変容、または転移する現象が起きます。そういった現象で帰還が困難と判断した場合はボンプを通して連絡するか、それすらも難しいのなら三回上下に振って下さい。それで私に連絡が届きます。
説明は以上です。質問があればお答えしますが、何かありますか?」
柳の機械的な説明をホロウのなんたるかを知っているものが聞けば、前向きな自殺志願者か何かかと正気を疑うだろう。実際、同じ6課に所属する浅羽悠真は似たようなことを口走っていたし、蒼角もこの人は何か悪いことでもしたの?と心配を織り交ぜた疑問を柳に聞いていた。
しかし、対ホロウ行動部隊というエリートとも言える部署に必要な経歴を持ち得ない一般人をねじ込むのなら、これくらい出来なければ周りは納得しない。
そして、この試験内容を柳と協議を重ねたのは雅本人だ。
ボンプを撫でくり回していた要は柳の説明を最後まで聞いて、思案顔になると口を開いた。
「ホロウの中はいくら壊しても文句言われないのか?」
自分の身の危険よりも周囲の被害を気にする彼に柳は表情に出さす怪訝に思った。
「一度ホロウに呑み込まれた物の物権は強制的に放棄される法令があります。無鉄砲にホロウ内へ侵入することを抑制するためかつ緊急避難のための法令で、家屋等の破壊行動は公的に認められているということです。
ですが、置いていかれた物には置いていくだけの理由があります。大切な何かである可能性は否定出来ませんので立場上お勧めしかねます」
「つまり、気にしなくてもいいけどむやみやたらに壊さない方がいいってことか」
ホロウに一度でも呑み込まれたら存在するすべての所有権は放棄され、持ち出されても窃盗にはならない。緊急措置的に施行された法律は穴の多さからして、まともに議論された上発令されたかは言うまでもないだろうが、それを世論が一時的にでも許容してしまうほどの危険性がホロウにはある。
人道的倫理観は人によるが人々の平穏と安寧を掲げる組織である以上、無意味な破壊行為は反感を買うだけだ。戦闘や空間の変異等の不可抗力でないなら、批判の材料になるような行動はしないことに越したことはない。
他に質問はないらしく要はキャロットで観測データを確認していて、準備も問題ないようだ。柳が歩き出し後に要が続いてホロウ内へと侵入する。
ノイズが走るドーム上の黒い隔たりを越えれば、そこはエーテル物質による身体の侵食に加え、エーテリアスに襲われ続けるリスクを伴う法が機能しない文字通りの人外魔境。黒色の壁に覆われているはずの空間は虚飾の青空で彩られている。
「私がついていけるのはここまでです。ご武運を」
「ども」
人間が長時間生きていける環境ではないのにも関わらず、要は気にした様子もなく柳の横をを通りすぎ奥へ進んでいく。まるでこの異界が自分にとって脅威ではないと信じて疑わない姿勢は、一種の畏怖を感じざるを得なかった。
男の姿が見えなくなるまで見送って、柳は深い溜め息をこぼす。理由は勿論、一人で危険そのものに身を投じた彼の心配。などではなく、これからのことについてであった。
柳は一般的な出自でありながら後天的に鬼族の血を取り込んだ特異な人間である。そうなるに至った経緯は省くが、他種族の血を受け入れた柳の身体は常人離れした身体能力を獲得していて戦闘指揮と戦闘そのものを両立する、雅とは異なった無二の存在なのだ。
元から備えている頭脳が柊要という人間を所属させることのメリットとデメリットを弾きだし、鬼の長から託された血がその身体に修められたエネルギーの奔流にざわめく。
要は何の問題もなくこの共生ホロウを消滅させ、6課に就くことになる。それはもう既定路線だ。他の反発は今回の試験によって抑えることができるだろう、ある程度は。
そのある程度からはみ出した抑制仕切れない悪感情とそれをぶつけられた時、あの男はどう反応するのだろうか?
契約通り6課を去るならそれが最善だ。財政以外になんの被害もなく元に戻るだけで事が終わる。だがもし、理性を越えた感情がその暴力を無尽に振るったら?
脳裏によぎる万が一の可能性。雅は大丈夫だと言っていて、柳が尤も信じている客観的事実──身辺調査で得た今までの経歴──もその可能性が低いと断じているが、それでも考えてしまうのがまとめ役の性である。それを解決できるのはやはり、これから積み重ねる時間しかないないのだろう。
「はぁ。頭が痛いですね……」
彼という存在の与える影響がなるべくいいものであるようにと、柳は願うしかなかった。
変化が起きたのは柳が一人になって10分ほどたった頃だ。半球上の黒い壁に大きくノイズが走り抜けて狭まり、次第に柳の背中を捉え始める。共生ホロウの減衰、その兆候だ。
エーテル物質に満たされる共生ホロウを減衰、消滅させるには深部に居座る高濃度のエーテル物質で構成されたエーテリアスを排除すること。減衰に留めるなら湧き出てくるエーテリアスを間引き続けることでも可能だが、ホロウそのもの消すには根本を絶つ他にない。
無論、それがどれだけ危険を帯びているのかは子どもでも分かることだ。エーテリアスという脅威と、身体を蝕むエーテル物質という外部的危険因子は、中心に進むほど悪辣になり人間の活動に夥しい制限をかけ対策の歩みを阻んでいる。
この共生ホロウの観測データやキャロットは然るべき人員を割当て、時間と労力をかけた末に築かれたものでありそこには大衆に映らない、数少ない犠牲があるのも無視できない事実だ。
しかし、柊要はその一切合切を斬り捨てる。
「──嘘、でしょう?」
鉄仮面の崩れた柳の顔が驚愕に染まる。人類の生存圏と世界を絶つ異界に亀裂が走り徐々に大きく、そして増えていく。エーテルを観測する簡易的な計測器が忙しく数値を回していて、異界が崩壊に対する悲鳴を叫んでいた。
人為的に起こすには困難な、ホロウ内部の維持ができなくなるほどの急激なエーテル物質の減少。
果たして、それを実現させることのできる人間がいただろうか。星見雅が虚狩りの称号を授けられるに至ったのは共生ホロウの短期間消滅を一人で成し得たからだ。十分という速度は雅がかけた時間の倍以上の速さだが、その時は5分といった時間に対する制約があってこそであり、状況がそれだけ切羽詰まっていたせいでもある。
つまり、必要性に駆られて叩き出した雅の速度に追いすがる速さを、要は散歩にいく気軽さで発揮したということだ。それは既に雅と同等の速度を持ち得ている証明に他ならない。
──力という能力に置いて、私が奴に勝てる要素は何一つない。
雅から聞いていたその意味を柳はようやく、適切に認識した。
事前に作られていたキャロットがあるにしても、深部に至るには慎重に慎重を重ねるものだ。そこに到達するまでに想定以上の被害が出たり、突発的なホロウ内部の変異で後退を余儀なくされるのは珍しくない。故に、この速度で深部に入りエーテル物質を振り撒くエーテリアスを排除したのは記録の中でも数少ないものだった。
柳は要を過小評価していたつもりはない。けれど、それは改めなければないだろう。少なくとも今回、数時間はかかると思っていた共生ホロウの消滅は想像以上の速さで成し遂げられたのだ。認識を改めるには十分過ぎる。そして、彼が与える影響についても修正しなければならない。要するに柳の仕事が増えた。
虚像の青空に無数の亀裂が走り世界を保つ要素を失ったホロウがついに限界を迎え、異界が砕け散る。砕けた硝子のように空を舞うエーテル結晶は、共生ホロウの断末魔にみえた。
共生ホロウが完全に消失するのを見届けていると、数メートル離れた所に降り立つ人の影。つい今しがた一つの異界を破壊した本人の帰還だった。
靴と地面の接地音一つで帰ってきた男の姿は、まるで高所から降り立った猫のように軽やかかつ静かで、うっかり聞き逃せば雑音として処理してしまいそうなくらい自然的だ。その気配の薄さは、遥かに優れる五感を持つ柳ではなかったら帰ってきたことにすら気付けなかっただろう。
「ホロウが消えるの見たことないから分かんねーんだけど、これでいいのか?」
「……はい、観測機でもエーテル物質の消滅を確認しました。試験は終了です。お疲れ様でした。
ホロウに呑まれていた区域は調査員に引き継がれますが、想定より速い試験の終了で到着時間まで空きがあります。少し待って貰うことになりますが構いませんか?」
本来なら調査員の派遣は明日の予定なのだが、想像からかけ離れた試験の終わりは調査員と学会員の派遣を早められる嬉しい誤算だ。
今から人員の派遣を要請するのは人手不足もあり手間がかかるのは間違いないが、エーテル物質を研究する学会の人間は新たな可能性を求めて脚を運ぶに違いない。引き継ぎにはそう時間がかからないはず。
柳が頭の中でスケジュールを組み直していると、要から意外な返答が返ってくる。
「あー……。じゃあ暇潰しに呑まれた所ちょっと見てきていいか?十分くらいしたら帰ってくるから」
「構いませんが、そうですね……出来ればその連絡用のボンプも連れていってください。エーテル物質が今回のように極端に変動することは極めて稀です。何かしらの変化が起こっているかもしれません」
無人の建物群に何を感じたのかは分からない。しかし、たった今自分で積んだ実積を確かめるのを邪魔する必要性もない。
柳は念のためにボンプを連れさせて頷くと要は軽く応答して格好を崩した。
「りょーかいした、副課長殿。よし、いくぞボンプ」
「ン、ンナナ?(え、また走るの?)」
「今度はただの散歩だ。さっきみたいに振り回さないから安心しろよ」
「ンナー(よかったー)」
親しい風にボンプを肩に乗せて歩き出した要を見送って柳は考える。頭にあったのは市政のデータベースにアクセスして読み取った彼の過去と経歴、そして他者からの評価。
そこから推測するにおそらく彼は柳とは反対の自己評価を持つタイプの人間だ。積み上げられた情報という客観的事実を己の自信に繋げる柳とは対極に、結果ではなく重ねた過程を持った己を信じて道を突き進む、雅に似通った精神の持ち主。
それが組織に対してどう作用するのかは分からない。柳にできることは最善を尽くして良い方向に行きやすくするだけでしかなく、彼の決定権を覆す役目は雅含めた他の隊員に任せるしかないだろう。芯を揺るがす説得は柳が不得意として、雅が得意とすることだ。
苦労を越えた先で自身の負担を軽減してくれると嬉しいのだが、果たしてどうなることやら。
「雅と違って、戦闘以外の職務も全うしてくれるなら充分なんですけど……」
既に認識を切り替えた柳の切に願う想いは、誰の耳に拾われることなく風に拐われ消えていった。