人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

日本語は神の言葉ゆえ、【指名】された【氏名】者が【使命】を演じる神の芝居

日本語は【神の言葉】だと言われています

 

聖書には、【最初に言葉は神と共にあった。】と記されています。しかし、一部のスピリチュアルなどは霊界には言葉などは無い。全て【テレパシー】での会話だと言われます。そこに【言葉】に対する大きな勘違いが生じています。

本来のテレパシーの言葉はそうした意味ではないようですが、スピリチュアルでは人の口から出る言葉では無い【無声による会話】がテレパシーだと思っている方が多いようなので、ここではその意味で使います。

 

私は霊能者とは言えませんが、時たま神霊や霊との会話はあります。その会話は俗に言われる「テレパシー(無声による会話)」です。別に私の肉体の口から霊に対して言葉を発しているではありません。自分の心の中の想いを言葉として語っているわけです。当然に【心から出す言葉】なので【無声】です。

例えば、何人かの霊能力者の前に神霊が出て来られていて、その中の一人と会話をされている。だが、その会話をされている方以外の方にはその神霊の姿は見えていても、その会話内容が解らないがあります。つまり、単にテレパシーで論じるのであれば、言葉は波動なのでその他の霊能者にも話の内容が聞こえるはずですが、必ずしもそうとはならないなのです。それは【言葉】とは何か?。そこに論点が行っていないがあるのです。

 

霊界の言葉とは、思い(想い)の伝達

 

思いは「田の心」で、【米】作り

 

しかし、霊とのテレパシー(無声会話)も霊によって、その【声質】に違いがあります。全ての霊が同じ声質で聞こえ来るではありません。その「声質」が違うということは、霊は人と同じ肉体を持っているではないのですが、霊界用の肉体たる霊体を持っています。つまり、霊界はテレパシーで会話と言っても【霊界での有声】で会話しているのに過ぎません。それも言葉です。そこを間違えると、聖書に書かれている【最初に言葉は神と共にあった。】の意味を間違えます。肉体人間が出す様な【有声音】だと思っているわけです。

 

私は修業に入って数年後、最初の師匠が娘時代に一年間毎日通った豊岡の瀧場で瀧行をすることになりました。すると、その瀧場の近くから御経が聞こえて来ます。当時の私は天津祝詞や神道系の祝詞はマスターしていましたが、仏教系は般若心経ぐらいしか読んでいませんでした。その御経が何経なのか解りません。

そこで、最初の師匠に聞くと、瀧場の側に在ったお堂は観音堂で、その観音堂の観世音菩薩が上げておられる【観音経】だと言います。道理で当時の私にはちんぷんかんぷんの御経でした。他にも何人かの霊能力者が一緒でしたが、観音経を聞いていたのはその師匠と私だけでした。私に聞こえて来る観音経の霊声は男性の声でした。その師匠は観音様は男性でもなければ女性でもない中性だと言いましたが、私は男性の声として捉えていました。

それよりも不思議だったのは、その観音経のまにまに人の様な【息継ぎ(ブレス)】がないのです。それは、霊は私達の肉体の様に呼吸をしていないなのです。それは霊魂は空気が無い場所でも生きているなのです。私達肉体人間は「空気」を必要としますが、霊は「空気」の必要がないとなります。それは、霊は空気が無い「星」にでも住めるなのです。

 

後日、その師匠とお不動様が祀られている瀧場に行った時、どこからか蚊が鳴いているような声が聞こえて来ます。男性の声です。誰だろうと思って師匠を見ると、耳を押さえて地面に伏しています。師匠にどうしたのですかと聞くと、この瀧場のお不動様が大音響を上げて【不動経】を上げておられます。あまりの大音響で鼓膜が破れてはいけないと、耳を押さえて伏せているのですと言われます。

見ると瀧場に不動明王の像が祀られています。その不動明王像の下から御経が聞こえているのです。その不動明王像に近づくと、そこから地底に通じる霊道があり。その奥底から声が聞こえているのです。もし私に肉体が無ければそこから地底に降りて見聞したいところですが、肉体が邪魔をしますので適わないでした。後に、霊場などでは地底に降りる場があるなども見るようになったでした。私はそうしたことからも噂される地底王国(シャンバラ帝国)もあり得ると見たのです。

 

そうした不動明王や観世音菩薩が上げられる御経とは、誰の耳にも聞こえるではありません。だが、それらの霊が出す言葉も、各霊によって声質は違っているのです。それを無声とは言わないのです。

私が伏見稲荷大社講社に所属していて伏見稲荷山の夏祭りの時、宵宮の夜には御膳谷の清明舎で宿泊していると、真夜中に瀧場から天津祝詞や般若心経を上げる声が聞こえていました。行者霊が死後も本当の霊界には渡らず、いまだに修業に明け暮れている行者霊達を哀れと感じていました。そうた行者霊が上げている祝詞なども、一人一人個性がある声であり「無声」ということにはなりません。

その後、私は【言霊】の世界に転じたのですが、そこで【サニワ(審神)】をして来ました。そのサニワとは優秀な霊媒者が側に居ないと出来ません。しかし、スピリチュアル標榜者は星の数ほど居ても、優秀な霊媒者は滅多にはおられません。そうしたサニワの場において、サニワ者の言葉は【剣】の働きを持ちます。言葉が【剣】と化すのです。

 

ヨハネの黙示録、言葉の王の言葉は諸国民を討つはあり得る

 

言葉とは【音波】であり、音は【日立(光)】ともなる

 

【闇(門から音)】の漢字に気づかぬ人ばかり

 

私達日本人は日本語を使います。その日本語は【漢字】混ざりですが、漢字があることで言葉の【感じ】が解ります。

一方、霊との会話は【テレパシー】になりますが、私達は言葉で会話している時、その言葉に自然と【漢字】を見ているのです。

例えば、「キシャ」と発音した時、それは汽車か記者か貴社か帰社か喜捨かは解らないことです。だが、私達は会話の中で、それがどの言葉の意味なのかをほとんど【漢字(感じ)】で掴んでいることが解ります。

今の日本人は英語がグロバール化していますので、日本語が【神の言葉】であるなどまったく理解していないのですが、英語で言葉の仕組みなど織れないであろうとは推察出来るわけです。

 

神とは言葉で【示し申す】なれば日本語を見る

 

神との契約の示しは、魂の【禊ぎ】自体にある

 

私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、【この私が筋書きを書いた神の世界の芝居の舞台に上がる役者は、誰も舞台の筋書きを知らずに上がることになる。その神の舞台には正義を演じる役もあれば、悪を演じる役もある。この私が監督を務める神の世界の芝居の舞台の役者は、誰が主役で誰が脇役で誰が悪役かさえも知らない。】

【自分は脇役なのか。単に通りすぎる役を演じるのか、それも知らない。自分に与えられた役がどのような役であろうとも、その舞台を見事に演じ勤め上げたならば、次の舞台(みろくの世)ではよりよい役(立場)を与える。その神の芝居の舞台を見るのは、世に出ている神々や人民である。神の舞台の役者は、この神に使ってもらっていることを忘れてはいけない。この世の舞台の筋書きを知るのはこの私だけであり、神々や人民が知ることではない。】と告げられました。

また、【例え自分の役が悪の演技だったとしても、神の舞台の役者は舞台を終えれば(この世で使命を終えれば)、その化粧落として元の姿に戻らないといけない。もし、その役の化粧を落とせないとすれば、もう二度と神の舞台の役者としては立たせはしない。】とも言われました。

 

この論理は一見すると解らないかも知れません。

 

創造神からすると、善も悪も無いなのです

 

何故ならば、【死んだはずだよお富さん。生きていたとはお釈迦様でも知らぬ仏のお富さん。】で、「輪廻転生」と呼ばれる事柄で、この世での姿とは前世の時とは違えども、またもやこの世に復活して来ているからです。つまり、死んだと思わせて生まれ代わっているのです。人は死ねば終わりは、霊界の大嘘の中に生かされているのです。

それは、舞台の役者と同じです。その時の舞台では殺されるとしても、その舞台が終演するまでは同じ舞台に上がって殺されているようなものなのです。その時の舞台で殺されたからと言って、その役者は死んでしまったのではありません。

私達の肉体は舞台の役者と同じで、その舞台では殺されて死んだとしても、魂はこの世の舞台が終わっても生き続けるように、次の幕が上がればまたもや役者として演技するなのです。

 

この世は全て魂の学びの為の舞台であり、悪役を演じている者達もある 

 

そこに、罪を犯した人を憎まず、その罪そのものを憎みなさいがあります。

確かに、私達は善を知る為には悪から学びます。もし、悪がこの世に存在しなければ、善とは何たるかが解らないからです。そこに、善を教える為の悪の役があるのですが、しかしこの世での舞台の化粧を落とせないでいると、元の生まれた時の魂の姿に戻ることが出来なくなった根っからの悪党もあるなのです。

 

自分を悔い改めよとは、神の舞台の演技故に犯した罪は

 

化粧を落とす(悔い改める)ことで、元の姿に戻るなのです 

 

それが如実に解るのは、個々の人の魂の状態なのです。悪党なのに、この人は本質的に良い人だと思える方がいます。一方、表面は善人面をしていても、自己の魂を腐らせたり捻らせていると「閻魔大王」様でも無い限り、その魂を更つ(新つ)魂にすることは出来ないのです。その意味が【魂を鬼と言う、牛虎金神】ともなるのです。

大本教から出されたウシトラ(艮)金神を単に【東北】に引退されたと正面から受け取ると、ではその【東北】はどこかとなります。東北中を歩き回って解りますか?。なのです。解るのは東北は【未知の九(みちのく)】の仕組みです。そこには言葉の【綾織】がなされているなのです。

こうしたことは、私は後に大本教神諭に触れて同様の内容が書かれていることに気づきました。私を見た霊能者の方達の中で7~8名の方達から、貴方の本守護神は【国常立尊】様ですと教えられて、私も大本教が演じた神の存在を告げる舞台の役者の一人にしか過ぎないと実感したしだいです。

 

神芝居の舞台に上がる役者に、その神芝居を見る観客は神々と人民

 

私が初めて伏見稲荷山に上がった時、豊受姫のお代をしていた最初の師匠から、豊受姫からの言葉として、【貴方は言葉の神と呼ばれる貴いお方です。貴方の言葉による教えは天帝の「詔」と同じことであり、貴方の言葉による教えが聞けぬ神は如何なる地位の神であっても、天帝に対する反逆罪として天帝から裁かれてしまいます。】と言われます。しかし、私が言葉の神などあり得ない話です。だいたい私はそんな大物ではありません。 

そこで調べたところ、外国の方に残っていた予言に、【異国の人が異国の言葉で万軍の主の存在を語る。その異国の人はその国では「言葉の君」と呼ばれている。その異国の人は自分は万軍の主を知らないと言うが、万軍の主はその異国の人のことを知っていて、終わりの日。万軍の主は全ての裁きを終えた後、異国の言葉の君を万軍の主の元に召し出して、万軍の主の全権を授ける。その日をもって、全てのユダヤ人は助け出される。】がありまして、もしかすると、その異国の言葉は日本語でも出来るのかと、取り組んだだけのことなのです。私は残されていた予言の異国の【言葉の君】の名を拝借して、勝手に名乗っていた者にしか過ぎません。 

 

そうした予言でも解る様に、私が演じているのは【神の芝居の舞台の役者】だということなのです。

 

どうして私に次々と言葉の仕組みの解説が出来るのかと言いますと、大本教の出口王仁三郎聖師は霊界物語に登場して来る人物に関して、大本教信徒の【氏名】で型を演じさせておられます。その事に関して、霊界物語の中に自分と同じ名前があるからと言って、それを自分のことと思うなと注意されています。

私の夢の中に私が知る方が出て来て芝居を演じて来るのです。その方の【氏名】とその演技で解る【使命】で、言葉の仕組みの意味が解るのです。つまり、私の夢に出て来る霊は神から【指名】された人達なのです。しかし、その方の肉体自身は何も知らない。まさか、自分の霊が霊界で神の舞台の芝居を演じているとは思ってもおられないなのです。

私が子供の頃に臨んでいた声の主は、私が行く先々に私が言葉の仕組みを解読が出来る【使命】を持った【氏名】の人達を配置しておられたなのです。それは、創造神と思われる神の仕組みが単なるものではないと言うことなのです。

 

日本語でなければ、指名された氏名に使命があるとは解らず

 

創造神が想像神とも解らず、龍神が流神とも気がつかない

 

例えば、大本教神諭に【この世の末(まつ)から、松(まつ)で治める】があります。私の夢の中に「松岡」と言う名の方や、「平松」と言う名の方が出て来ます。その方達が私の夢の中で演じる演技で、同じ【松】でも何を意味していたかが解るなのです。単に松の字しか見ていないと、そこに【公】の字が隠れていることが見えないのです。

 

大本教神諭の「松の世」とは、【公】で治める世

 

牛虎の「虎(寅)」は、演技とか「劇」で解る

 

自分には神霊が見える。神霊と会話が出来るといくら豪語しても、その神霊にこうした言葉の仕組みなど出来る力はありません。私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、【そなたの背後にこの私が居ることが見えない神は使い物にはならない。】と告げられたのですが、本当にそれほどの神であったのかどうかは私には解りません。しかし、言葉の仕組みをして来た霊とは神社に鎮まる段階の霊では無いぐらいのことは凡人の私でも解ります。

 

こうした言葉の仕組み以上のことが出来る御神霊ならば、私はその御神霊こそが創造神だと言ってあげます。

 

ただ、私は大本教神諭予告【九つ花】に咲く一輪の言霊の経綸が【米】型であることを説いているだけで、その「米」の教えに罵詈雑言浴びせて来る人達に対しては、その人が将来のみろく世に必要欠かざるべき方であれば、私の背後霊団はその方には【本当の神光】を見せています。

その神光を見た優秀な行者筋の方は、その神光そものに殺されるとまで言われて、今の世に出ておられる御神霊達が放つの光とはまるで違うと言われます。私自身はその神光を見ることは適いませんが、そうした行者筋の方が神光を見て悔い改めるような方だけには神光を見させておられるなのです。

しかし、新しい世に必要が無いと思われている様な存在で霊が見える方に対しては、その神光を見せないようにされています。既にその魂が捻れていたり腐っている場合です。そんな方に神光を見せても意味がないからです。【悔い改めが出来る人】には、神の光を見せるなのかも知れません。

 

 

 

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