職員室は冷房が効いていた。
部屋に導かれ、極めて人工的な空気の冷たさを感じたその時、俺は初めて外は暑かったのだと実感した気になった。
季節は夏なので暑くて当たり前なのだが、これまでの展開に気を取られるあまり、そんな基本的な感覚すらどこかへ行ってしまっていたのだろう。
俺とインデックスは今、職員室内に設けられた応接用のソファに並んで腰をかけている。
そんな我々に向かい合う形で、広いソファの真ん中にちょこんと座っているのは月詠小萌。とある高校の教師にして上条当麻の担任。
そしてどうやら、俺の所属しているクラスの担任でもあるらしい。つまり俺と上条当麻はクラスメイトというわけだ。知らなかった。
隣のインデックスは月詠小萌より出された茶をマッハの速度で飲み干し、俺を見上げて言った。
「おかわりしたいかも。あと、お茶請けないの?」
「我慢なさい。後でばかうけ買ったげるから」
「なにそれ。美味しいの?」
「ばかうまい」
「先生も好きですよ、ばかうけ」
ぬるりと会話に滑り込んできたその声の主に、俺とインデックスの視線が向かう。
「……」
「……」
「そ、そんなに見つめられると照れちゃうです」
俺たちの無言の視線に、なにやら慌てだす月詠小萌。その子供っぽい仕草が実に似つかわしい、端的に言って小学生にしか見えないその見た目。挿絵やアニメでは当たり前に受け入れていたが、いざ現実として目の当たりにするとなかなかインパクトある光景であった。そりゃあ見つめたくもなるというものだろう。
「失礼しました」
あわあわする月詠小萌をしばし楽しんだのち、俺は取り繕うように言った。
「初めての学校で、いささか緊張してまして」
「なんで子供がガッコーにいるの? ここ、high schoolなんでしょ? 飛び級?」
俺の大人な取り繕いを消し飛ばすかの如く、インデックスが疑問の声を飛ばした。無邪気にして失礼。足の痺れから解放された彼女はかくも傍若無人に振る舞えるというのか。
当然の権利として、月詠小萌は抗議の声をあげる。
「先生は子供じゃありませんー!」
「インデックスさんあやまっテ! 世の中にはいろんな見た目の人がいます。それはもしかするとその人の主義主張、ジェンダー、時には病気に由来するものかもしれない。それを考えもせず安易に指差して指摘するのは相手の人格を蔑ろにする危険性を孕んでいる。そうは思いませんか」
「う。ご、ごめんなさい」
「言ってることは正しいので否定しずらいんですけど、先生病気でもありませんからね」
月詠小萌はこれまた子供っぽい膨れ面を披露し、息を一つ吐いた。
「まあ、いいです。影月ちゃんに、ええと、そこのシスターちゃんはインデックスちゃん……でいいんですか?」
何それ名前? 目次ちゃん? そんな心の声が聞こえてきそうな月詠小萌に、インデックスは元気よく頷く。
「うん。魔法名ならdedicatus545」
「まほーめー……?」
「い、いわゆるホーリーネームというやつですな! な! インデックスさん!」
「違うけど」
「厳密にはね! 厳密には違うかもね! 宗教用語って難しいよねデーディカートゥスゴーヨンゴさん!」
「だから、そうやって日常使いする名前じゃないんだよ」
じゃあ気安く名乗るのをやめていただきたい。そんな気持ちでいっぱいの俺である。
といった具合の我々二人のやり取りを見て、月詠小萌はくすりと笑った。
「仲が良いんですねー、二人とも」
「えっ!? ええ、まあ、マブですから俺たち」
「お友達第一号なんだよ!」
「なんだかちょっと安心しました」
微笑む月詠小萌。一方、今までのどこに安心要素があったのか、まるで思い至らぬ俺たちは互いに顔を見合わせ首を捻る。
「影月ちゃん、入学決まった翌日に能力が暴走する奇病が発祥してしまって、しばらく学校にこれないと伺っていましたから」
「そうなの?」
月詠小萌の口から語られる俺の知られざる過去に、インデックスが労し気な顔をする。俺も初耳だ。そうか、俺は能力が暴走する奇病に罹っていたのか。
「せめてお見舞いに行こうとしたんですが、感染性なので面会謝絶ですーって保護者の方から言われてしまって」
「そうなの!?」
月詠小萌の口から語られる俺の知られざる病状に、インデックスはこころなしか俺から少し距離を置い――てはないか。俺の被害妄想だった。彼女はそういう人を傷つける系の冗談は言わないのだ。うんこもしないのだ。そうに決まっているのだ。
そもそも、大変おつむの良い彼女であるからして、これまでの話の流れで全てがでっち上げである事くらいはわかっているはず。わかっていてくれ。
そういうわけで、改めて申し上げると、真っ赤な嘘なわけである。どこまでが嘘かというと、俺の学生という身分、休学となった原因の病気、さらに言うなら、公的に記録された影月暁夜という人間そのものがだ。
戸籍も住民票もなにもかも、俺がこの街で暮らすため不正規に購入した、偽の身分に過ぎない。
先ほど月詠小萌が口にした俺の感染症とやらも、俺に諸々を売りつけてくれた闇社会の人間(オリキャラ)が適当にでっち上げた設定だ。実際の俺は隔離されるでもなく、特に人目を忍ぶでもなく、ここしばらく学生寮でニート生活をしてたのだが。その辺の整合性どうすればいいんだ。流石に適当すぎんか。詳細を聞き流していた俺も悪いんか。
「そんなわけなので」
と月詠小萌は言った。
「こうして元気に学校に来てくれる影月ちゃんを見れて、しかも可愛いお友達もいるみたいで、先生は安心したってわけですよ」
「それはどうも」
まばゆい笑顔を見せられ、俺は圧倒的気まずさから頭を掻く。嘘で不安にさせ、嘘で安心される。なんともいえぬ居心地の悪さであった。
そんな気持ちを誤魔化すように、俺は言葉を続ける。
「でも、よく俺のことわかりましたね。名前は知ってたとしても、会うのははじめてでしょ」
「そりゃあ、写真は見てましたから」
「写真?」
「入学願書、書きましたよね。あれに顔写真添付するじゃないですか」
「あーね」
書いた記憶はないし添付した記憶もないが、闇社会人間がやってくれたのだろう。ありがとう闇社会人間。ちなみにスマホを都合してくれたのも闇社会人間だ。大金叩いた甲斐はあった。
「でもそんな顔写真見ただけで覚えててくださるなんて、凄いしありがたいことです」
「先生は先生なんですから、当然のことですよ」
俺の渾身のヨイショにえへんと胸を張る月詠小萌。
一方、隣では純白のシスターが「私の完全記憶能力をもってすればその程度児戯」と謎のマウンティング行為。つまりこの中で覚えられる気がしてないのは俺だけ……ってコト!?
無意味な劣等感に苛まれる俺に、月詠小萌は「そういえば」と何かを思い出した風に声を上げ、居住まいを正した。
「先生、すっかり名乗るのを忘れていました。月詠小萌。この学校の教師で、影月暁夜ちゃんが在籍するクラスの担任の先生をしています」
「あっ、影月暁夜です。改めましてどうも」
「インデックスだよ! Index-Librorum-Prohibitorum! 魔法名dedicatus545! 献身的な子羊は強者の知識を守る!」
もはや何が何だかわからないインデックスの名乗りを深掘りしていては日が暮れてしまう、と考えたのかはわからないが、月詠小萌は白いシスターをスルーして続けた。
「それで、影月ちゃんは今日、病気が治ったから来てくれた、ということでいいんですよね」
「あっ、はい。そう。そうですね、はい。ジャージのアンチスキルの人にもお伝えした通りで、はい」
まったくそういうわけではないのだが、肯首しないという選択肢があるわけもなく頷く俺。なにしろ俺はヤバい感染症患者ということになっているらしいのだ。完治してなければこれ、殆どバイオテロである。
「黄泉川先生ですね。まったく、せっかく来てくれた病みあがりの生徒さんを不審者扱いして正座させるなんて。後で注意しておかないとです」
「いやまあ、でもあの人は悪くないと言いますか、実際俺たち不審者と思われても仕方ないと言いますか……。担任でもないクラスの不登校生徒の顔なんて知るはずもないですし」
「ええー? 先生、全校生徒のお顔、覚えてますよ?」
「マ?」
「マです。親御さんからお預かりした大切な生徒さんなんですから、当たり前です」
誇らし気に語る月詠小萌。まさに教育者の鑑であるが、全ての教員にそのレベルを求めるのは酷というものだろう。黄泉川愛穂、かくも身近にぴかぴかの鑑がいるとさぞ辛いことも――いや、そういうの全然気にしなさそうだし大丈夫か(偏見)。
ちなみに隣のインデックスは「私の完全記憶能力をもってすれば全人類の顔認証すら可能」とか言ってドヤっていた。ホンマか?
「さておき、病気が治ったのは喜ばしいことです。こうして顔を見せに来てくれたってことは、復学したい意思がある、と考えていいんですよね?」
そんな意思は無い。無いが、無いと答えるわけにもいくまい。じゃあなんで登校しとんねんボケコラカス、という話になってしまう。
やむを得ず、これも肯首で以って答える俺。
「はあ、まあ、そうですね」
「では早速復学手続きを――と言いたいところですが、今はまだ夏休み中でした……」
「ええ、そのようで」
「いや、でもむしろ、都合がよかったかもしれないです! 影月ちゃんはいわば一学期分遅れてしまっているわけですからね。それを取り戻す、絶好の期間なのですよ!」
「え゛っ」
「先生、とことん付き合いますからね。どうせ夏休み中は毎日クラスの補講もやってますから、問題ないのです。時間が許す限り、がっつりと特別カリキュラム組ませてもらうのですよー」
「いやっ、あの、闘病中勉強もしっかりアレしてたのでその辺は全然!」
嘘である。闘病してなければ勉強もしていない。ただただ怠惰なニート生活を満喫していた。
そんな俺のつまらぬ虚言はお見通しとばかりに、月詠小萌は澄まし顔でスラスラと告げる。
「ESP実験でよく使用されるゼナー・カードですが、かつては通常のトランプが使用されていました。では特殊な五種類、あるいは六種類の記号が使用されるこのゼナー・カードが開発され用いられるようになった、その主な理由とはなんでしょう?」
「は?」
「ぶぶー。時間切れです。こんな基礎の基礎のキも答えられないようじゃ、道のりは険しいですねー。それに出席日数の問題もありますし、無事に進級したいなら特別カリキュラムは不可避なのですよー」
目の前が真っ暗になりそうであった。何故か。やっと手に入れたひたすらに自由で無責任でノーストレスのニート生活が終わりを告げる、そんな音が聞こえた気がしたからだ。アドリブでこの学校を訪れたばっかりに。
だが、ちょっと待ってほしい。冷静に考えると、そんなものは、今朝の段階でとっくに崩壊しているのではないか。インデックス。彼女と出会ったのだから。
今後も彼女に関わっていこうと思うのならば、そこに平穏などありはしまい。原作の上条当麻を見れば明らかだ。彼は何度死にそうになったろう。
無論、この俺が上条当麻と同じ目に遭うかと言うとそういうわけではあるまい。彼は彼だからこそああなったのだし、俺は俺の独自の道を切り拓いていくことになるのだろう。しかしいずれにせよ、茨の道である事には違いない。
つまり、今更補習だ補講だそんなものを気にしたって仕方のないことではないか。
そして、なにより、そもそも俺はこの高校に何をしに来たのか。
上条当麻に会うためである。
黄泉川愛穂に出鼻を挫かれて以降、すっかり失念していた。
「理解。理解しました」
目的を取り戻した俺は、月詠小萌を見据えて言った。
「特別カリキュラム、もちろん受けましょう。復学のためです、そりゃあもう」
「わ、やる気になってくれてよかったです! まあ、今日は突然だったので無理ですが、ひとまず親御さんとも連絡をとって、また後日改めて」
「その前に」
うきうきと今後の段取りに移り出す月詠小萌の言葉を遮り、俺は続けた。
「ちょっとお願いがあるんですが、聞いてもらえますかね」
「お願い? なんです?」
きょとんと小首をかしげる月詠小萌に、俺はそのお願いを告げる。
「夏休み中は毎日クラスの補講をやってる、とのことでしたね。今日もその為に来てるんでしょう」
「ええ、そうですけど」
「本日、せっかくですから是非、クラスの皆さんにご挨拶させていただきたい」
月詠小萌のクラス。
落ちこぼれたちの補講。
その中に、上条当麻がいる。