人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

肉体の内なる人(魂)を浄化するには【型】の演技が必要となる

魂の本質は自由な存在であり、型には定まらないとされます。

 

魂は本質的に肉体を持つ必要がないのに、何故に肉体を持つ。

 

スピリチュアルを言われる方と【言葉の仕組み】を解説している私とでは、物事に対する解釈を別にします。スピリチュアルだと、人は何故にこの世に生まれて来るのかの問いに対しては、だいたい【この世を楽しむ為】だという論理です。

 

私は自分の肉体を使って、辛い作業である【霊の浄化】をして来ました。

 

人は何故にこの世に生まれて来るのか?

人は【霊止(ヒト)】と言い、肉体に霊を止めています

 

それは、肉体を持つことで【内なる人】を浄化するです

 

その【霊止(人)】の肉体には通常魂が一つ入ります。が、希にその人の魂の他に自分の魂を浄化する肉体を持たない他の魂が入って来るがあります。魂だけでなく思念と呼ばれる霊の憑依等も受けると、そこに【多重的な性格】が出て来ます。それらを統合管理するのが自己の本来の魂と言えます。

 

そこに【精神統一】の言葉が存在する

 

思念の憑依だけであれば肉体の性格の「多面性」だけで終わります。あの人は多趣味な持ち主などと呼ばれます。

それなりの宗教家と成られた人の場合、その人の背後霊団の巨大さが指摘されます。霊能者などをされている方だと、その背後には何百何千と言う霊が従っていることが見られるなのです。単純な性格の人と複雑な性格の人の違いには、他の意識(思念)の憑依もあるわけです。

そこに一つの問題が生じます。本来の肉体の自分(魂)とは関係ない魂がその肉体に入り込んで来ると、【多重人格】症ともなって来ます。小説、「ジキルとハイド博士」の様なことになるのです。

 

これが一番解りやすいのが、【他人の魂を乗っ取る】です

心臓移植手術も、していることは他人の魂を移植するです

 

この他人の肉体に自分の魂が入るなどは、テレビで魂が入れ替わるドラマの放映がありますが、そうしたことは【霊媒者】と呼ばれる存在を使って霊卸しをする霊能者ならば常識の範疇と言えます。世のスピリチュアル標榜者の多くは、そうした霊界の常識すら学んでいないなのです。

こうした霊卸しは、大本教の出口王仁三郎聖師が若い頃、綾部市下八田上谷で信徒を集めて神懸かりの【幽斎修行】を実行して、信徒に霊が懸かって手がつけられなくなり幽斎修行そのもを打ち切ったがあります。

そうした幽斎修行で霊卸しは出来ても、憑依した霊を霊媒者から外す能力が優れていないと、霊に憑依された人の霊が高級霊の場合はいいのですが、低級霊に憑依されているのを除去するとなると困難を極めるのです。行者が【九字】を切るのは憑依してきた霊を外す為なのですが、強烈な霊憑依だと九字では効力がないともなります。

 

何故に修験などでは【九字】と呼ばれるものが存在して来るのか?。

そうしたことを学ぶだけでも霊界の存在を認識出来ると言えます。

 

私は出会った行者さんから、あなたは九字一つ切れないのかと呆れかえって言われてしまいましたが、九字とは本に書いてあるものではなくて、神霊と直接に会話が出来た方は、その人の魂の霊格に応じて神霊から九字は降ろされています。為に、一人一人その九字の切り方や印の結びは違っているのです。

 

私の最初の師匠は女性ながら当時は他の稲荷行者から稲荷行者のトップ霊能力者と言われていて、その魂は豊受姫の分魂ではありませんでしたが、その側に居た霊媒者の方は豊受姫の分魂の持ち主で、どのような霊でも降ろせるで霊媒者としては超一流の方と言えました。私は霊媒者としては、まだこの豊受姫の分魂の方を超える霊媒能力者を見たことがありません。この方の霊媒能力を見たならば、誰もが驚くでした。

霊能者の間で高い霊媒能力を持った女性の取り合いがありますが、それだけ世に数が少ないと言えます。スピリチュアル標榜者ならば掃いて捨てるほどの数がありますが、霊媒者として本格的に使える方はほとんどいないなのです。

 

大本教の出口王仁三郎聖師は卓越した預言者(予言者)でしたが、行者的能力に関してはもう一つだったのです。だが、行者としては卓越していても、大本教の出口王仁三郎聖師のように霊界の高次元界にアクセス出来るかと言いますと出来ないのです。そこには【魂生来の格】があるからです。

大本教の出口王仁三郎聖師は素戔嗚尊の分魂で、伊勢神宮に鎮座されている御神霊とほぼ同格と言われていますが、為にあそこまで国家神道と対立したとされています。それは伊勢神宮に鎮座されている御神霊は、出口王仁三郎聖師クラスの魂の存在ということを物語っているのです。

いくら高次元世界の魂の持ち主でも【万能】ではありません。分野分野において特筆した能力を発揮するです。それは【道の違い】という話なのです。

 

巷には出口王仁三郎聖師が素戔嗚尊の魂であったことから、自分は素戔嗚尊の魂であると称している方が私が知る範疇の中でも結構おられます。

テレビ等で有名な某霊能者の方も自分は素戔嗚尊の魂と語っていると聞いたことがあります。ただ、自分は素戔嗚尊の魂だと世に大宣伝をなされていないので、私も人から聞くまでそのことは知りませんでした。

そうした自分は素戔嗚尊の魂と言われる一人の方を救世主と信じている信徒の方から、自分達が救世主と信仰している方は素戔嗚尊の魂で、素戔嗚尊の【型】を演じる為に大苦労をなされていますが、今の状態だと【パワー不足】で大震災を止めることが出来ません。大震災が起こるの止める為に自分達信徒のみならず、貴方もその神業に参加してくださいとの依頼メールが来たことがあります。

私は三度ばかり大本教出口王仁三郎聖師と思しき霊に出会っており、出口王仁三郎聖師が内密にみろく神業の要とされた場所に住んでいますので、出口王仁三郞聖霊から直接の依頼であれば動きますが、出口王仁三郎聖師を超えていないと思われる方を素戔嗚尊だと言われてもです。

 

そこに、素戔嗚尊の【型】は何だ!。が出ます 

 

スピリチュアルでは魂の本質は自由であり、魂に【型】などは無いという考え方をします。しかし、反対に【型】を重視している方達もあるのです。

 

型とは何?。型とは【大地の刑】

 

行者の世界では、この世は【魂の刑務所】と捉えて、スピリチュアルの様に【この世は何をしてもいいのです。自由なのです。】等の考え方はしません。為に、型とか作法を重視したりするわけです。印を結ぶとか、九字を切るなどもそうした【型】の一種と言えます。 また、祝詞を上げるとか御経を唱えるなども「型」と見るわけです。

仏教の開祖のお釈迦様は「悟り」を得られる前までは、前人未踏のあらゆる「荒行」を積まれたと言われています。そして、その【型】を超えた。破ったです。だが、それは自分が「型」を超えたのであって、最初から「自在」ではないのです。

スピリチュアルでは【あるがまま】を説かれる方を多々見かけますが、それは「あるがまま」の言葉だけを見て言ってるだけで、本人自身はその前段となる【型】修行を積んでいない為に、上辺の教えで中身がまるで伝わっていないがあります。

 

お釈迦様は【枠】を超えられた

その枠が、魂の点数で【九十(卆)点】

 

人に神霊などが就く(憑く)場合には、その【人の肩の上に乗る】があります。

多くの人は「肩」の字を見た時、肉付き(月)と「戸」がある意味が解らないと思います。人の肩には、霊魂が肉体の中に入る【戸】があるのです。

 

霊媒体質だと霊に乗られると「肩」が重いを体験します。

 

高い神霊は山の上などに祀られていて、低い霊はその高い場所には行けません。為に、その高い山に居る神霊の元に会いに行きたい時などには、参拝者の「肩」に無断で乗っかって行くがあります。 霊媒体質でないと気づかないのですが、霊媒質の方だと霊山に上がる時にはやけに肩が重かったが、降りるときには肩が軽いを体験しているはずです。肩の「荷」を降ろしたのです。私自身は、霊はスピリチュアル標榜者が言うほど自由には動けていないを知る者です。

 

肩の荷を降ろすとは、自分勝手なことをしても良いの意味ではないのです。

 

この世は遊ぶ処と思う魂は、肉の型に入ることを「苦」と感じ

この世は魂の更生所と知る魂は、型に従うことを「苦」としない

 

肉体と言う型を持たないと、魂の汚れは浄化されない

 

肉体を失った後に、泣き言を言っても始まらない

 

 

 

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