「寝てるところ悪いけどもう着くよ、ルーシー。パイパーは…気持ちよさそうに寝てるし僕が連れていくか」
ルーシーは今起きたフリをしながら、それでも胸元を右手で抑える。先ほどから動悸が激しく、いっぱいになった感情が胸を叩いていたのを止めるために、気休め程度の対策だった。
(こんなのおかしいですわ、今までこんな気持ちになったことありませんの…)
ハルの左手が映る。ルーシーはそこに数字が書いてあったことを思い出す。
(確かあの時の数字は…)
視界に映ったのは。
『286』。
瞳孔がぶれる。動揺が体に走る。ルーシーの思考は、「いつ変わったんですの?」「なんで変わったんですの?」と、どんどん埋め尽くされていく。
それと同時に、ハルのことを自分が全く知らないことに気づいた。
「ハル…」
話を繰り出そうとした瞬間。
「着いたよ。ブレイズウッドだ。日没までに間に合ってよかったよ」
見慣れた景色が視界に入ってきた。先の方には、シーザーらしき人物も、ルーシーを待っているようだった。
「ここからはもう僕はいらないね。ああ、宿に関してはシーザーが取ってくれたよ。『恩人をそこらで寝させるわけあるか』ってさ。義理堅いね」
バイクのエンジンを切り、降りてから壁に立てかけつつ、ルーシーに話しかけるハル。
「今日はよく頑張った」
ハルがルーシーの頭を撫でる。抵抗することもなく、ルーシーはそれを甘んじて受け入れた。
ハルのことについて何一つ聞くこともできないままに、ルーシーの激動の一日は終わった。
(どうしてくれるんですの、これ……)
心の軋むような、取れるわけのない、甘い感情を残して。
ルーシーがおかしい。話のテンポがずれるし、目が全然合わない。まだ会って数日だから、本当のルーシーってこうなのかなと思ったのだけれど、シーザーに聞く限りそうでも無いらしいが、シーザーに聞いても深くは語ってくれなかった。
「そこで私に話を聞きに来たんだね〜!!」
アンティークなテーブルに座って、ドリンクを飲みながら僕は頷いた。彼女はバーニス。普段は飲み物を売っている、ちょっとズレた女の子だ。
「シーザーで思い当たるなら君も思い当たるところがあるんじゃないかと思って」
「んっとね〜、これ言っていいのかなあ〜?」
コップを洗いつつもバーニスは悩む仕草をする。どうやら思うところはあるらしい。
「多分なんだけどね、ルーシーちゃんは…」
「うん」
「君のことがね〜!」
溜めるね。ドラムロールみたい。バーニスが「う」の口をし、「S」らしき発音をしかけたタイミング。
「ストップですわ〜〜!!!」
僕の後ろからルーシーが身を乗り出し、バーニスの口を止めた。すごい、気配に気づかなかった。
ルーシーは息を切らしながら、僕の方を見た。
「今の、無かったことにしてもらえませんこと?」
いや、僕としてはルーシーに嫌われたんじゃないかと思って心配なんだけれど。原因に予想がつかないから、他の人に話を聞いて回ってるわけで。
「もし僕のこと嫌いになったんなら謝りたいんだけど、どうして僕の目を見てくれないのさ」
これを聞いている今も、僅かに僕の後方に目線がずれていることは分かる。僕の問いに、ルーシーは口を噤む。
「そ、それは…あっ、あなたが嫌いになったからではありませんわ!」
じゃあなんでよ。予想も崩れてしまったので、僕としては打つ手がない。
「じゃあ、なんでか聞いてもいい?」
じっとルーシーの方を見つめる。ほらまた目を逸らした。ルーシーは吃りながら、口をモゴモゴとさせている。
僕とルーシーの間に流れる沈黙withバーニス。
一瞬視線を上げ、僕と目を合わせるルーシー。久しぶりに目と目で会話をしたね。
「やっ、」
「や?」
「やっぱり無理ですわ〜〜〜!!!」
僕への拒否を叫びながらその場を走り去るルーシー。「無理」という言葉が頭をこだまする。
泣きたい。僕は何が悪かったんだ。
気晴らしにホロウでも行こう…。
ルーシーに気を良くしてもらうために、ルミナスクエアに一緒に行く計画を立てた。戸籍は持っているらしいので、入る時の面倒ごとも回避できる。
問題は、誘う瞬間である。
可能性1。普通に承諾してもらえる。これが望ましい。
可能性2。どうにか承諾してもらえる。ルミナスクエアで機嫌を直してもらえればなんとか。
可能性3。断られる。現実は非情である。
「ルーシー。一緒にルミナスクエアに行こう!」
ルーシーにとってその誘いは藪から棒で、棚からぼたもちでもあった。
彼女にしては珍しくシーザーに相談に乗ってもらったりしていたのだが、シーザーはルーシーの様子がおかしくなり、ハルのことを目線で追うようになっていることにすぐさま気づいた。
今は叩けば鳴るおもちゃとして揶揄っているのだが、本人としても不思議な気分になるらしい。ルーシーとハルを上手いことくっつけるために必要なことを、彼女秘蔵のラブコメディ作品集を参考にして考えている。
そこで出したのが、二人きりで外出すること。ブレイズウッドなどという寂れた場所ではなく、ルミナスクエアなどの若者っぽい場所へ行くべきだというのが彼女の持論だった。
「誘えるわけないですわ」
ルーシーは真顔でその案を却下した。ルーシーはまだ自身の感情を恋と認識してすらいないのに、デートなど論外であった。
もどかしい、というのがシーザーの感想で、それは恋だろと言いはしたものの、「あり得ませんわ、あり得ませんわ」しか言わなくなったので、諦めたそうな。
しかし今日。何があったかハルの方から誘いがあった。それをノータイムで承諾するも、ルーシーの脳内はぐちゃぐちゃだった。
(服はどうしましょう、ハルの好みを知りませんわ…!!)
その悩み方は明らかに恋してるやつだろ、ということに気づけないのが面白いもので、ルーシーは前日から悩み続けていた。どうにか身支度を済ませ、待ち合わせの場所に行く。
交通手段は事前に決定し、ルーシーが運転するバイクにハルを乗せる形式にした。
「お待たせルーシー、って、わあ」
ルーシーはバイクを起こし、エンジンやらを確認しながらハルの言葉を待つ。
「すごい似合ってる。気合い入ってるね」
ハルという人間は思ったことをスパッと言うタイプだ。発言に躊躇がないために、核心に踏み入るような質問もすれば、タチの悪い冗談も言うことがある。
その気質が悪さをして、見事に本心からの褒め言葉を繰り出した。
ぴしり、とルーシーの動きが止まる。頭から湯気が出ているようだった。ハルの方を見て、何か言おうとするも、言葉が出ない。
「あ、ありっ…っ…」
顔が熱くなって、紅潮する。どうにか言葉を紡ごうとするも、それを察知したハルが会話をつなぐ。
「待たせて悪いし、もう行こうか」
「…ええ」
顔を真正面から見なければルーシーでも会話が出来たので、ドライブ中は前を向いていたためにすらすら会話が続いていた。
「…あなた、どこ出身ですの?」
「ああ〜…信じてくれるなら言うんだけどさ。信じる?」
ハルの話すことは突拍子もないことばかりだった。異世界などフィクションの存在としてしか思っていなかったルーシーとしては、「異世界が出身」などという荒唐無稽な話は冗談かと思っていた。
しかし、話を聞くたびどうやら本当らしいと言うことも分かり、信じざるを得なくなった。
「ルーシーは、新エリー都が出身なんだっけ」
「そうですわ。レールの上を歩く人生に飽きが来ましてよ」
「へー、かっこいいね」
「…ところで、前聞きそびれたことで、その数字について聞きたいんですわ」
ルーシーは一気にハルの深奥に踏み入った。この話を持ち出された瞬間、僅かに雰囲気が変わったのはルーシーにも分かる。
「…言えるところに限度はある。行き過ぎた力だからね。…強いて言うなら、勲章かな」
「…たまに増えることもあって。記録するために書いてる部分もあるんだけど、勲章としての意味の方が強いんだ」
ここからでもいくつか推察できる部分はある。数字で、かつ増えるものといえば、日数、回数、年数と、時系列で増えるものが多い。
しかし日数というのは一日で6も増えていることが違うと証明している。年数もあり得ない。仮に回数だとして、何の回数なのか。カウントできるものなどいくらでもある。
「言いたくなければ、言わなくて結構ですわ。でも…その、遠くを見るような目は貴方には似合いませんの」
こんなセリフ真正面じゃ言えやしない、とルーシーは感じた。それでも、先ほど一瞬後ろを見た時に見えた、黒々とした目は、ハルのものとは思えなかった。
「ははは、ごめんね」
掠れるような笑いと、僅かに漂う死の香り。フラッシュバックする痛みの数々。
景色に乗ってやってくる、ルーシーの死体の記憶。自分の首をサバイバルナイフで掻っ切った時の感触も一緒だ。
「陰気な雰囲気にして申し訳ありませんわ。もうそろそろ到着ですの」
ハルという人間の最奥に踏み入ったからか、ルミナスクエアについてからというもの、ルーシーは落ち着いてハルと会話が出来るようになった。
「僕さ、さっき言った通り変な場所が出身だから、ここのファッションがあんまり分かんないんだよね」
服屋の中で、会話は進む。
「…でも、十分私と一緒に歩く資格はあると感じますわ」
ルーシーとしては初めて、ハルのことを見ながら褒めることができた。おかげか、ハルにも僅かな動揺が見られた。
「っ、嬉しいこと言ってくれるね。服を考えてきた甲斐があったよ」
とは言っても何かを買うでもなく、そのままカフェに移動。
「ところでずっと気になってましたの。貴方、職業は何に就いてますの?おおよそ、察しはつきますけれど、気になりますわ」
この街に着いてから、形勢が逆転したかのように、ハルは口を噤む。
「…治安官だよ」
長い間を置いて、出てきた回答は意外なものだった。ホロウ関係の仕事であると分かっていても、治安官は普通、郊外になど来ない。
「道理で、あそこまで実践慣れしていましたのね」
シーザーを負かしたことといい、ホロウ内で見た戦闘といい、一般人とは到底思えなかったので、納得である。
「…ハル?」
完全に意識外、ルーシーの右後方辺り、カフェの席に座っていたので、道路のあたりから声がした。
「あれ、青衣。こんなところで何してるの?」
ハルが返事をした。そこにいたのは、治安官の制服を着る機械だった。青い髪を二つにまとめていて、背丈は低く、どことなく漂う機械感。
「それはこちらの台詞であるぞ。…そちらの方は」
青衣の視線がルーシーに移る。
「ルーシー、と言いますの。普段は郊外にいますわ、治安官さん」
「いやほら、僕休暇中だったでしょ」
ハルが今の状況を説明し始める。
「それで、郊外を休暇に選んだのであるな」
二人の会話を聞いていてルーシーは思った。「なんか仲が良くありませんこと???」と。
「我はパトロール中だったに過ぎぬ。邪魔者は去るとしようかの」
そうとだけ青衣が去ろうとしたその瞬間。青衣は足を止めた。
「…お主。何か我に隠しておるな?」
僅かにハルの肩が動く。ルーシーには思い当たりなどありもしなかったが、この反応はあたりらしい。
「白状せい。左手の甲を見せよ」
「勘が鋭すぎるよ、青衣さんはさ」
また、ハルの瞳孔が先ほど見た黒々とした目に変わる。諦念を感じる声を漏らしながら、左手を見せるハル。ルーシーは知っている。数字は286だ。
それを見た瞬間、青衣の顔が歪む。
「どうして、お主はそう…!」
ルーシーは只事ではないと気づいていたが、まさか目の前にいる青衣という治安官が、その数字の意味するところを知っているとは考えていなかった。
太陽が奇妙にカフェのパラソルに光を当てる。それによってできた影が、ルーシーに架かる。
(どうして、私には教えてくれないんですの)
心臓が軋む音がした。悔しさと寂しさと、寂寥感をごちゃ混ぜにしたような、ハルの笑顔を見た時とは正反対の苦しさだった。
「また、話を聞こう。我は邪魔者であるしな。…それでも、少々やり過ぎであるぞ」
(私に、貴方の心に踏み入る権利はないんですの?)
どこまで続いているか分からない目の奥を見つめながら、涙が溢れそうになるのを抑える。
(なんで、こんな…)
なぜ今泣きそうなのか、ルーシーにもわからなかった。私じゃダメなのか、という考えが頭の中を埋める。
(ああ)
ハルを奪われたような感覚がする。手を伸ばしても埋められないような距離がある気がする。
そんな感覚が体に馴染んだ時。
(これが恋、ですわね)
確信に近いような納得感が、浮かんできた。自覚した瞬間から、ルーシーの頭は回り出す。
どうやったらこの人の奥底に足を入れられるのか。
(まず、心から信頼してもらえないと無理ですわ。私のことを好きになってもらえたら心の一つくらい開いてもらえますの…?)
「その数字が何であるかは、私からはもう聞きませんの」
こちらを向くハル。その瞳は、いまだに深淵を見ていた。
「でも、いつでも話してくださって構いませんわ。それを信じることくらい、私にだってできますのよ」
「だから」
「笑って」
ハルの瞳から闇が消えていく。
「ははっ」
「シロップが口についた状態でそれ言っても、説得力ないって…!」
ハルが笑いを堪えながらも、ルーシーの頬あたりを指差す。
「はぁっ!?」
ルーシーはどうにかティッシュで拭うと、焦る心を押さえつける。
「それ、今指摘しますの!?あり得ませんわ!!」
「いやあごめん、でもお陰で元気にはなったよ」
ハルの瞳に光が反射する。いつものハルだった。
ブレイズウッドに戻ってきた、数日を過ごした僕は、休暇の終わりが近いために、帰る必要が出てきた。見送りはルーシーが出してくれるとは、楽でいい。
ルミナスクエアから帰ってきて数日の間に色々あった。ライトという青年に決闘を申し込まれ、丁重に断るも結局やりあうことになったりもした。
休暇としてはかなり良かった、とか考えながら、僕は特務捜査班の部屋を開けた。
「ハルさん!!おはようございます!!」
「誰だお前」
僕の目の前に立って深々とお辞儀をしていたのはイヌかオオカミか区別のつかないシリオンの青年だった。
「セスです!!数日前から働かせてもらってます!!ハルさんのお噂はかねがね!」
すげー元気だ、というのが僕の感想。僕が言うのも何だが、勢いがあって若々しい。まるで大先輩かのような扱いだが、僕は治安官になって2ヶ月くらいなので、同期と同じ扱いのはずだ。
「時期的には先輩後輩関係なんてほぼ一緒なんだけど」
「いえ、個人的に尊敬してるんです。あのニネヴェを新人にして撃退して、数々の事件を死者0で解決し、朱鳶先輩や青衣先輩からの信頼もある!」
撃退て。逃したんだよ、僕は。200回も死んでおきながらな。
「え、今日は他のみんないないけど、指示とかはあった?」
「えっと、青衣先輩から『緊急時の対応について、実際に事件を解決しながら学ぶと良い。ハルは新人だが、緊急時の対応に関して言えば特務捜査班の誰をも凌ぐと我は思っておる』って言う伝言が…」
セスが青衣みたいに指を立てながら真似をする。似てないよ。
…電話だ。
『特務捜査班。緊急だが、近くでホロウが発生した。子供が二人取り残されているらしい。人員の関係でそちらに動いてもらう』
「把握しました。向かいます」
装備をさっさと取り、必要事項を反芻する。
「準備は最速でやるんだよ、セス。ホロウまでの道も今覚えるんだ」
「りょ、了解です!」
僕が準備を終えようとしている時、ようやくセスが動き出した。今のうちに準備運動もしちゃおう。
「行こう。子供の見た目の特徴は向かいながら確認するよ」
治安官という仕事はやはり忙しい。
「えっと、ここを左でしたっけ」
「右だよ?大丈夫か」
頑張れセス。テキパキやんないと命を取り逃がすよ。