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失われた青春を求めて「涼宮ハルヒの消失」解説

ブログを書くにあたって、映画のことだけを書こうという目標があったのですが、早くも挫折してしまいました。
この映画はテレビシリーズを見ていないと成立し得ない、完全な続編であります。
なのでこの映画を語るにあたって、テレビシリーズの話もしないといけないので、僕のブログは映画ブログから映像メディアブログになりました。

今回はなるべく「映画」としての、映像表現としての、作品の魅力を分析・考察・解説し、語りたいと思います。
僕はこの「涼宮ハルヒの消失」を青春映画として非常に大好きでして、今回はどのように優れているか、それを語りたいです。
萌アニメというくくりをなるべく取っ払って、フェアな目線で普段見てる映画と同じ目線で語りたいと思います。
映画の内部の演出や台詞などから読み取れるこの作品のテーマなどを解説するのが、今回のテーマです。
数少なく読んでくださる方も、是非一本の作品として「涼宮ハルヒ」という映像作品を見る目線を持っていただけたら幸いです。

もう何年も前の映画なのである程度ネタバレはしますので、ご注意を。

涼宮ハルヒの消失
監督 石原立也(総監督)
武本康弘(監督)
脚本 志茂文彦
原作 谷川流
出演者 杉田智和
平野綾
茅原実里
後藤邑子
小野大輔
音楽 神前暁
高田龍一
帆足圭吾
石濱翔
エリック・サティ
撮影 中上竜太
編集 重村建吾
製作会社 SOS団(製作委員会方式)
角川書店
角川映画
京都アニメーション
クロックワークス
ランティス
配給 角川書店
クロックワークス(配給協力)
公開 2010年2月6日
上映時間 162分

あらすじ

冬休みを間近に控えた高校1年生の冬、涼宮ハルヒ率いるSOS団はクリスマスに部室で鍋パーティを開くことを決定した。気が早いハルヒは早速パーティの用意を始め、キョンたち団員もその準備に追われていたが、事件が起こることもなく至って普通の学校生活を送っていた。
しかし12月18日の朝、いつもの通学路でキョンはクラスメイトの谷口に会い、昨日まで元気だった彼が突然風邪を引いたことに驚く。普段通りに谷口に話しかけるキョンだが、どこか会話が噛み合っていないことに違和感を持つ。
その後、本来ハルヒの席であるはずのキョンの後ろの席に座ったのは、長門に敗れて消滅し、表向きは転校したことになっているはずのクラスメイト、朝倉涼子だった。
相談のためにキョンは古泉一樹の在籍する1年9組へと向かうが、古泉はおろか9組そのものが存在していなかった。朝比奈みくるは鶴屋さんと一緒にいたが、2人とも、SOS団に関する記憶はさっぱり無くなっていてキョンのことも全く覚えていない。
茫然自失しつつ最後の砦としてキョンが向かったのは、SOS団が占拠していた文芸部室だった。扉を開けたその部屋にいたのは、眼鏡を掛け、驚いた様子でキョンの姿を見つめる「普通の少女」、長門有希の姿だった。
一体、世界に何が起こったというのか?



まず、テレビシリーズとは違う、今作における登場人物のキャラクターについて雑破に説明しておきましょう

キョン
テレビシリーズでのキョンは=視聴者、であるような意味づけがされています。ハルヒという人を傍観する、お客なんですね。もちろん「憂鬱」では最後、自分から行動するという主人公らしさも見せますが、基本的には視聴者ですね。モノローグがツッコミだらけなのも分かりやすい。
それとはまるで違い「消失」の劇内ではもうTHE主人公です。物語に翻弄されますが、映画の中の彼はテレビ版と違い基本的に主体的に行動し、物語が進むにつれて成長をします。物語のスタート地点での彼は斜に構えて漫然と日常を浪費している。
大事なのは、成長をするということです。
後で詳しく書きますが、キョンは自分のアイデンティティと青春を同時に失い、それを取り返すために奔走する、そういうお話なのです。
主人公ですねぇ。

長門有希
テレビシリーズでの彼女はなんでもできるスーパーウーマンなんですね。一種のデウス・エクス・マキナ的な、話をラップアップする為の秘密兵器なのです。映画版でもそういう面が無いこともないですが、全く違う役割を与えられております。
まぁ、実際劇中で彼女は二つの人格を持って登場しますので当たり前ですね。
「消失」における長門は、主には「純粋無垢な子供」という非常に大事な役割を担っています。
最初は自我すら芽生えていないような子供であったのですが、テレビシリーズでの出来事を経て、ようやく自我が芽生えたのですね。
しかし、まぁ大人になることには痛みが伴うものですから、今回の映画では彼女はピーターパンシンドローム的に自分の理想の世界に閉じこもってしまいます。成長することを止めてしまったのです。マトリックスを作ってしまったとも言えます。あるいは「劇場版魔法少女まどかマギカ」での暁美ほむらと同じような心理です。
また改変された世界での長門はキョンという主人公の目線でいうと「夢」の象徴であり、彼女を振り切って現実に回帰するシーンは大変な痛みとまた同時に大きなカタルシスを観客にもたらすことになります。
彼女の悲劇はキョンの「夢」と彼女の「夢」が似ていたことです。

涼宮ハルヒ
テレビシリーズでの彼女は劇中でも明言されていますが「創造主」としての機能を担っています。彼女がいなければ物語が成立し得ない、そういう話がテレビシリーズのお話なんです。
もちろん「憂鬱」では宇宙人や未来人ではなく普通の人間とのロマンスを経て日常の貴重さに気付く、という非常に象徴的なお話でもあるのです。ある意味では今作のキョンの役割を先行してテレビシリーズで担っていたのが涼宮ハルヒという見方も可能ですね。
映画版では面白いことなんですが、彼女がいないということが物語を作っていくのですね。
「創造主」という特性を削ぎ落とされた彼女は一体なんのか、「消失」で与えられた彼女の役割とはなんなのか。
「現実」ですね。彼女はキョンが失った全ての「現実」と「青春」の象徴です。そして同時に未来でもあります。

朝比奈みくる
テレビシリーズでは、僕はよくわかっていませんが、所謂「萌キャラ」のアイコン化された存在が彼女です。
映画版でもそこは変わりません。ただし高校生の彼女に限っては、です。
今作で非常に重要な役割を担っているのが、所謂「大人版朝比奈みくる」です。最重要人物の一人です。
映画で登場する唯一の文字通り大人である彼女はキョンを導くガイド役です。ガンガルフですね。
これは物語的な意味でもそうですし、これはテーマ的にもガイド役です。言葉の通りキョンの手を引いて導いてくれるのが彼女なんですよ。
彼女は大人であるので、青春の貴重さも何もかも分かっているのです。未来人が大人というのも構造的に面白いですね、彼女は全てを知っているのです。それはただただ歴史的な事実を知っているということではなくて、内面的な様々なことを知っています。
ティーンエイジャーしか出てこないこの作品では非常に貴重な存在ですね。
彼女が青春の貴重さを語るシーンの美しさと儚さはなんでしょうね。彼女はもう一度青春を勝ち取ることが出来るキョンという少年を羨ましく思っているのかもしれません。
彼女は彼女にとっての過去の存在であるキョンに一瞬だけ身を寄せることで一瞬だけ自身の青春に浸ります。しかしそれは一瞬だけで、自分の果たすべき仕事に頭を切り替える、これこそが大人です。

古泉一樹
テレビシリーズでの役割はなんでしょう。物語上の役割以上の意味は与えられていないような気がします。彼の人間味というかそういうものはあまり見えません。彼はそれを演じている節があるので、当たり前かもしれません。
映画版での彼の役割はなんでしょう。物語的には彼はいてもいなくても良いのですが。
テーマ的な意味で言えば大人版朝比奈さんと似たような役割を持った人間ではないかと思います。
彼もキョンが失った「青春」の貴重さを訴えます。もちろん方法は違いますが。
彼はキョンの現実(という言い方で問題ないですよね?)での役割を「うらやましい」と呟きます。
この台詞のためだけの出演だと僕は思っています。ですが、
大人が懐かしさとともに語る青春の貴重さよりも、彼の同年代の少年としての本音の呟きのほうが心に刺さるのではないでしょうか。
大人版朝比奈さんと古泉君が両者ともにキョンに抱えている感情は「羨望」です。


こんなもんですかね。
朝倉涼子はまぁあまりテーマ的な意味は無いかな。舞台装置というか、物語を盛り上げるための存在です。「長門の影役だ」という台詞はありますが、まぁたいした意味があるとは思えません。
長門自体がキョンの影役ですし、その影役?ってなりますから。せいぜい「苦い過去」とかそんなもんでしょう。


ではお話を見ていきましょう。なるべく普通の映画と同じように解説できればな、と思いますが
お話を見るといいつつ、まずDVDのパッケージを見ましょう。これが非常に象徴的な画になっています。
ハルヒの消失パッケージ
改変された世界の住民のハルヒと長門は手前を見ており、キョンは背中を向け奥を見ています。
奥をみる、というのはここでは、スクリーンを見る観客と同じ目線であり、この作品のテーマ的には未来を表しているのではないでしょうか。
彼は先を見据えているのですね。この映画は彼が先を、未来を見据えるまでの物語である、僕はそう考えています。
総監督のインタビューには「キョンとハルヒの間に第三者が入ってどうなるか。あまあまな恋愛劇」そう書いてありますが、僕としては監督が言っている「決心と回帰の物語」僕はそっちの見方を重視しているといえます。

え~、まず基本的なこととして、日本の、特にアニメ映画では、物語は右から左に動くのです。これはアメリカの映画なんかとは逆なんですが、まぁそれは富野さんの「映像の原則」を読んでもらえばよくわかると思います。
例えば、テレビシリーズの「憂鬱」第一話、物語の始まる最初のカットはキョンが左を向いて、右から左へ移動する、そういうカットから始まります。
この映画の中でも物語が動くときには基本的に左向きの移動を含んでいます。もちろん色々構図とかロケーションの関係で例外はありますが。
OPクレジットで、シルエットのハルヒがひたすら左向きで移動するということから見ても、この映画は基本的に右から左の流れで物語が進行する事が分かります。
この原則を頭に入れておくと、モノローグされる以上に登場人物の感情を読み取りやすくなるのではないでしょうか。


ここから本論ですね。長い前置きになりました。
青春映画としての「涼宮ハルヒの消失」始めましょう。

映画のスタートはキョンが目覚めるシーンを主観で撮ったカットから始まります。この目を開く、というカットは本編中何度も反復されるのでとても心に残るはずですが、それぞれに意味的な役割が全く違うので、よく分析しないといけません。
まず、最初のこのカットは、物語のスタートを提示するとともに、彼にとっての日常のスタートでもあります。
起きてすぐに溜息をつくというアクションが、現実に対するキョンの認識を端的に表しています。また始まったなぁと。
あまり現実に対して良い感情を持っていないわけですね。

廊下で古泉と会話するシーンは「1-9」という表示を強調することで、観客に後の展開を分かりやすくするための補助線みたいなものです。その後のシークエンスも彼の日常をさりげなく描写するとともに、キョンの他人との関係性を簡潔ではありますが、説明しています。

最初に部室に入るシーン、丁寧な作画が目を引きますが、着目すべきは彼が、左向きに部室に入る、というアクションの構図です。これは非常に大事な意味合いがあって、無意識的ですが自分から部室に入るアクションを肯定的に捕らえた構図といっても良いのではないしょうか。
大きな音を立てて、涼宮ハルヒが画面に登場します。ここでは彼女のクローズアップショットになっており、彼女は画面に納まりきっていません。ここで観客は彼女がとてもエネルギッシュな女性であるということがわかります。これ多分何も知らない状態でみても、彼女の性格がある程度理解できるのではないでしょうか。
OPクレジットはテレビシリーズの視聴者へのサービスという意味合いと、これから始まる物語がまぎれも無く「涼宮ハルヒシリーズ(特に一期ですね)」の正統的続編であることを強く印象付けます。同時に小さなコマでさりげなく、SOS団という集団の中での登場人物の関係性が分かるようになってます。

パーティの話はまぁ、そんなに大事ではなくて、大事なのはその後ですね。古泉との廊下での会話です。
涼宮ハルヒが成長した、他の皆も成長しているのではないか、という話はとても大事なテーマ的な伏線です。
キョンは長門を頭に浮かべますが、テーマとして一番重要になってくるのは語り手であるキョン自身の成長です。
皆が成長する中で、彼も成長しなければいけない瞬間が近づいています。

二回目の目を開けるシーンが続きますが、これは話が起承転結の「承」入ったことが表しているのではないしょうか。導入部が終り、本格的なお話が始まりますよ、という合図です。大事なネタフリが続きます。彼にとっては最後の日常です。
細かな仕草や態度からキョンがやはり現実に良い印象を持っていない、という演出が続きます。「へっ、世の中なんてつまんねぇよ!」そう思っているのです。

そして、ここから話が展開していきますが、まず映画の最初のカットと同じ様に目を開き、部屋を俯瞰した構図が反復されます。そして同じような登校シーンが続きます。この辺りで、「あれ、なんだかおかしいぞ」そうなってくるわけですね。
同じような演出で差異を際立たせるといのは映像表現の常套手段ではあります。テレビシリーズ版の「エンドレス・エイト」はその意味において非常に成功した例ですね。ようは間違い探し。それが作品そのものの成功とは直結しませんが。

朝倉の登場シーンは物語的には大事な要素ですが、まぁテーマ的には大して大事ではないので、どうでもいいっすね。
何も知らずに見たら、なんじゃいなこの人ってなるだけですしね。
でもこのシーンで印象的なのは、斜めのカット、仰角のカット、逆行のカット、画面に対してキョンが非常に小さく写るカット、窓枠が格子のようにキョンを取り囲む・分断するカット、などが多用されていて、不安感・不穏感を煽るシーンとなっていることですね。
ここでは朝倉が登場した、ということよりも涼宮ハルヒがいなくってしまった、ということがよりキョンを不安に陥れている。
彼にとっての「青春」=「ハルヒ」であるので、彼はここで青春が失われてしまったという事態に気付いてしまうのです。
朝比奈さんとの会話で決定的で取り返しの付かない事態だと確信を得ます。映像的にも先ほどと同じように下から斜めに撮る構図が多用されていることにも注目です。直後にぽつんと光の中に取り残されたキョンのカットが入ります。一人だけ取り残されてしまったという印象をより強めます。

また部室に入るカットは、これまた同じ構図・アクションの反復です。
同じ構図で長門が部室の隅に座っていますが、ここではやはりメガネを掛けている、という差異が際立ちます。

さぁ、ここからの話はだいぶ観念的なこと言いますが、キョンは「現在」を失ってしまいました。まるっきり違う世界に身を置く事になったわけですから。
人間というのは周囲の環境があって初めて独立した個という側面が強調されるものですが、ここでの彼は「現在」、つまり彼にとっての「現実」を失ってしまいました。これはキョンが、キョンというアイデンティティを失ってしまったということと同義です。
ここから彼がしないといけないことは、自分は誰かということを自力で見つけ出すことしかないのですね。
彼が例えば現実に帰ろうと思ったら、まず自分とはどういった存在なのか、それを思い出さなければいけません。
それは誰かとの関係性であったり、過去の自分の行動であったり、そういう物の中にこそ、自分は自分であるというアイデンティティがあるのだと、気付かなければ行けません。
キョンの印象的なモノローグ「もし幸せな世界に連れ去られた人の話」が効いて来ます。本当に幸せなこと、とは何かとはその人がどういう人かということととても関係が強い。彼の自問はそのまま彼を突き動かす衝動に繋がります。
彼はまだはっきり自覚できてはいませんが、涼宮ハルヒがいる、自分が自分として行動した世界への帰属意識がはっきりしているのです。
だから彼は自分の住んでいた世界とは違うところですが、自分の大切な友人を思い出深い部室に集めなければいけないという物語的な必然とテーマ的な必然が結びついてくるのです。ちょっとお話としては強引な運びですが、長門からの指令という形で彼は他の部員探しに奔走することになります。ここでの手がかりとなるしおりが「ハイペリオン」という彼にとっても思い出深い本に挟まっていたことも必然なのです。人間のアイデンティティは過去の自分とは地続きで分断できるものではない。失われたアイデンティティを回復する為に過去を振り返るというのは当たり前のことだからです。
彼がアイデンティティを取り返す決定的な契機になるのも、同じく過去の自分が行った行動です(笹の葉ラプソティというエピソードを見ていないと意味が分からないという欠点ですが)
彼は過去の自分が今の自分を形作っているという当たり前のことに気付くのですね。
だから彼は涼宮ハルヒと再会したときに叫ぶのです
「私はここにいる」
これは元々は多くの人の中で埋もれてしまいそうな自己をなんとか発信しようとした涼宮ハルヒという少女の心からの叫びであったわけですが、この言葉が過去を失い同じようにアイデンティティクライシスに陥ったキョンの内情とリンクします。
過去を否定しないでくれ、自分がここにいる事を見つけてくれ、そういう叫びなわけです。
キョンは涼宮ハルヒという少女と過去を共有することで、異なる世界でもなんとかアイデンティティを回復するのです。
同じ過去を共有できなかった長門との決定的な違いがそこにはあるのですね。長門は理想化した過去をキョンに語りますが、キョンにとってよりリアリティがあり自我に直結していたのは、あまりいい思い出ではないかもしれないが自分の過去であるわけです。

物語は右から左に流れる、と言いましたが、とても印象的なシーンがあります。
長門の家に行き、キョンが早々に立ち去ろうとしたとき、彼は右から左に出て行こうとします。これを長門が精一杯袖の端を掴んで必死に止めるシーンです。ここがね、非常に美しいの理由は、自己を回復し成長しようとしているキョンをなんとか振り返らせて自分と同じ地平に踏みとどめさせようという長門のいじらしさが見て取れるからですね。
画面の端っこから少しだけ身を乗り出して、袖を掴むという映像で視覚的にそれがわかるんですよ、演技とかだけではなくて構図から。それがね美しいし同時に哀しいのです。
この構図、このイメージは以後も反復して劇中に何度か使われます、非常に大事なシーンです。
観客としてはここで振り返って長門の元で食事をしても、それが一時的なものでしかないと分かっているんですね。物語的にキョンが成長しないといけないわけですから。そこの一瞬だけ、一瞬しかなくても精一杯引き止めるその切なさが、僕の心を打つのです。
直後にキョンが涼宮ハルヒの元に帰りたいと自覚してしまう、というのも長門という少女の報われなさを強調しますね。

涼宮ハルヒを異世界でも見つけた、キョンは走り出します。
これはロケーション的な問題で、左から右に走らざるを得ないシーンがありますが、走るということが物語り的な前進をそのまま表しています。その力強さを補助する為に、電車が彼の走る方向と同じ向きに併走します。
また涼宮ハルヒと再開した際にも、ご丁寧に電車が右から左に走ります。物語が確実に前進していることを表してくれます。分かりやすいです。

またレストランで楽しそうにハルヒが宣言するシーンも最初の登場シーンとリンクして、画面に収まりきっていません。
世界が変わってしまっても彼女はアイデンティティを喪失していません。いえ、彼女も同じように自我を喪失していましたが、キョンと過去を共有することで本来の自分を取り返します。ただこの物語はキョンの物語なので、涼宮ハルヒが改変された世界でどのように過ごしていたか、は断片的に語られるだけなのです。

こうして過去を肯定的に見つめ返し、なんとか自意識を確立できたキョンは皆を集め、部室に再集合です。そしてカメラに向かって正面から「部員その一」であることを宣言するわけです。
これが、アイデンティティの再獲得という映画なら、ここで終りです。この映画、そうじゃない。もう一歩先ですね。
キョンはアイデンティティを勝ち得るとともに、自分の青春を取り戻そうとします。
もちろん改変された世界でもある程度青春は楽しめるかもしれませんが、本当の意味で自分が自分であり続けることができる世界を取り戻そうとする。
これは未来を勝ち取る行動です。しかもこれは全て自発的に行われる行動です。自分で未来を切り拓く、それこそが人間の尊厳である、そういうことを伝えようとしている映画なわけです。
だからキョンは未来を勝ち取るためのアクションを起こす、その前に長門に入部届けを返すわけです。これは理想化されたぬるま湯のようなユートピアとの決別シーンです。
ここではわざわざイマジナリーラインの侵犯を行ってまで、キョンが画面右、長門が画面左という構図を作っています。
まぁ日本のアニメはあまりイマジナリーラインなどは意識されていませんが、彼は未来を進み、それを止めようとする鎹としての長門は過去のものである象徴です。
この入部届けを返すシーンを始め、基本的には未来に進もうとするキョンを引き止める長門という構図を映像として示す為に、二人の立ち位置は、キョンが画面右、長門が画面左です。
過去の長門がキョンにしおりを渡すシーンは逆の構図になっており、二人の関係性が全く違うことを視覚的にも示しています。

さぁ、いよいよ大人版朝比奈さんの登場シーンです。
彼女はメンターとして、キョンを導くと言う非常に重要な役割を担って人物です。彼女はキョンが進もうとしている道が正しいことを示唆し、物語的にもテーマ的にもキョンの行動を支えます。
彼女はキョンが今まで疎ましいと思っていた日常そのものの貴重さを静かに説きます。その内容は多分学生時代を懐かしいと思ったことのある人間なら誰しもが感じる貴重さで、そこにこの物語の普遍性がある。未確定の未来を生きた先達としての朝比奈さんの言葉はグッと来ます。


そうなんです。
「青春は貴重なんだ!」そんな当たり前のことを2時間40分もかけて堂々と言ってのけるのがこの「涼宮ハルヒの消失」という映画なのです。
キョンという天邪鬼な人間は、過去と現在を奪われて初めて気付けてたのです。自分がいた世界はなんと幸福な世界だったのだろうと。だから彼は今までの受け身な生き方を捨てて、もう一度、今度は自発的に生きていこうと決意し現実に帰るんです。
だから僕は感動するんです。嫌なこと面倒なこと、色々あるけども、自分が確かに生きてきた世界でこれからも不器用に生きていくことを自分で選ぶ、その姿勢が大好きなんです。
自分が存在した過去を否定しないで、自分の足で自分の人生を生きていく、その決意の尊さ。
単純でストレートなメッセージを丁寧に描写してるんですね。
だから感動するんです。
そしてキョンは自分を肯定するとともに、長門という不器用な子供にも手を差し伸べるのです。
最後彼女の手を取って彼女の存在も肯定してあげる。これはとても大きな成長です。
「気に病むな、君は君のままでいい」そう告げてあげるのです。
長門という存在の理想ではなく現在を肯定してあげる優しさすら獲得するのです。
そして彼は自分の行いの責任も取ろうとする。
アイデンティティの喪失と再獲得というイニシエーションを終えた彼は大人になったのです。
そして最後、彼は未確定の未来(涼宮ハルヒの作る鍋という形で提示されています)の待つ部室の扉をはっきり明確な自分の意志で開け、一歩を踏み出す。
そこでこの映画は終わります。なんと美しい映画でしょう。
同じ構図、同じアクションですが、最初と如何に違うかが観客には分かります。
まぁ、正直モノローグで語らせすぎである、とは思いますが。

映画的な欠点も沢山あります。モノローグで語らせすぎであるし、そもそもテレビシリーズを見ていないと意味が分からないという点がそもそも映画としてどうなの?ってところです。
それでも原作のエッセンスを抽出して、さらにもっと作品的な厚みを増す演出力はやはり僕は無視できないと思います。
原作読んだって、こんなこと思わないですから。映像化して、上に書いたような演出を付け加えることで、メッセージ性をより強化した。
だから、映像作品としての「涼宮ハルヒの消失」を僕は大好きなんですね。
ただの萌アニメ、という枠をちょっと飛び越えた完成度を持つ作品であると宣言して、今回の記事を終わります。
正直途中でシーン毎の演出について書くのは飽きました。申し訳。
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今青ショーヘイ

Author:今青ショーヘイ
映画を見ることだけが生きがいになりつつります。最近ライター業を始めました。

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