「おなかへった」
と彼女は言った。この台詞をもちろん俺は知っている。
俺の視線の先にてその言葉を発した、ベランダの手すりに干された純白のそれは、当然布団などではない。百歩譲って布団だとしても、いわば肉布団。いや肉布団はマズい。今の無し。断じて布団ではなく、修道服を纏った十四、五歳の女の子である。
イラストでは水色に見えていた銀の長い髪。原作で成金ティーカップと称されていた特徴的な服装。白い肌。緑の目。外人。
紛れもなく、インデックスがそこにいた。
「おなかへったって、言ってるんだよ?」
固まる俺に、あからさまにムッとした表情を見せるこのふてぶてしさ。やはり間違いなくインデックスだ。原作再現ありがとう。俺は今猛烈に感動し、困惑している。
本当に、俺の部屋のベランダに、彼女が来てしまった。物語はもう始まっている。
一体俺はどうするべきだろう。その結論も出ないままにこの瞬間を迎えてしまった。
「……行き倒れのかた?」
「倒れ死に、とも言う」
「言うかな」
「言う」
対応を決めかねた俺はほぼ思考停止のまま、原作をなぞるような言葉を吐く。それに対応する彼女の言葉もまた、ほぼ原作通り。これはすごい事だ。すごいし、恐ろしいことでもある。原作のシナリオが、人々の言動に影響を与えているとでも言うのだろうか。この世界に自由意志はあるのか。現実逃避的に考え込みそうになるも、今はそんな場合ではない。
「お腹いっぱいご飯を食べさせてくれると嬉しいな」
ムッとした表情から一転、満面の笑みでのおねだり。いや、むしろ強要。俺は前世の知識があるので知っているのだが、笑顔とは一種の攻撃手段であるらしい。俺は今、攻撃を受けている。カツアゲされてる。
俺如き弱者に、抗う術はなかった。
俺の朝は一杯のシリアルから始まる。スーパーで売っている廉価コーンフレーク(食物繊維増量)に、豆乳をかけて召し上がる。まあまあ安い、けっこう早い、そこそこ美味い。忙しい現代人に最適な朝食といえる。
まるで忙しくない学生(無職)の俺がこの様な食事をしていたのも、今思えばこの日に備えていたからかもしれない。
この日、学生寮の電化製品が軒並みヤラれることはわかっていた。だからこそ、冷蔵庫が死んでも生き残れるシリアル、そして豆乳というゴールデンコンビを無意識に生み出していたのでは。発酵焼きそばパンや酸っぱい野菜炒めを少女に与えるなどという悲劇を起こさぬように。
ベランダ干しのシスターは、速やかに室内へと回収された。その際、空腹シスターに腕ごとぱくりとやられる、という事態はもちろんなかった。少し惜しい気もする。少女にぱくりとやられたい、それは全人類が抱えている普遍的倒錯の一つであろう。
それから後、シスターインデックスは、俺の部屋に備蓄されていたシリアルを異次元の速度で平らげた。豆乳も飲み干し、かけ干した。具体的量は彼女の尊厳を鑑み、あえて申すまい。しかし何しろ高栄養価がウリの食品であるので、どう考えても健康には良くない量であったのは確かだろう。でもきっと大丈夫だ。原作でも大概だったけれど、健康そうだったし。
「まずは自己紹介をしなくちゃいけないね」
怒涛の燃料補給の後、彼女は言った。散々飲食しておいて『まずは』とは、日本語の解釈に若干の見解の相違があるようだ。
原作では、上条当麻が野菜炒めを用意する前の台詞であるため何も問題はなかったのだが、俺が流れるようにシリアルを用意したため順番が前後し、ほんの少しおかしなセリフになってしまったようだ。いやまあでも、あげつらう程おかしいってわけでもないか。
「私の名前はね、インデックスって言うんだよ?」
「俺の名前はかげつきぎょうや! かげのつきのあかつきのよると書いて影月暁夜。大いなるAIによって名付けられました。なのでこの名に意味や由来はない。まったくの無意味! 年齢は十六歳。身分上は学生だけど学校には行っていない。仕事もしていない。そう、つまり、ニートです! どうぞよろしく」
「え、あ、よろしく」
俺とインデックスはシェイクハンドした。外国人の挨拶といえばこれだ。俺は詳しい。この世界はコロナ禍ではないので接触も無問題である。かくして合法的に彼女の手に触れることに成功した。インデックスの手は小さく、細く、つめたく、滑らかで、柔らかかった。一方の俺は緊張の手汗でびっちゃびちゃだった。すまぬ。
それにつけても、らしくもなくテンションの高い自己紹介をしてしまったものだ。しかしそれもやむなし。目の前にラノベのヒロインがいるのである。昂りもするし、変なことも口走る。ニートっていう必要あった? ない。
「ええと。ぎょうやは」
「ぎょうや!!」
「わ、なに!? どうしたのいきなり」
「失礼。感動のあまり」
「何に?」
「女の子に名前を呼ばれるなんてはじめてで」
「そうなんだ」
「そもそも女の子とまともに会話するなんてはじめてで」
「そうなんだ……」
憐れみの視線を一身に受け、俺は精神的絶頂寸前であった。俺は憐れみに飢えている。たまらない。全人類、俺を憐れむべし。頭を撫でてくれても良い。
インデックスはこほんと演劇的咳払いをして話を戻す。
「ぎょうやはニートって言ってたけど、それってつまり、特に今日は用事がないってことなのかな」
「ない。今日も、昨日も。明日も明後日も。何もない。俺には、なにもない……」
「そっか」
インデックスはしばし目を瞬かせ、何かを考えるそぶりをしてから、続けた。
「私はね、見ての通り教会のものです」
「わかる!」
「バチカンの方じゃなくて、イギリス清教の方だね」
「あーね、なるほどね。イギリスね。ユニオンジャック。フィッシュアンドチップス。鰻ゼリー」
「わかってないね」
半眼で睨めつけられた。もちろん、本当のところはある程度わかっている。原作を読んだからだ。二次創作すらしていたからだ。
だが、その原作知識を本人たちにひけらかすつもりは今のところない。ではどうするつもりなのか。未だ定まっていない。
とりあえず、原作での会話の流れをなぞることでお茶を濁すことにした。
「失礼。なら聞くけど、『インデックス』って変わった名前よね。本名? なんかコードネームとかハンドルネーム的な?」
「禁書目録だよ。あ、魔法名ならdedicatus545だね」
「へえー。デーディカートゥスさん。デーディカートゥス・ゴーヨンゴさん。あらためましてよろしく」
「改められても困るんだけど」
「しかしデーディカートゥスさん」
「そんな日常的に呼ぶようなものではないんだよ!」
「はあ」
確かに普段使いしているキャラはいなかった気がする。これから登場するであろうステイルだか神裂だかは殺し名とか言っていた。つまり今俺は殺し名を名乗られたということか。なんてことだ。殺し名ってそもそも何?
「じゃあ、仕方ない、『インデックス』の方で手を打つとしましょうか」
「なんで不承不承なのかな」
「特別な名を呼び合う、その特別感……」
「その変な距離感がぎょうやを女の子から遠ざけてるのかも」
「金言……!」
さすがは天才。俺は彼女の言葉を深く心に刻んだ。バグった距離感は相手を遠ざける。特別感は特別な時間を過ごした後に特別な距離まで近づいてから初めて生ずる。蓋し当然といえよう。蓋しってなんだろう。
あと「ぎょうや」って名前、平仮名で書かれるとなんとも間抜けでいけない。ぎょうざみたい。暁の夜といういかめしい漢字の面構えで誤魔化されていたが、実はあんまりカッコよくないのでは。おのれチャットGPT。そもそも暁夜って「きょうや」とも読むらしいじゃないか(インターネッツ調べ)。そっちの方が響き良くない?
AIの欺瞞を鮮やかに暴いてみせるインデックスは正しく魔術サイドの鑑。
「えっとね。それはともかく」
とここで、インデックスは何やら居住まいを正し、真っ直ぐに俺を見据えた。
「とりあえず、お礼を言わなくちゃね。私に、ご飯をいっぱい食べさせてくれてありがとう」
「まさかあんなに食べるとは」
「お腹いっぱいにはならなかったけど」
「あんだけ食べといて?」
「お肉とかご飯とか、もっと食べた感があるものならもっとよかったけど」
「あれ以上に?」
「これで外出た瞬間また行き倒れ、ってことにはならずにすみそうかも」
「あんだけ食べりゃね」
俺は先ほどの食事風景を思い出してため息をついた。フィクション的にはありがちな行動も、実際に目の前でやられるとなかなか圧倒されるものだ。
小首をかしげるインデックスを眺めながら、俺は原作の流れを思い出す。このあと原作では――などと参照するにはやや脱線してしまったが、お次はベランダ干し事件の経緯に差し掛かるフェーズだ。上条当麻が暗黒野菜炒めを作りながら、何故彼女が干されていたのか問うシーンである。
とりあえず俺も、その流れに則ることとする。女子とのコミュに不慣れでも、とにかく原作に沿っていればなんとかなるのではないか理論だ。
「まあもちろん、行き倒れを助けるのは俺としても吝かではない。でもきみ、そもそも何だってあんなとこで行き倒れてたわけ」
「落ちたんだよ」
インデックスの回答。当然知っているが、驚かないのも不自然だろう。俺はごく自然な演技で驚愕してみせる。
「なっ、ばっ! お、おおお、お、落ちた……だ……と……!?」
「なにそのわざとらしい反応。信じてないね?」
「いやしかしだよ、きみ、インデックスさん。いや、インデックスくん? むしろ、ちゃん……?」
「敬称略でいいんだよ」
「女子を呼び捨て……? いや、よかろう! やってやれないことはない。俺なら出来る。イケる。呼ぶぞー呼ぶ呼ぶ。はい、インデッッッッッッ!!!! かはっ! はぁ、コヒュー、コヒュー」
「そこまで!?」
「そうは言ってもだね、インデックスさん」
「やってやれなかったんだね……」
「落ちるっていったってね、インデックスさん」
「そこに戻るんだね」
「ここは八階ぞ?」
「ぞ? って言われても。屋上から屋上へ飛び移るつもりだったんだよ」
「一歩間違えば地獄行きぞ?」
「ぞ? って言われても。仕方なかったんだよ。あの時はああする他に逃げ道はなかったんだし」
「あの時っていつだよ!!!? 逃げ道ってなんだよ!?!? 誰か教えてくれよ!!!!!」
「圧がすごいんだよ」
女の子呼び捨てチャレンジに失敗した俺は、自身のダメさに耐えかね、もう自暴自棄で破れかぶれのテンションであった。無意味に叫んでしまったので、大量の唾が飛んだ。彼女は特に気にした様子をみせなかったが、申し訳ないことをした。
インデックスは俺の荒ぶりが落ち着くのを待ち、それから平然とした調子で告げた。
「私、ついさっきまで、追われてたからね」
「へえー」
「さすがに落ち着きすぎじゃない? 情緒が心配なんだよ?」
「続けて」
「あ、うん。本当はちゃんと飛び移れるはずだったんだけど、飛んでる最中に背中を撃たれて」
「こわ」
「落っこちて、途中で引っかかって、それで今に至るってかんじかな。ゴメンね」
「謝罪は結構。感謝をください」
「……そうだね」
俺の身も蓋もない台詞に、インデックスはしかし、笑みを浮かべ応えた。
「ありがとう」
「ありがとう、感謝の言葉。いいね。その調子で感謝し、敬い、崇め、奉り、定期的に貢物を献上してくださいね」
「土着の祟り神かなにかなのかな?」
貢物のくだりは照れ隠しだがそれ以外は本心であった。俺は他者から敬われたい。無根拠に崇拝されたい。チヤホヤされ……ヨシヨシされたい。そういう欲を常に抱えている。
しかし彼女は場を和ます冗談とかそんな風に好意的に受け止めてくれたらしく、くすりと笑う。自分の言葉で女の子が笑ってくれると、とても嬉しくなるものだ。前世から通じ、我が人生において初めて知った。
「ところで、インデックスさん。きみは背中を撃たれた挙句屋上から落下したと言うけれど、体は大丈夫なの。背中もだけど、肋骨とか折れてない?」
「心配ないよ。この服、一応『防御結界』の役割もあるからね」
立ち上がり、くるりと回転して見せるシスター。その白き衣に一切の汚れなし。体を痛めている様子もなし。設定通りのすさまじい防御性能は、当たり前だが顕在だ。原作ならしばらく後にその幻想をぶち転がされ永遠に失われる。この世界ではどうなるのだろう。それも、もしかすると、俺次第なのか。
「……頑丈な服なんだなあ」
適当なコメントで誤魔化す俺であった。