1つは道元禅師の教えを学んだためであり、もう1つが他国に行き、その現地にて在家信者による供養法を見た上でのことであった。この両者から、本来僧侶というのは、誰を供養しても同じように功徳を得られるのであり、僧侶の優劣を付けるのが問題であるという理解に達した。
爰に有る在家人、来つて問ふて云く、「近代在家人、衆僧を供養じ仏法を帰敬するに多く不吉の事出来るに因つて、邪見起りて三宝に帰敬せじと思ふ、如何」と。
答へて云く、即ち衆僧・仏法の咎にあらず。即在家人の自らが誤なり。その故は、仮令人目ばかり持戒持斉の由現ずる僧をば貴くし、供養じ、破戒無慚の僧の飲酒肉食等するをば不当なりと思ふて供養セず。この差別の心、実に仏意に背けり。因つて帰敬の功も空しく、感応無きなり。戒の中にも処々にこの心を誡めたり。僧と云はば、徳の有無を択ばず、ただ供養すべきなり。殊にその外相を以て内徳の有無を定むべからず。
『正法眼蔵随聞記』巻2-15
この「僧と云はば、徳の有無を択ばず、ただ供養すべきなり」という部分の教えを当方なりに敷衍して、「どの僧侶でも供養すれば良い」と申し上げている。決して自己弁護や、独りよがりとして申し上げているわけではない。無論、道元禅師は僧侶に対して、厳しく修行を続けるように主張する。ただし、それは「僧侶の都合」であり、供養せんとする在家人には何の関係もない。また、厳しく修行していなくても僧侶は僧侶であるから、供養しさえすれば、功徳が生じる。
しかし、ここまでいうと次のように思う人がいるかもしれない。「ウチの住職はすぐに金の話ばかりをして、とても供養するに値しない」と。しかし、これこそ、道元禅師が指摘される「差別の心」であり「仏意に背」くのである。
僧侶に限らず、世の事象の優劣を論じたりすることを端的に「凡見」という。実際には、僧侶の善し悪しについて、在家信者に決定権はない。仏陀の時代にも、問題ばかりを起こす「六群比丘」という僧侶達がいた。しかし、その者達は、結局仏教の教団に属する僧侶であり続けた。迷惑ばかり掛け、今であれば真っ先に追放されてしまいそうな際どいことも平気で行っていた。しかし、その者達も、供養を受け、飢えることなく生きていたのだ。
つらつら鑑みるに、そもそも今回の記事で採り上げた問題は、多くの日本人に於いて「供養」そして「功徳」が正しく理解出来ていないことに端を発するのと思う。よくよく考えてみて欲しい、「優れた僧侶を供養しなければ意味が無いですよ」というのと、「どんな僧侶でも供養すれば功徳がありますよ」といった場合、在家信者にとってどちらが「お得」なのだろうか?前者が良いと思う者は、ただの御利益信仰を行う者であり、実はこちらの方が問題である。しかも、ここから「グル信仰」というカルトが生まれる。優れたグルが、本当に優れていれば問題無い。しかし往々にして、カルト宗教の教祖は「優れた人」が多いのだ。問題はその「基準」が曖昧で、社会的合意を獲得しても意味が無いということだけである。
無論、自分で修行をしなくては気が済まないという人であれば、自らの師を慎重に選ぶべきであろう。それこそ「正師探訪」が必要不可欠である。しかし、それと供養とは全く違う話である。ただ供養をするというのなら、自分の菩提寺を守ってくださっている僧侶で必要十分なのだ。或いは御利益を期待していると自分で分かっている者は、御利益を探してあちこちの霊場などを回れば良い。ただし、供養という時には、とにかくそれを行えば功徳が成就し、得た功徳は先祖などに巡らして、更に大きな功徳を得る(回向の概念)のだ。
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