なぜ創作は祈りなのか 死と他者
芸術の駆動力はどこから来るのか。いわゆる近代芸術というのは神の死から始まるが、神の死によって露呈したものは「死」と「他者」である。共同体が崩壊し、信仰も崩れていく中で、孤独な個人が剥きだしになる。「孤独」というのは文学の大きなモチーフだが、孤独を描かなければならない必然性がある。
画家の友人は虚無主義にぶつかって「どうせ死ぬなら何も意味がない」と創作を続けていたが、他者にはあまり興味がなかった。最近は他者へと興味が向いてきたらしく、ポートフォリオを作成したりしていた。
近代的自我は「死」と「他者」に限界づけられている。神が保証していた死や共同体との調和を失う。そして「死」を直視した人間は、反照で自己の存在の不思議を思う。そしてその理不尽さに悩む。そこに神話的、文学的、芸術的な豊かさが生まれる。つまり悲劇がある。死を直視する人間には人間悲劇がありありと見える。文学の豊潤なテクストは死を直視した人間の豊かさだと思う。
一方で、人間は他者にも限界づけられている。死を支配しようとした者は挫折して祈らざるを得ないが、他者はある程度支配できる。「純粋芸術」と「大衆芸術」の差はここにあるのだと思う。大衆芸術は、表現により、自己の限界を超えて、他者の視線を支配することができる。ただ、その分表現が浅くなってしまうと思う。
支配欲ではなく「共有したい」「繋がりたい」という欲求が創作をする動機になることもあると思う。ただ、他者と合一することは不可能なので、これも悲劇に終わる。
「不幸でなければ創作ができない」と聞くことがあるが、創作とは死と他者へ向き合った時の「挫折」から生まれるものだからだと思う。「生きたいけれど死ななければいけない」「繋がりたいけど繋がれない」という矛盾から挫折が生まれ、自己に向き直った時に「それでも」という祈りが湧き出てくる。絶対に超えられない死と他者との溝に表現を置くことが祈りとしての芸術なのだと思う。


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