数秒後の未来を予測する。斬撃に当たれば即死。銃を刀身に向かって撃つ。何発か撃てば、一発くらいは刀そのものに当たって多少の威力減衰になる可能性が高い。
距離を詰める。
星見雅が抜刀の構えをする。近くをふわふわと浮いていた霊のような何かが刀に纏わりつく。
あとコンマ5秒くらいだ。
手で持つ剣を投げる。これによって判断を遅らせ、対応せざるを得なくする。
(…だよな)
星見雅は跳び上がり、蹴りで剣を吹き飛ばしながら空中で態勢を整える。
(空中でも抜刀してくるのかコイツ)
「蝕め」
前方上空。空中というのは人類が力を加えることのできないエリア。即ち抵抗のしようがない場所。指を銃の形に構え、侵蝕を放つ。
(ずるいなあ)
作り出したブラックホールは横一閃、
あとは拾うだけ。
星見雅が着地するまでの間に急いで回収、振り返って目に雅を捉え、またしても対面する。
星見雅が口を開く。
「本気で行く」
(終わった。今までの本気じゃないのかよ)
星見雅が加速する。攻撃は見切れないので、
「当たり」
全部避け切った。そのまま左手を銃の形に。
「蝕め」
侵蝕は、放たれない。
左手に視線を誘導した上で、右手に構えた銃のトリガーを引く。銃声。
いつも侵蝕を放つ際に言う単語をブラフとして使い弾丸を放ったのだが。
「ブラフも対応されるのか…」
弾丸は、切られていた。
青白いオーラのようなものが星見雅を中心に集まる。抜刀の構え。戦隊ヒーローの変身を待ってやる暇はないので、距離をさっさと詰める。
だが、距離を詰めるのは間に合わない。もう、抜刀直前だ。…こうなることは抜刀の構えを一度見た時点で勘付いていた。要するに、星見雅がその構えをするだけでこちらは対応策が無いためジリ貧になる。
だから、貯めておいたのだ。
先ほどの左手へのミスディレクションを利用した弾丸は、同時にもう一つの目的を持つ。
星見雅が観測できない要素を利用すること。
星見雅には、僕が今どのくらい侵蝕を貯めているのか分からない。先ほどのブラフは、確かにブラフだ。だが、「侵蝕を貯めていない」訳ではない。
先ほどブラフで左手を構えた時だって、凝視すれば、指の先に僅かに侵蝕が漏れていることが観測できただろう。
左手の先に、突如として巨大な侵蝕が発生する。最初に斬られたものより2倍は大きい。
「蝕め」
周りのものを吸引しながら轟音を響かせる。狙いは星見雅の手元。ま、大きいから全体を包むくらいのサイズになってるんだけど。
ついでに保険として、銃を星見雅の上空に向かって、ブラックホールを追わせる形で投げる。
「吸い込まれないように調整するの結構難しいんだよなあ」
しかし。僅かに白い光が、侵蝕の塊の外側から見える。
斬。
横に一閃、ブラックホールは真っ二つになった。
(…どうすんだよこれ)
それだけではない。侵蝕を切り伏せてなお、抜刀によって発生したエネルギーは余り、僕の方へ余波として向かってくる。
「火力の押し付けはずるいだろ」
僕は避けるのは上手いが、割と脆い。こんな、ニネヴェすら倒せるレベルのエネルギーをぶつけられては、耐えられる理由がない。
僕の意識は切れた。
「引き分けね」
VR戦闘のセットから出てきた雅さんは僕に話しかけてくる。
どうやら賭けに勝ったらしいし、なら引き分けだ。
「VRだから引き分けたんですよ。実際だったら銃の一発くらい頭に喰らったところで死なないでしょう」
否定はしない雅さん。なぜ引き分けなのか。
ブラックホールを放った際に僕は銃を投げ込んだが、最後に僕が投げ込んだ銃は、タイマー機能がついている。
(捕まったりしても死に戻れるように自動で死ねる機能としてつけたけど、案外開拓の幅は広かったな)
自分で時間を設定し、その秒数後に発砲が行われる。これを利用して、ブラックホールが斬られた後に空中から弾丸を放てるようにしておいた。
今日は星見雅さんにタイマンを持ちかけられたので応えた次第だ。最初は断ろうとしたんだけど、なんか断れなさそうな雰囲気だったので。
一度零号ホロウでニネヴェがいた場所を見せるために付いてったのが良くなかったのかな?何回か戦闘もしたし。
ところでこの前にルーシーと一緒にドッペルゲンガーの僕と戦った時、僕はブラックホールを切っては再出現させることで擬似的にテレポートするという離業をやってのけたのだが、再現しようとしても出来なかった。
一時の深い集中が生み出した神業だったということだ。そもそもブラックホールを斬る段階で詰まったし、最後に偽物を斬った時に生み出したらしい雷撃のような侵蝕も再現できていない。
そう考えると、最も簡単に僕が斬ったのより何倍も大きい宇宙を切断する雅さんはどうかしている。僕の居合では太刀打ちできない。
「ところで貴方。六課で仕事をしてみない?」
「就職はいいです、身を置いちゃってるので」
相変わらず雅さんは僕をH.A.N.D.に誘ってくる。ホロウにばっかり潜ってる僕も悪いが、ブラックそうなのでお断りだ。ウチは朱鳶さんが仕事早いおかげでかなり楽な事務仕事が多いのだ。
「そうじゃない。就職はまた今度でいいから、協力して」
「ああ、体験みたいな」
「そう。一度でいいから、六課に来てほしい」
これは面白い相談だ。僕のブラックそうという偏見を取れる可能性もあれば、違った環境に身を置くことで経験を得られる可能性もあるのだ。
実際六課の仕事状況というものにも興味がある。差があったら申請しちゃおう。
「ならいいですよ。いつ訪問すればいいかは連絡してくれれば飛んで行きますね」
この時の僕は想定もしていなかった。第六課の仕事は闘う以上に、象徴として有ることが重要なのであるという事実を。
「ねぇ、あのマサマサの隣にいる男の子、誰?」
「分かんない…でもイケメン!もしかして、新入りかな!?」
精神がすり減る思いだ。注目されすぎというのも宜しくない。
「お名前教えてくださーい!!!」
「爽やか君こっちみてーっ!!」
戦ってりゃいいってもんじゃないのが第六課。まるでアイドルみたいな扱いだが、こうあることそのものが市民への安心を与えているという事実に納得しながらも釈然としない。
「返してあげたらぁ?」
僕の肩をこづいたのは浅羽悠真。マサマサ、というのは彼のこと。ニヤニヤと笑いながら僕に催促している。一見すると捻くれているようだが、意外に素直なタイプの人だ。
「ハルです。よろしくね」
僕の周囲を取り囲む黄色い声援と女性の皆様。大変だこれ。
「ハル君好きな食べ物教えてーっ!!」
「タイプの女性はー!?」
こんな質問にも答える必要があるのか、と脳内で逡巡する。好きな食べ物…カリッとしてる唐揚げかな。タイプの女性…話しやすい人、くらいしかないかも。
とりあえず暫定的に返答は整った、と思い発言しようとする。
「別にわざわざ対応する必要はありませんよ。答えたい質問にだけ答えればいいんですからね」
それを咎める月城さん。ありがとう、このままだと僕のプライバシーが全部消え去るところだった。
「あっ、でも蒼角、ハルの好きな食べ物知りたーい!!一緒に食べようよー!!」
視界の端からわざわざ中心に移り、大の字に腕を広げながらそう発言する青い肌の女の子。
この子は蒼角。初対面で「食べ物頂戴!!」と言われたので保険で持っている携帯食をあげたら懐いた。
「唐揚げかな。レモンはかけないタイプなんだよね。あれが一番美味しい!」
「私も好きーー!!今度一緒に食べようね!」
あまりの明るさにこちらとしても笑顔が溢れる。子供には基本優しくしているが、優しくしたくなる子というのも珍しいものだ。
「ははっ、そうだね。そうしよう!」
書類仕事の部分に関しては闇を見た気がしたが、職員はみんな良い人みたいだ。こんな会話を重ねながら、僕は六課の皆さんとホロウに突入した。
「ねえ、ハル君今笑ったよね、あれ、ヤバくなかった…!?」
「うん…私ファンになっちゃったかも…!」
「青色と碧眼と笑顔のマリアージュ…!!」
ハルの浮かべた無自覚な笑顔の写真はインターノットに爆速で転載されていくのだが、本人の知るところとはならなかった。
「これ僕いらないんじゃないの」
ホロウに突入してから数分でそう感じた。この第六課は完成されている。ただでさえ星見雅1人で戦力を賄えているのに、遠距離からの攻撃やサポート、頭脳まである。僕を必要とする理由がない。
「いいえ、普段より楽に動けています。咄嗟の判断がお上手ですね」
電撃を走らせながら伝えてくる月城さん。右の方で襲われている悠真を助けるため発砲、こちらにエーテリアスの意識を向けさせることでサポートする。
「手応えがなくて…」
「そういうものですよ。手応えのある敵の方が珍しいんですから」
今日の任務は一つのホロウを消すこと。すごいことやってるな、と思ったが内容としてはエーテリアスを倒すだけの作業。
ホロウの規模はその内部にいるエーテリアスの強さの合計に比例する。共生ホロウが深く大きいのはその主が強い影響力を持つからだ。
このホロウは小さめであるし、小型のエーテリアスを殲滅し続けるだけのお仕事ということになる。
雅さんの戦闘を観察し、自分の技術に転用するためにイマジナリートレーニングも並行してやっているが、できる気がしない。
一度に発生させられる斬撃の数も違えば威力も足りない。
だが、一番違和感があったのは悠真の戦い方。
異様に既視感がある。一体どこで見た動きなのか分からないが、すごく馴染んだ動き。弓を打つ、横に振る、一旦後ろに下がって斬る。
やっぱり、僕の予測した通りに動く。なんで僕は悠真の動きを予測できてるんだ?
「偶然…ってことにするしかないか、思い当たらないし」
一旦保留することにした。勘違いである可能性も大いにあるし。
六課の人たちと一緒に任務を始めてから5分ほどが経過した。軽快な会話は行われるが、戦闘の内容に何か支障をきたすこともなく、時間が過ぎる。
雅さんは相変わらず一人で敵を殲滅しつづけている。僕は僕で敵を倒しているのだが、六課のイメージと言えば高難易度の任務をこなす部署というものであったので、かなりウチと大差のない仕事内容で感心している。
問題があるとすれば、切っても切っても蛆虫のように敵が湧く、ということくらいなものだ。ホロウ一つを潰すのだからこのくらいはしないといけないかと思っていたが、どうやら月城さん曰くそうでもないらしい。
「事前の報告書は見積違いだったようですね…本当ならもうそろそろ数が減ってきていても良い頃合いですが、一向にその気配はないですし」
ただ数が多いだけなら問題はない。では、何が問題になってくるか。
シンプルながらに、僕の障害として常にあり続けているそれ。
侵蝕症状。
いつもは耐久戦だが、今回に限ってはタイムアタックに早変わりするようだ。
「ハルさん。貴方の「ニネヴェ撃退」という功績を信じて、作戦を継続してもいいですか?」
ホロウは一気に潰さないと数日で新たなエーテリアスを生み出す。つまり、今日撤退したら今までの努力は無かったことになり、任務は失敗ということになる。事前報告が間違っていたため六課の人の名誉が傷つくことはないが、きっとこのホロウの全容が分かるまで放置という対策を取られることだろう。
なるほど合理的な対策だ。確実にホロウを消すならそれが一番。
でも。
「いいですよ。でも、リミットがないと全滅の可能性があるので、どっかしらで制限時間を設けてくれるとありがたいです」
その数日の間に誰かがここに迷い込んだら?
その数日の間に共生エーテリアスが出来て、一気にこのホロウが巨大化したら?
今日このホロウを捨て置くことで0だった可能性が0でなくなってしまう。
それで迷惑を被るのが、自分の友人だったら。
僕は死に戻ることができる。でも、自分が関わっていない案件では、過去に変化をもたらすことは不可能だ。それは僕の責任ではない。それは僕の責任ではない。
それは僕の責任ではないとしても。悪い未来の可能性を潰せるのに潰さないのは、僕のする行動ではない。
「わかりました。課長を、よろしくお願いします」
こくりとうなずきながら僕を送り出す月城さん。星見雅は理不尽だ。僕がまともに挑んだところで勝ち目がないくらい強い。だからよろしくお願いしたいのは、むしろこっちの方かも。
「雅さん。どのあたりから削ってほしい?」
ぴょこぴょこと動く可愛らしい耳を観察しつつ話を聞いてみる。
「必要ない」
なわけあるか、と心の中で突っ込む。さっきから剣先がぶれすぎなんだよ雅さん。いや実際のところ僕がいなくても何とかなるのかもしれないが、辛勝=必要ない、というわけではない。
「何体斬ってるのかしりませんけど、疲れてるのは目に見えてます。息切らしながら勝っても気持ちいのは貴女だけですから。月城さんだったら間違いなくそのくらいは見抜いてきますよ」
僕にできる限界の説教がこのくらいだ。人に怒るのは苦手なので、僕としてはかなり強めに言えた気がしているが、世間一般的にはノーダメージに近いだろう。
「…必要ない」
わずかに迷ったのを僕は見逃さない。すでに近場のエーテリアスの掃除を始めているが、指示してもらうために追撃する。
「何で今日機嫌がよくないのかは知りませんけど、ちょっとは休んでください。貴女の周りにはそれを許してくれる人ばかりなんですから。今日くらい人の手も借りてください。僕でよければいくらでも付き合いますよ」
星見雅の動きが停止する。今日機嫌が悪い、というのは図星だった。実際今日の任務開始前にファンに囲まれた時も彼女は一言も喋らなかった。
星見雅は焦っていた。この目の前で自分を励ましているハルが発見したニネヴェに、会えてすらいないという事実に対し、本人が自覚しているよりも焦っていた。
その焦燥は行動に現れ、今日という日にその数週間分の負荷が発現していた。
「僕だって今日はずっとその耳をモフりたい衝動と戦ってるんですからね…!」
ハルは動物好きだ。しかし異世界に来てからというもの何故か野生動物には嫌われてばかり。逆にボンプにはとても好かれるようになった。別にボンプも可愛いので愛でる分には困らないのだが、ハルとしては毛並みの感触が欲しかった。
ハルは後ろから迫るエーテリアスに目も向けず、星見雅の正面に立つ。顔を両手で挟み、首を動かすことで目をこちらに合わせる。
「頼るべき時は頼る。休む時は休む。今までそうやって来たんだから、もっとシャキッとしてていい!ね?」
星見雅は引き込まれる。近距離で目を合わせた際に見た、その黄金色の瞳に。一秒を何十万枚に切り取って引き延ばしたような一瞬を、その碧眼に奪われる。言葉に揺らされ、もう戻ってこれなくなるかという瞬間。
「よし。説教終わり。雅さん、指示頂戴?」
後ろに近寄っていたエーテリアスを処理しながら剣をくるくると回すハル。その言葉に現実へと雅は引き戻された。
「…私と挟み撃ちになるように、奥側からやって欲しい」
「任せて」
そうとだけ言い残して、ハルはどこかへ走り出した。
「…熱い」
星見雅は、その幻覚のような熱を頭に感じながらも、居合の構えをとった。
挟み撃ちを行ったことでエーテリアスが混乱し、星見雅が倒そうとしていた一団はものの数分で片付いた。それでも他の個所からエーテリアスは湧いてくる。ぞろぞろ、ぞろぞろと。
それらを共同作業で倒し続けて、とあるタイミング。
「あと、3分で切り上げます‼」
月城さんの声が響く。
きっと帰還時に消費する時間などのもろもろを計算した結果、あと3分なのだろう。ここからホロウごと消し去るのは不可能じゃない。不可能ではないが、可能性も低い。啖呵を切っておいてなんだが、これはかなり無理のある計画だったようだ。
僕が死に戻れば倒しきれるんだろうが、ルーシーの「は?許さねぇですわ」という声と青衣の悲しそうな表情が見えた気がしたのでその手段はとらないことに決めている。
「ハル。一つだけ作戦がある。ハルに大きな負担がかかることになるが、そうすれば掃討に3分もかからない」
「聞くだけ聞くね」
「はーん…まあいいよ。蒼角は見ない方がいい気がするからその旨は事前に月城さんに言うけど、現実的に考えるとそれが一番早くて有効か。…できるの?」
「ああ。私はやれる」
確信めいたその発言を僕は信じることにしたので、月城さんに蒼角の目を隠しておくように伝える。
「それじゃ、やりますか」
集中する。大気のエーテルを回収し、体内に止め、指先に送る。
集中する。脳には決して侵蝕が及ばないように、それでもできるだけ多くのエーテルを指先に集める。
指を銃の形にする。構える。体表に鉱石が現れる。腕が軋む。足が軋む。胸が軋む。
「このサイズ、は、hiさShiぶり、かMo」
発音がままならなくなる。わずかに左を見れば、僕の状態を見て瞳孔を揺らす雅さん。…ああ。見るの初めて?見た目はグロテスクで、実際脳も悲鳴を上げるんだけど、やらないわけにはいかないんだよ。
「蝕め」
指先に一瞬あふれたかというばかりの侵蝕は、そのサイズを急速に大きくし、ニネヴェ戦で繰り出したものの2分の1程度の大きさまで肥大する。
それが、地面を削りながら、紫がかった黒色の体を走らせる。星見雅は刹那。
その巨大なる宇宙の前に立ち。刀を構える。
居合。
黒い球体は数えきれないほど細かく裁断され、その破片があらゆる方向に飛んでいく。しかしそれらが飛んでいく方向は作為的で、目的地はエーテリアスに設定されていた。
星見雅はやってのけた。運動を行う物体を切れば、その運動量は保存されたまま、切られた際に加わった力の方向に沿って飛んでいく。それを利用し、切り口をコントロールすることで、すべての切断された小宇宙らをエーテリアスに当てて見せた。
「Suげえな」
膝をつき、ぐしゃりと音を立てながら地面に付すハル。自身のやる見様見真似の剣戟とはレベルが違う。別物にしか見えないその斬撃を見届けつつ、ハルの意識は切断された。
目が覚める。病院の一室だ。自分が何をやったのかを軽く思い出し、「また無理したなあ」などとぼやきつつも、体を動かせそうな気がしたので、上半身だけでもベッドの上で起こす。
視界のピントが合うその瞬間。
「うぇっ!?」
右に座っていたのは、無言で僕の目を見つめる雅さんだった。いたのか、という驚きがそのままあふれてしまった。心なしか距離が近い気がする。
「すまなかった。無理をさせてしまった」
綺麗なお辞儀をする雅さん。無理をしたのは事実だが、やりたいと思ったからやっただけなので、雅さんが謝る必要性はない。
「…そうか。では、こうしよう」
椅子をさらに僕の方へ近づけ、軽く前かがみになる雅さん。何急に。
「・・・モフりたいのでは?」
平然とした顔でそんなことを言う雅さん。半分くらい冗談だったのだが、まさか現実になるとは。うわあこれ本当に触っていいのか。
「それは、そうだけど…いいの?「構わない」…食い気味」
手を軽く伸ばす。耳まで到達するのはすぐだった。どこか背徳的な感覚を持ちつつも、外側から触れてみる。
「んっ……」
声をわずかに漏らす雅さん。これ本当に全年齢か。
感触としては期待通り。狐っぽさにあふれた耳で、神経が通っているためか僕が触れる度にぴょこぴょこと動く。せっかくなので耳元に生えている毛も触ってみた。
「んぅ…」
やっぱ全年齢じゃないよこれ。申し訳なさと理性で心を抑えつつも、やめようとは思えない。
耳元の毛はまさしくもふもふ。一生触ってられる気がするのだが、ここが人間でいうところの耳の穴に近い部分であることをどうにか思い出し、理性が働く。
「あ、ありがとうございました。十分楽しかったです…」
ぱっ、と手を耳から退け、もとあった位置に戻す。
「あ……」
よくやった僕。よくここで思いとどまれた、と自分を褒め称える。このままだと「尻尾の毛はあるんですか」とか言い出すところだった。本当に危ない。
雅さんは僅かに顔を紅潮させながらも体制をゆらりと元に戻す。
「今回はハルに助けられた。よければまた、一緒に仕事をしたい」
うれしいお誘いだ。六課の人ともかなり仲良くなれた気がするし、是非とも今後も付き合っていきたい。
「いいですよ、いつでもご連絡ください」
「あと、貴方に頼みがある」
もうそろそろ雅さんも帰り時かという頃に、話を繰り出す雅さん。
「敬語は、取ってほしい」
なるほど。僕だってそういうのは無ければないほどいいと思ってるので、敬称は形式上必要だとしても敬語くらいは取っていいかもしれない。
「分かったよ。雅さんの頼みならね」
「雅」
「え」
「「さん」は敬語だ」
確かに。なるほどこれは、さっき簡単に承諾した僕が馬鹿だったということになる。この理論武装をされては納得するしかなくなる。だが、ささやかな抵抗はしてみよう。
「雅さん、さすがにそれ
「雅」
「…雅さ
「雅」
ああ、だめだこれ。僕は諦めた。これを納得させるのは不可能だ。
「雅。これからもよろしくね」
「よろしく頼む」
表情に変化はない。相変わらずの真顔だが、それでも僕は、雅さんがその一瞬だとしても笑ってくれたような気がしてならなかった。
「雅」
心を読むのは止めてくれないかな、雅。