初めて試合で「圧縮バット」を使った男、関根潤三さん 元サンスポ代表が振り返る思い出

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1962年、近鉄時代の関根潤三さん

 サンケイスポーツ元代表で、現在は埼玉・川越市にある尚美学園大スポーツマネジメント学部教授の佐野慎輔氏(65)が11日、大洋(現DeNA)とヤクルトで監督を務め、9日に老衰のため亡くなった関根潤三さん(享年93)との思い出を寄せた。元祖「投打二刀流」として知られるが、プロ野球選手として初めて「圧縮バット」を試合で使用したのが関根さんだった。

 その人との思い出は、意外であるほど心に残るものかもしれない。

 野球評論家、関根潤三さんの訃報に接したとき、「圧縮バット」が脳裏に浮かんだ。若い人たちは分からないかもしれないが、圧縮バットは「一本足」と並ぶ王貞治さんの代名詞だった。生涯868本の本塁打のうち、800本近くをこのバットでたたき出した。

 それがなぜ、関根さんとの思い出なのか。実はプロ野球選手として初めて圧縮バットを試合で使ったのが関根さんだった。

 「僕はねえ、モルモットみたいなもんで、藤田さんに『使え』って命令されて試験的に使って、印象なんかを石井さんに話していたんです」

 1950年代後半。投手との二刀流から外野手に転向、近鉄の中軸打者となった頃である。当時、圧縮バットはまだ公式に認可されていない。「だから僕の生涯安打(1137)のうち何本かは、無認可バットで生まれたもんですよ」。

 話の中の藤田さんとは藤田省三=顔写真。関根さんの日大三中(現日大三高)-法大を通した監督で、近鉄の初代監督としてプロ野球に導いてくれた生涯の師である。石井さんは石井順一。早実高-早大の内野手として活躍。家業のスポーツ用品メーカーを継承し、圧縮バットを考案した人物にほかならない。

 「早稲田と法政、学校は違っていても東京六大学仲間というのかな、石井さんがバット作りで苦労されているから、『おまえ、手伝ってやれ』という藤田さんの思いはよく分かっていました」

 アベレージヒッターとしてのミートのうまさも「実験台」としては適役だったように思う。

 石井さんが圧縮バットの開発に至ったのは、バット材に最も適した「トネリコ」の不足である。しなりが良く、適度な硬度があり耐性にも優れるトネリコだが、1950年代半ばには良質な材料は入手しづらくなっていた。

 そこで着目したのがタモの木。それも軽くて、しなりのいい「ヤチダモ」だ。大リーガーと比べて腕力に劣る日本選手に使い勝手がいいと考えた選択である。ただ関根さんによれば「無垢(むく)のヤチダモは20球から30球打つと、もう表面が剥れて使えなくなってしまう」代物ではあった。

 表面の剥離(はくり)、ささくれをいかに減少させるか。考え抜いた末に樹脂加工に思い至る。バットの表面(ヘッド部分)を樹脂でくるむのである。しかし、「10本から15本も打てば樹脂が剥がれ、元のヤチダモに戻った。とても試合じゃあ使えません」と関根さん。「石井さんにそう報告したら次は樹脂を厚くした。でも、今度は重くて駄目」。

 やり取りが続き、剥がれにくくなった。ところが「使っているうちにパカッと音がして爆発したんです。バットの上の方から剣道の竹刀のように割れたんです」。バットの中の空気の行き場が樹脂でふさがれ、上部にエネルギーが集まったのだろう。「爆発」という表現が分かりやすかった。

 やがてバット材を1カ月乾燥させて空気を完全に抜き、上部から樹脂を注入して高温で固め、全周に圧力をかけて締めていく方式にいきつく。

 王さんが試合で始めて圧縮バットを使うのは入団4年目の1962年10月。初めてホームラン王に輝いた年である(同年は38本塁打)。

 「石井さんはね、(早実後輩の)ワンちゃん(の登場)をずっと待っていたんじゃないかなと、今にして、そう思ったりするんですよ」

 2002年秋、関根さんの行きつけ、白金の都ホテル東京でじっくり聞いた話である。言葉の魔術師の含蓄のある話を、いま改めて噛み締めている。

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