ボーカロイドは「アンチ・セクシュアル」の実践者たりえたか
本稿は、鮎川(2022)における、「アンチ・セクシュアル」の議論について、それは正当可能であった議論か検討するための、試論であり、草稿である。
鮎川ぱて著『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』文藝春秋、2022年 では、その紙幅の多くが、「アンチ・セクシュアル」の検討で埋められている。ボーカロイドをジェンダー論やフェミニズムの俎上に載せ、新たな「教養」として建設可能にすることが、彼のボーカロイドに対する仕事の大きな部分だろう。
さて、彼は、初音ミクについて、以下のように述べる。
ぼくの仮説を一言で言います。初音ミクは「徹底的に対他的である」。
ミクは、その人が望むミクにつねになる。求められれば、おてんばなミクにもなれるし、すごくクールでスタイリッシュなミクにもなれる。「ミクはこうでなければいけない」という定式があって、それと矛盾するミクは存在してはいけないというルールはない。ミクは「自分を使う人/描く人」という他者に対して必ず感応するものとしてある。それは外形に関しても、内面に関してもそう。さらには、声に関してもそうです。他者の欲望に完全依存した存在であると言えるでしょう。
「他者の欲望に完全依存した存在である」と明言するように、じっさいに初音ミクはひとつのパソコン上のソフトウェアであり、使用するものとして我々がいて、使用されるものとして初音ミクがいる。この構図自体は、きわめて物質的な障壁として、我々の目の前に立ちふさがるのである。
他方で、鮎川は、wowaka「アンノウン・マザーグース」における初音ミクの存在を、このようにも記している。
「他動詞を自動詞化する目的語」としてのミク。
あるいは、自他境界確立以前に回帰させる他者。
「自他境界確立以前」とはどういうことか。ここでは、ヴィト・アコンチの「エアータイム」に対するロザリンド・クラウスの批評を引用する形で説明している[p46~47]。クラウスは、「エアータイム」を、自分と他者の区別を理解できる精神段階の、その以前の形態を確立していると評した。それが「アンノウン・マザーグース」における「あたし」と「あなた」、すなわち「作者」と「初音ミク」の関係が相似している、というのだ。
このことは、じっさいに創作者が初音ミクに抱く感情としてはきわめてプリミティブなものであると思う。初音ミクは、創作者にとって「自分の」ミクでありながらも、しかしどこか、「主体」めいた、「客体」めいた、あるいはさらにそうでないような、不思議な関係を結ぶ。「徹底的に対他的である」にもかかわらず、対等で身体越境的な感覚に陥る。
ブルーノ・ラトゥールは、このことについて、近代社会の「主体」と「客体」の二項対立を批判しながら、その越境可能性を指摘した[1]。同様に、西田幾多郎も、主客分化以前の、「純粋経験」を説いた[2]。使用者である私たちという「主体」に対する、被使用者であるボーカロイドという「客体」、この構造は、「初音ミクは「徹底的に対他的である」」という言葉でもって説明可能である。しかしながら、それをどこか飛び越える、トランジション可能である可能性として、初音ミクは「主客未分性」を持ちうる。
「主客未分」なる身体は存在してよいのか
はて、「主客未分性」とは、我々はどのようなプロセスでそれを内面化し、発露しているのだろうか。
「主客未分」なる烙印を、男性は長きにわたって、あるいはいま現在も、女性に与え続けてきた。たとえば、売春/買春の議論は最たる例である。
歌舞伎町における「トー横キッズ」、大久保公園における「立ちんぼ」、難波における「グリ下界隈」、このような俗称で呼ばれるアウトサイダーは、日本の大都市歓楽街において、2010年代以降認知されるようになった。インターネット上における言論は、その空間に売春する彼女/彼らを、肉体をコモディティ化する「主体」として、その行為や価値観を蔑視している。あるいは彼女/彼らだけでなく、多くの性産業従事者に対して、世間はそのような視線を浴びせ、スティグマを押しつける。売春という選択は、あくまでも当個人主体による主体的自由意思の決定であるとして、彼らの「境遇」あるいはその「主体的選択」そのものを蔑視するのである。
しかし、ここで述べるようなアウトサイダーに属する彼女/彼らは、複雑な家庭環境や貧困、家庭内暴力といった、「家族」というコミュニティに内在する諸問題に、その原初的根源を見ることができる。彼らはあらゆる社会空間、あるいは社会空間全体から、排除されているのである。然るに、すでにその時点で、「主体的選択」によってアウトサイダーを選択していない。彼女/彼らは、社会から追放される形でそこに行きつき、その最終的なる手段として売春行為に及んでいる。
本来的に批判されるべきは、その彼女/彼らを、その境遇を知ってか知らずか買春する「主体」たちである。しかし、にもかかわらず、その批判や対策は、売春するもの、売春させられるものに向けられ続ける。売春する「主体」にこそ問題がある、と。だが述べてきたように、彼女/彼らのような、社会的に排除されて、肉体をコモディティ化させられるべくしてさせられたものたちは、社会に対する「客体」なのである。
仁藤夢乃氏が運営する、若年層女性支援のためのNPO法人である「Colabo」は、「私たちは『買われた』」という言葉を用いて、この問題について提起している。買春する側は徹底的に無化され、売春する側に主体的選択の責任を問われる社会に対して一石を投じている。この動きに対して、インターネットでは大きなバッシングがあったが、その中でも「売ってなきゃ買えません」[3][4]という言葉は、この課題におけるヘゲモニーな男性性をもっとも象徴しているだろう。
ここで述べたいのは、男性性とは、つごうのいいときだけ女性に主体を回復し、またつごうのいいときだけ女性を客体化しているのではないか、ということである。とどのつまり「主客未分」なる女性とは、つねに男性性によって、そのいずれかを優位に選択され続けてきたスティグマであり、表象なのである。つまり、「主体」化される女性は、すでに男性性の与える「客体」である。そこにヘゲモニーがあるのだ。
他の例でも検討してみよう。DJ sodaは、韓国の女性DJである。韓国国内だけでなく世界的に人気があり、日本での公演も行っている。しかし、2023年8月13日に大阪府のりんくう公園で開催されたMUSIC CIRCUS’23に出演した際、公演の最後に観客と触れ合う折、複数人から胸を触られる性被害を受けた。これについて、主催のTryHard Japanは共同で声明を発表し、「この事件での行為が性暴力、性犯罪であり、断じて許すわけにはいかないことを改めて確認し、犯罪行為を行った犯人を特定し、損害賠償請求や刑事告訴など、民事及び刑事の法的措置を取っていきます。」[5]とした。その後、主催会社は当事者間で和解が成立したとして、11月1日付で刑事告発を取り下げた。
この件についても、インターネット上ではさまざまなヘイトが飛び交った。胸を(相手の同意なく)触る、という行為は、きわめて強力な不均衡でありながら、インターネット言説は「そのような服を着ているほうが悪い」などと、「そのような行為に男性を及ばせるための女性の主体的行為」のように判定する。ヘゲモニーな男性性は、性の社会的不均衡をその根拠に、女性を主客未分化し、自らの都合によって、その主客を巧みに使い分けて自己を無化しようと試みる。自身のヘゲモニーの矛先が女性客体でありながら、同時に、自身のヘゲモニーの隠れ蓑に、女性主体を利用するのである。
ここまで述べてきたように、「主客未分」なる価値観、属性を与えることは、それがすでに、ヘゲモニーの萌芽である可能性を指摘してきた。我々がボーカロイド、ひいては初音ミクに与えてきたこの感覚は、批判される余地があるのではないか。
もうひとつ、初音ミクの存在について議論をしたい。「設定」に関してである。
鮎川は、初音ミクの設定について、このように記している。
ミクについて、開発元のクリプトンが公式設定として発表しているのは、16歳、身長体重など、ごくかぎられた設定のみです。その制限の少なさが、クリエイターたちの自由な想像力を惹起して、豊かな二次創作(UGC)が生まれた。このような説明はボカロカルチャーの一般論として何度も繰り返されてきたものです。
じっさいにどの程度、公式設定とは短いものなのか。引用する。
クリプトン・フューチャー・メディア株式会社が開発した、歌詞とメロディーを入力して誰でも歌を歌わせることができる「ソフトウェア」です。大勢のクリエイターが「初音ミク」で音楽を作り、インターネット上に投稿したことで一躍ムーブメントとなりました。「キャラクター」としても注目を集め、今ではバーチャルシンガーとしてグッズ展開やライブを行うなど多方面で活躍するようになり、人気は世界に拡がっています。
年齢:16歳
身長:158cm
体重:42kg
イメージカラー:ブルーグリーン
ソフトウェアの声の担当:藤田咲(声優)
鮎川が述べるように、初音ミク、ひいてはボーカロイドを、二次創作のフロンティアにしたのは、この設定の「希薄さ」にあった、といわれる。しかしながら他方で、この「設定」は、初音ミクを高度かつ強力にアイドル化する表象ではないかと考えられる。エイジズムに紐づいた「年齢」の表示、それに伴う「若さ」「若々しさ」の要求や、身長、体重の明記。「藤田咲」という、声優の出演。初音ミクの存在は、このキャラクター的表象を以てして、コモディティのスティグマを押されているし、同時に、初音ミクが商業的に成功したのは、やはりこの表象があったからである。いまでも、初音ミクをアイドル的に消費する「マジカルミライ」や「MIKU FES」といったライブイベントは隆盛であるし、幅広い人気がある。初音ミク以前の合成音声であるLeonやLolaは、初音ミクのようなキャラクター的表象を与えられていなかったからこそ、商業的な成功には至らなかった。
むろん、初音ミクの歴史はこの表象をいかにして撤廃し、あるいは巧みに使いこなしてきたか、というところに当てられるし、だからこそその理由を「希薄さ」に求められるわけである。しかし、この表象が、初音ミクという身体に向けられる「セクシュアルな」感覚を醸成し、「セクシュアルな」消費を掻き立てていた、あるいはまた、「主客身分な」存在を支配せんとする欲望の、その契機になっていたのではないだろうか。
鮎川は、以下のようにも記している。
ボカロというフロンティアのシーンには、リスクが明白にありました。人間が入力した通りに歌ってくれるのだから、ミクを「主人の意のままになる服従的な少女アンドロイド」として主従関係の中に置く想像力はありえたものだし、実際にそのように描いている有名曲も初期にはあった。しかしそれは主流をなすことなく現在に至ります。
果たしてそのように断言可能だろうか?たとえば、シーンを牽引してきたDECO*27は、2024/08/23に「サッドガール・セックス」という曲を投稿している。初音ミクを「セックス」の文脈にこれでもかと係留する本作は、まさにこれまで記述してきたような「主客未分」なる存在の初音ミクを乱用する。DECO*27はこのほかにも、「弱虫モンブラン」、「乙女解剖」や「ヴァンパイア」、「ラビットホール」など、同様の文脈の楽曲を数多く手掛けている。そのほかにも、例えばmaretuは、「うみなおし」「しう」などでセックスと妊娠、堕胎を、「ぴんく」「マジカルドクター」で性的暴行と薬物乱用を描く。「主流をなす」作り手たちが、初音ミクの「セックス」を構築可能にしている。年代問わず、多くの初音ミク楽曲の考察には「セックス」「妊娠」といったフレーズが頻出する。そして、多くの場合、彼らのようなボカロPは男性である。また、ハチ「結ンデ開イテ羅刹ト骸」のYouTube版において、もっとも再生されている箇所は「子作りしようか」の部分である[7]など、消費側にとっても「セクシュアル」なもの、としてのボーカロイドを要求していることがうかがえる。
いっぽうで、鮎川は、ダイレクトな性行為に結び付くような考察を意図的に避けるような書き方をしている。たとえば、wowaka「裏表ラバーズ」については、「横隔膜が突っ張る」という表現に対して、横っ腹が痛くなるとか、しゃっくりとかと解釈する例を挙げながら、
横隔膜は、声を出すためにある肺の下の部分ですよね。そこを「突っ張らせる」のではなく、勝手に「突っ張ってしまう」。自分の意志ではないものに、「私」が受動形で声を出させられてしまうことだと解釈できます。自分の意志ではなく、声を上げさせにやってくるものはなにか。それは性的快感ではないか。こう考えるのも過剰解釈ではないでしょう。
と述べている。ここで、その「やってくる性的快感」を与える主体はなんであるか。横隔膜を「突っ張らせた」主体はなんであるか。その主体について、言及していない。先述した、主客未分性を濫用する「真の主体」が行うような、主体の無化が行われてしまっている。
それだけでなく、先述のDECO*27や、かいりきベア、なきそなどの諸作は、それに触れる少女たちが「かわいい」やセクシュアルの表象に構造化される過程で、「メンヘラ」[8]などと呼称される存在へと迎合・変化・内面化していく過程を、形成、関与してはいないだろうか。薬物の過剰摂取によるオーバードーズや自傷行為、自殺など、「メンヘラ」表象にはメンタルヘルスを脅かしかねない要素が多く孕んでいる。その表象の形成に、ボーカロイドは一役買ってしまってはいないだろうか?
しかるに、ボーカロイドカルチャーが、「アンチ・セクシュアル」の場と言い切ってしまえるほど、まったくの無謬・潔白な存在であるとは断言しにくいのではなかろうか。
しかし、ボーカロイドカルチャーがたしかに受容し、形成してきたクィアな感覚を、まったくないものにしたいわけではない。
鮎川は、flowerについて、「シャルル」「lili.」「命ばっかり」「阿吽のビーツ」「8.32」「ベノム」「オートファジー」「ヴィラン」「グッバイ宣言」を挙げ、じっさいのところボカロでヒットを挙げているのはミクだけでなく、flowerも同様である、と看破した。そのうえで「ヴィラン」を挙げ、たとえば「逸脱の性をまたひた隠」したり、「雄蕊と雄蕊じゃ立ち行かないの?」と問う、性の横断的な擁護や対峙や揺籃を、よりクィアに包含できる存在であるとした。この勃興については、flowerはミク以上に透明で、最初から動画のキャラとしてほとんど描かれておらず、ミクの用意した環境に対してのキャラクターとしてうまく機能できたことを、「ポスト・ポストキャラクター」という言葉を用いて指摘した。しかし筆者はこの定義では不十分に感じる。ここでは「セクシュアルの烙印を押されてしまった初音ミクに対して、そのしがらみから解放され、真の意味でのアンチ・セクシュアルが可能になった存在」として、flowerの構築してきたカルチャーが定義可能ではないか、と考える。
これまで述べてきたように、初音ミクは、その主客未分性を濫用されるかたちで、じっさいはセクシュアルな存在として扱われてきたのではないか。鮎川はその批判を不十分なまま、初音ミクを「アンチ・セクシュアル」な存在として定義づけてしまった、それはすこし拙速だったのではないか。というのが、本稿の基本的な主張である。flowerは、鮎川が述べるようにミク以上に透明である、というところで、セクシュアルな感覚や表象をほとんどないものに近いところから発進している(「女性キャラクター」であることは明言されている)。初音ミクがそのキャラクター性から脱することができていないことを鑑みると、真に「アンチ・セクシュアル」の実践を可能にしているのは、flowerがさらに先鋭的である。
また、もちろん、flowerのみならず、初音ミクを含むその他の多くのボーカロイドを用いたアンチ・セクシュアルの実践に、敬意を表したい。特にその実践は新進気鋭の若手ボカロPに特に顕著に思う。その最たる例が、いよわではなかろうか。いよわにおけるボーカロイドの主客未分性との対峙と解決は、本書前稿「いよわ「1000年生きてる」「熱異常」「一千光年」に通底するものはなにか」をご一読いただきたい。
駆け足で検討してきたが、ボーカロイドに携わる多くの個々人のアンチ・セクシュアルの実践の場としてボーカロイドが活用され得た、というところには共感するし、それが主客未分の誤謬を孕んでいたとしても、その葛藤や揺籃がカルチャーに析出している、ということは想像できる。結果的にそれが「セックス」と「妊娠」と「自殺」ばかりのカルチャーのように見えていたとしても、順当な、自己と、そして初音ミクとのセクシュアルの対話の結果であった、と帰結したい。初音ミクが「つねに」アンチ・セクシュアルの実践者であった、とするのは首肯しにくいし、むしろ、セクシュアルなものとしての属性を持ちつつ、その解体も再生産も同時に実践してきたカルチャーだったのであろう。
[1]ブルーノ・ラトゥール『近代の〈物神事実〉崇拝について』以文社、2017年
[2]西田幾多郎『善の研究』岩波文庫 ※筆者は青空文庫で読んでいる。
[3]私たちは『買われた』ニコニコ大百科 2024/10/08閲覧。
https://dic.nicovideo.jp/a/%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E3%80%8E%E8%B2%B7%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%8F
[4]https://x.com/aochanp/status/1614358055143247872
[5]「韓国女性DJ SODAの性的被害、主催・当人側が共同声明発表 誹謗中傷にも法的対応へ<声明全文>」modelpress 2024/10/08閲覧。https://mdpr.jp/k-enta/detail/3906062
[6]「ピアプロキャラクターズとは?」piapro.net 2024/10/15閲覧。https://piapro.net/pages/character
[7]このツイートを参考にした。https://x.com/highland_sh/status/1840549151186251823
[8]ここでは、以下にしたがって、メンヘラとは「他者との関わり、特に異性から向けられる愛情を強く求めており、恋愛面での人間関係が原因で病みやすい人」と解釈する。
伊藤智彦「SNSデータを使った「メンヘラ」の予測」早稲田大学 基幹理工学研究科 情報理工・情報通信専攻 分散コンピューティングシステム研究 令和2年度 修士論文 2021年1月25日



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