…誰かが後ろにいる気がする。
「気のせいかな…」
後ろを振り向いて確認しても、特に自分を追いかけているような様子のある人物は見当たらない。
保険を兼ねて、小走りで路地の中に入ってみる。やはり、違和感は取れない。自分の直観に従い、後ろを確認してみた。
「……」
僕の目の前で壁からはみ出ている、ケモ耳。その他の体は見事に壁の裏に隠れていて、一切の足音もしなかったので気配を消すことに関してはとても上手だった。しかし、惜しいかな、体隠して頭隠さず、耳がはみ出てしまっている。
あの耳の形状には見覚えがあった。狐っぽい雰囲気のある耳は、きっと雅のものだ。
きっと僕の移動を音から察知し、ストーキングしているという感じだろう。
ちょっと面白いことを思いついてしまった。折角だしやってみよう。
「ねぇねぇ、お姉さん綺麗だね。一緒にこれから飲みに行かない?」
目の前に誰かがいるふりをして、僕の中にあるナンパを再現する。今の自分は金髪のチャラい男だ。
「僕とだったら一緒にいるだけで楽しいと思うよ。…どう?今日くらい、一緒に…」
「がふっ」
後ろから背中に響く、刺突された感覚。硬いもので突撃されたようだ。想像以上の威力に立っていられず、そのまま床に倒れこむ。
見れば、僕を殴ったのは剣の柄。え、剣の柄!?痛すぎる、どういう速度で殴ってるんだ。
「…相手の女はどこだ」
無表情だからだろうか、いや、そうであってくれ。雅の目に光がなく、漆黒の意思が宿っている気がする。
「…えーっとぉ、これは…」
この段階で僕は自分の死を覚悟した。思った以上に、やっちゃいけないことをしたらしい。ギャグで済むかなと思っていれば、全く済んでいない。
「ちょっと、ちょっかいを掛けたくなっただけです…」
つい目をそらしながら、僕史上最大の恐怖を感じつつ、言い訳を連ね始める。
「…ハル。冗談も大概にするといい」
怖すぎる。倒れこむような体勢から起き上がってくれた雅を一瞥して、僕は流れるように正座に移行する。
何も言わない雅に対して10分ほどの僕の謝罪時間を経て、足のしびれを感じつつもどうにか許してもらった。否、メロンソーダを奢ることで許してもらった。
メロンが好物という情報を蒼角から聞いていなければ、僕の命は今頃四散していたことだろう。
「…やはりメロンは素晴らしい食べ物だ。お前もそう思うだろう?」
「…美味しいとは思うよ」
ふふふ、と言いながら口角を上げる雅。僕がちょっとメロンに好意的という話をしただけでこうも機嫌がよくなるのか。
「ハルはどのような食べ物を好む?」
プラスチックのストローに口を当てる雅。飲む速度が異常だ。もう半分まで来ている。
「僕は甘党だから甘いものなら大体好きだよ。プリンとか良いよね」
僕がこの世界で元気でいれている理由は、甘いものは相変わらずあったというものが実はかなり大きい。ただでさえ居場所がなかったから、甘いものを食べている間くらいはそうやって嫌なことを忘れられた。
だが雅の気持ちも理解できる。僕も特にプリンに対しては、目がない人間だ。大体のお願いはプリン一つで聞く気がする。
「私はメロン一択だ。メロン大好き」
それだけ言って、またメロンソーダを飲むことに注力し始める雅。おい嘘だろ、あと四分の一くらいしか中身が残っていない。
このメロンソーダの余命は残り2分といったところか。
雅にタイマンを誘われた。言うところの「ハルに勝つ修行」だ。だが、僕は彼女に勝てたことがない。毎回1度攻撃を入れられればいい方。
「…上達したな、ハル」
地に這う僕を見ながら鞘に刀をしまう雅。なんでこんな負け犬ポーズの人に「上達した」とか言うんだ。
雅と戦っていると、何か自分と彼女の間にある明確な「壁」をよく意識させられる。覚醒した状態の、ルーシーを助けた時の僕であれば或いは互角になりうるのかもしれないが、少なくとも今の僕では、明確に自力が足りていない。
あの時の自分の覚醒具合は異常だった。何度も思い出すが、1秒を何十万枚ものフィルムに切り取って、自分の行動に不可能はないと錯覚するようなあの全能感。あれをどうやったら再現できるのか分からない。
「普通の人の身でよくここまで腕を上げた。やはりお前はエーテルを操作することに関しては天才的な才能がある」
先ほどの戦闘も、たくさんの読み合いがあったと僕は考えたのだが、そのすべてをパワーで破壊された。僕が考えたあらゆる戦略を一太刀で無かったことにするのはずるいと思う。
「また今度、会った時には修行に付き合ってくれると助かる」
雅の感情は極めて読みにくい。前耳をモフった時よりはかなり落ち着いているのだが、名前の呼び方は訂正してくるし。存外本人も良く分からず行動しているのかもしれない。
やはり単騎で社会を動かすことができるのは雅くらいだ。「いるだけで存在感があり、無視できない」というほどの力を持つことで、やっと大いなる権力と戦えるようになるのだろう。僕が一人で色々動こうと思ったら、そのくらいの力が必要になる。
「ハル、お主火鍋は好むか?」
会議中に何誘ってんだこの人。
青衣が特捜班の会議中に食事を誘ってきた。別に誘うのは全然問題ないのだが、もうちょっとTPOってものを選んだ方がいいと思う。ほら、後ろの朱鳶さんから邪悪なオーラが見えてるよ。
「甘党ですけど、辛いのもいけますよ…」
ニッコニコで闇を広げている朱鳶さんを見なかったことにしつつ、一応返答する。
「今日の夜で良ければ、一緒に行かぬか?火鍋は美味であるが、一人で頂くには少々量が重くてな…」
青衣は後ろすら見ずに呑気に白湯を飲み始めた。メモを必死で取っていたセスがこちらを心配そうな目で見ているのを横目で確認する。理由は明白。朱鳶さんの闇が、濃く深く部屋を塗り替えし始めている。
怒られるのは多分僕ではないのだが、それでも汗が流れてくる。何かこの部屋湿度高くない?
いい加減限界なので、青衣に気づかせる。
「青衣、後ろ…」
「ふむ?この会議室に面妖なものなどいるはずもな、い…の……だ……が」
首を後ろに向かわせれば向かわせるほど、建付けの悪いドアみたいに動きがゆっくりになる青衣。
「せ~ん~ぱ~い~~~???ここが会議室だってことは、理解しているんですね~~」
青衣は別の部屋に連れていかれた。
「生きてくれ、青衣先輩…」
セスの呟きに対し、僕は笑いを禁じえなかった。
「……ふっ、ふふふ」
これが特捜班の日常である。誰かがボケて、誰かが拾う。ツッコミしかしないのは朱鳶さんくらいで、突発的に漫才が発生するアットホームな職場だ。
数分経過して、どうやら皆で火鍋屋に行くということで話が落ち着いたらしい。なんでそこに着地したんだろう。朱鳶さんも行きたかったのかな。
「ハル先輩、これ、か、辛すぎます!!」
「あづい…きゃらい…」
話しかけないでくれセス。今一番死にかけなのは僕だ。美味いは美味い。本当に美味しいのだが、その後に来る辛さのパンチに耐えられていない。辛いものは多少はいけるはずなのだが、これは「辛い物は無理」に改称しなきゃいけないかも。
「このタレ、お肉にとても合いますね!」
「うむ。水が進む馳走であるな」
対照的に女性陣は、めちゃくちゃ楽しんでいた。異様な辛さを平然と体内処理し、食事を楽しむとは何たるかを体現している。普通は逆なんだけどな、僕も辛いの行けたはずだったんだけどな!
青衣は僕らの苦しむ様子を見て、慮ってのことか白湯をくれた。…のだが、その白湯は熱を持つ。舌が死にかけている時の熱湯は最早追撃にしかならず、僕らの瞳に映る白湯の入ったコップは、ラスボスのようなオーラを醸し出していた。
「くっ……」
しかし僕らを心配するような顔を向けてくれる青衣と朱鳶さんを裏切るわけにはいかない。僕は意を決して、軽く冷ましてから喉に流し込んだ。その様子をドン引きしながら見るセス。
舌を突き刺す激痛。先ほどの辛さで敏感になった舌が、熱で再び辛さを起こされる。
「…はぁっ、やばい、これ!!」
机の表面が冷たかったのでそこに頬を当てて体温を下げて辛さを受け入れる。
「すみません、青衣先輩。これ、ハル先輩を見ればわかりますけど、追撃にしかならないですよ!」
「…申し訳ない…我はただ、お主の辛みを少しでも減らそうと思っただけなのだ…」
「……いや、うん。優しさが伝わったから、飲んだんだよ。だから別にいい…」
この世界の人は優しい人ばかりだ。僕のような居場所がないはずの人間に居場所を与えてくれる。僕が未知の力で急に元の世界に戻る可能性だってあるというのに、そんなこと気づいていないかのように僕に安心感を与える。
僕が無意識のうちに自分は空っぽだと思っていることを、気にもさせないように。
僕が最も疎外感を感じるのは「完成された関係性」をこの世界で見た時だ。例えばビデオ屋の兄妹。あそこで僕が働きだしたとしても、僕はそこでは、ただののけ者だろう。これは極端な話だし僕の意見だが、あの二人に誰かがくっついたところで蛇足にしかならない。そういう関係性だ。
例えばここ、特捜班。今でこそ多少は安心感のある居場所になっているが、もし僕が異世界に来ず、この3人とジェーンさんで切り盛りをしていたとしよう。どこに僕が必要である理由がある?
僕がいることで出来ることは増えるかもしれない。僕がいることで無かったはずの関係性が生まれるかもしれない。でも、もし僕がいなくても、ここはきっとどうにかやっていけてしまう。
居なかった可能性の方がずっと高い僕は、どうしてもこういった「いなかったら」のIFを想像する。だからきっと、仮に僕が何らかの理由で「特捜班辞めよう」とか思ったとしたら、躊躇なく辞めてしまうのだろう。
特に、必要に駆られてそうする場合は、より、そうなる。