放送内容
- 佐々田博教「農政は変わるか 『トライアングル』の行方」
佐々田博教「農政は変わるか 『トライアングル』の行方」
北海道大学 教授 佐々田 博教
最近コメの値段が高騰し、農業が私達の生活に与える影響の大きさを実感させられます。米価高騰の原因として流通の問題もありますが、政府が備蓄米の放出に慎重だったことや、コメの転作を促進する政策も指摘されています。こうした政策はコメ生産者の経営安定を目的としていますが、時に消費者に大きな負担をかけることがあります。
政府が生産者を重視する背景として、農政トライアングルとよばれる政官業の権力構造があります。そこでは自民党・農水省・農業団体の3者が緊密に連携し、互いの利益を拡大する形で政策が作られ、その強固な関係性から鉄の三角同盟ともよばれます。
この点に注目した解説は、TV報道などでも使われ、農政分析の通説とされています。通説によると農業団体は選挙の際に農村票を動員し、自民党の候補に票を集めます。その見返りに自民党は、農水省に働きかけ、農家の利益を守る政策の立案を促します。そして農水省は、予算案や法案に対して国会で自民党に賛成票を投じてもらいます。この構造は消費者等の部外者の意見を反映しにくい閉鎖的な特徴を持っています。
その影響を受けて、戦後日本では価格支持・補助金・関税等を通じた農業保護が行われてきました。その結果、1970年代には財政赤字が拡大し、1980〜90年代には欧米との貿易摩擦が生じました。そして昨今では米価高騰やコメ不足を招いているとも言われます。
農政トライアングルが、いつ・どのようにして形成されたかという点については、ほとんど知られていません。今回は、農政トライアングルが形成された歴史的背景を探ります。そうすることで、それが変化する条件も自ずと明らかになるでしょう。
これまでの研究で、戦前には同様の権力構造は存在しなかったことがわかっています。すると、農政トライアングルが生まれたのは戦後ということになります。終戦から60年代にかけて、その契機となった重大な出来事が起きました。
それは農地改革、農協の設立、自民党の結党、農業基本法の制定です。これらがどのように農政トライアングルの誕生につながったかをみていきます。
終戦直後に始まった農地改革では、所有できる農地の規模に制限が設けられ、制限を超えた地主の農地は国が強制的に買い上げ、小作農に安価で払い下げました。この結果として、地主制は解体され、ほとんどの農家は自ら農地を所有する自作農になりましたが、同時に小規模な零細農家となり経営基盤が脆弱化し、保護政策に依存する傾向が生まれました。
次に、1947年に農業協同組合法が制定され、全国各地で農協が設立されました。その後、農協は活発に政治活動を行うようになりました。そして1955年に保守政党が統合して自民党が結党され、自民党の一党支配がはじまりました。
しかし1960年までは、まだ農政トライアングルは存在していませんでした。結党以降も自民党の執行部や当時の農林省 は生産者よりも消費者の利益を重視し、農業予算と米価の抑制や農産物の自由化を推進したり、農協の弱体化を模索しました。そのため農協や農村部選出の農林議員の強い反発を招きました。自民党内部でも執行部と農林議員との間で対立があったのです。
特に米価の決定過程においては、米価を抑制したい政府・自民党執行部と、引き上げを求める農業団体・農林議員が激しく衝突する米価闘争が毎年発生していました。当時コメの流通は政府の管理下におかれ、コメの価格は政府が決めていたのです。これを食糧管理制度と言います。農業団体と農林議員の要求に反して、1950年代後半の米価はほとんど伸びず、1956年のように前年度より引き下げられる年もありました。
こうした状況は、1961年に農業基本法が制定されたことで一変しました。
農業基本法は国の農業政策の基本方針を定める法律で、その重要性から「農業界の憲法」ともよばれました。当初農林省は、経営の合理化を推進することで農業の発展を目指す法案を作成しました。しかしその後与野党の議員や農業団体からの圧力で法案が修正され、「農工間の格差解消」という目標が追加されました。これは当時高度成長によって産業労働者の収入が急激に増えた一方で、農家の収入が伸び悩んでいたためでした。
この結果、農林議員と農業団体からの米価引き上げ要求に大義名分が与えられた形となり、自民党執行部と農林省は米価を抑制することが難しくなりました。また池田内閣が所得倍増計画を打ち出したことで、農家の収入も倍増させるべきとの声が強まりました。
その結果、1961年の米価は前年度から6.2%、62年には10.2%も引き上げられました。その後も米価は毎年引き上げられ 、1968年の米価は10年前のほぼ倍に達しました。農業基本法の制定によって農政トライアングルが機能し始めたのです。
しかし自民党執行部と農林省は、財政赤字や余剰米問題を理由に米価抑制を模索し続けたため、米価闘争は年々激化しました。その意味では、農政トライアングルはまだ内部に意見対立を抱えた不完全な状態でした。
この対立は1969年に総合農政という政策が導入されたことで解消しました。総合農政の目的は、コメの生産調整(いわゆる減反)を行い、財政赤字と余剰米を削減しつつ米価を安定させることでした。減反や転作に同意した農家には補助金が支払われることになりました。自民党執行部や農林省は苦肉の策として総合農政の推進を支持しました。減反には農家から反対意見が出ましたが、食管制度を維持するために農協も同政策を受け入れました。こうして3者間の対立が解消し、農政トライアングルが完全な形で機能するようになったのです。興味深いのは、構成者が必ずしも望んだわけではないのに、農政トライアングルが自然発生的に形成されたという点です。ともあれその結果、補助金は拡大を続け、食管制度も1995年まで維持されました。減反政策は2018年に終了しましたが、転作補助金は今も存在しており、生産調整は事実上続いています。
生産者重視の農業政策が長年維持されたのは、それに利点があったからでもあります。同政策は、農作物価格の暴落を防ぎ、農業経営を安定させることで食料生産体制を守るという効果があり、さらに都市と農村間の所得分配にも貢献しました。しかし強固で閉鎖的な権力構造は、政府が環境変化に柔軟に対応することを困難にしています。
最後に、農政の将来展望について考えます。近年、官邸主導の政策決定が進み、農林議員が弱体化しました。また2015年の農協改革で、農協の政治的影響力が低下したと言われています。しかし農政トライアングルの影響は続いています。政府が備蓄米の放出に極めて慎重だったのは、コメの値崩れを警戒しているからですし、同様の理由でコメの生産調整も継続されるでしょう。したがって消費者が時に大きな負担を抱える可能性は残ります。
こうした状況が変化するには、改革の機運の高まりと強力なリーダーシップと新しい政策目標が必要となりますが、安倍政権のあとはそうした要因はみられません。果たして今回のコメをめぐる問題が、農政トライアングルに変化をもたらすきっかけになるのか、注視していく必要があります。