永禄11(1568)年
6月 2日 筒井順慶(「筒井」)、奈良中に人夫役を賦課し喜多院家の北方の石切に城を構築す。〔『多聞院日記』二〕
6月29日 三好康長ら、松永久秀の大和国信貴山城を攻略す。〔『多聞院日記』二〕
9月13日 多聞院英俊、大和国多聞山城へ諸方面より足利義昭(「上意」)の入洛が間もない旨の注進が届いていることを知る。
〔『多聞院日記』二〕
9月26日 筒井順慶・三好新丞、大和国「マメ山」より退却。大和国多聞山城の松永久秀より奈良中及び興福寺へ乱妨停止の安堵が
下された。〔『多聞院日記』二〕
9月30日 十市某・箸尾某(共に大和国人)、足利義昭(「上意様」・「将軍」)「御下知」により高田城を攻撃した「布方」を撃破。
〔『多聞院日記』二〕
10月 3日 竹内三位入道・両畠山・松永久秀(「松永弾正忠」)・池田勝正(「池田筑後守」)、摂津国芥川に於いて足利義昭(「武家」)・
織田信長に降参。〔『言継卿記』四〕
10月 4日 松永久秀(「松少」・「久秀」)、足利義昭(「上意」)・織田信長(「織尾」)を礼問し、大和国1国を安堵される。
〔『多聞院日記』二〕
10月 5日 多聞院英俊、大和国郡山の向井某が松永久秀(「松少」)への帰参を知る。多聞院英俊は向井某を「当国大天魔」と評す。
〔『多聞院日記』二〕
10月 6日 松永久通軍(「松右人数」)、大和国筒井郷へ出撃し平城周辺まで放火す。「郡山衆」の「裏帰」が原因という。
〔『多聞院日記』二〕
10月 6日 多聞院英俊、筒井順慶が籠城していること、十市某(大和国人)の身上は足利義昭・織田信長に安堵されたが、
井戸某(松永久秀与力)の安堵は保留という旨を知る。〔『多聞院日記』二〕
10月 7日 多聞院英俊、十市某(大和国人)の足利義昭・織田信長への降伏が不調に終わった旨を知り「咲止々々」と評す。
〔『多聞院日記』二〕
10月 8日 松永久秀(「松少」)、三好義継(「三好左京大夫」)が入っている大和国飯盛城へ帰城。奈良への軍勢進撃はしない旨を
安堵されたという。〔『多聞院日記』二〕
10月 8日 筒井順慶、籠もっていた平城を出る。〔『多聞院日記』二〕
10月 9日 松永久通(「松右」)、筒井順慶が退却した平城へ進撃。〔『多聞院日記』二〕
10月10日 「公方方ノ両大将」として細川藤孝(「細川兵部大輔」)・和田惟政(「和多伊賀守」)が、「織田尾張守方大将」として
佐久間信盛(「佐久間」)が2万程の軍勢を率い唐招提寺周辺に進撃す。〔『多聞院日記』二〕
10月10日 織田軍(「尾張衆」)、大和国春日神社へ社参す。奈良中へは厳重に禁制が下されていたため「穏便」であった。
〔『多聞院日記』二〕
10月10日 織田軍、三好三人衆軍より大和国森屋城を奪取。〔『多聞院日記』二〕
10月11日 織田軍、三好三人衆軍より大和国窪城を奪取した後、井戸表へ進撃。〔『多聞院日記』二〕
10月12日 織田軍(「先衆」)、柳本某(大和国人)のもとを攻撃するも不調であった。〔『多聞院日記』二〕
10月14日 多聞院英俊、この日に大和国柿森・結崎周辺が放火されたことを知る。多聞院英俊は「国中不依敵味方大略焼」けた評す。
10月19日 松永久秀軍(「多聞衆」)、4ヶ所に攻撃を加える。この日、「諸勢」(織田軍か)は大和国を「引退」し摂津国方面へ派遣
される。〔『多聞院日記』二〕
10月20日 多聞院英俊、布施某(大和国人)の勢力範囲が悉く放火された旨を知る。〔『多聞院日記』二〕
10月21日 多聞院英俊、柳本某(大和国人)・福知某(大和国人)が松永久秀(「多聞」)へ「裏帰」った旨を知る。
〔『多聞院日記』二〕
10月23日 松永久通(「松右」)・竹内秀勝(「竹下」)以下、上洛す。〔『多聞院日記』二〕
10月23日 多聞院英俊、柳生宗厳(「柳弓新左衛門」・「大将」)が高畠堀切において落馬した旨を知る。多聞院英俊は「大略可死歟」
と評す。〔『多聞院日記』二〕
10月24日 多聞院英俊、前日に松永久通(「松右」)・竹内秀勝(「竹下」)以下が上洛したこと、18日(16日の誤りか)に
足利義昭が「御入洛」し細川藤孝宿所(「細川館」)へ入ったこと、織田信長への「御礼」のために能が興行され、その後に
足利義昭の参内があったことを知る。〔『多聞院日記』二〕
10月27日 松永久秀(「松永少弼久秀」)、大和国法隆寺へ織田信長(「信長」)への「要脚」のため和泉国堺で「八木」を売却し
銀子16貫を更に金貨に交換し、その上で綿20把を上納したことを褒す。〔「法隆寺文書」四〕
10月28日 松永久秀、織田信長へ人質を提出し降伏。
11月 5日 「十市衆」(大和国人)、100余の軍勢、大西城へ籠城す。〔『多聞院日記』二〕
11月 9日 松永久通(「松右」)ら、「十市衆」(大和国人)が籠城する大西城を攻撃するも「究竟ノ衆」が多数戦死す。
〔『多聞院日記』二〕
11月17日 竹内秀勝(「竹下」)、大和国飯盛城へ入城。〔『多聞院日記』二〕
11月27日 竹内秀勝(「竹下秀勝」)、大和国法隆寺年預御坊へ「信長へ之礼銭」の件で松永久秀(「霜台」)に上納されたが、詳細は
寶光院快真に申し渡したので全て和泉国堺に回送し換金するよう指示する。織田信長より派遣された丹羽長秀(「丹五左」)が
下国し、佐久間信盛(「佐久右」)の「一筆」により命令が伝達されること、「上使」への前々の分も和泉国堺にて換金する
よう督促。「田舎衆」(丹羽長秀・佐久間信盛)は火急の旨を申しており、1日でも延引すれば「御寺」(法隆寺)「御迷惑」
に及ぶであろうことに触れ、遅延しない旨を確認す。〔「法隆寺文書」四〕
11月27日 多聞院英俊、早旦に竹内秀勝(「竹下」)を訪問し願源房・禅教房・識善房・春光房・浄文房ら5人の件を対談す。
〔『多聞院日記』二〕
12月 5日 中坊藤松へ竹内秀勝(「竹下」)より「祝言」があった。〔『多聞院日記』二〕
12月 6日 多聞院英俊、中坊藤松へ樽代30疋、竹内秀勝(「竹下」)へ樽代20疋を贈る。〔『多聞院日記』二〕
12月 7日 松永軍(「多門衆」)、貝吹表で戦闘す。〔『多聞院日記』二〕
12月 8日 多聞院英俊、前日松永軍(「多門衆」)が貝吹表に於いて戦闘し敗北を喫したという情報に接す。〔『多聞院日記』二〕
12月 9日 竹内秀勝・喜多重政、大和国法隆寺へ織田信長(「信長」)への御礼銭600貫文を受け取ったことを即時宗勁・宗純に申し
渡した旨を通知。〔「法隆寺文書」〕
6月 2日 筒井順慶(「筒井」)、奈良中に人夫役を賦課し喜多院家の北方の石切に城を構築す。〔『多聞院日記』二〕
6月29日 三好康長ら、松永久秀の大和国信貴山城を攻略す。〔『多聞院日記』二〕
9月13日 多聞院英俊、大和国多聞山城へ諸方面より足利義昭(「上意」)の入洛が間もない旨の注進が届いていることを知る。
〔『多聞院日記』二〕
9月26日 筒井順慶・三好新丞、大和国「マメ山」より退却。大和国多聞山城の松永久秀より奈良中及び興福寺へ乱妨停止の安堵が
下された。〔『多聞院日記』二〕
9月30日 十市某・箸尾某(共に大和国人)、足利義昭(「上意様」・「将軍」)「御下知」により高田城を攻撃した「布方」を撃破。
〔『多聞院日記』二〕
10月 3日 竹内三位入道・両畠山・松永久秀(「松永弾正忠」)・池田勝正(「池田筑後守」)、摂津国芥川に於いて足利義昭(「武家」)・
織田信長に降参。〔『言継卿記』四〕
10月 4日 松永久秀(「松少」・「久秀」)、足利義昭(「上意」)・織田信長(「織尾」)を礼問し、大和国1国を安堵される。
〔『多聞院日記』二〕
10月 5日 多聞院英俊、大和国郡山の向井某が松永久秀(「松少」)への帰参を知る。多聞院英俊は向井某を「当国大天魔」と評す。
〔『多聞院日記』二〕
10月 6日 松永久通軍(「松右人数」)、大和国筒井郷へ出撃し平城周辺まで放火す。「郡山衆」の「裏帰」が原因という。
〔『多聞院日記』二〕
10月 6日 多聞院英俊、筒井順慶が籠城していること、十市某(大和国人)の身上は足利義昭・織田信長に安堵されたが、
井戸某(松永久秀与力)の安堵は保留という旨を知る。〔『多聞院日記』二〕
10月 7日 多聞院英俊、十市某(大和国人)の足利義昭・織田信長への降伏が不調に終わった旨を知り「咲止々々」と評す。
〔『多聞院日記』二〕
10月 8日 松永久秀(「松少」)、三好義継(「三好左京大夫」)が入っている大和国飯盛城へ帰城。奈良への軍勢進撃はしない旨を
安堵されたという。〔『多聞院日記』二〕
10月 8日 筒井順慶、籠もっていた平城を出る。〔『多聞院日記』二〕
10月 9日 松永久通(「松右」)、筒井順慶が退却した平城へ進撃。〔『多聞院日記』二〕
10月10日 「公方方ノ両大将」として細川藤孝(「細川兵部大輔」)・和田惟政(「和多伊賀守」)が、「織田尾張守方大将」として
佐久間信盛(「佐久間」)が2万程の軍勢を率い唐招提寺周辺に進撃す。〔『多聞院日記』二〕
10月10日 織田軍(「尾張衆」)、大和国春日神社へ社参す。奈良中へは厳重に禁制が下されていたため「穏便」であった。
〔『多聞院日記』二〕
10月10日 織田軍、三好三人衆軍より大和国森屋城を奪取。〔『多聞院日記』二〕
10月11日 織田軍、三好三人衆軍より大和国窪城を奪取した後、井戸表へ進撃。〔『多聞院日記』二〕
10月12日 織田軍(「先衆」)、柳本某(大和国人)のもとを攻撃するも不調であった。〔『多聞院日記』二〕
10月14日 多聞院英俊、この日に大和国柿森・結崎周辺が放火されたことを知る。多聞院英俊は「国中不依敵味方大略焼」けた評す。
10月19日 松永久秀軍(「多聞衆」)、4ヶ所に攻撃を加える。この日、「諸勢」(織田軍か)は大和国を「引退」し摂津国方面へ派遣
される。〔『多聞院日記』二〕
10月20日 多聞院英俊、布施某(大和国人)の勢力範囲が悉く放火された旨を知る。〔『多聞院日記』二〕
10月21日 多聞院英俊、柳本某(大和国人)・福知某(大和国人)が松永久秀(「多聞」)へ「裏帰」った旨を知る。
〔『多聞院日記』二〕
10月23日 松永久通(「松右」)・竹内秀勝(「竹下」)以下、上洛す。〔『多聞院日記』二〕
10月23日 多聞院英俊、柳生宗厳(「柳弓新左衛門」・「大将」)が高畠堀切において落馬した旨を知る。多聞院英俊は「大略可死歟」
と評す。〔『多聞院日記』二〕
10月24日 多聞院英俊、前日に松永久通(「松右」)・竹内秀勝(「竹下」)以下が上洛したこと、18日(16日の誤りか)に
足利義昭が「御入洛」し細川藤孝宿所(「細川館」)へ入ったこと、織田信長への「御礼」のために能が興行され、その後に
足利義昭の参内があったことを知る。〔『多聞院日記』二〕
10月27日 松永久秀(「松永少弼久秀」)、大和国法隆寺へ織田信長(「信長」)への「要脚」のため和泉国堺で「八木」を売却し
銀子16貫を更に金貨に交換し、その上で綿20把を上納したことを褒す。〔「法隆寺文書」四〕
10月28日 松永久秀、織田信長へ人質を提出し降伏。
11月 5日 「十市衆」(大和国人)、100余の軍勢、大西城へ籠城す。〔『多聞院日記』二〕
11月 9日 松永久通(「松右」)ら、「十市衆」(大和国人)が籠城する大西城を攻撃するも「究竟ノ衆」が多数戦死す。
〔『多聞院日記』二〕
11月17日 竹内秀勝(「竹下」)、大和国飯盛城へ入城。〔『多聞院日記』二〕
11月27日 竹内秀勝(「竹下秀勝」)、大和国法隆寺年預御坊へ「信長へ之礼銭」の件で松永久秀(「霜台」)に上納されたが、詳細は
寶光院快真に申し渡したので全て和泉国堺に回送し換金するよう指示する。織田信長より派遣された丹羽長秀(「丹五左」)が
下国し、佐久間信盛(「佐久右」)の「一筆」により命令が伝達されること、「上使」への前々の分も和泉国堺にて換金する
よう督促。「田舎衆」(丹羽長秀・佐久間信盛)は火急の旨を申しており、1日でも延引すれば「御寺」(法隆寺)「御迷惑」
に及ぶであろうことに触れ、遅延しない旨を確認す。〔「法隆寺文書」四〕
11月27日 多聞院英俊、早旦に竹内秀勝(「竹下」)を訪問し願源房・禅教房・識善房・春光房・浄文房ら5人の件を対談す。
〔『多聞院日記』二〕
12月 5日 中坊藤松へ竹内秀勝(「竹下」)より「祝言」があった。〔『多聞院日記』二〕
12月 6日 多聞院英俊、中坊藤松へ樽代30疋、竹内秀勝(「竹下」)へ樽代20疋を贈る。〔『多聞院日記』二〕
12月 7日 松永軍(「多門衆」)、貝吹表で戦闘す。〔『多聞院日記』二〕
12月 8日 多聞院英俊、前日松永軍(「多門衆」)が貝吹表に於いて戦闘し敗北を喫したという情報に接す。〔『多聞院日記』二〕
12月 9日 竹内秀勝・喜多重政、大和国法隆寺へ織田信長(「信長」)への御礼銭600貫文を受け取ったことを即時宗勁・宗純に申し
渡した旨を通知。〔「法隆寺文書」〕