病院の待合室は混み合っていたものの、概ね静かで整然としていた。老若男女が用意された座席にかけて、スマホを弄るでもなくぼんやりと壁や天井を眺めている。俺もまた、その一人であった。
温かみのある配色の壁紙に、照明の加減も柔らかい。この雰囲気作りが功を奏しているのだろうか。俺の心も実に穏やかで、あらゆる不和から解放された心地であった。
何故こんな病院でぼけっとしているのか。ここはどこで、今はいつで、俺は何を待っているのか。何も分からない。でも、それが気にならない。凪の境地。
「二十七億三千万五百三番でお待ちのかたー」
不思議なアナウンスが待合室に響いた。俺は、いつの間にか握りしめていた整理券に目をやる。No.2,730,000,503。普段目にすることのないような桁数だったが、何故か俺だと一瞬でわかった。
待合室から診察室へ向かう。部屋の中では医者と思しき白衣の男性が座っていた。医者は机に向かい何か書き物をしているようで、こちらを見向きもせずに言った。
「ああ、どうぞ、おかけください」
促されるままに、医者の前に用意された丸椅子に座る。そのまましばらく医者は書類になにかを書いていたが、やがてその作業も終わったようで、くるりと椅子ごと体を回してこちらを向いた。
「失礼しました。色々、ばたついていまして」
「いえいえ、そんな」
軽い謝罪から入る医者を慌てて制する俺。あらゆる店員に対し腰の低い対応をすることでお馴染みの俺である。いわんや、医者をや。
「なんか患者さん、すごく多いみたいですし。そりゃ、お忙しいでしょう」
「ああ、うん。そうですね。まあしかし、仕方のないことなのです。自業自得というか」
「自業自得?」
おかしなことを言うなあ、と思った。病院が混み合うのが医者の自業自得。それではまるで、この医者が何かの病気を流行らせたみたいだ。
しかしその疑問もすぐに薄れ、ぼんやりとした心地に包まれる。どうでも良いではないかそんな事。人様の言葉尻を捕まえて。そんなことよりもほら、天井とか床とか壁を見よう。思考を鈍らせ、凪のさらに向こう側へ。
そんな俺の変化に気づいているのかいないのか、医者はこっくりと頷いた。
「自業自得です。ほら、今回のことって、我々の不手際みたいなとこありますから」
「はあ」
「皆さん、まだ死ぬ予定ではなかったのに、軒並み死んでしまって」
「はあ」
「そのお詫びと言いますか、ケアと言いますか。それにこうして奔走しているわけですな」
「なるほど」
何一つわからなかったが、理解した。あーね。なるほどね。そういうことね。
俺が完全に理解したことを確認した医者は、手を挙げて看護師を呼びつけた。名前も呼んだのだが、ちょっと発音が独特で、よく聞き取れなかった。
現れた看護師は、名前の通り独特な人であった。いや、人だったろうか? 頭が、虹色に輝く大きな水晶玉であった。そこから生えた身体はスラリとした女性のもので、ピンク色のナースウェアを着ている。スレンダーだが、胸部だけが妙に大きい。
看護師は俺にぺこりと虹色の頭を下げたのち、医者にカルテか何かの書類を渡すと、すぐに奥に引っ込んでしまった。
医者はしばしカルテを睨みつけ、やがて俺に向き直って言った。
「何点か、ご質問しますね」
「はあ」
問診だろうか。俺は曖昧に頷く。
「シュタゲのヒロインについてなのですが、あなたはまゆしぃ派ですか、助手派ですか」
シュタゲ。それはゲームやアニメで知られる、あのシュタゲだろうか。
謎の質問にやや虚をつかれ、しかし何かを答えねばと慌てて口を開く。
「えっ。そうですね、まあどっちも素敵ですが、あえて選ぶならまゆしぃ派ですかね」
「はあーん。幼馴染派ですか」
医者はそう言って、何やらカルテに書きつける。
これはなんの質問だろう。何故医者にこんな事を訊かれているのか。どういう意味がある? しかしそんな疑問も、すぐに輪郭を失い、溶けて消える。ええじゃないか。どうでも。
「ではやっぱり、ドラクエ5ではビアンカを?」
「ええまあ。正味四回はクリアしてますが……毎回、選んじゃいますね」
「ですよねえ。わかります。では続いて、レイとアスカ、エヴァではどちらが好きですか?」
「綾波派です」
「即答ですね、いいですね。ではいちご100%では」
「西野です」
「ほーん。それはそれは」
その後も、よくわからない質問になんの疑問も抱く事なく答え続けた。ハルヒでは長門、ストパンではサーニャ、ToLOVEるでは闇ちゃん、化物語では撫子。作品のチョイスにやや時代を感じる。
そして、次の質問。
「では、禁書シリーズでは? インデックスですか、それとも御坂美琴? あるいは他に?」
「インデックスですかねえ」
なんの気無しにそう答えた。
彼女が巷で主に影の薄さで色々と言われていることは知っている。実際、タイトルになっているキャラの割に出番は少ないと俺も思う。思うが、それはそれとして、好きなキャラクターなわけだ。俺は正ヒロインと幼馴染を好きになりやすい。あと髪の毛の色が白とか銀とか青とか、漫画で色抜きになりやすいキャラも好きになりやすい。あと華奢な子とか。
まあ、影の薄さはキャラ数も話のスケールも膨大な作品なので仕方ない。むしろ事件に絡めないのは上条当麻に大事にされている証拠ともいえる。よかったね。よくないか、本人的には。
「そうですかあ。インデックス。では、御坂妹とラストオーダー、ミサカワーストではどのミサカ?」
まさかの禁書シリーズでの追加質問に面食らった。この医者も好きなのだろうか。
「あーそうですね、御坂妹ですかね」
「いいですよね。『超電磁砲』シリーズでのとぼけた表情とか」
「はあ」
「天草式の中ではどなたが一番ですか? ねーちん、五和、教皇代理」
「代理も含むんですか?」
「もちろん」
何がもちろんなのか、その疑問も長くは持たない。とにかく解答せねばという心境に支配され、俺は考える。
正直、キャラとしては教皇代理、建宮だったかが一番面白いと思う。しかし思考を下半身に委ねた時、その選択肢は跡形もなく消し飛び、残るは五和と神裂。その二択ならば五和だ。ロングよりショートヘア。それもまた俺の嗜好である。もちろん神裂も人として女性として魅力的とは思うのだが、不思議と俺のイチモツには響かない。
「五和ちゃんで」
「隠れ巨乳。ふむふむ」
「おっぱいはまあ、正直どちらでも」
「佐天さんと初春」
「え。ああ、そうですね。『超電磁砲』基準なら初春かなあ。『禁書』とちょっと印象違いますよね彼女」
「黒子とあわきん」
「黒子ですね。あのこかなり好きなんですよね。仕事熱心なとことか」
「アイテムでは誰」
「ああうーん。組み合わせ込みなら滝壺と浜面なんですけど、単独なら絹旗かな」
「超いいですね。ならば、上里勢力では?」
「新約からも聞かれるんですね。ええと、ベタですがやっぱ関わりの多かったUFOちゃんかな」
「府蘭ちゃんですね。好きな木原は?」
「木原か……。まあ、円周……いや唯一……いや円周? ううん、あの犬の、ええと、脳幹以外では……ゆい……いや、円周で」
「別に女の子に限らずともいいんですよ」
「円周で」
「なるほど。レベル5という括りで一番気に入っているのは」
「……あの三人の中では、食蜂操祈でしょうか」
「女の子に限らずとも」
「みさきちで」
「魔神ではどの神を信奉されてますか」
「普通で申し訳ないですが、オティヌス」
「シスター系で推しを一人挙げてください。インデックスは除きます」
「アニェーゼ」
「傾向的にはオルソラかアンジェレネかと思いましたが」
「オルソラも好きです。でも会話が大変そう」
「確かに。では、黄金姉妹ではどちら派?」
「黄金……? あ、バードウェイの二人ですか。なら普通に、と言うのもアレですが、お姉さんですかねえ。なんとなく妹は、とられちゃった感もありますし……」
「そうですか。魔神ではないグレムリンで最萌えなのは?」
「萌えときましたか……。正直全員怖いんですけど、あの、フレイヤの口絵なんかは、恥ずかしながらちょっとドキドキしました」
「妊婦だから? そういう嗜好もお持ちでしたか。業が深いですねえ。神の右席で選ぶなら?」
「選ぶもなにも、ヴェントしかいないじゃないですか」
「女の子に……いえ、そうですね。愚問でした。ならば、リドヴィア=ロレンツェッティとワシリーサ」
「誰と誰です?」
「ローラ=スチュアートとスカイダイビングしたローマ正教のシスターと、ロシア成教の親玉シスターですね」
「ああ……。うん。ええと。そうですね。ええと」
「ゆっくり考えてください」
「ええと、じゃあ、ロシアの方で」
「先ほど名前の挙がったローラ=スチュアートとワシリーサでは?」
「…………ワシリーサで」
「ほう! それは興味深いですね。では、好きな悪魔は?」
「クリファパズル」
「なるほどですう。最後に、今まで挙げられなかったけど気に入っているキャラは居ますか」
「そうですね、レッサーはえっちでいいですよね」
「わかる」
怒涛の禁書シリーズ千本ノックを凌いだ俺に医者は頷き、にっこりと笑みを見せた。
「なるほど、よくわかりました。よい処方ができそうです」
「はあ」
今ので何がどうわかったというのか、俺にはさっぱりわからなかったがとにかく相槌をうつ。医者がわかったというのだからわかったのだろう。医者は常に正しい。そういう思いで心が満たされる。
そんな俺を脇に、医者は再度看護師を呼びつけた。相変わらず発音が聞き取れない。そしてやってきた看護師の顔も相変わらず水晶玉で、身体はスレンダーで、胸ばかりがグラマラスだ。
看護師は医者からカルテを受け取り、また奥にすぐ引っ込んだ。
それから数分後。なぜ彼女の顔は水晶なのか。なぜ彼女の体はセクシーなのか。どうでもいいか。そんなことをぼんやり考えていると、件の看護師が三度訪れた。その手には、何やら注射器のキットのようなものが携えられている。
医者はそれらを受け取り、一通り確認を済ませると、俺に向き直って言った。
「では、お注射しますので、左腕を出してください。少し曲げてくださいね」
俺は言われるがままに左腕を差し出す。着ている服が半袖だったので、まくる必要はなかった。
左腕の肘より少し上あたりを、アルコールか何かで湿った脱脂綿で数度拭き、医者は注射器を組み立てる。針は鋭く、通常よりも太いように見えた。注射器の中には緑色の液体が、俺の見間違いでなければ、どうにもぐつぐつ滾っているように見える。
「あの、この注射はいったいどのような」
「大丈夫です」
さすがに尋ねずにいられない俺であったが、医者の答えは簡潔だ。大丈夫です。そうか。大丈夫なのか。そうか。
大丈夫なのか?
「あの」
「大丈夫です」
「でも」
「大丈夫です」
「……はあ」
「大丈夫です」
大丈夫なのだろう。大丈夫だと言っているし。医者が言っているなら大丈夫なのだ。そういうことになった。
かくして、少しちくっとしますからね、というお定まりのセリフと共に、妙に太く見える注射針は俺の左腕肘付近に突き立てられた。確かにちくっとした。ずぶっ、と表現してもよかったかもしれない。暴力的にねじ込まれた管から、得体の知れぬ緑の液体が俺の体内に流し込まれる。大丈夫なのか。大丈夫だ。問題ないのか。問題ない。俺の疑問は浮かぶごとに対処され、意識のどこか、奥底に沈み見えなくなる。
いずれにしてもわずかな時間であった。液体の注入は完了し、注射針は引き抜かれる。
「終了です。しばらく、抑えておいてくださいね」
医者に言われるがまま、注射痕を渡されたガーゼで押さえる。頭のぼんやりが、いっそう強くなったような気がする。
「処置は以上です。お疲れさまでした。転移終わりましたら、はなしてしまっても大丈夫ですからね。あ、違う違う。あなたは転生だから、はなすもなにもなかったですね。しつれいしました。それでは、よいたびを」
医者の言葉を聞いていたが、大半は何を言っているのかわからなかった。言葉が頭の中で焦点を結ばない。視界もなんだかぼやけてきた。瞼が重い。
視界が暗転する、その刹那。俺は何故か、医者の胸元に掲げられた名札に、意識をとられていた。
そこに書かれているのは、あたりまえだが、医者の名前であろう。名前があるのか、この医者に。それは、とても不思議な意外さだった。意外に思うことが意外。そりゃあるだろう、名前ぐらい。人間だもの。人間なのか?
ともあれ、意識が落ちる直前、俺のまなこは確かに医者の名を捉えていた。
『木原 波動関数』
変な名前……名前? 名前なのこれ? え?
それが俺の、最後の記憶。