固いヒールが床を叩く音が響く。規則正しい音の連続は聴くものに持ち主の性格を示していて、それと同時にそこに存在することに異常を指し示していた。
そんな彼女は現在、得意とする戦いではなく反対に苦手な事務的な職務をやり遂げた後であった。もとから修行を言い訳にして事務仕事や長としての合同会議をのらりくらりと躱していた雅だったが、この日は出勤早々部下の月城柳に捕まってしまい溜まりに溜まったツケを払わされることになったのである。
そしてその一環として雅が身を置く対ホロウ6課とは仕事上軋轢のある治安局を舞台に、様々な意見が踊る様子を見守っていたのだ。といっても雅には政治のせの字もわからないし、興味もないので真面目し腐った顔で意識を保っていたのはほんの数秒だけだった。
こういった時整った顔立ちは機微な表情筋も相まり、相手方に都合のいい解釈をさせることがあるので便利なものだと柳は一人で関心していた。
会議が終わると柳は瞑想の域に入り始めた雅の肩を叩いて意識を戻すと予定があるため一人で車に向かっていてほしいと頼み、散々道順を確認した上で二人は別れた。
雅は重度の方向音痴だ。迷子になる本人も言い訳のように道が多すぎるというくらいには自覚もあるため、ナビをつける保険まで用意した柳だったが、残念なことに想定が甘かったらしい。
(どこだここは……)
雅は迷子であった。任務を託されたナビは画面に暗雲を落として以降うんともすんとも言わず、柳の期待していたものとはかけ離れた結果を示し続けている。
どこを通っても変わらない景色に雅はふむ、と考える仕草をして、再度脚を進める結論を出した。このままでは目的地に着くことは叶わないだろうが、指定の時間にいなければ状況を察した柳が探し始めるはず。自分は部外者らしく邪魔にならないよう人気のない場所で見つけられるのを待った方がいいという考えに至るのは必然だった。
すれ違う治安官に挨拶を返しつつ、気配の薄い場所に歩を進める。すると今度は制服を着た治安官とそうではない、動きやすい服装から察するに恐らく一般人の二人組が雅とは反対に歩いてきていた。
挨拶と敬礼にいつも通り会釈を返し、治安官ではないもう一人の男とすれ違う。
──刹那、雅は脚を止めた。
目を見開いて思わず振り返る。そこにいるのはやはり場違いな組み合わせの二人組だが、雅の瞳は一般人の方に縫いつけられて離れない。
なぜならもう片方の男は──
(私よりも……)
──強い。今この場にいる誰よりも、たった一人をホロウに投入することが作戦として成り立つ、星見家歴代最強の星見雅よりも、背を向ける武器など何ももっていない男が遥かに強い。十数年間エーテリアスを切るために鍛練を欠かさず、努力と時間によって裏づけされた実力者としての直感が敵わないと告げていた。
その事実に雅は興味を持った。
「そこの二人、しばし待たれよ」
「──は!何でありましょうか」
「急に引き留めてすまないな。治安官殿、そこの男は何者だ?何故一般の人間がこのような所に?」
「彼はつい先ほど起きた事件で被疑者確保に大きく貢献してくれた人物でして。その謝礼と事情聴取のために同行してもらっています」
不意に引き留められたのにも関わらず治安官は淀みなく答えた。宣伝活動を併せて新エリー都では知らない人の方が少ない有名人で、なおかつ十人中十人が美人だと言うであろう容姿の星見雅に声かけられ、動揺しつつも簡潔かつ滑らかに答えられるメンタルは、活躍を身近で聞く治安官であることも加味すると相当のものだと言える。
緊張で汗をたらす治安官の内情など気づくはずもない雅は納得しつつ視線をもう片方の男に向けた。
身長は雅よりも一回りほど高くヒールと狐耳を合わせても少しずつばかり届かずといったところで、体格は特別いいと言えない中肉中背かつ撫で肩。端から見れば何処にでもいそうな少し背の高い青年そのもの。
しかし、雅に向ける胡乱な眼には流れることのない確固たる意志が宿っていることに、内包されたエネルギーを制御下に置いていることに彼女は気がついていた。
それは雅が成せることを成すために創った、対ホロウ6課にはない欠けたピースを埋めるに値する唯一無二のもの。
故に、雅が起こした行動は必然なのだ。
「其方、名を聞いてもよいだろうか?」
「人に名前を聞くときは自分からって教わらなかったのか?」
返ってきたのは低音でいながらにして耳朶を轟かせる気だるげな声。帯刀している刃を目に捉えつつも動じない精神に雅は己の審美眼が間違っていないことを理解した。
「えぇ!?知らないんですか!?星見雅さんですよ!対ホロウ6課課長の!テレビとかにもよくでてますよ!?」
「全然知らん。テレビとか見ねーし」
信じられないといった様子で興奮気味に説明している治安官を男はにべもなくバッサリと切り捨てた。雅に対する返答もそうだが国家の権力たる二人を前にしてはっきりとした受け答えは、確立された自信を表しているように思える。
こほん、と仕切りなおすために一つ咳払いをして雅は改めた。
「其方の言い分は尤もだ、非礼を詫びよう。
私の名前は星見雅という。対ホロウ6課で長を任されている者だ。改めて、名を聞いてもよいか?」
「……
「今はまだ、な。あまり時間を取らせると其方にも支障をきたす。簡潔に言おう」
要と名乗った男の余計な会話を必要としない返答は浮き世離れしている雅にとって心地良いもので、それに彼女も倣いその朱い瞳が煩わしそうに見やる目を貫いた。
「6課にこないか」
「……はぁ?」
「えぇ!?」
困惑と驚愕。対称的な反応をよそに雅は口を滑らせる。
「新エリー都のホロウの対処は遅々としたものだ。突如生まれるホロウとエーテリアスの被害を抑えることが出来ても、前進できているかと言えば否だろう。それは私という個が対処に当たっても変わらず、今日を生きる人々は日々ホロウに呑まれる恐怖に怯えて生きている。
私にできることは英雄として敵を切り、平穏に生きる人々に安寧を与えること。
其方に、その手伝いをしてほしい。新エリー都にはお前の力が必要だ」
ホロウという無秩序かつ理不尽な現象は世界を終焉に陥れた。ホロウ内部でエーテルという物質に侵食された無機物は意思を持って人を襲い、人もまた侵食によってエーテリアスという化け物に成り果てる。
新エリー都が奇跡の都市と呼ばれる前、人々が生存権を置いていた旧エリー都は発生したホロウにより一日にして陥落した。
どれだけ時間をかけて築き上げた物や人との関わりも、それが明日保たれている保証は何処にもない。新エリー都で生きる人間の多くは、いつだって太陽が昇る闇の中にいる。
雅もまた、旧エリー都陥落で母親を失った過去を持つ。雅が他の人間と違ったのは誰かを守れる力があったことであり、それを振るうための心も持ち合わせていたことだ。そして自分以上に力を持つこの男もまた、似通った何かがあると踏んでいる。でなければとっくに悪名を轟かせているはずだ。
力を持つだけなら雅は顔を覚えるだけで終わっただろう。けれども、私利私欲のため生まれもった能力を身勝手に振るわない良心が目の前の人間にはある。故に、その力を必死に生きる人々のために役立てほしい。
雅の強い意思を持った瞳が柊要を貫く。それを要は変わらず煩わしそうにしながら、しかし眼を離さない。
視線が交差し、静寂に置いて行かれる治安官が気まずそうにする中、ようやく要が口を開いた。
「条件がある」
「組織であるため私の一存で決められないことも多々ある。それを踏まえてなら聞こう」
「まず俺は俺のためにしか動かないし、誰かのためとか高尚なお題目で働くつもりも全くない。やりがい搾取なんて御免だしな。
そんでもって俺の優先順位は常に俺自身の納得だ」
太々しく独善的にも聞こえる言い方に、雅は一種の信念染みたものを感じ取る。発せられる言葉の節々からは雅が求める姿勢そのものを拒絶するようで、性善説を否定するかのような合理主義を思わせる主張が見えてるものの、最後でがらりとひっくり返された。
「6課とやらに就いたとしても、俺は俺の納得できることしかしない。もしそれで組織の方針や運営と衝突するなら、その時は即日解雇。話し合いも不要。勿論退職金は満額もらう。これが条件だ」
「ふむ……」
雅は顎に手を当てて思案する。一見して悪くない条件に見えるが、要の言っていることは要するに仕事は選ぶし、自分がどんな立場にあっても納得できないなら金だけもらっておさらばする。そしてそれを組織で容認しろといっているのだ。
傲慢で傍若無人なこの主張がどれだけ危険性を持っているのかを分析できるのは、迷子の課長を探す副課長と言い出した本人のみだ。その副課長は未だに雅を見つけれていないため、判断するのはこの場にいる彼女しかにいない。
いや、仮に柳がいて難色を示そうとも、雅は条件を受け入れた上で迎え入れるだろう。雅を上回る実力を持つこの男が善人か悪人かは判別はつかないが、それは杞憂だろう。少なくとも雅には目の前の人間が、世界を混沌に陥れる姿を想像できない。
雅は彼の生きてきた実積と己の直感を信じることにした。
「その程度なら私一人でも問題ない。承知した。後日必要な書類を送るため連絡先を交換したいのだが構わないか?」
「いやいいのかよ。自分で言っといてあれだが、自営業ならまだしも公的機関に就くあんた一人で決めていいもんなのか?」
「確かに問題は生じるかもしれないな。しかし、其方を見逃す以上の損失はあり得ないだろう。故に問題ない」
「たかだか一般人に期待しすぎだろ……。まぁ、安定して金が入ってくるなら文句は言わねぇよ。せいぜい上手く使ってくれ、課長殿」
雅の確信めいた物いいに要は過大評価だと苦笑しつつも己が役に立つことを否定せず、むしろ効率よく使えと不遜に笑った。慣れない携帯の操作に四苦八苦している雅を見かねた要がちょくちょく口を挟みながら連絡先の交換を完了させて、短くも濃密だった時間に終わりが見える。
「では、追って連絡する。共に戦場に並べることを楽しみにしているぞ、要。そして治安官殿も時間を取らせて悪かったな、ここに謝罪しよう」
「いやいや、こちらとしては何が何だか……。でも悪いことが起こってる訳じゃなさそうなので多分大丈夫です!」
置いてけぼりだった治安官に雅が頭を下げると彼は大袈裟に手を振りながら、溌剌とした声で人の良さそうな笑みを浮かべる。二人のやり取りは、星見雅という存在の意味を含めてどう考えても笑えるところではないのだが、理解しているのかしていないのかは本人のみぞしる。
それを傍から見ていた要は自分のことを棚に上げて″こいつも大概だな″と言った風な目を向けていた。
ここに来るまではなかった新しい出会いに対する充足を胸に抱きつつ、雅は別れの言葉を告げて反対側に歩を進めはじめた。
6課のまとめ役兼情報官を務める柳には身勝手な理由で仕事を増やしたことに申し訳なさを覚えるも、それを差し引いてもあの男を引き込めるなら間違いなくプラスになる。無理強いするのは雅のせいでもあるので、しばらくは事務作業からは逃げないようにしようと心に留めた。
「む」
はたりと雅は不意に脚を止める。柳を頭に思い浮かべて何か忘れている気がしたのだ。
はて何だったかと手元を探って手に持ったのは連絡用とは別に渡され、声を出さなくなって久しいナビの姿。そして脳に蘇る最初の目的。
「……」
数分後に治安官を困惑させて、勧誘をかけた男に呆れられる6課課長の姿があったのだった。